著者/肩書:アルフ・ベン(Aluf Benn)/イスラエルの新聞ハアレツ紙(Haaretz)編集長
(論稿主旨)
1956年4月のある晴れた日、隻眼の、イスラエル国防軍、モーシェ・ダヤン参謀総長は、ガザ地区国境近く、当時新たに共同農場が開かれた、ナハル・オズに向け南へと車を走らせていた。その前日朝、21歳のイスラエル兵士、ロイ・ロットバーグが騎馬で同地警邏中、複数のパレスチナ人に殺害される事件が発生し、ダヤンはその葬儀に出席するのだった。遺体は犯人達によってガザ地区の反対側境界まで引き摺られ、発見された時は手足が切断された上、眼球も抉り出された状態だった。この一件によりイスラエル全土が衝撃と苦悩に包まれていた。
もし、ダヤンが現代のイスラエルで弔辞を述べたとしたなら、ロットバーグを殺害した恐ろしく残虐な犯人達の批判にその大半を費やした事だろう。処が、1950年代という特殊な環境下に在った当時、彼の追悼の辞は加害者達に著しく同情的なものだった。彼は「犯人達を非難するのは止めよう」と述べる。「彼らが8年間もの歳月をガザ難民キャンプに暮らす間、彼らやその父親達が居住していた土地と村々を、彼らの眼前で、我々イスラエル人は奪って自分のものへと変じて来たのだ」と。即ち、ダヤンは、1948年イスラエル独立戦争の勝利により、パレスチナ人の大半が土地を追われた、ナクバ(nakba、アラビア語で「悲劇」の意)にそれとなく言及したのだった。この時、行き場を失くした多くのパレスチナ人がガザ地区へ強制移住させられ、ガザ地区境界沿いの居住地域は、結局ユダ人が住む町と村へと変貌して行った。
ダヤンは、決してパレスチナ大義の支援者ではない。1950年、敵対感情が落ち着いた頃、彼は国境地帯の町アル・マジダル(現在のイスラエル、アシュケロン市)に残存したパレスチナ人社会を移設する計画を寧ろ首謀した本人だ。それでも、多くのユダヤ人達が決して受け入れようとしない事実を、ダヤンは悟っていた。即ち、「パレスチナ人達は、ナクバの悲劇を決して忘れず、又、彼らが祖国へ帰還するのを決して諦める訳はない」と。彼は弔辞で「我々の周囲に住む何十万人ものアラブ人達は、彼らの生涯に亘り、我々に対する激しい憎しみを燃やし、そして充満させていると云う実態から、我々は目を背けてはならぬ」と注意を促した。そして曰く、「これは我々の命を賭けた選択なのだ。即ち、少しでも油断すれば、我々の手から剣が奪われ、我々自身に打ち下ろされるだろう。そうならぬよう、強固な意志を以って備え、強力に防備を整えねばならぬのだ」と。
10月7日、ダヤンの長年の忠告は、想像を絶する最悪の流血惨事として現実のものとなった。ガザ地区のハマス最高幹部ヤヒル・シンワルの立案した巧みな計画に従い、パレスチナ武装勢力が、ガザ地区境界線沿いのイスラエル領地、30ケ所以上の地点を侵略した。幹部のシンワルは、先述、アル・マジダルの地から強制退去させられた家族の下に生まれた人物である。この奇襲作戦は図に当たり、彼らはイスラエルの薄い防衛線を乗り越えて侵攻し、音楽祭最中の会場、小さな町々、及び20ケ所以上の集団農場を急襲した。1200名以上の市民と兵士が殺害され、200名を超える人々が人質として捕われた。彼らは、レイプ、強奪、そして放火し、略奪を恣(ほしいまま)に働いた。つまり、ダヤンが自らの手で設置した、難民キャンプの中に嘗て暮らした住人の子孫達は、ダヤンが弔辞で述べた通り、先人達と同様の嫌悪と憎悪を充満させつつ、更に、当時より一層近代的火器で武装し、十分な訓練を積み、組織化された上で、遂に今般、復讐に帰って来たのだった。
10月7日はイスラエル史上最悪の惨事だった。それは、イスラエル在住の全ての人々並びに同国に係わる人々にとって、国家的にも且つ個人的にも重大な転換点と位置付けられる。ハマスの奇襲防止にしくじったイスラエル軍は、圧倒的兵力を投入して対抗し、何千人ものパレスチナ人を殺害し、ガザの全ての町を徹底的に破壊する挙に出た。然し、イスラエル空軍パイロットが如何に爆弾を投下し、特殊部隊がハマスのトンネル網を水没させた処で、イスラエル政府は、今回の奇襲を生んだパレスチナ人の憎悪や、再発を防ぐ手立てが何であるかを認識していない。これらに関し政府が沈黙を守っている背景は、イスラエル国首相ベンヤミン・ネタニヤフの指令によるもので、彼が戦後の構想や秩序を提示する事を強く拒んでいるからだ。ネタニヤフは“ハマス殲滅”を約したが、武力攻撃以外に同グループを排除する戦略は何ら打ち出す事はなく、ハマスに替え、戦後ガザ地区の統治を事実上如何に行うかに就いて明確な見通しも見えない。
斯様に、彼が有効な戦略を打ち出せないのは何も偶然ではない。彼の行動が極右派連立政権を維持する為に政治上都合よく設計されたものである点も、又、然りだ。現実には、イスラエル国家が平和裏に暮らす為には、遂にパレスチナ人との何等かの合意に至るのを必須とする事態に直面している。処が、斯かる合意こそが、ネタニヤフにとっては、彼のこれ迄の全経歴を賭して、異を唱え続けて来たものなのだ。即ち、彼は、首相として同国最長の在職期間を、パレスチナ国家建設運動を徐々に弱め妨害する目的に対し全てを捧げて来た男なのだ。そして、彼はイスラエル国民に対し、同国が平和なしに繁栄出来ると請け合った。つまり、イスラエルは国内に、或いは国際的に極僅かの費用を払う丈でパレスチナ人の土地を永続的に支配可能だとの考えを国民に納得させたのだった。然し、10.7の出来事の後、此の期(ご)に及びネタニヤフは尚も、この主張を変えていない。ネタニヤフは、「戦争後も、ガザ周囲には安全維持の為の境界線が維持される」と語った丈だが、実は之は、境界に沿った警戒線の設置により、唯でさえ僅かに限られたパレスチナの土地を大きく削り取る事態を意味し、長期占領策の意図が見え透ける婉曲表現に過ぎない。
然し、イスラエルは、最早従来路線を走り続けるのは困難だ。10.7の攻撃により、国民に対するネタニヤフの約束は空手形だったと証された。一方、和平交渉が行き詰まり、当件に対する周辺諸国の興味が薄れ行く中にも拘わらず、パレスチナ人達は彼らの信念を心に抱き続けて来た。即ち、10.7のハマス奇襲で、侵略者達が境界線を越え集団農場を襲撃する際、「此処は俺達の土地だ!」と口々に叫びながらその行為に及ぶ様を、ハマス側のボディーカメラ映像が捉えていたのだ。斯くして、シンワルの思惑通り、徳義に悖るこの戦闘は「抵抗運動の行為」である如くに公けに流布され、襲撃者達の動機が個人的にはイスラエルによって惹き起こされた“ナクバの悲劇”に少なくとも一因が在る点を、白日の本に晒す結果となった。前出ハマス指導者のシンワルはイスラエルの刑務所に22年間服役した経歴を持つ。収監中、彼は囚人仲間に対し「我が家族が自分達の村に帰る為には、イスラエルを倒さなければならない」と常に語り続けていたと云われる(その後捕虜交換で彼は出所)。
10.7はイスラエル人への強烈なトラウマとなり、パレスチナ人との紛争はイスラエルの共通価値観に関わると共に、彼らの生活の安寧を脅かす重大問題であると再度思い知らされたのだった。即ち、この紛争は、最早無視する事も避けて通る事も許されない問題であり、更に、ウエストバンクでは、イスラエル人入植を拡大し乍ら占領を継続し、ガザでは包囲網を敷く一方、領土問題で一切の妥協を拒む(更にパレスチナ人の人権さえも認めない)イスラエル側の姿勢は、同国の安全保障を危うくするものだと、イスラエル人は漸く悟ったのだ。それにも拘わらず、イスラエルがこの戦争の爪痕から回復し、従来路線を変更する事は極めて困難だと云わざるを得ない。それは、ネタニヤフがパレスチナとの紛争解決を望まないのが理由ではない。
実は、この戦争は、恐らくイスラエルが折しも同国史上に最も分断された状況に在るその瞬間に勃発したと云えるのだ。即ち、ハマスの奇襲に至る迄この数年間、ネタニヤフは民主主義的諸機構を徐々に弱体化し、ユダヤ教信奉の国粋主義専制国家への変貌を目指していた。その結果、国内は既に分裂状態に陥っていた。つまり、彼の法案と改革諸案は、今次戦争以前の時点で、広汎な民衆抗議行動と反対意見を惹き起こし国内が分断される脅威を生起したのだ。従って、譬え同紛争が終結した後にも、この断絶は繰り返し息を吹き返すだろう。実際には、ネタニヤフの政治生命存続を巡る闘争は、10.7以前に比べ一層激化し、同国が平和交渉を追求するのは一層困難になる事が懸念されるのだ。
然し、ネタニヤフ首相の進退如何に拘わらず、イスラエル国家がパレスチナ人と問題解決に向け真剣な対話を持つ見込みは殆どない。理由は、イスラエル世論が既に全体的に右傾化してしまった為だ。更に、米国は重要な大統領選で次第に手一杯になり、近い将来、有効な平和工程を再度軌道に乗せる力も無ければその動機も働かなくなるだろう。
10.7が転換地点であるのは確かだが、それを何に向けた転換点とするかはイスラエル国民次第だ。彼らが、冒頭触れたダイアンの警告を衷心受け入れる場合には、同国内の分断も解消され、平和とパレスチナ人との尊厳ある共存への道筋も描く事は可能な筈だ。然し、現状を見る限りは、イスラエル人達は同胞内に相争い乍ら、パレスチナ占領を永続させる構えだ。之より察するに、10.7はイスラエル史上、暗黒の時代の始まりと位置付けられ、暴力行為が更に拡大するだろう。先の奇襲攻撃は一回限りで収束する出来事ではない。更に厄介な事態が生じる前兆なのだ。
(次章以下 順次翻訳予定)
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