<訳者口上>
前回掲載2025年10月28日付の続きです。今回、第5章をお届けします。同章は、9/11テロの後、マチスが遠征隊を率い、アフガニスタンでアルカイダを追い詰める戦闘作戦を展開させる、第一部の最大のハイライトです。本章を以って第一部が完了。
本書の残り、第二部と第三部に就いては2026年中の完訳を目指し、順次掲載予定です。
日向陸生
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<翻訳本文>
【『マチス自叙伝』~コール・サイン” CHAOS”~ ジム・マチス著(ランダムハウス出版)】
(原書:『CALL SIGN CHAOS ~Learning to Lead~』By JIM MATTIS and Bing West, Published from Random House, New York, in 2019. P300)
第一部 第5章 ライノ
2001年9月11日午前6時、私はぺデルトン基地へ出勤途上の車中に在り、近くエジプトで実施される演習に就いて思いを巡らせていた。その時、ラジオからトウィン・タワービルの一棟が攻撃されたとの報が耳に飛び込んだ。
「奴ら、遂にやりやがったな!」私は咄嗟に思った。
オサマ・ビン・ラーディンの仕業と私は確信した。アルカイダは1990年代中盤に米国に対し宣戦布告していた。この集団は1998年、アフリカの米国大使館を攻撃し200名以上を殺害、又、米艦UUSコールを給油中に襲撃し乗組員18名を殺めた。我が国の情報組織は、イスラム系テロリストのネットワークが、過激イスラム派のタリバン政府に保護され、アフガニスタンで勢力拡大していることを把握していた。一瞬、我が軍と情報機関の手抜かりが我が国を貶めるに至ったのだと私は思い当たった。然し、この考えを私は無理やり頭から払拭した。そして、基地の駐車場定位置に車を止める時迄には、私は彼らを地獄の果て――この場合はアフガニスタンの果て――迄も追い詰める方法を思念していた。1979年以来、幾度も中東勤務を繰り返した私は、この戦いが長期戦になると確信出来た。又、一部、偏向した者達が主張した「米国は攻撃されたことで国民が臆病になる」との考えが、見当違いであること丈は、何としても世に証せねばならぬと心に誓ったのだった。
9/11、アルカイダはトウィン・タワービル2棟を崩壊させ、91ケ国の罪なき民間人3,000人を殺害、6,000人を負傷させ、テロ行為はニューヨーク市、ペンシルバニア州、そしてワシントン州に同時多発した。ジョージ・W.ブッシュ大統領とドナルド・ラムズフェルド国防長官は直ちに報復を実施、CIA工作員と陸軍特殊部隊に対し、アフガニスタン北部の同盟勢力との連携を図って、無防備だったタリバンとアルカイダ軍勢への空爆を命じた。
私は、自らが海兵隊を率い戦闘へ赴くのだと思っていたが、一方、それには相当の説得努力を必要とすることも想定していた。トミー・フランクス将軍は、海兵隊の協力申し出を却下、その理由を彼はスタッフにこう説明した。「敵の畜生共は明らかに内陸地に依拠している。従い、海兵隊の海浜上陸能力は今回お呼びでない」と。確かに、海洋から400マイル内陸に位置するアフガニスタンの場合、海兵隊の出番がないと中央軍司令部内の相当数の幹部は認識していた。実際、中央軍作戦担当者の一人は「海上からの侵入経路がない為、航空機を導入する以外の手段がなく、そして、然る後には、陸軍を投入することになる。従い、我々は、海兵隊起用を、少なくとも初期段階で考慮することがなかった」と語っている。
然し、この考えは紛れもなく、既成観念に捕らわれた、時代遅れの典型例と云えた。海兵隊は何も海浜に寄せた船舶から上陸を仕掛ける丈が能ではない。我が隊は長距離航続と空中給油が可能なヘリと輸送機を備える。つまり、我々は、命令一下、即座に遥々(はるばる)遠征を敢行、前方展開出来る戦力を有し、更に自己部隊完結型の編成を以って戦闘可能なのだ。
私はその一ケ月前に、奇しくも、ぺデルトン基地で第一海兵隊旅団の指揮を任され、この時は、折しも、例年実施される「ブライト・スター」と名付けられた多国籍軍演習に参加する為、エジプトへの発進を計画する最中だった。当時、我が国は既に戦争状態にあったものの、十数カ国の友好国との合同軍事訓練を実施し、各国軍と我が軍との緊密な連携を維持して置くことは極めて重要だったのだ。
エジプトの砂漠に到着した私は、故郷に帰って来たような思いに捕らわれた。当時、私は、うだるような暑さと、窮屈で禁欲的な条件下で生活することに順応していたのだ。我が海兵隊は、他の8ケ国からの兵士達と共に、広大な敷地にテントを張り、ポリウッド制の仮設事務所を共有し、共に蠅に悩まされた。この演習は筋書きが完全に用意されたもので、訓練を通じ参加諸国の結束を政治的に威示することに重きが置かれていた。従い、私とスタッフが我が軍の役割行動を事前に頭に入れて仕舞った後は、私はアフガニスタン情勢を分析する為の時間を十分確保できた。
私は、若い兵士達に刺激を与え、勇気付けるのが好きだった。其処から常に自身も学ぶ処があるのだ。それに加え、スタッフ会議の場で、兵長からの当日の辛口講評を私が伝える際に、彼らが見せる困り顔を楽しんでもいたのだった。裏を返せば、組織内の最若手と気さくな話が出来なければ、指揮官と彼らとの距離は開いてしまう。
「おい、君、調子はどうかね?」と声を掛かけ、
「ハイ! 気分は最高、正に絶好調であります…」と云った、お決まりの返答は私には食い足りない。こんな場合、私は決まってこう云った。
「それは違う。そんな筈がないのはお互い百も承知だ。我々はアルカイダを成敗したくてうずうずしているのに、意味もなく此処(ここ)に足止めを食っているのだ。遠慮はいらぬ、私に出来ることがあれば何でも率直に云い給え」
それから暫くして、ある時、他諸国の兵士達と共同使用する仮設トイレに就いての陳情が来た。その国では、紙を使わず手で拭うと云う、我々から見れば、非衛生的習慣があった。これに対処すべく、私は80マイル離れた都市アレキサンドリアへ直ちに軍曹を派遣した。彼はトラックにトイレットペーパーを満載して帰還し、大歓声の湧く中、兵士達にロールを一巻づつ配布した。日常生活の必需品が士気に重大な影響を及ぼす場合も時としてあるのだった。
又、指揮官は、部隊に迫る危険を常に警戒する見張り番の役を帯びることを忘れてはならない。私は、配下の海兵隊に常時実弾の携帯を命じていたが、これに対し、ある上級幹部は苛立ちを隠さなかった。実弾携行は禁止事項で、私の措置は常軌を逸すると、彼は公然と非難した。1983年、ベイルートの海兵隊宿舎爆破テロ事件(*)で、子息達を亡くした7世帯の遺族達の悲しみを目の当たりにした私は、以降、海兵隊員は自身の安全確保に自ら責任を負うべしとの方針に固執した。爾来、我が隊は常に実弾を携行して来た。当時、9/11から苟も1ケ月経過したばかりの時期だったにも拘わらず、我が身の自衛手段確保を正当化するのに、斯くも大騒ぎが生じること自体、私には大きな驚きであった。
*訳者注:1983年10月23日、レバノンのベイルートに駐屯する、米国海兵隊の宿舎がテロ攻撃を受け、兵士241名が死亡した事件(爆薬を積載したトラックが突入、自爆し4階建宿舎が全壊)。イスラム過激化による犯行で、当時のイラン関与が濃厚とされた。
然し、皮肉なことに、やはり世にマーフィーの法則が存在する。すったもんだを経て、我が隊がようやく実弾を携行し出動したその当日、2名の海兵隊員が不注意にも実弾を発射する事故が起きた。幸い負傷者は出なかったものの、当然、上層幹部の大激怒を買った。此処で再び、直ちに全海兵隊に対し実弾返納が命ぜらた。それでも、私は、丸腰でいることが馬鹿げていると主張し通して、屈しなかった。
問題の二名の下士官は一階級降格処分となった。この二名の不注意な行動により、4万人の全海兵隊員の信念に対し、上層部から疑いの目を持たれるに至ったのだ。次回以降の任務では、最早、海兵隊に実弾携行が許されることはなく、これに優る屈辱はなかった。然し、これが本件の顛末だ。
演習が開始されると、私は、友人で海兵隊の中東地域を管轄する、ジョン・グラッド・キャステロー少将と共にカモフラージュ・ネットの下で、アルカイダと戦う方法に就いて語り合う時間を持てた。我々海兵隊は、2連隊による洋上兵力を小規模の幕僚スタッフを伴い、北アラビア海に展開出来るのではないか、と彼は憶測を述べた。彼の言葉から私には考えが閃いた。自分の野営テントへ戻った私は、直ちに、スタッフへアフガニスタン内に我々が上陸可能な遠隔地を特定するよう命じ、その後再び、訓練指揮にへと取って返した。
演習を終えると、バハレーンへ直ちに飛べとの指令が私を待っていた。同地はペルシャ湾沿岸の小さな島嶼国だが、1940年代以降、常に米国を支援しつつ、国土面積とは不釣り合いな程の強い影響力を定常的に行使していた。2001年当時、米国海軍第五艦隊は同国から母港提供を受け、その指揮に当たるのが、ウィリー・ムーア(三ツ星)中将だった。私は、バハレーン到着次第、彼に伴われ一旦ホテルにチェックインしたが、その夜遅くに彼の執務室へ呼び出された。彼は、事務所の壁に貼られた地図を指し示し乍ら、タリバンとアルカイダ勢力は目下アフガニスタン北部で米国による殲滅攻撃を受けている現況を説明した。CIAと特殊部隊は北部領域でアフガニスタン人諸部族と共に駐軍していたのだった。
ウィリー・ムーアは十分な下調べを積んでいた。彼が語るには、アフガニスタンの南半分は依然タリバンの巣窟で、米国が北部へ空爆実施することで、タリバンは一層南部へ追いやられていた。首都カブールは過去500年の歴史上、防衛に成功した験しのない都市だ。従って、ウィリーはタリバン勢力が何処へ向かうかを心得ていた。即ち、カンダハールだ。同市はアフガニスタン第二の都市であることに加え、タリバンにとって精神上の聖なる都市だった。我々の見積もりに依れば、数万人のタリバン戦闘員達が7~8つの村落へ散って退却し、今後更に南部を目指し逃れていくだろう。彼らの指導者である、ムラー・オマールは、其処に暮らす人口200万人のパシュート人の中に身を紛らせていた。冬が近づくに連れ、タリバン勢力がこの地域に結集し始めた事態は、もし米軍が爆撃を敢行すれば200万の市民が巻き添えになる危険を意味した。かと云って、攻撃を先延べすれば、オマールに対し、春の訪れ迄に頑強な防衛線を構築する余地を与えてしまう。其処で第二の前線を新たに作り出し、その事態を防ごうと思い描いたのがウィリーの策略だった。
カンダハールは、ウィリー・ムーアの攻撃部隊からは一千マイルを隔て、遥か北東の広大な砂漠とバラキスタン山脈の果てに位置した。更に、一層事態を複雑にしたのが、北アラビア海と陸地に囲まれるアフガニスタンとの間に、横たわるように位置する、パキスタンの存在だった。
それにも拘わらず、ウィリー・ムーアは、万里の距離にも幾万の敵にも怯まない戦士で、更に、上層部からの指示を待つような玉ではなかった。他の者達には障害としか映らない事態の中に、彼は寧ろ機会を見出す男だった。
これに関連し、ナポレオンは彼の回顧録に記す。「地形を一目見て戦略が閃くのは天賦の才で、別名“瞬時の喝破力”と呼ばれ、偉大な将軍達が皆、産まれ持って備えた特徴だ」と。
又、クラウビッツも「指揮官の“瞬時の喝破力”が肝心なり」と、見解を同じくし、「物事を単純化し、彼の直面する戦争の全事象を完全に把握する能力こそが、優秀な将軍に欠くべからざる資質である。此処に向け精神を包括的に集中させることが出来たのならば、周囲の事象に支配されることなく、逆にそれらを自在に支配下に置くことが可能だ」と述べている。
ムーア中将はこの天賦の才に恵まれた上に、頑丈な体躯をも備えた。もし、200年前の時代に生まれたなら、片目に黒パッチで剣を手に、綱にぶら下がり船を襲う海賊のキャプテンがお似合いだったに違いない。
「君が、海兵隊を率いて…」と彼は切り出し「地中海洋上の太平洋艦隊を発進しアフガニスタンへ上陸、更にカンダハールを目指し進撃することは可能だろうか?」と尋ねた。
「勿論、出来ます。但し、計画と調整に数日が必要です」と私が応えると、彼は即座に云った。「よろしい、では直ちに準備に取り掛かり給え、私の飛行機を自由に使って必要な調整を図るのだ」
数年間に及ぶ私の海上勤務体験、そして先のエジプトでのカモフラージュ・ネット下の打ち合わせから、今回、機を敏に捉えるムーア中将との会談に至る迄、これら全ての出来事が、一機に結実を見た瞬間だった。
ムーアからの要請を受け、中央軍は彼に襲撃計画の策定を認可した。許可を受けた彼は、本来の作戦領域を、寧ろ自在に拡張した。つまり、敵にとり想定外の方角から我々が奇襲を仕掛け、タリバンを崩すことを狙ったのだ。ムーアは、彼の慧眼により瞬時にこの策を思いついたのだった。
この時、私は丁度、然るべき立場に居り、そして、機会は与えられた。栄達した軍人達が伝記で一般に強調する成功の素は、多くが奮励努力や機知、或いは不屈の精神と云ったものだ。その反面、功を為し得なかった者達が理由に挙げるのは不運や不可抗力だ。私はこの何れもが等しく真実だと思う。
9/11襲撃の後、アルカイダとアフガニスタンに依拠するタリバンが標的となった時、正に私はその任務を担う準備が出来ていた。チャーチル曰く、「誰にも人生に於いて、必ず特別な瞬間は訪れる。それは突然肩を叩くが如く、稀有なる偉業を成し遂げる機会を与えて呉れる。然も、それは唯一無二にして且つ当人の才能発揮に相応しい場なのだ。その機が到来した時、もし当人にその準備が整っていないか、或いは役不足だとしたら、これに優る悲劇はない。何故なら、この時こそが人生最高の輝きを放つ瞬間となり得たからだ」と。
ベトナム戦争従軍経験者達から薫陶を受けて来た私は、「この特別な瞬間」に遭遇した時、既に準備を整え「特別な成果を成し遂げる」技量を身に付けたと自負するものがあった。更に運も作用した。仮に、6ケ月前であれば、アフガニスタンへ海兵隊を率いて行く任務は、誰か別の者が当たっていたのだ。これを考え併せれば、天から与えられた使命を全うするには、機会がドアをノックした時に、正に準備万端整えて置くことこそが重要だ。
ムーア中将と打ち合わせ後、彼の執務室を出るなり、私は既に作戦概要を頭の中で把握した。我が軍は400マイルも内陸の奥地へ侵入余儀なくされる難題があった上、ウィリー・ムーアが心に描いた作戦は、確かに基本原則から逸脱するものだった。但し、基本原則は、独創性を欠く者達の最後の依り処でもあるのだ。海兵隊で私が教わったのは、理論は飽く迄道標に過ぎず、それにより思索領域を狭義に束縛されてはならないことだ。重要なのは、即座に工夫し、順応し、そして、克服することだ。中将の意図を実現する為に、私はあらゆる手段を動員する覚悟だった。
我々が、最初に解決しなければならないのが、目の前に立ちはだかる、圧倒的な距離の問題だ。幸い、1950年代、先人達の先見により、海兵隊には自前のKC-130型空中給油機と、空中給油可能なリコプター部隊が既に導入されていた。更に、海軍艦船を動員することにより、我々は数千名規模の諸部隊を、数千マイルの距離をも物ともせず、海外諸基地の経由許可を主権国に求める手間なく、輸送することが出来る。然も、それはムーア中将の権限内で実施可能なのだった。
私は、海兵遠征隊(MEU)の二部隊を統合し指揮する権限を持ち、各々の部隊は、補強歩兵一大隊と、24機以上の固定翼式戦闘機とヘリコプター編隊を有し、15日間の戦闘に堪える補給物資を3隻の艦船に備蓄し広範に展開していた。私と3名のスタッフは三日間掛け、数字計算に明け暮れた――距離、天候、燃料、飛行高度、ヘリの積載重量、そして支援火器等々の見積もりだ。その結果、洋上から発艦し上陸地点迄400マイルの飛行が可能と我々は結論した。部隊能力を上回る情熱を抱くのは禁物だが、この場合、私の評価は「計算可能な危険」の範囲内に収めるべし、との原則に沿ったものだった。
私がこの計画をムーア中将に説明し終えるなり、彼は云った。
「よろしい、君がTF58部隊を指揮するのだ、艦船と上陸部隊を率いて行き給え」
第58機動部隊(TF58)は、強襲揚陸艦6隻と、時として護衛船団を伴い、4,000名以上の海兵隊員で構成された。海軍上級幹部が、一度も部下として仕えたことがない、然も海兵隊所属の私に、斯かる重大な権限を全面的に委ねるのは、並みの謙虚心からは到底なし得ない決断だ。現に、海軍艦船が海兵隊の指揮下に配置されるのは、過去二百年の歴史で初の事例だった。当然、ウィリー・ムーアは、海軍内の一部から激しい非難を浴びたが、彼は些かも動揺しなかった。彼の態度は私の心情とぴったり一致した。「雑音は気にせず、存分にやる丈だ」と。
私はムーア中将の執務室を辞した途端、彼から私に託された信頼の大きさを強く意識した。同時に、私の中に、我々が仕損じるなどと云う考えは一切浮かばなかった。海兵隊員は皆、「失敗」という単語は、その綴りすら知らない。空軍は約束を果たして呉れ、我が海兵隊員は大戦(おおいくさ)の用意を整え、我が国を攻撃し或いは、それを手助けした連中達を血祭に挙げる準備が出来たことを、私は確信した。私が次に為すべき喫緊の仕事は、我が海兵隊員達を、海を越えタリバン勢力の背面へと上陸させる手配だった。
ムーア中将の執務室から出た私は、偶然、友人のボブ・ハワード海軍大佐に出くわした。彼の率いるSEAL部隊は、目下空輸能力の不足から戦線に参加出来ず、バハレーンに滞留していた。丸刈り頭に筋骨隆々の体格をしたボブは、正に絵に描いたようなSEAL兵士だ。彼は子供の頃イランに住んだ経験からファルシ語に堪能な上、中東に関し百科事典並みに精通する男だ。
彼が狡猾で好戦的な一方、柔軟性を備え、更に垂範率先型指導者であることを、私はよく知っていた。私は手を差し伸べて云った「いよいよ戦闘開始だ。飛行機は確保した。一緒に行こう!」
我々は握手を交わし盟約を結び、その後この関係は数十年間続くことになるのだった。
陸軍少将デル・デイリー率いる統合特殊作戦部隊が、既にアフガニスタン南部へ攻撃を開始していた。ここ数週間に亘り、北アラビア海上に展開した空母USSキティーホークの艦上から小部隊を発進させアフガニスタン南部地域への攻撃を繰り返すのが彼の主たる行動だった。部隊は目標まで遠く遥かな距離を困難な諸条件下に飛行余儀なくされ、この遠隔移動こそが、彼の作戦の速度と効果を制約する要因だった。この為、デルと私が面会し打ち合わせ開始した途端、彼は、TF58部隊がアフガニスタン南部に上陸することを強く支持した。前線基地を確保出来れば、デルと彼の部隊は遥かに柔軟性に富む機動力を持てるのだ。私が到着する数週間前に、彼の配下の突撃部隊が、カンダハール郊外90マイルに飛び地のように存する、ライノと呼ばれる、野上滑走路へ激しい夜襲を掛けたことがあった。デルは、其処を前線基地とすべく、海兵隊を上陸させるよう私に勧めた。我々がその拠点を制圧すれば、彼の特殊作戦部隊と我が海兵隊とは、それを起点に全方位への攻撃が可能となる。実戦で敵と矛を交えた者丈が本当に相手のことが判る。デルは既に彼らと交戦を経験し、ライノが最適地と直感したのだ。そしてこの地を、私は上陸目標とし、斯くしてムーア中将の作戦構想が具体的に始動開始した。
次に、私はサウジ・アラビアの空軍基地に立ち寄った。目的は、空軍中将マイケル・モーズリーと面談する為で、彼は中東とアフガニスタンに於ける空軍作戦の総指揮官だった。私が計画概要を説明し終えると、彼は黙って地図上のマイル距離を定規で測った。彼は顔を上げると、「本気でこれをやるつもりかね」と尋ねた。
私は「その通りだ」と云った。
すると、彼は、テーブルに広げていた地図を私の方へ押し戻し乍ら、こう加えた。
「君の部隊がもし窮地に陥った際は、戦闘機を必要な丈、君らの頭上へ飛ばして援護しよう」
この男の度量から慮り、彼がそれを実行することに間違いなかった。
又、この作戦で、私は攻撃隊に迫撃砲を携行させない決断をした。私にとり、これは生涯初の異例な判断で、と云うのも教科書には、上陸攻撃に於いて上陸地に砲火器を設置することが、24時間休まずハイテンポに作戦進行させる為の鉄則だと正しく指摘されているからだ。然し、ヘリ攻撃部隊が投入される点、敵が与える脅威の度合、及び空軍による援護が期待できる状況等を勘案した結果、砲火器を不帯同とすることに合理性があると私は確信したのだった。今回の場合に限っては、迫撃砲等を追って搬入することで上陸基地の増強を図る対応とした。
然し、最後の難題が、パキスタン上空を通過する手立てを考えることだった。ムーア中将の飛行機を借り、私は同国首都のイスラマバードへ飛び、我が国外交官達とパキスタン軍部への接触を試みた。
「あら、海兵隊の兵隊さんが此処へ何しに来たのかしら?」
ウェンディ・チャンバリン大使は、私が彼女の執務室へ入るなり、そう尋ねた。
「実は大使..」と私は言葉を継ぎ「親友達を数千人程連れて、アフガニスタンに居る、ある男を殺しに来たのです」と応えると、彼女は笑って「それならば、お手伝いできそうだわ」と快諾して呉れた。この時程、私が外交官の力を直接思い知った試はなかった。
我が部隊は、アフガニスタンに依拠するアルカイダとその同盟諸組織を攻撃する為、パキスタン領空を通過する必要があった。チャンバリン大使は極めて有能な外交官で、この目的に適うよう、急所を申し分なく押えた伝手(つて)を紹介して呉れた。
斯くして、パキスタン軍作戦部長、ファルーク・アーメド・カーン少将と私との面談が実現する。当時、パキスタンは、東部地域で印度との紛争を長年に亘り幾度となく繰り返す状況だった。パキスタンは二正面に敵を構えぬよう、西部国境を接するアフガニスタンからの脅威回避に重きを置いたので、如何なるカブール政府を相手としても、常に梃子の力を優位に利用することを国家方針とした。
然し、困ったことに、タリバン政府は今やアルカイダを匿っている。更に、タリバンは、彼らが匿うアルカイダ組織の戦闘部隊と絶縁する気など更々ない。
そんな中で、カーン少将は、彼らがこれ迄、妥協により関係維持を図ってきたタリバンを相手に、この私が攻撃を加えようとしていることも十分察していた。
会談では、彼は私と会うなり、数十年に亘る米国外交方針に対する山のような不満をぶちまけ始めた。私は辛抱強く聞き手に徹した。実際、パキスタンと米国との関係は双方共に失望の連続で、互いへの不信感丈が募っていたのだった。
ファルーク少将が云い終えるのを待って、私は初めて口を開きこう伝えた。「将軍、私は外交官ではありません。アフガニスタンへ行くつもりです。助力を頂けるか否かそれが知りたいのです」
するとファルークは理解を示し、以降、我々は本題の協議に入った。彼は、我々がパキスタン領空を通過するのを承知した。我々の出撃は2段構えで、第一次攻撃は空中給油が可能なヘリコプター部隊が侵入しライノを確保、その間に、補強部隊が時間差で出発し、この第二陣が再びパキスタンを横切りライノ迄飛行すると云う計画だった。
主導権を握ることによって、指揮官は勢力均衡を破り、敵を「何らか反応をせざるを得なくなる」環境へと追い詰めることが出来る。我が隊がライノへ上陸を果たせば、その後、敵勢力が如何なる地上攻撃を試みても、友軍による航空支援によりこの拠点を守り抜くことが可能だ。換言すれば、我が軍が一度(ひとたび)この上陸地点に足を踏み入れたのならば、主要道路を支配しカンダハールを孤立させ、同地占領の準備に着手出来る訳だった。
この計画は、南北戦争時、神速の作戦行動で名を馳せた、北軍将軍ウィリアム・T. シャーマンの戦法を下敷きとした。つまり、彼は攻撃開始の前段として、敵に常に二つの脅威を与える手法を取った。この結果、南軍の将軍達は、彼らの軍勢の二分を余儀なくされる中、シャーマンが突進すれば、決定的優位を必ず得ることが出来たのだった。今回、ムーア中将も同様の戦術を考案していた。
即ち、一度(ひとたび)我が旅団がライノに拠点確保すれば、タリバンはジレンマの際に立たされる。つまり、兵力の大半を北部の防衛に張り付けた儘にするか、或いは、それらを南部へ移動し、我が軍が上陸したライノ近郊に所在するカンダハール防衛に備えるべきかで悩むと云う算段だ。
然し、これを成し遂げるには、迅速な行動を必要とした。適切な速さで決断が下された事例は歴史上、事欠かない。1943年、ダグラス・マッカーサー大将は、太平洋南西部への上陸を計画していた。彼は、南太平洋地域を統括するウィリアム・ハルゼー中将に書簡を発し、日本軍を分断する為の海軍作戦を要望した。すると、その僅か二日後に、ハルゼーは全面支援を約する返信をした。それ以降に、双方スタッフ間の細かな遣り取りなど一切無用だった。日本軍を粉砕すると云う一大目標が彼らに共有されたのだ。その他は、全て副次的な事柄だ。斯くして、意思堅固な二人の指揮官が、敵を恐怖と混沌に陥れる為に手を組んだのだった。
*訳者注:原書の付録にはマッカーサーとハルゼーの交わした、件(くだん)の書簡原文が添付されているが、ここでは割愛。
当時の先人達による広大な作戦行動に比べれば、2001年の我々のものは小規模だ。それでも、この作戦に於ける意思決定には同等な迅速性が求められた。即ち、我が軍は、敵勢が防御強化する時間を確保する前に、カンダハールへ侵攻する必要があったのだ。
この為、官僚的体質、組織面子、並びに政治上軋轢と云った次元の問題を我々は一切捨て置いた。斯くして、ほんの数日の間に、海軍大将、米国外交官、SEAL指揮官、陸軍特殊部隊将軍、 空軍大将、そして、海兵隊准将が一致し、アフガニスタン南部を最善に攻略する手法を決した。迅速な決定が行われ得たのは、互いの協力が第一との精神を共有した賜物に相違ない。協議関係者が一同握手を交わした時、互いの持ち場の成功を期し、且つ皆がそれぞれの役割を首尾よく果たす点を疑う余地は全くなかった。其処では、信頼こそが最も重要な構成要素だった。
(続く)
文責:日向陸
*尚、当ブログ翻訳文章は生成AI機能一切不使用です。
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