評者/肩書:ジョン・リー・アンダーソン(Jon Lee Anderson)、「ニューヨーカー(The New Yorker)」執筆員。「チェ・ゲバラ~革命に投じた人生」著者。
対象書籍:『キューバ:米国史から紐解く』(Cuba: An American History)
著者:エイダ・フェレール (Ada Ferrer)
出版: スクライバー社 2021年 (576ページ)
ソヴィエト連邦崩壊後、まだ間もない頃、私がモスクワを訪問した時の事だ。私が、1962年キューバミサイル危機時のキューバがどんなだったかを尋ねると、その高齢な元赤軍将軍は実に懐かしそうな溜息をついた。そして「クューーバ…は」と、アルファベットKに異様にアクセントを込める一方、それに続く発音はまるで愛撫するかのよう引き延ばして口に出しながら、「ソヴィエト人の心の中でも特別な位置を占めているのだ」と云った。キューバ人は革命の実現を情熱的且つ勇敢に約束した一方、その見返りに、ソヴィエト連邦はキューバ革命政権を維持する為にあらゆる支援を惜しまず、同島民生存の為に必要な物は、文字通り何でも提供する態勢だった。「我々は結局、彼らを甘やかしたのさ」と彼は腕を宙に振り、後悔を含んだ笑みを浮かべながらぽつりと云った。
斯様(かよう)に、キューバは嘗ての同盟諸国や占領を目論んだ者達にとっては、今も心のある特別な場所に生き続ける。過去、数奇な数百年の間、この島にやって来たのは、スペイン人、米国人、そしてソヴィエト人達だ。彼らは一様に、キューバの事は、まるで、昔に別れた我儘な恋人の思い出のように捉えている ― 然(しか)も、無暗に欲しがりながらも、その島が持つ実用的価値をしっかり弁(わきま)える、取引に長けた厄介な愛人として。
凡そ、この島の歴史が刻まれた当初より、キューバはこんな具合に譬えられてきた。つまり、あお向けに寝ている美女に等しく、容易(たやす)く誘惑されものにされて、その果実は搾取し放題だと。一方、クリストファー・コロンブスは、この島の魅力を、西国フェルディナンド王とイザベラ王妃に宛てた手紙に、もう少し気を利かせ、次の誌的表現を試みた。
「千変万化を象る椰子の木々が群生し、それらが見たこともなく高くそして美しく聳える中、名も知れぬ巨木の森林が緑に繁る世界が無限に広がる。潤沢な羽毛に包まれた鳥達と広がる草原の新緑。これらがこの地を、静かで平和な楽園となし、その類稀なる美しさは、他所を遥かに凌ぐ魅力と優美さを備え、日が暮れ輝く様は又格別である。余りの美しさに圧倒され、私は譬える言葉すら見当たらないのです」と。
コロンブスが新世界へと足を踏み入れて以来、キューバは欧州の略奪者達によって、ありとあらゆる方法でその餌食となった。彼らの大半は西班牙(スペイン)人だったが、又、海賊、農場主、及び奴隷商人として、或いは一攫千金を求め、英国、和蘭(オランダ)、そして仏国(フランス)人もやって来た。侵略者を撃退する為の要塞化が進むに連れ、エルナン・コルテスのような探検家は、新天地征服と宝を求め、遠征隊を立ち上げたのだった。このように、キューバは最終的には、当時の典型的市況相場商品である砂糖の巨大植民地に変貌し、そして、あの犯罪の一大中心地として―即ち、アフリカとの奴隷貿易―と共に進化を遂げた。西班牙(スペイン)の植民地時代は、米国が海外占領に野望をもち、世界の大国の一角として同国が台頭すると伴に、19世紀末期に終わりを告げた。この頃迄には、二国は相互経済的に深く依存し合う関係になっていた。つまり、米国の奴隷船が、捕われたアフリカ人の大半をキューバへ供給し、米国商人は同島の殆(ほとん)どの砂糖、ラム酒、及び煙草を買付け、しかもこれらの生産は奴隷労働力に依存していた。
米国は、独立戦争時以来、キューバを手に入れたいと思い続け、ワシントン政府内部では、この長さ750マイルで、米国の海岸に極(ごく)近くゆったりと伸びるこの島の所有権獲得に関する議論が、公然と且つ無礼お構いなしに行われていた。ジェイムス・モンロー及びジョン・クインシー・アダムスの両大統領は、同島を併合することことを提唱したのは、トーマス・ジェファーソンと同様で、彼に至ってはその手記に「正直に告白すれば、私はキューバを、我々の合衆国に加えるに最も有益な追加的地形と見ていた」と記している。1852年には、フランクリン・ピアースは、南部の奴隷に支えられた経済の理想的な強化策としてキューバ併合を公約し大統領選挙に勝利し、その翌年、彼の副大統領だったウイリアム・ルーファス・キング―彼自身もアラバマ州出身の奴隷を保有する綿花農場主であった―は就任宣誓を同島訪問し行った。
キューバのクレオール(中南米生まれの西班牙人)のエリート階層達は、二つの勢力に二分される事となった。つまり、一方は西班牙(スペイン)への帰属維持を願う併合派で、米国を巻き込む事により保護と利益(特に同国の奴隷貿易)を追求しようとし、他方はキューバの独立を願う人々だった。仏国革命以降、国家主権の理念の追求は、西班牙(スペイン)領アメリカ内に於いても、既に闘いの鬨の声となって響き渡っていたのだ。というのも、19世紀初頭より、地上の大半の植民地各地では現に解放化が次々と実現していたのだった。
西班牙(スペイン)からの独立闘争と共に、数えきれない程多くの奴隷達の反乱が発生し、これらはどれも不成功に帰したばかりか、それらに対し報復的な虐殺行為が繰り返された。キューバ植民地主義農場主達は、“ハイチの二の舞”になるのを恐れていた。同地は、18世紀末に血塗られた奴隷による反乱によって仏国の植民地支配は終焉し、奴隷化されていた人々に自由を齎(もたら)したのだった。
抑々(そもそも)その起源を1868年に遡る、キューバ自身の独立運動は、奴隷廃止抗議活動に結び付いたものである。その年、カルロス・マヌエル・デ・セスペデスという貴族階級の農場主は、彼の土地に奴隷達を集め、彼らの解放を宣言すると同時に、西班牙(スペイン)に独立戦争を仕掛けるに際し、皆に彼の配下の兵卒となるよう要請した。それ以降、血まみれの諸闘争と不安定な幾時かの和平の時期を経乍らも、キューバ人達は、彼らの独立、並び、黒人キューバ人にとっては、加えて彼ら自身の奴隷からの解放の為の闘いを止める事はなかった。1890年代中盤迄には、戦争の残忍さの段階は悪化を辿った挙句、西班牙(スペイン)将軍ヴァレリアノ・ウェイレルによる悪名高い強制収容所に行き着き、其処(そこ)でキューバ人全人口の一割にも上る人々が、病気や、飢え、或いは虐待によって死亡した。そして、この事実は、キューバ人の精神的支柱に「生きて自由を勝取れ、さもなくば死を」という強烈な気質を植え付ける事になった。
不幸な運命をたどる蒸気式戦艦“USSメイン号”が1898年1月にハバナ港に入港する時迄には、キューバは賞賛すべき英雄達と殉教者達の一大正史を紡いでいた。その中には、「不死身の巨人」と呼ばれ有名な歴戦の勇士、アントニオ・マセオ、及び小さな雑誌社の編集者で且つ詩人でもあったホセ・マルティが有名だ。マルティは、1895年彼の戦死前夜、友人に宛て、我々は目下キューバの自由を西班牙(スペイン)から勝取るべく奮戦しているが、それはそっくり米国に盗み取られる定めにある旨の、先見性ある手紙を遺している。
一般的な米国人は、キューバの抗戦者達に概して同情的であった。一方、政治家の中には、これらキューバの状況が米国自身を利する帝国主義的好機と捉える者達がおり、その中でも特にその立場を顕著に表明していたのが、セオドア・ルーズベルトとヘンリー・カボット・ロッジ上院議員だ。又、1896年には米国人戦争特派員のリチャード・ハーディング・デイヴィスは、冷静に死を覚悟しながらも、ひとりの初々しい反抗者がスペイン軍射撃小隊の正面に毅然と立ちふさがった姿を、彼自身が目撃し、それに基いて執筆した「ロドリゲスの死」という記事でキューバ人の勇気へ賛歌を送った。その若者の沈着ぶりを、大英帝国植民地から解放する為に死んでいった米国革命家達のそれと比較し、デイヴィスは筆を進めて曰く「私が目撃したのは、なんとも哀れで、救いようのない場面だった。しかし、勇気と威厳に満ちた彼の姿は、すぐさま私に、ブロードウェイの喧噪を睥睨(へいげい)するかのように、シティー・ホール公園に立ち、毎日その下を慌ただしく通り抜ける金儲けに忙しい群衆に独立の精神を訴え掛けるネイサン・ヘイル(*訳者後注)の銅像の事を起想させた」と。
既にデイヴィスのような現地からの配信諸記事により米国に於いて戦争熱が高まっていた中で、米西戦争に踏み切る切っ掛けとなったのが、1898年2月15日、USSメイン号が謎の爆発でハバナ港に沈み、256名の米国海軍兵が死亡した事件だ。交戦開始後、僅か16週間にして西班牙(スペイン)軍は敗退し、マドリ―ド政府にとりかけがえのないキューバは米国人の手に落ちた。
以降、半世紀に亘り、米国人はキューバを彼らの好(このみ)と都合により造り変えた。西班牙(スペイン)人達を追放し2年と経たぬ内に、ワシントン政府の差配でキューバ憲法を批准させ、同法によって米国のキューバに対する干渉と、グアンタナモ湾を米国海軍基地として永久使用する権利が認められた。又、米国政治家達は土地保有権の制度を変更し、国外投資家へ門戸を開いた結果、不動産ブームを加速させ、結局、米国人達と同国砂糖諸企業が最大の恩恵を受けた。殊(こと)、禁酒法時代、米国人にとってキューバは、酒を飲み、賭博に明け暮れ、離婚が出来る、狼藉御免の絶好の逃避地と化した。この動きに伴い、キューバ人国家主義者達は反抗を試みたものの、その多くは独裁主義者達の手によって殺害され、一方、これら統治者達は、その実、任命も罷免も米国の思いの儘に操られていたのだった。
1950年代になり、フィデル・カストロが、悪辣なフルヘンシオ・バティスタ政権下のキューバの至る所で反抗を開始する頃迄には、同島の政治的根幹は爆発寸前の状態になっていた。キューバのそれまでの過激な歴史に照らせば、キューバが主権獲得の闘争に遂に勝利するのがいつになるにせよ、それは途方もない規模で且つ劇的なものになる事が予想され、現実にそうなったのだった。
縺(もつ)れた蜘蛛の糸の如く
本著「キューバ」は、エイダ・フェレールが全編説得力ある筆致で貫いたこの大作を、謂わば本国米国へ引っ提げて帰って来たのだと云える。キューバ生まれで、米国で育ち教育を受けた著者は、本書前書(まえがき)に、この本が30年間の研究の成果である旨を告げる。ニューヨーク大学の歴史学教授であるフェレールは、その島並びに周辺を取り囲む諸事―そして彼女の生まれ故郷と彼女を育み受け継がれたもう一つの祖国との関係―を生涯の研究課題と定めたのである。彼女は既に歴史に関し2冊の書を発表、「自由の鏡(Freedom’s mirror) 」、及び「反乱に揺れるキューバ(Insurgent Cuba)」これらは何れも高い評価を得ている。そして、今回の記念すべき新作が、これまでの業績に匹敵する、独創的な学識を証する書であるのは明らかだ。更に本書は賞賛に値する語り口で執筆され、これ迄発行されたキューバの歴史に関する書籍の中でも特段に格調高いものとなっている。
キューバと外的社会との関係と云うプリズムを通じ分析を試みる筆者は、結局、同島は米国本土に近接した同国の一部として位置付けされるものの、先ずはコロンブスの上陸から記述を起こし、それに続く大量虐殺行為、つまり西班牙(スペイン)人達がタイノ族と呼ばれた島の原住民を文字通り狩って略(ほぼ)絶滅させた事実を記す。そして彼女は次の400年間に亘る、砂糖栽培農場と奴隷制度、並びにキューバと米国の運命の糸が互いに織り合わされて行く様を述べて行く。
カストロの台頭と彼が権力に在った半世紀間の記述に、本書全33章の内の1/3が費やされ、これらは、彼による革命の変化の劇的な影響が、キューバ社会、及び米国との複雑な関係に如何に及んだかを証言するものだ。ある章の終わりにフェレールく「この二つのアメリカの共和国の間に生じた冷ややかな戦いは、単に冷戦の問題でもなければ、共産主義丈(だけ)に止まらなかったのだ」と。彼女が説明し更に云うには、それは「米国本土が保持する権力とキューバ主権との間の闘争、そしてそれら双方が抱える特徴と限界に関する問題であったのだ」と。
キューバと米国の歴史検分に於いて、彼女は、カストロの革命により家族が引き裂かれた人々に配慮し、慎重にして且つ敢えて明確な断定を避ける姿勢を意識し貫いている。この点丈(だけ)でも賞賛に値する作業である。本書の序で、彼女は、それは意識的に務めてしたのだと次のように語る。
如何にすればキューバの過去を呼び起こす事が可能だろうと悩み続ける過程で、私はその作業は嘗てない全く新しいものである必要がると考え始めた。そして、その歴史を内側と外側の双方から見る術(すべ)を学び取ったのだ。つまり、高所から見下すかのようなワシントン政府、或いはマイアミからの米国側の見解、及びこれに対するハバナ政府側の見解と云う、これ迄課されて来た2元的解釈論を捨てたのだ。私は米国人の為にキューバを説明し、キューバ人の為に米国を説明する事を始めた。この手法を使い、私は自分自身、家族、そして我が故郷である米国を、従来と異なった視点から考察する事に全精力を注いだ。
フェレールは、今日のキューバが新たな歴史上の転換点の最中に在り乍らなかなか改善をみない状況を読者に投げ掛ける。即ち、それはカストロ後の不確実で統制がとれない時代である。それでも、キューバとは、これ迄も常にそうであったように、地理的にアメリカ帝国の物陰に位置する島に居住する人々の国である点に変わりない。フィデル・カストロと彼の弟ラウルの功績により、キューバの政治的主権は確立されたものの、経済的に脆弱で、北に位置する巨人との和解を未だ見ない状況下、その将来は決して明るいとは云えないのだ。
新しい始まりの行方(ゆくえ)
フェレールが本書の執筆を開始したのは、2015年、丁度(ちょうど)、米国とキューバに歴史的緊張緩和が米国オバマ大統領とラウル・カストロの仲介により実現した年である。当時は、キューバ人とアメリカ人双方にとり希望と期待に溢れた特別な時期で、55年間に及んだ敵対関係の後、遂に2016年3月、オバマ大統領のハバナ訪問によりそれは最高潮に達していた。フェレールは、この世紀の出来事に先立ち、キューバの首都がお化粧直しに専念した様子を回想する。道路が舗装され、建物は再塗装され、窓が入れ替えられ、人々は「もしオバマが定期訪問して呉れれば、町はあっという間に新品になるよ」と冗句したのだった。オバマの歴史的な演説が、由緒あるグランテラノ劇場に於いて、カストロを含む聴衆を前に且つキューバ国営放送の生中継の中、行われた。この基軸となる瞬間に於いて、フェレールは歴史研究家の目線で同演説の中の二つの点に注目する。「一つ目は演説冒頭部の箇所で、米国に於ける初の黒人大統領が両国の絆について語り出した件(くだり)だ。」即ち、「私達もあなた方も元を辿れば同じ血だ。我々は共に欧州人たちが植民地化した新世界に生きている。キューバは、米国と同様、ある意味、アフリカから連行された奴隷達により築かれた」。フェレールの説明によれば、オバマは、キューバ人に於けるアフリカ系正統性を指摘するかのように「私はあなた方の事を理解できるし、皆さんの国の過去そして将来を通し、何が中心に据えられているかも知っている」と述べた。
オバマの演説でもう一つの注目すべき文脈は、キューバが米国との間に歴史的関係を持つ点を明確に述べた件(くだり)だ。「オバマが革命前のキューバに就いて語る口調は、キューバ政府自身のそれと大きく異なるものではなかった点が意外だ」と彼女は叙述する。つまり「革命前の同共和国を、米国は、何か利用する為のものとしてしか扱わず、そして貧困を黙殺し、汚職を蔓延(はびこ)らせた、と彼は語ったのだ」。又、キューバ革命そのものに、オバマから敬意が表された。「全ての革命、それは米国の革命、キューバ革命、世界中の自由主義革命であるかを問わず、皆、理想を抱く事がその出発点となるのだ」と。更にフェレールは、特筆し「米国大統領が1959年のキューバ革命と1776年の米国革命を同列に語った。此処(ここ)に、50年以上に亘って続いた米国とキューバの冷戦は終わったと見えた」と説明する。
しかし、オバマのキューバ訪問は、事始めとして上出来の成果を収めたものの、永続きしなかった。米国とキューバの短い和解期間は、2016年に予想外にヒラリー・クリントンを負かし、トランプが米国大統領に勝利した事と、それに偶然重なるようなフィデル・カストロの90歳での死去により、終止符が打たれた。これは、色々な意味で一つの時代の終わりを象徴するものだった。
その10年前に兄の病気により地位を引き継いでいた、ラウル・カストロも、又2018年には、大統領の坐を降り、権力の手綱を、50歳半ばの愛国者であるミゲル・デイアズ=カネルを慎重に後継者として選び、引渡したのだった。そして2021年4月、カストロは自身の90歳の誕生日の2ケ月前に、キューバ共産党第一書記長の地位を手放し、これもデイアズ=カネルへ譲った。これにより、カストロが、当時そう宣言していた通り、彼は仕事を終えたと実感したのだ。2019年になると、新しいキューバ国憲法が導入され、その中で社会主義は同国唯一「不可変」の政治信条と見做しつつも、私有財産や事業の保有並びに海外投資等の資本主義的様相も容認するものだった。この過渡期に於いて「伝統は受け継がれる」というのが標語となった。
フェレールは、カストロ時代に対する最終評価を下す事を避けているものの、一般市民の間に広まった不満に焦点を当てる。つまり「より多くの人々は継続性よりも変化を求めていた。そして、その変化とは、稼得収入、家族の食料、毎日の通勤事情、機会の選択、と云った彼らの生活そのものに於ける向上を、単純に最優先とする感情で、必ずしも政治的立ち位置の問題ではなかったのだ」と彼女は記述する。
困難な時代
今日、キューバ島での生活が、数年間前に比べ厳しくなっている。新型コロナウィルス蔓延で封鎖されたキューバは、この一年半の間、最も重要な収入源の一つであった海外観光旅客産業の閉鎖に追い込まれ、トランプ政権時代を特徴付ける印となっていた極貧状況を更に一層悪化させたのだ。トランプは大統領任期中、敵対的態度でハバナ政府に臨み、オバマが同島の経済苦を和らげようとして認可した経済開放諸策の大半を再度禁止してしまった。一般のキューバ人達はこれらが最も深刻な打撃だったと考えており、フェレールは更に次のように記述する。「米国からの観光者を期待して資本投下し中小規模の事業を始めた人々は、今や店を閉め、屋台は駐車場で御蔵入り、そして食糧流通が次第に減少し、それを買い求める人々の行列は長く、諸物価は高騰している状況だ」と。
2020年の米国大統領選でバイデン大統領が勝利、その選挙運動中、彼は、トランプの弊害的諸政策はその大半を巻き返すと約していたにも拘わらず、殊(こと)キューバ政策の転換は、もしそれを行えば、フロリダ州の票田に影響力を持つ保守派キューバ系米国人が離反する事を明らかに恐れた結果、極(ごく)僅かの変化しか生じなかった。抑々(そもそも)基本的物資が慢性的に不足していた処(ところ)に相まって、米国政権交代から期待された変化が齎(もたら)されなかった点が、悲観的ムードが遍く広がった理由だ。2021年7月には、島中の市や町で抗議行動が勃発したが、過去キューバ一般市民によってこの様な不満表明がされた例はなく、ハバナ政府はこれらを厳しく取り締まった上で、米国がキューバ市民の不満を煽り立てたのだとし同国を非難したのだった。
圧力の下に秩序は直ちに回復された。しかし、必需品が不足する状況が継続すると、人々は、所謂、“経済危機延長期間(Special Period)”と呼ばれた、1990年代初頭に市民が体験した物資の欠乏状況、そしてそれに次ぐソヴィエト連邦の崩壊の記憶を呼び覚まされる事態となっており、この状況が何時まで続くのかは未だ、未解決の問題である。嘗てのカストロ兄弟は最早権力の坐になく、一方、キューバの新世代の人々は、皆、ソヴィエト連邦の消滅後の生まれで、共産主義を後継する者達ではない。これらの新世代キューバ人は、今や全人口の1/3を占め、彼らは、祖父や両親達に比べ、政治的信条への思いが薄く、大半が平凡な生活を営む事を望んでいる。彼らの望みは、働いて生活し、旅行もし、そして自由に意見を述べる事なのだ、西欧諸国では人々がどこでも極(ごく)普通に行っているように。更に、多くの人々がインターネットやSNSへの接続を通じ、自分達には何が欠乏しているかが判るご時世だ。一方、時代の波という変化に直面し、キューバ政府は、存続に係る根幹に於いては権力を行使しつつ、国民に対しては愛国者たれとはっぱを掛ける事で、生じた隙間(すきま)を埋めようとしている。こうして、ハバナ政府は訴えて曰く「戦い、そして勝利し、革命と共産主義によって建国に至った、この独立国キューバを支えるのは国民の義務である」と。
キューバの共産党政権が、資本主義を受け入れつつ、中国やヴェトナムがしたように、尚もそれを独裁国家の枠組みの中で統制して、今後さらに半世紀の間、権力に留まる事が出来るか否かに就いては、未だ明らかではなく、推移を見守るしかない。フェレールが観測する処では、“資本主義が穏当に混ざった経済”というものを政府は計画中であるらしい。しかし、政府の統制に対する市民の不満は依然燻(くすぶ)る。文化庁による事前許可なく、芸術家が公衆に対し公演や展示を行う事を禁ずる法令が、ディーアス=カネル第一書記長就任後、早々に発布された点をフェレールは指摘し、キューバ政府は、同政府諸方針に同調しない人々を引き続き抑圧して行くであろう、と彼女は見立てる。
フェレールが、現在のキューバの現実を、将来が全く見通せない「危機」と定義するのは、当然のことと思われる。しかし、彼女は更に其処(そこ)から一歩踏み込み「キューバの人々の日常生活改善は、単にホワイトハウスの住人(米国大統領)に掛かっている問題ではない」と云う。即ち、これら変化は、キューバ政府並びに、詰まる処はキューバ国民その人達の、意思決定に掛かっているのだ。即ち、最終的に、キューバの一般市民達によって、同国の将来への道筋を米国とキューバ両国の政府に対して示す事が出来るか堂か次第なのだと彼女は主張する。
一方、キューバの人々は、次第に、従来の国家主権に関する歴史的諸懸案に優先し、他の様々な願望を表明し始めている。短期的に見れば、日常生活により自由を求める呼び掛けに、より多くの人々が加わって行くように見える。劇作家ジュニオール・ガルシア39歳は、変化を求めるキューバ人達を代弁し頭角を現した人物だ。彼は、最近飾り気もなくこう語っている。「私がキューバに望むのは、誰にも居場所があって、全ての市民の諸権利が尊重される、そういう包容力ある国になる事だ」と。最も単純な事柄が、実は為すのに一番困難な場合が屡々(しばしば)あるのだ。 (了)
<訳者後注>
*ネイサン・ヘイル:Nathan Hale(1776年、ニューヨークマンハッタンで刑死。享年21歳)
英米独立戦争時の米軍兵士、英軍後方の諜報活動に従事するも、英側に捕えられスパイとして処刑さる。絞首台で、「祖国に捧げる我が命、唯一つなるを悔ゆるのみぞ」と聴衆へ静かに語ったとして有名。(“I only regret that I have but one life to lose for my country.”)
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