【『マチス自叙伝(コール・サインCHAOS)』邦訳連載 第十一回】

<訳者口上>

 前回掲載2025年12月31日付(第十回)の続きです。先の配信から半年以上が経過したのは、訳者怠慢に尽きますが、近来のトランプ大統領の端(はし)なき軍事諸行動にすっかり気分が白け、筆が鈍った背景が大いにあります。歴史的に秩序防衛に貢献して来た米国海兵隊と雖(いえど)も、最高司令官(大統領)の器次第で、正義の行使にも狂気の軍団ともなり得ることを世界は改めて、今般、身につまされたのでした。軍隊は文民統制下に上層部の指令に従わざるを得ない苦悩は、著者当人の元国防長官ジム・マチスが身を以って体験したジレンマでありました。されば、今日のトランプ大統領・ヘグセス国防長官下に迷走する米国軍事戦略にマチス氏の心痛は察するに余りあると共に、本書邦文完訳は歴史証言書としても大きな価値を訳者は認める為、当翻訳掲載を継続して行く所存です。

 扨て、今回より第二部に入り、当第6章は、マチスが少将へ昇進、対イラク侵攻作戦下にいよいよ軍組織幹部としての指導力を振う様が、興味深いエピソードと共に語られます。

どうぞお楽しみ下さい。

日向陸生

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<翻訳本文>

【『マチス自叙伝』~コール・サイン” CHAOS”~  ジム・マチス著(ランダムハウス出版)】 (原書:『CALL SIGN CHAOS ~Learning to Lead~』By JIM MATTIS and Bing West, Published from Random House, New York, in 2019.  P300)

第二部 幹部に求められる指導技能  (Executive Leatership)

第6  進軍  ( The March Up P79~89)

 トラ・ボラでの戦いが終わると、陸軍第101空挺師団の一旅団がカンダハールへ飛来、これに交代し、我が海兵隊員と海軍兵士は任務を終えた。兵員達は洋上艦船に帰還、私はバハレーン艦隊本部に戻る命を受け、其処から空路、ペンドルトン基地へ向かった。

 斯くして、2022年晩春、米国に戻った私は、第一海兵遠征軍指揮官マイケル・ヘギー中将に復命した。

「君は二つ星将軍(少将)へ昇進だ」

彼は私にこう云って更に言葉を継いだ。

「この夏には、君が第一海兵師団の指揮を執り、イラクへ戦争に行く準備を開始するのだ」

 この知らせに、私は嬉しくもあり一方、戸惑いを感じた。先ず、平和時も戦時にも私が献身した、第一海兵師団の指揮を任されることは、正に身に余る栄誉だった。と云うのも、同師団こそは、第二次世界大戦で最初に攻勢に出た米軍であり、ソロモン諸島ガダルカナル島上陸敢行の経歴を誇る。この師団の部隊章ワッペンは“ブルーダイヤモンド”と呼ばれ、夜空を背景に輝く南十字星の五つ星が象(かたど)られている。第二次大戦以来、幾世代もの海兵隊員達がこの部隊章を身に着け、国の呼び掛けに応じ、韓国、ベトナム、そして直近ではクウェートへと遠征したのだった。私が同師団の指揮を執るのは、30年間に及ぶ軍と国家への奉仕の集大成に相応しく思えた。

 その反面、イラク侵攻計画は私を愕然とさせた。再び我々が其処で戦う理由は、一体何処にあるのだろう。アルカイダをサダム・フセインと関係付ける協議がワシントン政府内で行われていた事実を当時の私は知らない。フセインが化学兵器を保有することは、既に国際諜報諸機関の間で広く信ぜられた。そして、イラク侵攻と彼の追放を是とする議論は、その大量破壊兵器がテロリスト達の手に渡るのに先んじ手を打つことを主眼とするものだ。 

然し、私の考えでは、彼が譬(たと)え化学兵器を保持するとしても、我々は彼を箱の中に閉じ込めたも同然なのだ。彼は一日も欠かさぬ戦闘機による航空監視下に置かれ、彼の石油輸出には制裁が課されていた。更に、20年を中東で過ごした私は、彼がイランに対して抱く憎悪は、我が方にとり戦略的優位に働くことも知っていた。私は、これらの疑問をヘギー中将に全てぶつけて述べ立てたが、返ってきたのは極めて明快な返事だった。

「ワシントン政府の文民指導者達が高度な決定を既に下したのだ。決めるのは我々ではない」

“部隊を整えるのが私の仕事だ”と彼は果たしても正しく指摘した。

 ヘギー中将と面談を終えたその日の夜、私は宿舎に戻ると、早速、部屋中に自分の準備道具をぶちまけた。即ち、本棚からメソポタミア地域の戦役に関わる歴史書籍を――クセノフォンの『アナバシス』とアレクサンダー大王史跡に関する諸本を手始めに――片っ端から取り出し、猛勉強を始め準備に取り掛かった。

8月初旬、私は第一海兵師団の指揮を拝命した。直ちに、配下の上級士官と下士官達を会議室に招集し指示を出した。

「この週末は、内地の諸事を片付け、神に祈りを捧げよ。そして月曜から我々はイラク軍を叩き潰すことのみに集中するのだ」

 その週末、私は自分のスタッフ達に向けた指示リストの作成に没頭した。私にとり、スタッフ陣こそが戦争遂行に不可欠であり、自分の弱点を補い構想拡大を手助けして呉れる大切な道具立てなのだ。

 私が師団の構成員は総勢22,000名に上り、一部兵力は数百マイル遠方の地に駐屯した。即ち、兵員数、地理的要件、そして私に必要な時間を考慮すれば、最早個々人に対面で実施する指導領域を越え、今や幹部としての指導技能を発揮する立場へと完全に移行したのだった。私は、組織内に在籍したスタッフや指揮官達をそっくり丸ごと引き受けた。但し、条件を付した。即ち、90日経過後、私の優先事項に尚も賛同できない者は、何処か他部署に移動し其処で新たなスタートを切ってもらうことになる、と私は宣言した。

この極めて優れた軍団機構は超一流の選り抜き人材を抱え、私はそれを確実に受け継ぐ恩恵に浴した。ジム・コンウェイ中将が第一海兵師団を私に引き継ぐ際、担当主要職務は45に上っていた。私はその中から4つ丈を自身の固有業務として選定し、それ以外は配下の者達へ割り振った。即ち、クラーク・レシン中佐を作戦責任者、ジョン・ブロードメドウを兵站責任者とした。と云うのも、彼らが共に、想像力豊かな実行力を発揮する点を私はアフガニスタン戦役で熟知するからだ。ウォーレン・クック中尉を引き続き私の補佐官として起用し、又、ジョン・トーラン大佐を私の作戦担当官に選任した。ジョンと私は、これ迄も抜群の相性で任務をこなして来た。敵の如何なる過ちをも逃さず利用し、場に応じ臨機応変する、私の“好機を捉えた”戦闘様式を最もよく把握するのが彼だった。

 幹部指導力がこの段階に至るに及び、私は定型の日常管理業務――即ち、欠員補充、設備要求等――は私の主要スタッフに移譲した。こうして私は、自分と配下の指揮官達が「如何に戦うか」、その設計に全精力を温存する環境を得た。私は師団員全員に対し、他の全てに優先し次の2点に集中させた。即ち、開戦準備を整えること、そして化学兵器による攻撃に対応する方法だ。全師団を対象とする諸点検の内、この二つの仕事に直接関係しないものは全て中止した。「習うより慣れろ」だ。二つの目的達成実現に必要と見做される演習諸計画の設定を、百戦錬磨の士官達に委ねた。私は、今回の戦闘で我々が直面するであろう、あらゆる事態に対し、洩れなく事前の演習訓練が為されるよう求めた。私が目指したのは、配下の指揮官達を安閑としておられぬ環境に置き、訓練から常に学ぶ姿勢を師団内に伝播させることだ。私は彼らが常に毎日「何か見落としはないか」と自問するよう仕向けた。

 私は、スタッフ会議の締め括り、或いは他のあらゆる機会で会話を終える間際に、海兵隊員達が私に質問を発し、しかも私が立ち往生する位の難題をぶつけて来るよう嗾(けしか)けるのを習慣とした。彼らが夜な夜な何に悩んでいるのかを知る為だ。そして、彼らには、全員参加型で、上官を凌ぐような妙案を提示することを期待した。と云うのも、若い兵士達から優れた意見を汲み上げることの重要性を、私は嘗て歩兵部隊を率いた頃、既に切実に学習したからだ。そして、今回、クラーク・レシン中佐が身を以ってこの典型事例を示してくれた。

 今般の作戦は、海上からの上陸作戦ではない。完全機甲装備された我が部隊は、内陸部奥深く7,000台の車輛を連ね何本かの道路に沿い、海兵隊史上最も内陸奥深く侵攻させる地上攻撃作戦を敢行するのだ。これが如何に壮大な挑戦になるのか、兵士達に対し、目下取り組み中の必須諸訓練を妨げることなく、その事実を明解に示す方法がないものかと、私は苦慮していた。と云いうのも、第一次大戦初期、米国軍が車輛渋滞の為に攻撃機会を自ら滅した事例を私は研究済で、その二の舞いは是が非にも避ける必要があったのだ。

 カリフォルニア基地の傍(そば)に偶々“レゴ・ランド”のテーマパークが開業していた。クラークは、何と、其処から7,000個のレゴ・ブロックを自腹で購入した。そして、下士官達が総出で、そのレゴ・ブロックで各部隊の車輛編成を模し、その台数分を反映した個数を、ダンボール台紙にのりでくっつけ、部隊毎にこれらを、基地の行進場敷地を作戦盤上に見立て、その上に配列したのだ。

その上で、各隊の指揮官達は、自隊に見立てた台紙に乗ったレゴを将棋の駒よろしく、敷地上に描いたイラク地図の上を攻撃作戦に沿って進めていった。すると、間もなく、レゴの段ボール台紙、十数個が次第に行き詰る様子が見て取れた。なんたることか、クウェートの出撃開始地点からイラク内地奥深くの橋迄の地点がボトルネックと特定され、同区間では車輛が混雑し巨大交通渋滞を発し、我々は敵と戦うことすら出来ないことが判明した。クラークが発案した、この問題炙り出しの手法のお陰で、指揮官達は、修正されるべき諸点を明確に且つ詳細に心に刻み付けることが出来た。我々は、その後、この結果を反映し、今度はモハーヴェ砂漠の演習場で更なる予行訓練を実施したのだった。

 一方、敵情分析をぬかってはならぬ。私は、若手諜報士官達に、我々が相対する敵軍6師団に所属する指揮官達の調査を命じた。彼らの性格は果断派か慎重派か。出身の士官学校は何処か。専攻は何か。更に、部下たちが噂する彼らの評判等に就いてだ。敵の弱点を押さえるのが目的だが、私が最も重視するのは、彼らが主導権を取れる器か否かと云う点だ。敵師団が保持する戦車台数より、指揮官の人物像を重視し集中分析する手法を尊ぶ私は、彼らの顔写真を常に机の引き出しの中に入れた。如何なる戦いに於いても、敵を知るのが最も重要な点は不変の真理なのだ。

 処(ところ)が、予期せぬ局面から私は不意打ちを喰らった。2002年6月、ヘギー将軍が本侵攻作戦の図上演習を実施した結果、私が見落としていた致命的問題が特定されたのだ。それは、イラク軍を突破し、又はバクダッドを占拠し、或いはフセインを権力の座から放り出すことへの障壁ではない。寧ろ、問題は「我々がそれらを成し遂げた後に、何をするか」であった。

 「将軍、戦争に勝利することに先ず集中し、後の心配は、その時でいいではないですか?」と私が云うと、「そうではない」と即座に彼は否定した。

曰く、「我々がフセインを退位させた後に、直面するのは、新たな戦争だ。然もこの対処には手引書が残念乍ら存在しない。敵意に満ちた人民達に周囲を取り囲まれる状況下、我々自身が独自の対策を考案せねばならぬのだ」と。

 ヘギー将軍が抱いた懸念は、2,400年前にクセノフォンがメソポタミアへ進軍した際に直面した事態に同一と私は直ぐ理解した。即ち、クセノフォンがギリシャから引き連れた1万人の遠征軍兵士は、ペルシャの地に於いては取るに足りない少数派に過ぎなかった。その際、彼が悟ったのは、大至急当地支配を確立することの必要性で、さもないと、彼の軍は周辺地域から一斉蜂起を受けるのだった。

 ヘギーは将軍に求められる指揮能力に就いての教訓を私に与えて呉れた。将来を見据えた「三段階の戦争」の提唱者である、前指揮官のチャールズ・クルラック大将を、彼が賞賛していた意味を、その時私は漸(ようや)く悟ったのだった。その定義は、第一段階が戦闘。次は困窮した市民たちへの人道援助提供。そして最後の第三段階は、戦闘分子を隔離すること、然もこの三つを同日中に実行しなければならない、と云うものだ。

 私は、同じ教訓を再び11月に耳にすることになった。それは、例年この時期に開催される「海兵隊創立祝賀会」(Marine Corps Birthday Ball)でのことだった。我が師団に於いても、全士官出席の下、それぞれの配備拠点と艦上で式典と行事が開催され、各所毎に二、三名の海兵隊退役者や現役役職者が集い、祝杯のグラスを1杯、2杯傾ける恒例行事である。私は、嘗て米国中央軍(CETCOM)司令官を務めた、海兵隊退役大将トミー・ジニを来賓講演者に招いた。祝賀会に先立ち、私は士官幹部達を自身のホテルの部屋に集め、ベッドの端に腰かけたジニを皆が囲み、恰もキャンプファイヤーで年長者から話を聞き知恵を授かる体となった。ジニは、我々が直面する事態に関し率直な見解を語り始めた。

「賽は投げられた。君達は出撃する。イラク軍を6週間以内に制圧するのだ。さもなければ、海兵隊の名折れになるだろう」そして、我々一人一人を指差し乍ら彼は更にこう続けた。 

「然し、試練は寧ろそこから始まる。独裁政権を倒壊させれば、その後、水道、電力その他諸々のインフラ保全の責任を負うのは君達なのだ。サダム・フセインを排除すれば、意を得た多数派のシーア派が、抑々(そもそも)少数派だったスンニ派を無力化する動きに走る一方、スンニ派とて支配を失うことを容易には認めないだろう」

 クセノフォン、ヘギー、及びジニ達からの説諭は、“戦後統治”と云う、極めて根幹的問題に私を立ち返らせて呉れた。現実には、その後、我々海兵隊は敵勢力の反抗が終わったならば、その後、間もなく、現地を離れ別の任務に当たれとの命を予告された。結局、米国中央軍(CENTCOM)の策定するイラク統治構想は、それが如何なるものであれ、その遂行に我々海兵隊が関与することはなかった。師団指揮官として、私が実際に預かったのは、戦争直後の極(ごく)短期の戦後統治任務の計画策定に限定された。それでも、私は、ヘギー将軍が実施した図上演習からの教訓に基き、幾点かの事前配慮を取り入れた。私は、特に文民統治の経験を持つ士官達を予備役から選出して一団を設け、砲兵部隊の中に組み入れ増強すると共に、その備えを図ったのだった。

 海兵隊創立祝賀会の直後――私が指揮を任されてから数えて、丁度100日経過後、私は先行スタッフ達を伴いクウェートへ着任した。一方、本土のカリフォルニア基地では、私の配下にある3つの歩兵連隊師団が、本作戦の任務領域に応じ、第一、第五、そして第七と、3つの連隊戦闘団(RCT-Regimental Combat Teams)へ再編成された。この3軍団を私が指揮するのだった。それぞれの陣容が、5千から6千5百名の兵士で構成され、戦車、大砲、そして航空戦力による支援を有した。そして、これら各部隊が米国に於いて弛まず演習に明け暮れたのだった。

 一方、クウェートではその後、数か月に亘り、作戦立案と演習が続いた。敵軍の意図に関する前提条件が次第に鮮明化するに従って、戦闘計画も永遠に変じ続けるのが常である。これは反復作業であり、作戦担当官達が疲弊するのも事実だ。我々は、極力会議時間を短くした。

我が軍の諜報士官達は、敵配置の航空写真を屡々(しばしば)参考にし、敵活動状況の更新に着手する。その次に、我々全員で敵の意図に就いて意見交換する。その際、データに基づく諸事実と、片や投機的諸判断との間には明確な一線が画されるべき点に私は固執した。伝達された投機的見通しが事実と混同される危険を回避するには、両者を峻別する必要があるのだ。その上で、我々は、自軍火力と機動計画に微調整を施す。それから、兵站部士官が説明を行う。作戦に立ちはだかる“距離”こそが、進軍を遅らせる最大要因だ。従い、友軍の燃料、水、或いは弾薬が切れる限界点を先延べにすることが、彼らの腕の見せ所であった。

 幸いなことに、私はスタッフ達と共に働くのを大いに楽しんだ。特筆すべき人物は、通信士官のクニック・ぺトロンジオだ。彼が報告会で話し出すと、それは極めて興味深いものになるのだった。当時の2003年、既にインターネットとチャット・ルームが普及していた。然し、そのニックが海兵隊に入隊した頃のひと昔前は、我々が山の尾根を越え10マイル先の場所と無線通話出来ることにも感激した時代だった。今や、それが“ブルー・トラッカー”のような、車輛に取り付けられた小さなデジタル画面が自軍の諸部隊配置を全て表示する道具を手にする迄の急激な進歩を遂げるに至っていた。

そんな中、毎夜の総括会議に於いて、ニックはその日に生じたコンピューター上の小さな諸不具合に関し、その理由を、私にとっては全く馴染みのない言語を以って完璧に説明をしなければならない役回りを負っていた。彼は4回か5回、言い回しを変えながら必死に報告を繰り返すのだが、それでも私がちんぷんかんぷんな様子を見て、遂に彼は堪らず胸を抑え「もう、いい加減これで勘弁して下さい」と音を上げて幕切れとなるのが常だった。一体全体、ニックは官民問わず、世の情報戦略責任者達から同情の的に値する存在だったに相違ない。

 それでも、ニックの苦難も、私と小さなテントの中で寝起きを共にしたジョン・トーランに比べれば、まだ良かったかもしれない。私のテントで寝るのはトーランにとり災難に違いなかった。夜の会議の後、私は携帯軍用食を取りさっさと就寝する。一方、トーランは深夜過ぎ迄作戦本部で働くのが日課だった。彼がふらふらになってテントに戻る頃に、逆に私は起き出し数百件のe メールに目を通し始める。更に、図らずしも、コール・サイン ”CHAOS”―「隊長ともあろうお方は、うちっと、ともな戦をば、りだしてはれぬものじゃろか」の謂わば名付け親である、トーラン本人に対し、私がその意を改めて思い起こさせる仕儀となった。と云うのも、私は、就寝につくトーランを相手に、思念し練り上げた最新作戦を共有しようと発奮し、彼の返答が鼾(いびき)に代わる迄、毎夜彼に語り続けたのだった。(*コール・サインCHAOSの誕生秘話は第4章に既出) 

 ジョンが寝落ちすると、その後、私は本を読んだ。例えば、ラッセル・ブラッドンの『包囲』、これは第一次大戦中、イラクに於ける英国軍敗退を描いており、舞台は正に私がこれから戦闘を繰り広げる場所だった。無論、アラビアのロレンスと呼ばれた、T.E.ロレンスによる古典『知恵の七注』も外せない。近来の西洋人で、戦場に於いて彼程にアラブ人の信頼を勝ち得た者は極(ごく)稀である。加えて、近代イラクの創立に寄与したガートルード・マーガレット・ベルの自叙伝だ。 

更に私が再度歴史を紐解いたのは、アレクサンダー大王のメソポタミア遠征と、米国南北戦争時のシャーマン将軍による所謂“海への進撃作戦”だった。特に、私にとって後者は、敵を常にジレンマの際に追い込む手法――右へ行くべきか左へ行くべきか、或いは前進か後退か――を参考とした。

私は、マルクス・アウレリウスの「自省録」を常に携行した。彼の言葉が、作戦会議の席上で酷く苛立つ私の怒りを鎮めて呉れるからだ。

私は、機会を最大限利用するタイプの指揮官だ。私は決して、多くの独創的作戦を思いついたのではなく、寧ろ、先人達の事例を取り入れ、或いは其処から多くを統合し採用したのだった。

 2003年の1月迄に、我が師団の大半兵力がクウェート砂漠の軍営地に到着した。米国軍の布陣を説明して置くと、組織上、私の上に3人の上役が位置しそれぞれ指揮を振う体制だった。即ち、今回の戦争で軍事作戦全体を司るのは、米国中央軍を率いるトミー・フランクス将軍、彼の配下で地上軍全体を指揮するのは、米国陸軍デイヴィッド・マッキーナン中将である。

 そのマッキーナンの指揮下に、私の直属上司であるジム・コンウェイ中将が位置し、彼が海兵隊第一遠征軍(通称I MEF)の指揮を採った。このI MEFは、我が国海軍と海兵隊に加え、空軍、兵站部隊、及び地上戦闘諸部隊で編成された英国軍との混成兵力である。そして、この地上軍の一部に属する、第一海兵師団を私が指揮するのだった。

 我々の地上戦力を概観すると、それは概ね3師団――総勢凡そ6万人の兵力――で構成され、これらが戦闘の主力を担うのだった。つまり、陸軍第三歩兵師団(通称3ID)、英国軍第1機甲師団(通称I UK)、そして、我が第一海兵師団である。私が指揮する第一海兵師団の兵力内訳は、戦闘部隊である3つの連隊、1つの砲兵連隊、それに加え、複数の特殊大隊で構成された。更に、これらが、他諸国軍、海兵旅団、或いは、追加的な米国陸軍諸師団からの分遺隊によって補強される段取りだった。一方、特殊作戦諸部隊は、別働隊としてイラク西部と北部へ深く浸透して行く計画だ。

 我々地上軍の諸部隊に対し司令部から与えられた指示は漠然としていた。最も根幹的疑問への答えがない儘に、私は作戦計画を立案余儀なくされた。その問いとは、首都バクダッド侵攻を目的とし遥かな道のりを進むか、或いは、サダム・フセインが国連核査察団受け入れを再度認めざるを得なくなる程度に迄、イラク内部へ侵攻し事足れりとするか、その孰(いず)れか?と云う点だ。両者解釈を巡り、あれやこれや多数の溝が生じる事態の中で、我々に出来るのは「大きな空白」を残した儘で作戦を立てることだった。我々に最終的政治意図を知る由はないからだ。

 我が師団の役割は、連合軍の主力攻撃を担う第3歩兵師団の援護に当たりつつ進軍することだった。同師団を指揮するはビュフォード・ブラウント少将だ。この通称“バフ”は長身で屈強な戦士乍ら、彼の南部特有のんびりした訛りがほのぼのとした雰囲気を醸す男で、彼と私は直ぐ意気投合した。上層部が発布した軍事諸目的に従い、我々は「イラン南部へ進駐」すること丈は定まった。然し、これは明らかに内容不十分な指令だった。其処で、私とバフは、命令書にはそうと記載がないものの「バクダッドに到達する迄」進軍を続ける前提で計画を立てると決めた。攻撃に際し、彼と私はそれぞれ両翼を担い補完し合う関係だ。そこで、相互連絡係として各々1名の特設将校を任命し、互いに交換し配置した。我々の策定した作戦を熟知する優秀な少佐二名だ。彼らには、それぞれが相手方本部に駐留し、双方の指揮官と直接会話する権限を付与した。この手段は効果を発揮し、私はバフ陣営の作戦とその意図に関する最新状況を常に把握出来た。  

攻撃陣形は、私の左翼にバフの率いる第三歩兵師団、そして右翼にロビン・ブリムズ率いる英軍第1機甲師団が配されたが、何れも評判の精鋭軍である。我々三軍は、お互いの攻撃精神に信を置きつつ敬意を表していた。

 部隊の作戦行動自体が如何に素晴らしくとも、それが協調性を欠くものであったなら、全く評価に値しない。つまり、戦場に於いては、陸・海・空の所属が異なる諸組織はもとより、海外連合諸国軍、そして外交諸筋との協調を保つ事が出来ない者は、さっさと帰国すべきなのだ。何故なら、このような指導力は全く役に立たぬと断言出来るからだ。

 加えて、私は基本の重要性を再度強調した。諸部隊との会議で、常に私は、持論とする厳守必須の“重大三原則”を徹底させた(別名“FRAs” ―Flat Ass Rulesの頭文字)。

一、敵を奇襲する伏兵を配置せよ。彼らこそ守護天使だ。

二、砲火配置に留意し、同士討ちによる死傷を防げ。

三、全ての戦闘集団に連絡係1名を置いて連携維持、指揮統一を図れ。

以上

軍の作戦諸鉄則に対しては、断固たる決意に基づいた配慮が払われるべきことを強調する為、私はこの三原則をその好事例として引き合いに出した。其処に注がれる凄まじい迄の注意力こそが、我が師団の全ての戦闘単位に浸透させられるべき必要要件なのだ。

 又、部隊が成功するには組織として原則を備えることが不可欠なことも私は承知した。従い、指揮官達に対し、任務の成否はスピードに懸かる点を叩き込んだ。即ち、情報伝達と決断の速度こそが、作戦と行動の迅速性を決するのだ。この原則を身に付けてこそ、配下の諸部隊は、敵の反撃に先んじ攻撃を繰り出し続けることが出来る。更に加え、我々はイラク軍が毒ガス攻撃を仕掛けて来ること、及び、絶えず変じる環境に適時対応する困難さを十分認識の上、諸事対策準備に取り組んだ。

 作戦決行日が近づくに連れ、私は、師団の盛んな戦意とこれ迄積み上げた訓練に万全の信を置いた。但し、油断は禁物であった。

私の配下の全指揮官達、及び作戦上極めて重要な支援諸部隊が、この作戦の複雑さと障害が生じ得る箇所を完全に把握しているかに関し、私は些かの不安を抱いていた。

この問題を、私が参謀長と協議していると、私の補佐官、弱冠25歳のウォーレン・クック中尉が話に割って入り解決策を提案した。彼が推挙した案は風変りなものだった。それは、我が軍戦闘隊長達が、一場に集合し、所属部隊名を記したゼッケンを背に、識別容易なようにそれぞれ異なる色のジャージを着て、衆目の注視する中で、作戦行動に伴い実際に移動する予行演習を行おうと云うものだった。彼の意図する概念を私は即座に呑み込んだ。そして、私の参謀長に、砂盤シミュレーション史上、最大規模となるこの演習挙行を命じたのだった。

 我々は、砂丘の中にフットボールのコートよりも大きい、天然の円形競技場のような恰好の立地を見つけた。下士官達が総出で、其処にイラクの地形を描く作業に従事した。彼らは、岩々を配置し、テープを張り、スプレー式ペイント缶を並べ、敵部隊の所在地も明示して、この巨大図上演習盤を製作した。これら準備を整えた上で、主要関係者にこのシミュレーションを観覧して貰う算段としたのだった。我々が招いたのは、当作戦で相互に連携、支援する部隊のすべての指揮官達と主要スタッフ――即ち、陸軍、空軍、海兵隊と海軍の空戦力、CIA, 海兵隊兵站諸部隊、海の働きバチこと、シービーズ(Sea-Bees)、並びに、英国及び他連合諸国――を網羅した。斯くして、我々観察者一同は、砂盤上で我が諸部隊が、作戦開始日にクウェートを発進以来、イラク深部へと如何に侵攻して行くか、その段取りを、各隊指揮官達がそれぞれの部隊諸行動に伴い、砂上を歩行移動する様子を注意深く見守ることことで確認した。一方、演習を実施した各部隊は、これ迄のレゴ・ブロックを使ったシミュレーションに加え、モハーヴェ砂漠での諸訓練の賜物で、攻撃順序と優先順位を完璧に頭に叩き込んでいた。

この結果、実に大きな成果を得ることが出来た。先ず、航空操縦士と地上指揮官達は、この正式な砂漠図上演習を基に、その後、更なる綿密な協議を継続した。つまり、飛行搭乗員達は、既に事前に十分な説明を受け、我が軍の機動的行動計画を予め熟知した上で、この砂漠演習を実検し、作戦上に展開する次なる事態と諸策略に対し、彼らが空から積極的に支援を実施すべき段取りをなぞって再確認出来たのだった。

又、兵站部の士官達は、この演習検分を通じ、我が部隊が弾薬を大量消費すると予想される局面、或いは、燃料補給を必要とする地点に注意を注ぐことにより、如何にすれば諸部隊の進行継続を容易ならしめるかの見通を可能とした。又、私にとっては、自身の30年余の図上演習経験に初めて聞く巧妙で斬新な案が、最若手のウォーレン・クックによって持ち込まれたという点が最大の収穫だった。

 作戦決行日、2003年3月20日 、我が師団が攻撃開始した時、全てのユニット・リーダー達は、彼らの役割を知り、且つ私の意図に沿い師団全体が如何に展開を画するかを思い描くことが出来た。不可避的な戦闘諸局面に遭遇しても、私の作戦意図を以って十分身を固めた若手指導者達は迅速に対応した。斯様にかなりの下部層に迄、大幅な意思決定権限の委譲を可能としたのは、若手リーダが成功に向け十分準備を積んでいるとの確信を私が得たればこそだった。

レゴ・ブロックと色付きジャージを活用した演習のお陰で、我々全員が、実戦で何が起こるか、予め頭の中に明確に描くことが出来たのだった。これにより、30歳以上の全幹部に対し申し伝えたいことがある。「自分より頭の切れる若者を常に側(そば)に置け!」

 戦争は、対照とする領域範囲とその展開速度に係る問題に全ては尽きる。従い、物流が往々にして指揮官にとり最大の制約要因となり得る。補給は物流専門家の問題ではなく、指揮官自身の問題と捉えるべきだ。何故なら、兵站戦略に於いて、本質的でない需要品の削減権限は指揮官丈が握るからだ。南北戦争の天王山に位置付けられた、1863年ヴィックスバーグの戦いへの進軍に際し、北軍グラント将軍の采配はその典型だ。彼は、「糧秣を風雨から保護する為、各中隊につき通常型テント1張、そして、各連隊本部につき箱型テント1張、同様に各旅団本部、及び各師団本部につき、それぞれ箱型テント1張のみ携行許可し制限する」旨を通達した。彼のこの倹約が賞賛に値するのは、彼の軍勢がそれにより機動性の自由度と、更にその結果、迅速性をも手にすることが出来た点にある。

 

 携行必須な燃料総量を算出した後、最も私が頭を悩ませたのは、帯同する砲弾数とその重量が極めて大きな負担になる点だった。重量を節約し、更に、我々が一度(ひとたび)イラク領内深く侵攻して以降の実弾再補給頻度を極力減じるべく、私の採った策は「砲弾発射予想量」自体を大幅に圧縮することだった。

アフガニスタン任務を終え帰還途上、当時機内に在った私は、その長い搭乗時間中、航空機による精密爆撃の効果が、正に革命的影響を生んだ事実をつくづく反芻していた。1991年、湾岸戦争時は、当該標的の破壊に必要となる航空機数を計算したものだ。処が、アフガニスタンでは、それに代えて一機の戦闘機で何ケ所の標的破壊が可能かを計算する迄に変化を遂げた。従い、今般、我々がイラクの奥地へ進むに連れ補給線が常時延伸し続ける中、航空機による援護により実弾節約が可能で、延(ひ)いては、我が軍が敵領内に深く侵攻した際にも、砲弾倹約の結果、砲兵達は大砲に十分弾込めをした状態を保持可能だと私は踏んだのだった。と云うのも、必要な場合に何時でも、海兵隊の航空戦力による大規模な攻撃支援に頼ることが出来たからだ。

 米国のグラント将軍の例に倣い、私は、配下の戦闘部隊に対し、衣食住の安楽は捨て去るよう命じた。我々が持ち込んだコット(折り畳み式簡易ベット)はほんの数台のみで、使用は病人や負傷者に限定された。他の者達は、階級如何を問わず皆、地べたに眠るのだ。私は、各車両にジプシー・ラック(車外後部等に後付けした鉄製ラック)を装着し、燃料缶を余分に積載させた。又、我々は、燃料品質検査キットを携帯し、敵から分捕る在庫の有効活用にも備えた。海兵隊員に携行が許される一切合切の荷は、己(おのれ)のラックサック一個に限られ、この決まりは将軍職から一兵卒迄、一切分け隔てなく適用され、誰一人として余計な持ち物は許されなかった。即ち、全員が皆、最下級の一歩兵と等しい条件下に甘んじたのだ。我々の食事は、1日、3回でなく2回だった。我々はこの節制を貫く一方、但し、各車輛には人道支援食糧のケースを積載し、イラク人民への配布に備えた。と云うのも、「人々を自由にする」米国の伝統を、身を以って示すことが我々の役目なのだった(人々を支配するのではなく)。

 兵站部の諸隊は、敵の残骸物を押し分け進み、我々攻撃部隊の進撃路を確保するのが任務だ。

彼らの命を危険に晒したくないと同時に、又、進軍に伴う補給作戦に於いて規律弛緩が生じることを何より嫌った私は、配下の海兵隊員達に次のように発破をかけたのだった。

「PX(兵営内売店)の買い物を不渡り小切手でした奴は、曹長に尻を蹴り上げられる程度で済むが、任務外に車輛を使ってガソリンを浪費したり、携帯糧食パックを半分食わずに捨てた者は、軍法会議に処す!」

(続く)

*当ブログ翻訳文章は生成AI機能一切不使用です。

文責:日向陸生

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