(訳者口上):ふた昔前「普通の女の子に戻りたい」と解散したのはキャンディーズだ。今、米国が「普通の国」に戻れば世界はどうなるか? 次期大統領選を控え、浅薄且つ無責任な予想屋的諸論評が溢れる中、日本国民が承知し置くべき啓蒙論の決定版を著者が放つ。
著者/肩書:ハル・ブランズ(Hal Brands)/ ジョンズ・ホプキンス大学国際問題大学院特別名誉教授。米シンクタンク、アメリカン・エンタープライズ研究所上席研究員。新刊『ユーラシアの世紀 ~実戦と冷戦、そして近代世界の創生~』の著者。(原題“The Eurasian Century: Hot wars, Cold Wars, and the making of the Modern World”)
(論稿主旨)
もし、米国が普通の大国になった時、世界は一体どんな景色だろう? 之は、米国が完全なる孤立主義に閉じ籠る場合を問うのではない。単に、他の多くの諸大国が為すと同様、自己中心の狭い視野で利益追及し、これ迄の歴史上に彼らが行って来たように屡々(しばしば) 搾取的手法を、米国が取る場合に何が生じるのか――即ち「米国は世界により広く資する自由な秩序を構築すると云う特別な責務を有する」との理念を自らが否定した場合を問うものだ。もし、それが実現すると、米国が80年間持続して来た同国戦略から壮大なる決別を遂げる事を意味する。然も、今や、それが強(あなが)ち奇異な見通しとも云えない状況になりつつ在る。
2016年、ドナルド・トランプは“米国第一主義”を基盤に大統領選挙に勝利した。彼が追求した姿は、超大国であり乍(なが)らも世界とは距離を取る、つまり自国利益を極大化する一方、面倒に巻き込まれるのを最小限に止める米国だ。実際、トランプの世界観を決定付けるものは「狭義に解釈した自国の利益以外、之に優先し追求する義務を米国は負わない」との信念だ。今日、トランプは再び大統領選を争う中、斯かる外交策に賛同する彼の軍団は共和党内に増加している。一方、従来掲げて来た米国流国際主義が主要諸局面で疲弊を来していると云うのも両党内の共通認識になって来た。従って、トランプ新政権、さもなくば、彼とは異なる別の大統領政権下に於いて、早晩、世界は“自国第一主義”を持続的に唱える、超大国の米国に向き合う事態が在り得るとの覚悟が必要だ。
然し、斯く変貌した米国が、国際社会から退出する訳ではない。一部の諸問題に於いては、以前にも増し、より積極的に行動するだろう。一方、国際規範の護持、気候変動緩和策も含む所謂、国際公共財の便宜提供、及び遠隔の同盟国防衛と云った問題に、米国は殆ど無関心となる。同国外交方針は原則を欠き勝ちとなり、一層ゼロサムを争い左右に振れる。広く一般に云えば、変貌した米国は、責任を担う広大な理念を全く欠いた儘、強大な権力を振い――且つ、自由秩序の追求に際しては、その恩恵は実在するが、受益者に広く等しく普及する事情に照らし、均等以上の不当な負担を辞退する事となる。
この結果は、好ましいとは云えない。つまり、普通の米国外交策から生まれるものは、結局、極めて普通の世界でしかない――即ち、より邪悪で混沌とした世界だ。“米国第一主義”はウクライナを始め、独裁者の侵略に対し脆弱な国々に致命傷となる。この結果、長らく米国覇権によって封じられていた無秩序状態が解き放たれるだろう。
一方、米国自体はそれ程悪い状態ではない――自由主義秩序は骨抜きとなり、露骨な権力が物を言う世界の中に在っても、少なくとも、尚暫くの間に限って云えば、の話だ。そして、譬え、事態が遂に完全崩壊に至った時も、それを目に見て認識する順番は、米国民達が一番最後になる。米国第一主義が極めて誘惑的なのは、それはある面、根本に於いて真実を反映している点に留意を要する。米国は最終的には、現在より遥かに無秩序な世界に身を置く事になる――但し、今からその時点に至る迄の過程に於いて、最も高価な代償支払う羽目に遭うのは、米国国民以外の人々なのだ。
通常の大国とは異質な米国
自国利益を追求するのは何処(どこ)の国も変わりないが、何を利益と見做すか、その定義は各国必ずしも一致しない。国家利益に関し伝統的概念は、自国領土、国民、財産、及び影響力の保全を重視した。然し、第二次大戦以来、多くの米国指導者及びエリート達は「米国が普通に行動する普通の国」との見解を否定。結局の処、国際諸事象を通常波動の儘に展開を委ねれば、人類、更に遠く離れた米国さえも突然恐怖の底に叩き込まれる事を、先の大戦が証したのが背景だった。
斯くして、米国の第二次大戦参入反対派が唱えた、元祖“米国第一主義”は失墜した。そして「世界で最も力を持つ米国は、“何を以って自国の利益とするか”その解釈を積極的に拡大すべき」と提唱された。処(ところ)が、其処から生まれた構想は、過去に例のない広範な領域を網羅するものになった。即ち、海外での同盟諸国結成は世界中に広がり、何千マイル離れた諸国をも防衛し、荒廃した国々を再興し、繁栄に満ちた自由な世界経済を創出し、遥か遠隔の地にも民主主義を根付かせ育成した。
それは、他の諸大国が極(ごく)普通に追及して来た、征服や露骨な搾取諸策を公式に放棄する丈(だけ)に止まらず、更にそれに替え、諸規範――即ち、不侵略、民族自主決定、及び人民の自由、等――を守護し、より平和で協調的な道を人類に提供する事を意味した。現に、1949年、ハリー・トルーマン大統領は宣言して曰く「今や米国は、全世界に対し、将来、何世代にも亘る人々の福祉の為、“神が与え賜うた責任”を全うして行くのだ」と。
この「責任」と云う言語が実は意味深長なのだ。米国の政策当局者達は、米国がより健全な世界に生きる事により、自身も恩恵を被る点を決して疑う事がなかった。然し、斯かる世界を創造する作業では、ワシントン政府が自己利益の問題を計算する際、それは、極めて包容力溢れる方式を採用する事を要した。つまり、国家利益に関して、事前の定義付けを欠いたが故に、世界で最も安全にして難攻不落の米国が、遠く離れた大陸の諸領土を巡り核戦争の危険を冒し、或いは、嘗ての仇敵達を活力ある産業大国、そして経済競合相手として再興させる事迄も、自ら責任を課す次第となった。更に云えば、国家利益に関する定義が事前に一切議論されなかった結果、共同安全保障への貢献度に関し、当事者間に劇的な不平等が生じ、同盟諸国が自国防衛費を故意に過少支出する事態をも発出させた。
事実、1960年代初め、斯かる事態を目の当たりにした、ジョン・ケディー大統領は、米国の担った役割の一つである「国際経済の安定と円滑化」に関し、次の様に苦言を呈し釘を刺す一幕も在った。即ち、曰く「之により、西側世界には利益が齎(もたら)される。然し、一体それは、米国にとって狭義の国益を犠牲とし成り立つものだ。忘れないで頂きたいのは、各国が狭隘な自国利益追求に走った結果、先の大戦で世界は大量虐殺へ追い込まれたと云う事実である。皆がこの認識に立ってこそ、我が国がより大きな視点から国際情勢構築に尽力し、その結果、我々と価値観を共有する世界中の人々に便宜を提供する事を通じ、米国々民も初めてその恩恵に浴する事が可能となるのだ」と。
一方、これより先、1952年の時点で、ディーン・アチソン国務長官は米国の責任の本質に就いて既に「指導力の様式は、その国が負う責任の形態次第で定まる」旨を述べている。即ち、曰く「米国は自国の利益に関し、決して狭義な見解に捕われる事なく、その代わり、これらを広く、そして思い遣りを以って考えるべきである」と。
米国が台頭し、輝きを放った時代
1945年以降、米国が、この“責任形態”を同国外交術に具現化し始めるや、歴史は抜本的に変じ全世界が薔薇色になった事は、誰しもが当たり前のように実感した。即ち、爆発的な経済成長が始まり、先ず米国を皮切りに、その後、世界中で生活水準が飛躍的向上を遂げ、然もこれらは米国指導力が育(はぐく)んだ安全保障と経済協力両面の環境整備による賜物だった。一部地域で戦争は継続したが、大国間戦争や、露骨な領土侵略行為は、過去の暗黒時代の遺物と化した。民主主義が西側諸国に繁栄し、更にその外の世界へ拡散した。米国安全保障網は、以前に西欧と東亜細亜を戦火の渦に陥れ、その後、尚も残り火が燻(くすぶ)る状態だった当該諸国を完全鎮火させ、これら嘗ての敵対諸国に和睦を容認し、そして、それら諸地域を従来と段違いな繁栄と平和のオアシスへと変じたのだった。人類は嘗て例を見ぬ程の満ち足りた時代を謳歌し、その時、自由主義秩序の中心に米国が座し、その秩序は次第に拡大し地球上の多くの地域を占めて行った。
それでも、「この秩序を永遠に守護すべき」との理念が、米国で完全に受け入れられていた訳では決してない。冷戦が始まった時、米国外交官のジョージ・ケナンは、米国が尚も世界の主導役として責務を負い続ける点に疑念を抱いた。又、元米国国連大使のジーン・カークパトリックは、第二次大戦が終結し、然も圧倒的な西欧側勝利だった事を受け、「平時となった今、米国は普通の国に戻れるのだ」と記述している。
カークパトリックは正しい。1945年以降、米国が請け負い、そして履行し続けて来た、その約束は、米国建国来150年の歴史に、絶えて前例ない事柄なのだ。この異常な約束は、異常な環境の故に全く発生したものと云える。つまり、米国指導者達は、危険を負ってでも大胆に国際外交諸策を追求する必要があると信じて来た。その理由は、世界を自然体で成り行きに任せた結果、人類は一世代の間に二度も悲劇的戦争破壊に直面し――更に、又、当時、冷戦到来によって三度目を繰り返し兼ねない脅威が迫っていたからだ。
又、米国がその責務を負う事が出来たのは、第二次世界大戦の結果、大雑把に云えば、同国一国が他の諸大国を全て合わせたよりも、経済と軍事の双方に於いて、より大きな力を保持するに至った為だ。斯くして、米国が有した圧倒的権勢と一方では第三次大戦への恐怖、と云う組み合わせが米国政策を形成した。然し、それを生み出した諸環境自体が、過去へと消え行く場合にも「ワシントン政府が永久に同構想を追求する義務を負う」とは、実は何処(どこ)にも明文化されていない。そして、今日、同政府がこの方針を無際限には遵守しないと見るべき諸兆候が在る。
既に、直近の大統領達は3政権連続し、皆、中東から引き揚げる事を望んだのを我々は目撃した。軍事的脅威は倍増し、国防省はユーラシア大陸内で重大な三つの脅威に同時直面する中、その安定維持に四苦八苦している。保護主義の台頭は、共和・民主両党が共に、嘗てはワシントン政府自体が世界経済振興の道具立てとし活用して来た、主要貿易諸条約を拒絶した事に見る通りだ。又、ウクライナ人救命の援助法案は、議会決断が遅々とし、何と承認に2023年後半から翌年初迄6ケ月間もの時間を要する羽目となった。そして、これら新たな雰囲気を最も如実に表すのが、トランプの抱く“米国第一主義”構想だ。
その標語は明らかに1930年代の焼き直しで、それが、トランプが屡々(しばしば)孤立主義者と呼ばれる所以(ゆえん)でもある。然し、その譬えは誤りで、彼は元祖の“孤立主義者達”と似ても似つかない。即ち、1930年代の米国第一主義者達は、米国が西欧世界を牛耳る事を好み、危険に満ちた世界に在る中、強大な防衛力保有を支持した。彼らが異を唱えたのは「ワシントン政府が広汎な世界秩序の保持に責任を負う」と云う考え、或いは「ある国が犯罪を犯した場合、譬(たと)え如何(いか)なる罪であれ、同国は米国の直接的脅威にならぬにも拘わらず、戦闘を決断する」理念に対してなのだ。
一方、トランプとこの初期の米国第一主義運動との決定的共通項は「海外に於ける米国利害の問題に関し、同国が正常な見解に立つよう回復を求める」と云う点に尽きる。トランプは、欧州や亜細亜の小国を守る為に、第三次世界大戦勃発の危険を米国が冒すべき理由が一体何処にあるかと問うている。彼は露西亜侵攻に抵抗するウクライナ支援や、中国侵攻から台湾を防御する事に対し疑念を抱き続けて来た(トランプ版“米国第一主義”は、印度太平洋をも決して例外扱いとしない。この点を否定する一部専門家達の理解は誤りだ。)トランプは、生じる費用負担に不平を云う一方、米国同盟諸国から齎(もたら)される便益を軽視する。即ち、ワシントン政府がこれ迄長く見過ごして来た、斯かる世界経済の非対称性に彼は苛立ちを隠さない。従い、「民主主義支援」や、或いは、重要ではあるものの、苟(いやしく)も正味利益確保が見通せない「“他国を侵(おか)さず”と云うが如き国際規範護持」の問題に、彼は興味を示さない。
念の為付言すると、トランプ政権下に在っても、米国は決して消極的な超大国に収まる事はない。彼が中国に貿易戦争を仕掛けたように、イランや北朝鮮との緊張を一段階高め、又、米国同盟諸国との間に生じた経済紛争に見る通り、殊(こと)自国利益の問題となれば、権力不当行使をも辞さぬ姿勢だ。一方、彼の自国利益の範疇に、これ迄、米国が権勢を張って永らく維持して来た「自由な秩序」は含まれないのだ。
米国が束縛から放たれる時、何が起こるか?
先のトランプ大統領就任期間中、“米国第一主義”が世界に如何なる影響を及ぼすか、完全な形で試されるには至らなかった。と云うのも、この目論見は、より主流派に位置したアドバイザー達がその実現を妨害し、且つ、議会で共和党内国際派の反対を受け、更にトランプ自身の無定見さも手伝い、同主義が一定程度の方針矯正を余儀なくされた為だ。然し、トランプがもし今度ホワイトハウスへ返り咲けば、上述三要因の内、最初の二つは最早、抑制機能を発しない。何故なら、目下、共和党内にトランプの掲げる思想へ傾斜する勢力が拡大中であり、加え、次期政権以降は、彼が周囲を自身に黙従する者達で固めるべき事を既に学習した為だ。そして、より重要なのは、11月大統領選挙で、トランプが勝利すると否とに拘わらず、彼の思想は、次第に米国内議論に於ける、中心的位置を占めるようになって行くと云う点だ。それ故に、米国第一主義が持続的に実地される時に生じる、同主義の輪郭とその諸帰結に関し、考察を加えるのは有意義であろう。
米国第一主義で、戦略を構成する重大要素の一つは、現在米国が担っている「世界規模の防衛力」を縮小する事に在る。それでも尚、米国は、世界に抜きん出る強大な軍事力を維持するだろう。即ち、米国はミサイル防衛システムやサイバーセキュリティ能力、及びその他、祖国防衛の諸手段に、より一層、手厚く資源を投入すると見込まれる。又、万一、市民が攻撃を受けるか、或いは、自国主権が侵害された場合には、激しく報復するだろう。その反面、米国安全保障上明らかに致命傷にはならない、遠隔諸国の生存如何の問題に関し、それらの防衛継続、並びに、米国以外の国々が、その便宜の大半を享受するような公共財の提供維持に就いては、何れも米国は最早責任を負わなくなる。斯かる事態は次のような疑問から発するものだ。即ち「ウクライナやバルト諸国を巡り、米国が対露西亜開戦の危険を背負い、或いは、南志那海上の海面に少し顏を出すだけの岩礁を巡り、米中戦争の危険を冒す価値が果たして在るだろうか?」又、「ホルムズ海峡を航行する商業船舶をホーチス勢力の攻撃から守護し、欧州向けの中国貿易振興を手助けすべき正当な理由を、米国防省が一体持つだろうか?」と。これらは、通常国家なら先ず、決して手を出さない行為なのだ。
通常国家により近づいた米国は、友好諸国の立場から見れば、より一層、物を云わぬ同盟国と映る。諸大国は、必ずしも同盟関係が神聖なものと考えて来た訳ではない。歴史上「同盟外交政治」とは常に裏切りと失望の連続だった。従い、ワシントン政府も、どんなに控え目に見積もっても、同盟関係は“血盟で結ばれた約束”として重視するよりは、“自己都合を優先し、常に見直し可能な取引条件”と見做し行動する機会が増えるだろう。つまり、同盟国を継続し防衛する見返りには、欧州諸国に対し彼等自身の防衛費大幅増額を要求し、或いは、サウジアラビアに対し、原油増産を条件付ける、と云った具合だ。さもなくば、ワシントン政府は多分、未練なく同盟関係を断ち、ユーラシアの問題はユーラシアの人々に委ね――そして、自身は、自らの孤絶した地理的優位特性、自国海上防衛の優れた統治能力、並びに侵略を牽制する為の核武装兵力を、専ら己(おのれ)の頼みとするだろう。
斯様に大陸主義が国際主義に取って代るだろう。然し、内向き志向を強めた米国と雖(いえど)も、西半球を支配する為の奮闘を続ける。つまり、ユーラシア大陸の安全保障を管理する能力を放棄した米国にとり、西半球が一層重要となるのだ。従い、“米国第一主義”は再活性化された「モンロー主義」としての特徴を持つだろう。即ち、「旧世界」の前哨基地削減を図る米国の動きは、代わりに、彼らの「新世界」に於ける影響力を守護し、又、競合他国がこの領域内に足場を築くのを阻止する為、より一層、激烈にして且つ、恐らくは手荒な諸対応をも辞さない状態の出現を予兆させるものだ。
“米国第一主義”は、経済上の観点からは、保護主義と自己中心的指向を生み出す。米国が世界経済に参画継続する点は変わらない。然し、自身が関与する負担と便益に関し、この両者均衡の劇的な見直しを追求するだろう。譬(たと)え、相手が民主主義同盟諸国であっても、自身の負担が便益を上回る非対称的で不当な事案は、最早決して許容しない。寧ろ、ワシントン政府は、自らが持つ圧倒的権勢を駆使し、主要対外諸国関係の中から、より多くの利益搾取を試みるのだ。正に、トランプ前大統領が、中国とEUに関税戦争を展開した如く、米国は同盟諸国にも、敵対国に対すると同様、高圧的になる。つまり、この背景に宿る思考は、「嘗て米国が全世界生産の半分を担った時代には、パンチを手加減する余裕もあったが、競争激化した今日の国際経済環境下には、素手で真っ向勝負の殴り合いをせざるを得ない」と云う訳だ。
米国は、自由主義秩序の中で自由に係る諸問題からは、少なからず後退する事になるだろう。即ち、トランプ政権一期目から推し量って云えるのは、遠隔に所在し、そして恐らくは米国に対し不親切な国々向けには、民主主義の拡大や人権問題に投じる資源を減少させる事だ。そして、非民主義国との間にも、露骨な損得勘定重視で取引を敢行する公算が高い。もし、トランプ政権の二期目が在るとすれば、米国が非自由主義的行動のお手本と化す可能性も否定出来ない。つまり、海外で強者への野望を抱く者達が、ホワイトハウスに住む強者願望の輩(やから)の諸戦術を模倣する事態が生じ得る。又、ワシントン政府は、 国際法や国際諸機関を軽視する可能性が在り、それは、従来の国際秩序が時として米国権力に対し、法的或いは制度上に、課して来た諸制約を緩和する狙いによるものだ。
それでは、上述の事態は、米国と競合諸国との関係に於いて何を意味するだろうか? 先ず、中国に対し、“米国第一主義”戦略は、特に貿易を巡り、継続的な摩擦を必然的に伴うだろう。米国安全保障と繁栄に直接悪影響を及ぼす独裁主義的侵害行為――例えば、イランからの攻撃によって米国市民の命が奪われるか、或いは、台湾から先端半導体供給の停止を中国が企てる、云った事態に直面する場合――緊張は一気に先鋭化するのが避けられない。
然し、米国が自由主義の価値を軽んじる政策を指向すれば、それは取りも直さず、非自由主義の指導者達にとって安心材料となり、一方、ワシントン政府は、国際規範の侵害や、米国沿岸から遥か何千マイルも離れた小国が被る弾圧、或いは北京やモスクワ、乃至イラン政府と事を構える事に対し消極的になって行く。従い、この米国外交政策下に、特定の独裁主義者達は、不都合なく自然に適合するだろう。何故ならば、米国が自身の自由主義秩序が脅かされる事態に対し防衛に乗り出す場合を例外とし、それ以外の如何なる紛争も、全ては、伝統的大国間競合の法則――即ち、富と影響力を巡り、野心に満ちた諸大国が衝突する事態――に専ら委ねられる事となるからだ。
このシナリオに於いても、米国は尚も超大国の地位を維持している。即ち、譬えワシントン政府が、西半球に対する優先度維持丈(だけ)に専念する場合でも、その影響力は他のどの国よりも大きい。米国は特定諸地域に対し、以前に比べ臆面もなく、飽くまで双方の利益追求に固執するだろう。つまり、異常な国家から普通の国に近づいた時、米国は、存在感を従前より低減させ、自国利益を従前より露骨に追及する国となる可能性が否定出来ず、この二つの特徴的組み合わせにより、世界は広範な領域で再構築される公算が大きい。
使命感なき権力の行き着く先は?
“米国第一主義”を批判する人々は、 それが世界安定の壊滅的損傷を招くと警告する。恐らく、彼らの主張は正しい。「諸問題は、何とか解決され、丸く収まる」との楽観的期待を持つ訳にいかないのは、1945年以前の世界政治史を振り返れば、明らかだ。米国主導力を以ってこそ、多くの諸悪を檻の中に封じる事が出来た。具体的には、世界制覇の企て、死活上重要な地域を巡り同胞相争う戦争、双方を窮乏化させる保護主義、及び独裁政権の優勢拡大等、嘗て世界を苦しめた諸事象である。
今日、米国の力は、1945年や1991年当時に比べ、競合国との相対比較上、弱くなった。それでも、世界が享受する秩序なるものは、今も尚、米国の権勢によって支えられている。ウクライナの人々に問うてみれば、それは明白だ。ワシントン政府からの武器、諜報、そして資金提供がなければ、彼らはとっくに露西亜に押し潰されていただろう。或いは、露西亜の脅威に対する防御を、NATOにすがっている欧州諸国に尋ねても答えは同様だ。更に、亜細亜に於いても、米国の参画なくして地域諸国による如何なる連携行動も、又、中国権力を牽制する事も不可能だ。中東では、当地に最近頻発する民間船舶襲撃例から、死活的重要な海上輸送路を守護し、イランからの諸攻撃対し地域防衛を調整し展開する能力を持つのは米国丈だと云う点を、誰もが思い知った。
斯かる傾向は、今直ちに変ずるものではない。一方、米国が抑制的であるべきと提唱する者達の言い分はこうだ。即ち、米国の影響力が減退しても、その代わり「共通の価値観を共有する諸国同士が前面に足を踏み出すだろう」と淡い期待を抱くのだ。然し、今日、露西亜と中国が大量兵器生産に励む中、その一方で、極めて多数の欧州及び亜細亜の民主主義諸国は、必要最小量能力で軍事編成を遣り繰りしようと四苦八苦する現況に鑑みると、米国の後退によって生じる真空地帯は、世界で最も攻撃的な諸国によって埋められると云うのが全うな予想だろう。
“米国第一主義”は、前線に位置する諸国にとり、十中八九、悲劇――それはウクライナを皮切りに、同様の事例が更に続発する事態――となり、その理由は、隣人からの侵攻に対抗すべく、彼らがこれ迄、超大国である米国から受けて来た、強力な支援を失う点に尽きる。そして、東欧や南志那海等を筆頭に、専制主義大国が弱小諸国に対峙する、世界の紛争危険地帯は急速に不安定化するだろう。多くの人々が、従来当たり前と思って享受した、諸規範――例えば、危害を受けずに船舶は海上を縦横に走破し商業が営まれ、又は「他国を征服するが如き行為は認められない」と云った――は、衝撃的な速度で崩れ行く。米国の庇護の下でこそ、相互協力関係を保って来た諸国は、再び、相手を猜疑の眼差しで注視し始めるだろう。秩序崩壊が進行するに連れ、ユーラシア大陸に位置する諸国は、核兵器を含む自身の防衛力強化を推進し、完全武装への道で生存の安全を図ろうとする。又、米国の影響力減退は、侵略等の悪しき所業を冒そうとする者達が払う代償を低減させる効果を生み、恐らく、世界は自然と、弱肉強食の風潮が激甚化して行く様を目撃するだろう。
一方、民主主義維持に向けた世界的取組は一層困難化し、殊(こと)、強権的独裁政権に隣接し、常に抑圧に晒されて来た、脆弱な民主諸国家に於いてそれは顕著となる。又、所謂、ポジティブ・サム(参加者全員が便益享受)に根差す国際経済システム――或いは、バイデン政権が強調する、比較的協調的と見做される「自由主義に基づく世界経済の維持」ですらさえも、万一、米国が放棄する事態となれば、其処に生じるのは重商主義と保護主義の急速な台頭だ。そして、この場合、開かれた経済と海上輸送秩序維持を、最早、米国に頼る事が出来ないと悟った各国は、自分達の諸資源と市場の緊急閉鎖に走るだろう。第二次大戦後、覇権を得た米国に他諸国が従う、パックス・アメリカーナの状態へ米国を転換させる為には、当時、異常な部類に属したその約束を、同国が背負った点は既に述べた通りだ。もし、過去に来たこの道を、改めて辿る事となれば、それは又しても、大いに苦渋を伴う旅となるのは確実だ。
米国第一主義の先に来る世界を、結局は誰もが後悔する
然し、“米国第一主義”によって醸し出される世界は、米国自身にとって、それ程悪い話ではない。つまり、1945年以降、米国が推進した外交政策の最大の皮肉は「自由主義秩序を創出したその国自身が、実は、最も同秩序を必要としない国だった」、と云うオチが付く丈だ。結局の処、米国は依然として世界最強の国家である点は変わらない。同国の恵まれた地理的要因と経済優位性は比類なきものだ。自身の政策選択が齎(もたら)す無秩序な世界の中に在っても、少なくとも当面、ワシントン政府に大過は及ばない。
ユーラシア周辺地域を巡る安全保障は劣化し、ここ数十年間の地政学的進捗はご破算となるだろうが、それでも、米国の物理的安全を直ちに脅かすような事態にはならない。思い起こせば1930年代、大半の米国人は、独逸(ドイツ)に強制併合された都市国家のダンツィヒの為に命を投げ出すのは望まなかったと同様、2020年代にナルバ(エストニア内の露西亜隣接都市)が陥落する事態を真剣に憂慮する米国人は、果たしてどれ程いるだろうか? 事程左様に、力による領土占領への回帰が、脆弱な小規模諸国にとっては悲劇になる一方、核兵器と周囲を海で守られた、大国である米国には、当面何ら不都合はないのだ。
更に、米国は、国際経済の分断化を、他の大半の諸国よりは、遥かに上手く乗り越えられるだろう。商業環境が「生存を賭した消耗戦」へと転じた時にも、比類ない米国の権勢が巨大な梃(てこ)として作用し、更に、恵まれた資源と国内巨大市場を有し、貿易依存率が相対的に低い同国は、保護主義下の国際経済に在っては比較優位を持つ国なのだ。
然し、このシナリオに於いて、米国と雖(いえど)も、真の意味で繁栄は享受出来ない。何故なら、生じる乱気流は、中東での原油供給や台湾からの半導体出荷を妨げ、世界経済に大混乱が生み出される結果、米国経済も無傷では済まないからだ。然し、他諸国が、より遥かに困難な道を歩まざるを得ない中、斯かる混沌すらも相対比較で云えば寧ろ逆に、米国を利する事になるだろう。
欧州及び東亜細亜諸国は、巨額の新規防衛投資を自身で実施余儀なくされる事に気付と共に、彼らの地域をややもすれば散り散りに分断し兼ねない、隣国との対立関係再来への対処を要する事態に見舞われる。又、中東地域の海上輸送航路の安全が瓦解すれば、同貿易経路に最も依存度が高い、欧州と亜細亜諸国に重大な影響が及ぶだろう。ワシントン政府の最大競合相手の中国ですらも、自由主義秩序が崩壊すれば甚大な損失を被る。その理由は、中国国家主席習近平は「自主独立」政策を掲げ乍らも、現実には、同策推進が、海外から調達した資源の投入と輸出市場の双方に大きく依存するからだ。
然し、最終的には、米国すらも勿論(もちろん)、高価な代償を払う羽目になる。米国の影響力が減退した後、中国が何時(いつ)しか東亜細亜を支配する場合、軍事的侵略は決して試みないにせよ、経済と外交上に米国を脅かす力を手に入れる可能性が在る。中国の影響力が世界の諸地域に拡散すれば、次第に北京政府が地政学及び地経学的優位性を増し、譬え自身の西半球の砦に籠る米国に対してすら、安全保障上の脅威を与える存在になり得るのだ。一方、保護主義と混沌から生じる国際経済摩擦は米国の経済成長の足を引っ張り、自国内には社会や政治的闘争の悪化を招く可能性が在る。そして、海外で民主主義が後退し、独裁主義が優勢化するならば、実際に1930年代にそれが生じたと同様、米国内でも極右主義的主張が勢力を得る可能性が在る。
そして、最も、たちの悪いシナリオは――歴史家ならば誰でも直ぐ判る事だが――米国が結局は、世界秩序が崩壊する事態に直面し、再度自身がその再構築を行う決断をする場合である。その際、ユーラシア大陸の諸問題はとうに制御不可能な状態に陥り、以前より遥かに劣悪な情勢を出発点としなければならない。更に、この決断に至る迄には、極めて長い年月を要するだろう。嘗て米国が第一次大戦から引き揚げた後、世界は余りにも凄まじく破壊され尽くし、ワシントン政府が再び世界への関与が已むを得ないとの判断に至る迄に、裕に一世代の時が流れたのだった。即ち、悲劇が到来し、勢力均衡が欧州と亜細亜で同時崩壊する様を目の当たりにするその時迄は、次から次と無秩序が連鎖し生じていたにも拘わらず、尚も大半の米国人は、国際的諸事象に復帰して関わるよりは、寧ろその圏外に止まることこそが得策と確信して疑わなかったのだった。米国を、眼前の世界秩序の劣化から遮蔽可能とする、先回と同じ諸要因は、今般もワシントン政府が「その秩序劣化を到底耐え難い」ものと見做す迄には、相当に長い所要時間が空費されるだろう事を意味する。 “米国第一主義”が備える魅惑と悲劇は、超大国であると云う僥倖のお陰で、自身の行った悪しき政策決定の齎(もたら)す帰結から、少なくとも一時的には、自国は遮断され得る点だ。然し、時の経過と共に、米国も自ずから“米国第一主義”世界の台頭を悔いる事になる――唯、極めて多くの他諸国が最初に同主義に悔恨の念を抱いた後に、それは遅れて訪れる丈の話しだ。
(了)
文責:日向陸生
*尚、当ブログ翻訳文章は生成AI機能一切不使用です。
= = = The end of documents = = =
コメント