<訳者口上>
前回掲載2025年12月31日付、第九回の続きです。これにて第一章が完結です。
日向陸生
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<翻訳本文>
【『マチス自叙伝』~コール・サイン” CHAOS”~ ジム・マチス著(ランダムハウス出版)】
(原書:『CALL SIGN CHAOS ~Learning to Lead~』By JIM MATTIS and Bing West, Published from Random House, New York, in 2019. P300)
作戦審議
軍略家達は過去の失策を長く記憶に留める。1915年に英国は、大戦勃発後、独逸側に参戦したトルコに圧力を掛けるべく、ダーダネルス海峡海峡制圧を試みた。然し、ガリポリ上陸攻撃は、悲劇に帰す。20万人の兵士が海岸に釘付けになったのだ。連合軍は4万5千人の戦死者と、数十万の負傷者を出した。第一次大戦が終結した時、歴史家達は海上から攻撃を仕掛けることが無益であると強調した。
その6年後、海兵隊で真に型破りの存在と云えた、ピート・エリス少佐は、日本軍との戦争を予見し、海兵隊総司令官に対し、太平洋に点在する前線島嶼基地を奪取する為の上陸の技量向上の必要性を強く訴えた。海軍と海兵隊はカリブ海で演習を重ねた結果、上陸部隊の戦力は剃刀の刃の如く研ぎ澄まされて行った。そして、上陸作戦が第二次世界大戦の勝利の鍵であると証明した。即ち、独逸による過酷な支配下にあった西欧州は1944年のノルマンディー上陸で解かれ、一方、太平洋の島嶼獲得が日本を孤立化させ敗戦へ追い込んだ。然し、日本が占有した島々への正面攻撃は海兵隊に何万人もの死傷者を出したのだった。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ダグラス・マッカーサー大将は、ワシントン政府の助言を無視し、海兵隊に北朝鮮軍の背後に上陸し、敵の占領下にある首都ソウルを奪還するよう命じた。
マッカーサー曰く「“上陸作戦”は我々が用いるべき最も強力な武器だ。我々は敵地を激しく且つ奥深く迄攻撃する。奇襲を用い、敵補給線を断絶し深く包囲することこそが常に戦況を決する最も重大な機動作戦なのだ」と。
朝鮮戦争に於いて、マッカーサーが俊逸だったのは、海兵隊を海路数百マイル移送し、北朝鮮の裏をかいてその背後に上陸させ、その結果、友軍死傷者数を敵方に比べ遥かに少く止めたことだ。
朝鮮戦争後、海軍は輸送機を模し、輸送用ヘリコプターを設計した。それから数年後、海兵隊は、この頑丈なC-130型ヘラクレス輸送機を改造し、戦闘機とヘリコプターへの空中給油を可能とした。
1960年代には、海兵隊はCH-53型ヘリコプターを投入、これは重量46,000パウンドの正にモンスター級輸送機で、部隊と所要貨物を満載し数百マイル離れた目的地へ運ぶことが出来た。
各世代の指揮官は、先人から受け継ぎ更に進化させた装備を用い戦闘が可能だ。これに違わず、2001年の時点で私もその恩恵に浴し、先の戦争時では想像も及ばない先進的な道具一式を備えていた。一方、当時に於いても一部の軍部や政府指導者には、上陸攻撃と云えば硫黄島作戦を思い描く人々も少なくなかったのだ。
ムーア中将が、広げた地図で、海上から数百マイル内陸、アフガニスタンの岩地を指さした途端、その地点に数千人規模で海兵隊員を上陸させることは可能と私は直観した。そして、その作戦が僅か数週間で練り上げられたのは、私の手の内には適切な装備が利用可能だったからだ。私がTF58部隊に組み入れた諸装備は、過去50年間、軍部と民間双方の先見性に富む男達による尽力の賜物だった。
但し、いくら計画を立案した処で、もし上位者がその実行性に確信をもてなければ意味をなさない。従い、指導者が心得るべきは、意思疎通は部下へ下達する丈でなく、上位者へ向けて発信維持する必要があることだ。但し、それは、当時、人々が「上陸作戦」と云う言葉を聞いても、彼らの心象は第二次世界大戦時のノルマンディーや太平洋島嶼の事例の域を出ない状況下には、容易なことではなかった。
11月第二週迄の時点で、アフガニスタン北部に於いて、CIA工作員と特殊作戦部隊で編制する小隊は、タリバン勢力に向け進攻を目指す部族民兵隊を空爆によって援護していた。此処に至り、我々がライノを強襲し掌握する計画が堅実であると確信したムーア中将は、本件を米国中央軍に提起し、承認か却下か、つまり「侵攻決行か」或いは「中止決定か」を諮る方針に決めた。これを受け、米国中央軍がテレビ会議を招集、ムーア、デル・デイリー、及び私を発議者とし、加えて、その他大勢の関係者達が傍聴者として参加することになった。一方、中央軍の方では、海兵隊によるこの企画は、現在特殊作戦部隊により実施されている小規模な襲撃だと想像していた。
現実は、我々が提言したのは「侵攻作戦」だった。然し、ムーア中将は、この点を敢えて強調せぬよう、私に助言した。従い、私は案件説明に際し、ライノ掌握の目的は、前線拠点としてその後の急襲実施を準備する為とした。私は、我が軍の撤収に関し一切言及しなかった。抑々(そもそも)、私にはその気が全くなかったからだ。一度(ひとだび)上陸すれば、私は其処に留まり、敵を徹底的に打ちのめすことが望みだった。会議では、意外にも、撤退の条件に就いて、誰一人私に問う者はなかった。
確かに、複雑ではあるこの作戦行動を、私は、飽く迄想定可能な危険の視点から評価した。
然し、会議で、我が海兵遠征隊(MEU)が夜間にヘリコプター部隊でライノを急襲し、その後、海兵隊KC-130型輸送機が増援物資を積み占領地の野上滑走路に着陸する件(くだり)を私が説明すると、中央軍は大きな懸念を抱いたのが明らかだった。
私は、画面に映し出された二人の年長な中央軍将軍達の表情に注視した。彼らは何れも数千時間の飛行を操縦席で経験した元パイロット達だった。
彼らは夜間の空中給油に纏わる危険を熟知する上、我々が提案する作戦が多くの可変要素の上に成り立つことを見通していた。即ち、艦船群は地中海から全速力で発進する。夜間発艦したヘリの一団は、内陸部数百マイル地点の上空で、KC-130型給油機と合流し空中給油を受けなければならない。更に、海軍特殊部隊SEALが、数日間に亘り敵領域内深く潜伏し、洋上の艦船団と連絡を取り合う必要があった。然し、それでも私は、これら個々の計画要素の全てを遂行する能力を我が部隊が備える点には自信があった。
テレビ会議は確かに意思決定を迅速化する一方、一つの欠点がある。参加者は、カメラが捉えた人物しか映像で見ることが出来ないことだ。つまり、それ以外の人々の表情等、身体言語が読み取れない。フロリダ州タンパ所在の中央軍基地内会議室には、二人の将軍の他にも大勢の傍聴者達が詰め、それに加え、バハレーンからワシントン、更にハワイ迄、十数ケ所以上の基地に中継が結ばれていた。
中央軍を説得するには、後、ほんの数分間しか残されていないと私は悟った。一言も発せられない内に、否定的な合意形成が一機に固まり兼ねない情勢だった。
既に、私の身はバハレーンに所在する艦隊司令部を離れ、今や、北アラビア海上に待機する我が隊の旗艦の中に移っていた。私は、何としても「作戦進行」の知らせを、洋上の艦隊とそれに乗り組む海兵隊員達に届けたかったが、会議の雰囲気を見る限り、中央軍の決定はどちらに転ぶか全く見通しが付かなかった。
その時、一つの質問により沈黙が破られた。当作戦に於いて、特殊作戦部隊TF SWORDと我がTF58部隊との任務領域に関し潜在的衝突の有無を問うものだった。
それ迄、野戦テントから会議を静かに見守っていたTF SWORD指揮官が、即座に割って入り発言した。
「自分はTF58部隊が提案する作戦を全面支援する立場だ、」と断固たる口調で彼は云い、更に続けた。
「我々の両部隊は、時間と空間を互いに住み分け、干渉回避は確保されている。私は同作戦を全面支持する」
彼は期待以上の説明をして呉れた。我々が、遂に侵攻開始の許可を得た瞬間だった。
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自由解放作戦 ― 2001年11月
目的:上陸強襲部隊はTF SWORD部隊と連携し、タリバンとアルカイダ勢力へ継続的に圧力を加えて混乱を生ぜしめ、アフガニスタン南部の敵方支配力を弱体化させる。
私の意図は、敵方が、アフガニスタン北部に於ける友軍の活発な地上作戦に、意識を集中させる状況を利用することにあった。TF SWORD部隊と協調、そして一体化の下に、相互調整を図ることにより、上陸強襲部隊はアフガニスタン南部のタリバン勢力に対し繰り返し攻撃を加え、敵方に恐怖を与え彼らの意思を挫く。
TF SWORD部隊が諸目標を攻撃することで、敵勢が反撃を余儀なくされ姿を露わにした折を狙い、我が上陸強襲部隊は、TF SWORD部隊の作戦成果に乗じ、同隊が得たその勢いの儘に、両部隊が連合し更に攻撃を仕掛ける。
最終目標:
+ タリバン/アルカイダ指導者達を、混乱状態に置き、戦力配置に関する作戦上のジレンマに陥れる(北部戦線か、或いはアフガニスタン南部か)。
+ その後、TF58部隊が取る作戦展開に於いて、我が軍の思う儘に時と場所の選択を可能とする。
+ タリバン指導者が抱いた、アフガニスタン南部に支配権を維持する、との自信を打ち砕く。
感謝祭から数日後、私はパキスタン沿岸から数十マイルの洋上、ヘリ用母艦の甲板に立っていた。海兵隊員達がライフル銃の試射を海へ向けて放つ銃撃音が格納デッキ内に響き渡った。完全武装に身を包んだ兵士達が、100パウンドの重装備を背負い、梯子階段を甲板へと攀じ登って行く。赤く点滅する室内灯が隔壁に照らし出す彼らの影絵は、胸板厚く恰もゴリラの一団のようだった。
艦上に出ると、海兵隊員達は、暗い発着甲板を青いケミカル灯に導かれ、大型トラック・トレーラー並みに巨大なCH-53型ヘリコプター群の搭乗口ハッチへと向う。色付きのジャージを着た海軍と海兵隊のチームは、機体整備、給油、及び銃弾装填を行う一方、兵士達を整列させ機へと移動させた。
米国軍事力の展開が正に開始され、全ての歯車が整然と噛み合っていた。頭上に回転プロペラが耳を劈(つんざ)く轟音で唸りを上げ、一見混沌としつつも、全て入念に計画された通り事が進行する甲板上は、訓練を積んだ者でなければ出る幕はない。全ての段取りに十分な予行演習が繰り返されて来たのだ。
この日、日中には AV-8B型ハリアー戦闘機が米国空母戦艦USSバターンから発鑑しカンダハール郊外の複数標的を攻撃した。又、ライノを見渡せる地点に潜伏していた SEAL部隊からは、同目標地に敵影なしを意味するコール・サイン「ウィンター(Winter)」が発せられたのだった。そして、今、私は、7機の攻撃用ヘリと、6機の巨大なCH-53型兵員輸送ヘリがUSSペリリュー強襲揚陸艦を発進し4時間の飛行へ飛び立つ姿を注視していた。一隊はパキスタン上空を北東へ横切り、途中4機のKC-130型輸送機による空中空輸を受けるのだった。
午後9時、第一攻撃陣がライノに上陸した。最初のヘリが地面に接地する途端、分厚い砂塵を巻き上げ、それはベビーパウダーのように細かい粒子による噴煙を数百フィート上空まで吹き上げる。これは着陸に際し、パイロットが誰も恐れる現象で、全方位完全な視界不能に陥るのだ。数分後、第二陣のヘリ編隊に搭乗した海兵隊員達は、制御不能のエレベーターに乗ったように、まるでヨーヨーの如く上下へ揺さぶられた。視界が全く利かない中、パイロット達は着地を体感できる瞬間まで、用心深く下降と上昇を素早く繰り返す以外手がないのだ。それでも、一時間も経たぬ内、戦闘員170名は事故なく、全員防備体制に就き、そして空軍大尉マイク・フラトゥン率いる特別チームが野上滑走路を整え、KC-130型輸送機を受け入る体制を敷いた。
9/11以降、米国が為したと同様の対応を取り得た国はない。戦争は、まるで嵐のように、前触れなく、そして繰り返しやって来る。中には回避出来ないのもあるのだ。もし、急襲を被った時、後に大きな悔いを残さぬ為には、事前に基本方針と対応に充てる諸資源を準備して置くことが肝要だ。
数ケ月前、私は、今般出撃した、正にこの部隊がカリフォルニア沿岸沖の艦船から飛び立ち、同州の内陸奥地、モハーヴェ砂漠へ上陸する作戦演習を監督した。その結果、彼らがライノ上陸をやり遂げる点に関し、私に疑念の余地はなかった。
上陸前直、一週間余りを掛け、我々は密かに海兵隊員と車輛の集結を段取りした。攻撃部隊は諸艦船から波状的に発進し、夜明け迄には、更に400名の海兵隊員に加え、装甲トラック車輛を上陸させた。我が部隊は、歴史上、最も内陸奥地への洋上発進上陸作戦を達成した。
この作戦に於いて、我が方の海軍、海兵隊、陸軍特殊作戦部隊、及び国務省の共同チームが、着想から計画、関連部署の説得、そしてアフガニスタン侵攻実施に至る迄、その開始から実行に要した日数は僅か28日だった。当作戦の実現は、信頼感こそが生み出すスピード感に負うところが大だったのだ。
11月26日、即ち、作戦開始翌日、タリバンはライノ攻撃の為、武装した車列を同地から50マイル北西に位置する、ラシュカルガーから発進させた。然し、海軍F-14戦闘機と海兵隊のコブラ型攻撃ヘリの一隊が飛来し、敵を手早く片付けた。結局、彼らはライノへ近づくことも、又、2,400年前にアレクサンダー大王がアフガニスタン侵攻した際、「軍の兵舎」を意味したペルシャ語に由来する、そのラシュカルガーの町へも生きて辿り着くことも出来なかったのだった。
統合参謀本部作戦部門長、グレゴリー・ニューボールド中将が、後日、第二の戦線をライノに開いた理由を問われた際に、次の通り答えている。「TF58部隊の作戦意図は、タリバンとアルカイダに大きな精神的ダメージを加えることにあった。つまり、北部から徐々に撤退する望みも、強大な圧迫による苦境に耐え切る可能性をも殆どない軍事的状況に彼らを追い込むことだ。そして、実際、TF58部隊は、敵の目論見を微かな望みから絶望へと根本的に変じたのだ」と。
一方、私のライノに於ける目的は、早急に我々の戦闘能力を増強し、攻撃に打って出ることにあった。
前線拠点基地としてライノが持つ利点は、それがアフガニスタン内に位置すること丈だった。それ以外何の取柄もなく、その地は干上がった湖床で、吹き荒(すさ)ぶ強風で我々は常に砂まみれになった。周辺を歩けば、足は砂に埋まり、砂が目、鼻孔、耳、そして口をも塞ぐ。草の葉も低木も景色を遮るものは何もなく、見渡す限り茶色一色の地が地平線まで続いた。水は風に吹き散らかされ、顔を洗うにも難儀した。壕を掘ろうとすれば、石灰岩の地層を打ち砕かねばならなかった。部隊の兵士達は常に痰を吐き続けた。
ライノは攻撃の起点となる陣地と位置付けられた。従い、我々は上陸後の第一週目から、継続して戦闘力、燃料、そして医薬品の増強を図った。ハワード代将は、彼自身のSEAL部隊に加え、各国から参加する特殊部隊を集積させている最中だった。斯くして、我々は、間もなくカンダハールへと打って出る準備を整えつつあった。
友軍のパイロット達が、我々兵士と機材用の物資補給の為に、世界の果てからも支援に従事した。即ち、同盟諸国――豪州、カナダ、独逸、ヨルダン、ニュージーランド、ノルウェー、ルーマニア、トルコ、そして英国――が米国の助太刀に駆けつけた。
一方、ライノ上陸に際し、視界ゼロとの報告を聞いた時、私は多少緊張した。巻き上げた砂による完全視界不良の条件下では、災難が避け難いのだ。CH-53型ヘリ一機は、異物を空気吸引口から取り込んで出力を失い、着地時の衝撃で破損したが、負傷者が出なかったのが幸いだった。又、ヒューイ型ヘリ一機は離陸時に出力を失い横転し炎上、機体は焼失した。夜間発進の際、C-130型輸送機が地上走行中、CH-53型ヘリの回転翼に接触した。それでも、負傷者は出ずに済んだ。
空軍大尉マイク・フラトゥンと彼の12名の部下達は、“海の働き蜂”として知られる、海軍建設大隊から派遣された39名の水兵たちの支援を受け、無休で路面の地均(じなら)しと締固(しめかた)め作業に当たり、滑走路を24時間常に利用可能なよう整備維持した。そのお陰で、独逸基地を立った米海軍C-17型長距離輸送機隊は、我々の補給物資を搭載し3,600マイルを遥々(はるばる)飛行し、無事着陸することが出来た。
母艦USSペレリュウを出発しライノへ向かう直前、私は本部上層部から、乗船している報道陣のインタビューに対応するよう指示を受けた。報道陣を前に、私は、深い考えもない儘(まま)、「海兵隊が上陸した。我々は今やアフガニスタンの一片を確保し、それはアフガニスタンの国民に返還されるだろう」と語った。
これが新聞記事に大見出で登場した際には、「我々は今やアフガニスタンの一角を占領した」と報じられた。ラムズフェルド国防長官は直接私に連絡を取らなかったが、記者会見で「このような発言は二度とあってはならない」と発言し、間接的に私を窘(たしな)めた。更に彼は「明らかに思い上がった者の失言だ」と声明した。
この見出しが中央軍内にてんやわんやの大騒ぎを引き起こす間、これへの対処は本部の仕事と割り切った私は、我関せずと上陸攻撃へ飛び立った。
ライノ入りし1週間が過ぎようとする頃、私は次第に苛立って来た。我々は依然、足止めを食らっていた。
フランクス大将の声明は何とも不可解なものだった。「我が軍は、ライノを拠点とし、諸装備を用い幹線道を遮断する。然し、これは決して侵略ではない。何故なら、任務完了次第、同軍は間違いなく陣を引き払う予定だ。但し、無論、我々はライノ陣地をアフガニスタンの人々に人道支援を行う為に十分活用することも検討中である」と彼は云った。
「“侵略”ではない?」それは詭弁だ。我々、数百名の海兵隊員と特殊部隊が、現にここに駐留し、砂まみれになり乍ら、一日4回、火器の分解手入れを怠らず戦闘に備えているのだ。実際、9月時点に、大統領は、中央軍による戦争戦略の要諦として「“タリバン残党とアルカイダ戦闘員の掃討”を地上軍に命ずる」と明言。我々がライノへやって来た目的は唯一つ、米国市民3千人を殺害したテロリスト達をなきものにする為だ。そして、ムーア中将は私に上陸を命じ、生きて帰ると云うタリバンの最後の望みをも打ち砕くよう指示したのだった。
彼の構想は至って明確な上に、更に彼の頼もしい性格も相俟って、彼の斯かる所作は、作戦を考案し、実行に移す際に、目指すべき不動の指針を私に与えて呉れた。その後の数年間、私は、これをあるべき模範とし深く心に刻んだ程だった。
フランクスの支離滅裂な声明に動じることなく、私は、90マイル先のカンダハールを迅速に占領する為の戦力構築に尚も集中し続けた。一方、遥か後方の米国防省では、統合参謀本部議長リチャード・メイヤー大将が、「カンダハールこそは、タリバン抵抗勢力の最後の砦である。彼らは塹壕を補強し待ち構え、恐らく死ぬまで戦うだろう」と発言した。彼の発言は我が軍TF58部隊の役割を正しく云い得たものだ。何故なら、我が部隊こそが、その“最後の砦”を撃破可能な射程距離内に位置していたからだ。
機動戦に於ける要諦は、論理的意思決定をする敵能力を粉砕することにあるのだ。最早、カンダハールに所在するタリバン司令部は、何をしていいかわからない状態に追い込まれてた。従い、正に、ムッラー・オマルをその苦境から引き摺り出し、タリバンとその盟友アルカイダ勢力を撃滅するには、この機を措いて他にないのだ。彼らに体制を持ち直す時間と余地を与えてはならない。
それにも拘わらず、我々は理由も知らされぬ儘に、更に足止めを喰らった。ムーア中将は我々が戦闘開始出来るよう骨折りして呉れていたが、TF58部隊は現状堅持を命ぜられ、身動きがとれなかった。私はこの状況に酷(ひど)く苛立った。
私の部下である、ニューヨーク出身のある海兵隊員は、我々現場の不満を次のように表現し、私にぶつけた。
「准将殿、これ程迄に完璧な戦争はありません。何故なら、奴らは死ぬ気で戦うのを本望とし、我々は奴らを殺したいと心底願い、相互願望は完全一致です。さっさと始末をつけましょう!」
上陸1週間後には、フランクス大将が記者会見を開いて次のように述べた。
「海兵隊がライノに布陣した作戦に関し、同隊がカンダハール攻撃の為の戦力であると、私は見做していない。極めて単純な話で、そのような展開は念頭にない。その為に、彼らをライノに上陸させた訳ではないのだ」と。
この発言は、私には全く理解不能だった。否定的な声明発表して一体何の役に立つと云うのだろうか? 我々は無為にライノに止まる間、様々な事故が発生する危険に身を晒しつつ、一方、一向に敵に攻撃を仕掛けることなく、日々諸物資を浪費しているのだ。これでは、我々が此処にいることに何の意味もない。
実は、これに先立ち、ライノ上陸3日目の11月28日、事態を悪化させる知らせが既に届いていた。つまり、我々はムーア中将から連絡を受け、米国中央陸軍(CETCOM)が、我が上陸部隊兵力の上限を合計1,000名とする決定を下した旨を伝えられた。然し、タリバン討伐の為にライノへ追加投入する兵力に対し、斯くも一方的な制限が課される理由に就いて、中央陸軍からは、ムーアへも私に対しても説明はなかった。タリバン側兵士数は推定2万人とされた。これに対抗する為に、私は尚、3,500名の海兵隊員を洋上の艦船に待機させており、更に、彼らは私の指揮下にある兵力で、且つ、抑々(そもそも)この作戦は陸軍中央軍及び国防長官から命ぜられ実行しているものなのだ。
一方、現実問題として、ライノでは、野上滑走路維持の為に、海の働き蜂達等の追加人員支援が不可欠だった。従って、今回課された恣意的兵力上限を守る為に、戦闘部隊を一部帰艦させると云う、本末転倒の苦渋に満ちた決断を、私は余儀なくされたのだった。
そして11月30日――上陸後6日目――のこと、更に追い打ちを掛けるように、ライノに上陸したTF58部隊の指揮権は、ムーア中将から米国中央陸軍司令部へ移管された(クウェート所在)。この日以降、私は毎夜、ムーア中将と中央陸軍の双方に宛て“状況報告書”を送り、直近活動を評価し、翌日以降の私の作戦意図を提言した。私は、哨戒領域を拡大し続けて、一部地域ではライノから60マイル遠方に迄至った。この時、私は敢えて戦闘を求めていた。と云うのも、これら小規模機動部隊の技量に対し私は絶大の信頼を置いていたからだ。然し、敵は我々の存在を認めながら、交戦を回避した。
作戦行動に於いて統制が緩やかなのは、海兵隊と海軍の文化に共通し深く根差した特徴で、幾年にも及ぶ協力を通じ、相互間には高度な提携関係が築かれていた。これに対し、陸軍の手法は、より上位階級のスタッフ達が、一層細部に迄及ぶ管理・監督を施すことを宗とするものだった。
斯くして、中央陸軍は心底TF58部隊を支援しようとする熱意を抱いたものの、その為には、諸部署間の調整に要する時間と膨大な情報量を必要とした。共同訓練の実績もない知らぬ者同士が、いきなり一緒に仕事をすればギクシャクするのが道理だ。一度(ひとたび)衝突が起これば、その問題を互いに解決する姿勢が重要になる。本来であれば、殊(こと)、斯かる作戦の場合には、知らぬ者同士は事前に共同演習を繰り返し実施して置くのが理想なのだ。然し乍ら、今回、中央陸軍は、思慮熟考型で綿密さを徹底する計画手法を引っ提げ、いきなり大規模なスタッフ陣を本作戦に送り込んで来た。
彼らの意識としては、作戦に貢献したい一心の顕れであったろう。然し、彼らは情報を求めて来た、それも膨大な量だ。つまり、我が部隊が何をしているか、何が必要か、そして更に、我々の計画に就いて、何を、何時、何処で、どのように行うかの詳細情報。これら大部分は私の少数スタッフ陣にとって、実は、応えようにも応えられないのだ。その理由は、我々は下部組織に対し斯様な質問を唯の一度も投げ掛けたことがないからだ。彼らが要求する情報量は正に我々を圧倒した。先方の陸上構成部隊に所属する一人の上級スタッフが発する質問は、私のほんの一握りのスタッフが全員総掛かりで捌ける分量をも遥かに上回っていたのだ。
私の部下の作戦担当官は中央陸軍の相手方へ対し苦言を呈した。
「懼れ乍ら、こちらは自分唯一人なのに対し、貴方の担当官は12名。自分は一日22時間働いていても、尚、貴方の全作戦担当官達からの質問に追いつきません。貴官一人の質問なら対応可能ですが、全スタッフからの問い合わせは容赦願いたい」と。
これを受け、以降、中央陸軍は、より一般化した指示を出すようになった。例えば、
「カンダハール西部の敵前線に所在する補給路を遮断する準備をせよ」と云った具合だ。
これは明瞭且つ簡潔だった。従い、我々は哨戒隊をより遠く広く展開させた。すると、ある晩、哨戒中の一隊がライノから約80マイル地点で待ち伏せに遭遇した。彼らがタリバンの隊列の先頭車に銃撃を加えると、我が軍の背後数百ヤード地点に、敵別働隊のダンプトラックから戦闘員達が飛び降り、我が隊を背後から攻撃する動きに出た。暗視ゴーグルでこれを見た哨戒隊は、空爆支援を要請した。友軍機の飛来に、敵戦闘員達が取って返し、トラックに攀じ登り待避しようとしたその瞬間、海軍F14戦闘機からの爆弾投下で、不運な十数名のタリバン兵がアフガニスタンで戦死を遂げた。
翌朝、私が髭を剃っていると、携帯電話が騒々しく鳴った。私の専属無線連絡員、ジャコベック伍長が電話に応答し、幾つかの質問に答え電話を切った。
彼は「中央陸軍からです。昨夜の待ち伏せ攻撃の件で幾つか情報を求められました」と報告した。
それ以降、この件を私はもう考えることがなかった。然し、事はそれで終わらず、日常の一連の業務を私が済ませた頃、再度携帯電話が鳴った。ジャコベックが取り込み中なので、私が電話に出た。
「昨夜の作戦行動の件だが、」と切り出し、その中佐は云った。「当方には事前連絡が一切なかった。詳細を知りたいのだ。然るべき者に説明を求めるので、責任者を教えて呉れ給え、伍長、」
「マチスだ」
「くそっ、彼が司令官か! 処で君は誰だ?」
「私がマチスだ」
相手は暫し絶句した。
「失礼致しました! あれは見事な戦果でした、国防総省本部も高く評価するでありましょう。唯、如何せん、こちらで作戦承認した記録が見当たらないのですが..」
と、そこ迄話した処で、電話口の双方が笑い出した。
それぞれに異なる風習は、異なる仕組みを生み、それが彼我を隔てていた。然し、彼方を象徴するのは、各自に身に付いた、事前説明、指令、報告重視の文化と、迅速に操縦するには難がある“巨大なスタッフ陣”、だったのだ。
TF58部隊は尚も足止めを食っていたが、その理由は依然不明だった。我が隊が実施する哨戒行動は、我々の保持する戦闘能力の極(ごく)一部を使うに過ぎない。その上、敵の主力はカンダハールに展開中で、同処は我が軍からは容易に手の届く範囲にあった。
理論上、我が部隊は「その存在が脅威となる」役割を果たしていた。即ち、ライノを占領している丈で、我々は敵の行動へ影響を及ぼしていた。然し、1千名の選り抜きの機動部隊を陸地に釘付けにし、更に数千名を洋上の艦船に留め置き、何時までも“理論の世界”に甘んじるのは決して私の本意ではなかった。私は我が軍を解き放ち、敵を混沌に陥れたかったのだ。
夜には、前線を歩いて巡回するのを習慣とする私は、蛸壺(たこつぼ)壕に飛び込んでは、中で寒さに震えている歩哨と気の置けぬ会話を楽しんだものだった。配列された星々が輝く壮麗な満天下に、お互い、呼吸の度に白い息を吐き出し合えば、任務に関する話にも本音が出る。来る夜も来る夜も、私は同じ質問を受けた。
「一体、戦闘は何時開始されるのでありますか?」
「間もなくだ」と私は応え、こう云い継ぐのが常だった。「我々の出番は直(じき)にやって来る。監視を怠るな。万端準備を整えよ」
9月11日の出来事は我々の記憶に鮮明に刻まれていた。我々はアルカイダとタリバンを是が非にも殲滅したかった。無為に座視し、砂にまみれた痰を吐き出している場合ではなく、彼らを一刻も早く抹殺するのだ。兵士達は苛立っていた。
無秩序に陥ったタリバンは、算を乱しカンダハールへと退却して行った。これを追うように米国特殊部隊チームの11名も、反体制派の政治家ハミード・カルザイを伴い、同地へと向かっていた。
12月5日の朝、私は、コブラ型ヘリ一機が墜落、乗員は無事救出された、との知らせを作戦センターから受けた。それから数時間後、今度は、ライノの北東130マイルの地点で、2,000パウンド爆弾が、カルザイ支援派の一団の真っ只中で爆発したとの報が入った。重大な過失によるもので、死者、負傷者共に甚大な惨事だった。処が、現場の座標に関する情報は錯綜し、当初、パキスタン国境沿いのある地点とされたが、追って、寧ろカンダハール近郊の別地点だとの連絡が入った。どちらが正しいか私は判断し兼ねた。白昼のことで、もしヘリが誤った場所へ誘導され、交戦地帯へ接近すれば、敵の攻撃で一溜(ひとたま)りもないのだ。
最初の位置情報を巡り混乱が生じる最中、私は、ヘリ部隊を直ちに発進させることを拒絶した。
これに対し、特殊部隊の兵士達は怒り心頭だった。彼らの立場に身を置けば、私もその気持ちはよく判る。彼らの仲間が死亡し、負傷者達は緊急な治療を必要とした。然し、私は、新たに危険に晒す人命の数と、即座の行動により救えるかも知れない人命の数とを、秤に掛けざるを得なかった。正午頃迄に位置は漸(ようや)く確定され、ヘリ部隊が現場へ入り、負傷者41名を収容しライノへ帰還した。
負傷したアフガニスタン人兵士の内、一名が我が軍の軍医達の懸命の手当にも拘わらずライノで落命した。私の決断の遅れが、彼と彼の家族に犠牲を強い――彼の命さえも奪う結果になったのだろうか? 特殊部隊の兵士達が求めた通り、より早い段階で、私はヘリを出動させるべきだったのか? 或いは、不確定な目標位置へ慌ててヘリを送らなかったことにより、更なる航空事故と死者を回避したと見るべきか?
指揮官の任にある者には、常に次に決断すべき事案が控える。あれやこれや思い悩み、ハムレットの如く行きつ戻りつする猶予は許されない。最善の決断を下し、後はその帰結を一生背負って行くしかない。指揮官は、自身の感情を切り離し、常に任務遂行に集中するのだ。行うべきは、決断、行動、そして前に進むのみだ。
特殊作戦部隊の2チームが、勇気ある行動と自己犠牲を顧みぬ精神を発揮し、12月第一週迄には、カルザイ勢力はカンダハール郊外へ迫っていた。何百人もの諸部族の民衆がタリバンによる統治の終焉を予知し、カルザイの隊列に喝采を送った。
カンダハールの外れに所在する、爆撃で周囲を焼かれる中に残された大邸宅――其処は先にムラー・オマールに占領されていた――に、ボブ・ハワードと私は、連合軍特殊作戦指揮官を伴いヘリコプターで飛来した。
カルザイは沈着で、自信に満ち、且つ状況に満足し、我々の特殊部隊とは固い結束で結ばれていた。我々がコールマン・ランタンを囲み絨毯の上に座すと、壁には各々の影絵が揺れ、屋外には時折、放たれる銃声がこだました。我々は、私の率いる軍勢を以ってカンダハール空港を奪還する方法を協議した。一方、彼は、ムラー・オマールと他のタリバン幹部たちが逃走したとの確定情報を我々に共有した。
会談の休憩時間、カルザイと私は邸宅の庭園へ散歩に出た。
その折、とある拍子時を捉えて私は「例の“アフガニスタンの一片を占領した”発言でもし迷惑を掛けたならお詫びしたい、悪意はなかった」と伝えた。
カルザイは足を止め「謝罪は無用です」と云いい、更に言葉を継いだ。
「あの時、電子版ニューヨークタイムズを読んだ私は、思わず外へ飛び出し、我が部隊に向かって叫んだものです、“海兵隊がアフガニスタン南部にやって来たぞ、我々は戦いに勝利した!”とね」
私は苦笑せざるを得なかった。 中央軍が作戦に動揺を与えたとしてあれ丈大騒ぎした問題は、現実には、何程のこともなかった。寧ろ正反対に、それによって窮地にあったカルザイ部隊の士気は掻き立てられたのだった。
数百名のタリバン兵は尚も市内に残留し、抗戦の構えを見せていたが、最早、力を失っていた。先の会合から、数日後、TF58部隊と特殊部隊が、空港、幹線道路、及びカンダハールの政府庁を制圧した際には、僅かな抵抗に遭った丈だった。憎むべきタリバンは潰走し、人々は大喜びした。そして、凧が空に舞い、男たちは髭を剃る為に床屋に行列する光景を、私は目にした。
12月中旬迄に、カンダハール飛行場が確保され、戦場は、ライノから400マイル北のトラボラ山系へと移った。オサマ・ビン・ラーデン(OBL)は、十数ケ国から参集した2千名の最も忠実なアルカイダ戦闘員達を引き連れ、其処へ退却した。これより1年前、彼は土木技術者とブルドーザーを動員し、その地下に発電機と電力を備えた、洞窟網を建造した。彼の軍団は今や、その地下要塞に引き籠ったのだった。
無論、私はTF58部隊が、アルカイダの最高指導者を破壊する最後の戦いに投入されることを期待した。我が旅団は、この任務を遂行し戦闘を終結させるに必要な、火力、指導力、機動性、そして奇襲諸部隊を有しつつ、敵を射程距離に置く唯一の米軍部隊だった。その上、私は、ハワードの配下に控えている、数多くの特殊攻撃諸隊を、自分の海兵隊ヘリを使い戦闘に投入することを熱望していた。そうすれば、今や鍛錬で研ぎ澄まされたこれら部隊と協力し、我々は途切れ目なく、通常作戦と特殊作戦の双方を展開し、圧倒的破壊力を以ってこの狩りを遂行できるのだった。
我々の統合スタッフと諜報分析官達が、オサマ・ビン・ラーディン(OBL)の撤退に関する断片情報を繋ぎ合わせる作業に当たった。一見すると、トラボラ山脈の東部からパキスタンへ抜ける道は7~8本のルートが存在した。然し、1万6千フィートの頂き付近の雪と氷点下の温度を考慮すれば、氷で覆われた岩だらけの数通りの経路丈が通行可能と思われた。
然し、我々は、高地に這う曲がりくねった山道の詳細を示す、高解像度写真地図を入手し更に詳細分析した。その画像に依れば、最大数十通りの通行可能ルートがあると判明した。それでも、前哨基地群を高地に配置し、相互連携を取れば、全ルートを監視下に置きつつ、最適に配置された基地から攻撃を加えることが可能だった。
此処でも歴史が教訓を与えて呉れた。私は、嘗て陸軍の実施した「ジェロニモ作戦」を研究したことがあった。1886年、このアパッチ族リーダを追い詰める為、陸軍はアリゾナ南部とニュー・メキシコに23箇所の日光反射信号所を設置し、各拠点で常時観測と逐次相互連絡を実施した。その結果、アパッチ族がどの経路へ迂回しても、行動は筒抜けで、行く先は遮断されるのだった。これを踏まえ、我が海兵隊が擁する諜報陣は、銃後の米国で、コンピューターを駆使し地勢の可視性図面を手早く組成した。そして、これに基づき、あらゆる逃走経路を24時間体制で洩れなく監視可能な前哨基地を設置するのに、最適な高台の位置を、私のスタッフ達が地図に書き込んでいった。これら諸基地はお互いの位置を目視出来る為、相互に攻撃領域を有効に網羅し敵を打ち漏らす懸念がなかった。
私は、特殊作戦諸隊と海兵隊ライフル小隊を展開し、各隊には前線観測員を配することで、航空爆撃と地上からの砲兵射撃の双方を計測し誘導可能な布陣とした。更に、峠に設置した観測諸拠点に対し、援護部隊をヘリ輸送することで、防寒服に身を包んだ前線航空管制官、狙撃兵達に加え、機関銃と迫撃砲を追加戦力とし投入することが可能だった。又、無線指示で攻撃戦闘機が即時出動する。友軍機が洞窟群の入り口を打ち壊せば、内部のテロリスト達は死ぬ運命だ。もし、彼らが脱出を試みても、TF58部隊が洞窟の出口に待ち構える訳だった。全逃走路を断絶するのは、謂わば金床(かなどこ)の役割だった。そして、更に、増強されたライフル中隊を配置し、時は今かと、その台座の上にハンマーを打ち下(おろ)し挟撃でタリバン勢力へ止(とど)めを刺す戦術である。斯くして、12月14日迄に、我が軍は、カンダハールの滑走路上にヘリ編隊を待機させ、強靭な上にフル装備を整えた兵士達が何時でも搭乗し出撃する体制を整えた。
我々は機動作戦を中央陸軍のクウェート駐在スタッフに送付した(参考情報としてムーア中将へも共有)。本部から何の反応もないことに痺れを切らした私は、今度は手当たり次第電話による説得攻勢を試みた。その12月初旬のある時点、私は確かに直言居士を地で行った。その結果、一部の者達は、私の無礼な態度を、度を越え胸糞が悪いと評した。それでも、私は「直ちに山岳地帯の待避諸ルートを塞がないとビン・ラーディンを取り逃がす」懸念を声高に主張した。然し、その声は恰も逆風に向かって叫ぶが如く、結局、聞き届けられることはなかった。
鉄壁の如く難く閉ざされた扉を抉(こ)じ開け、当該作戦を何とか実行に移そうと、私は極めて異例乍ら、私自身と自分の部隊を、私より下級職のボブ・ハワードの配下に配置する提案すら敢えて打診した。然し、この案すらも馬耳東風と聞き流された。以降2週間に亘り、我々が前線へ呼び出されることはなかった。
結局、フランクス将軍 は、我々の部隊に代え、北部の軍閥に忠実なアフガニスタン人部族戦闘員達を派遣した。この判断は、アフガニスタン人自身が自分達の戦争を戦う事実を強調しようと意図されたのだ。然し、彼らの部族は、今般作戦領域となるトラ・ボラ地帯に地縁がなく――更に装備も貧弱な上、地元の人々にとってはよそ者だった。そして、所詮彼らには、唯でさえ手強い上に必死のアルカイダ戦闘員達を始末する能力はなかったことが証明された。 大勢の敵側主導者達が無傷でパキスタンへ逃れた。クリスマス前に、ビン・ラーディンも逃亡したと、諜報官達からの報告を受けた私は、吐き捨てるように云った。「とんだクリスマスプレゼントになったな」
フランクス将軍は、あの時、私の海兵隊を起用しなかった理由を後日、自身の回顧録でこう説明した。「私はソヴィエトが犯した失敗の二の舞を回避したかった」何故なら、「重装備した配下の大隊を以って、軽装備の敵勢を追い、山岳地帯をうろうろ彷徨(さまよ)うのは、無益と知っていたからだ」と。
実際には、我が部隊は重装備ではなかった。私が配備したのは、速攻性のある軽歩兵隊とボブ・ハワード率いる特殊部隊で、これらは全\て、ヘリによる機動展開を前提とし、敏捷性に優れた軽装甲車輛で補強されていた。監視チームを要所に置き、山岳の抜け道を完全封鎖した上で、十分な後詰めを備えた歩兵部隊を以って攻撃を加え、アルカイダを恰も万力で捻り潰す如く壊滅させる体制を我々は敷いていたのだ。
一方、ニューヨーク・タイムズ紙のホワイトハウス担当記者は、何が起こったかに就いて次の通り報道した。
「アフガニスタンでCIA活動を率いた責任者ハンク・クランプトンは、当時、ホワイトハウスに対し懸念を表明し、アルカイダの退路を断つべく、海兵隊派遣をブッシュ大統領に対へ要請した。然し、ブッシュはその判断をフランクスに委ねてしまった。結局、ブッシュは軍事力行使の望みを抱きつつも、結局は、彼自身の任期中、米国最大の敵を捕獲する最高の機会を逸したのだった」と。
私の見解はこれと少し異なる。機を逃したのは、我々軍部内部の問題であり、大統領ではない。大統領は、任務履行の手法に関し、配下の上級司令官に不同意ならばそう表明することが寧ろ適切な行動だ。一方、私自身に就いて云えば、上層部の式系統に於ける合意形成に費やすべき時間が十分でなかったのが恐らく反省点と云える。
我が上陸部隊を率いるに際し、最早ムーア中将が私の上長でなくなった時点で、私としては新しく着任した陸軍指揮官へ適合する為に、自身のやり方を変化させる必要があったのだ。つまり、司令部の上位者達から支持を得る為には、より注意を払い、彼らと同波長の思考に立つべきだった。
山岳路を封鎖する為に重火器で装備した部隊を派遣する作戦は、期待される成果に鑑み明確な説得力があると思われた。従い、私は出撃命令が下るのを今か今かと待ち受けた。然し、アフガニスタンに居る私と、意思決定者達との間には遥か大陸を隔てた距離が在ったのだ。
人が戦術レベルの作業に没頭する場合に起き易いのは、当人は自身を取り巻く現実を十二分明白に把握する結果、ついつい上位者達も全員が自分と同じ観点から状況を理解していると思い込む事象だ。これは間違いだ。仮にも、展開する戦力を預かる上級指揮官の立場の者にとっては、自身が置かれた前線の状況認識を上位者へ説明する為に費やす時間は、敵勢の探査諜報活動に使う時間に匹敵する。つまり、その労は報われるのだ。
もし、時計の針をもう一度戻すことが出来たなら、私は中央陸軍司令官とムーア中将に電話を入れ、こう云ったことだろう。「提言致します。この策により任務を遂行し、ビン・ラーディソを殺害し、きっと勝利をお届けします。唯、その為には、出撃承認を頂くことが必要なのです」と。
それは、2005年になってのことだった。ニューヨーク・タイムズ紙担当記者が、事の次第を記事で明かにした。曰く「米国の諜報官が語った処では、後日ブッシュ政権は、中央軍が海兵隊の出撃を拒絶したことがこの戦争の最大の過ちだったと結論付けた」と。
(第5章 了)
文責:日向陸生
*尚、当ブログ翻訳文章は生成AI機能一切不使用です。
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