責任感ある政治家は事前に計画を立てようと試みる。但し、次に到来する危機が何で、それはどのようにやって来るかを、如何に知ることが出来ようか? ましてや、現在目先の諸問題に尚も取り組んでいる最中、新な危機に備えることなど更に容易ではない。本来、人間は将来の予測が得意でない点は周知であり、又、国家に於いてもそれは似たり寄ったりだ。今月の特集記事は、この問題を掘り下げ、これらが改善可能であるかを考察する。
冒頭、議論の皮切を行うのは、ピーター・スコブリックとフィリップ・テトロック。国際政治予想に関する過去数十年間の調査を取りまとめた結果、彼らは、実に人間や政府は訓練によって予想の改善が可能だと論じる。その手法とは、一群の先入観のない思考から、多数の鋭意な質問を発し、それらの諸回答がどのようなものであれ、それらに従って行くというもので、問題なのは、そのように労力を要する会話と知的なる結果責任が求められるという点だ。
次なる論者、エルケ・ウェーバーは、それが個人であれ、集団であれ、心理状態が如何に条理を損なうかを示す。偏った認識、感情的な反応、そして思考過程の欠落によって、不十分な判断や悪しき政策が導かれるのだが、もし、我々が、自身の心理状態と意思決定過程の双方を、何かしら柵の中に囲んで制御することができれば、それらは回避することが出来ると論じる。
そして、最後に三つの問題に関し、それぞれの専門分野の第一人者達が、昨今の状況を見縊った安息は、明日の悲劇に直結し得ることを探求していく。サイバー空間の保全に就いては、マリ―チェ・シャーケが、気候変動に就いては、マイケル・オッペンハイマーが、そして、米国-中国関係に就いては、クリストファー・レインが、それぞれ論じる。
悲観論者はそもそも多くを望まない丈に、失望に陥ることもまた稀である。確かに、先のコロナウィルス感染拡大への取り組みに関し、世界が露呈したお粗末な対応ぶりから察すれば、将来、新たに来るべき様々な脅威に対し、もっと早く警鐘を発し、或いはより上手に対応がなされるとの自信を持つことなど、とてもできないというのは通り相場だろう。しかし乍ら、今こそ、楽観主義を重視したい。何故なれば同主義の者達は、個人及び組織内の自己修養の結果生じることが例証され得る、平易で、そして明白な、数々の利益を指し示すことができるし、その上で、将来の世代が十分賢明で、それらの利点を認知しそして身に着けることを期待して止まないからである。
ドワイト・アイゼンハワー米国大統領は、好んでこのような言葉を発したものだ。「計画策定というものは、物事が描いた通りに進まない点に於いて、その作業は労するに値しない。しかし、だからと云って、我々は計画立てする以外、一体、他に何が出来るというのだね。」 彼が云わんとしたのは、計画立案して行く過程の中でこそ、政治家や諸機構に対し、将来の予測、それに対する準備、及び可能性のある範囲内で生じ得る種々の筋書きの訓練がなされ、そして、これらを通じ、如何なる難題が立ちはだかろうとも、冷静沈着で、柔軟に、そして賢明に対応できる技量と胆力が鍛えられる、という事なのだ。
何れどこかの段階で、次なる大惨事は必ず訪れるだろう。それは、恐らく、既に我々が憂慮はしていても、心配の深刻度を欠いているか、或いは、まだ切羽詰まった問題として取り上げる時期ではないと考えている事柄と関連した何らかのものであるかも知れない。そして、その危機が訪れると、人々は、その時に出来る限りの対応をした挙句、きっとこう云うのだ。「止むを得ぬことだ」と。しかし、他にもやりようがある筈だ。次なる危機が、軌道を外れた隕石の衝突ででもない限りは、その対応に失した責任は天体ではなく、我々自身に帰されるべきだろう。
ギデオン・ローズ 編集長
(了)
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