著者:ダニエル・アラン (Danielle Allen) James Bryant Conant University 教授(他の諸役職記載省略)
新型コロナウィルスが米国に上陸した時、それは当国経済、社会、及び立憲民主主体制に襲いかかったが、これらの分野はそもそも根本的に無防備な状態であった。事の重大さが判明してきた時には、我が国はウィルスに対抗する為に必要な対策を実行することが叶わなかった。即ち、大規模な陽性検査計画並びに感染経路追跡の実行であり、本来、これらによってウィルスを抑制し、そして経済活動を回転維持することができた筈であった。
2008年の金融危機では、世界中の金融市場がどのように連関しているのかに就いて、諸国が認識していなかった諸処の盲点が暴露された。丁度それと同様に、2020年、年初3ケ月の間には、今回ウィルスによる疾病、即ち、死者発生と封鎖措置に起因する経済的打撃という甚大な被害を伴ったコロナ(covit-19)による感染拡大が、正に文字通り国際化によって引き起こされる伝播というものに対しては、米国が脆弱であったかという点が明らかにされたのである。どこで間違えたのだろうか。
多くの人々が米国連邦制度を非難した。その論拠は、50の州に重要な権限を譲り渡している権限分散型の政府では、迅速に拡散するコロナウィルスには太刀打ちできないというものだ。この見解の支持者達は、感染拡大に対する中国の迅速な対応こそが、危機下に於ける政策決定の見本であると指摘し、そして中央集権化された独裁政権だけが、十分に、素早くそして無慈悲に行動を取り得るのだと論じる。
しかし、連邦主義制度自体が、米国が迅速且つ有効な諸対応を実施することを阻害した要因ではない。問題はその運用面にあったのだ。トランプ大統領は、民衆を啓蒙するという彼の重要な職務を怠った点で非難に当然値するものの、一方、彼は、人々から孤立し他とは全く無縁の状態で行動を取った訳ではなかった点は留意しなければならない。寧ろ、米国民主主義が構造上は申し分なく装備されておるにも拘わらず、共通の目的を見出す能力という点で道を踏み誤ってしまったということが、今回のウィルスによって暴露された点こそが重要なのだ。
連邦主義の欠陥は何か
米国憲法を設計者達が起草した時、彼らは意識的に連邦制度に基づく政府を選択したのだ。異なる機能は、異なる階層で取り扱われるべきとの認識に立ち、彼らは、ある責任を国家階層に割り当て、その他のものは下部階層へと下して任せ、その一方で、国の政府に対しては、州どうしの間の調和を保つという責務を与えた。コロナウィルスの環境下にあって、この制度は財産でこそあれ、決して負の遺産ではない。この仕組みこそが、米国合衆国が正に必要とするものを、状況に適合した対策を以って対応することを可能にする柔軟性と能力を提供するのだ。例えば、コロナウィルスが発症していない地方地域に於いては、数千の感染件数を抱える都市部が求めると同様の対策は必要ないといった具合に現場に応じ適する対応は異なるのだ。
世界の他の地域では、米国の如き大国に比較し、人口のより少ない区域に於いて、感染拡大は最も容易に抑えることができた。即ち、中国に於いては、感染拡大源である武漢と周辺諸市を特定して封鎖することによってウィルスを封じ込めた。香港、ニュージーランド、シンガポール、及び台湾のように比較的人口の少ない島嶼国家は今回のウィルスを特に上手くかわした。アイスランドも上手に対応し、4月11日までに、同国人口35万人の内10%に対し検査が実施された。イタリアの町ヴォー(Vo)に至っては、住人3000人全員を検査し、2週間以内でコロナウィルス(covit-19)を根絶させたのだ。つまり、統治領域が小さければ小さい程、検査を展開することは容易と云える。
なぜそうなのか。一つの大きな要因は、ウィルスが社会生活網(social networks)を通じて拡散することだ。従って、感染防止に対する取組みに就いては、既存の社会構造を考慮に入れつつ行う施策は、それらを考慮しないものより上手く機能する。これに就いては、シンガポールと韓国とで、如何に対応が異なったかを思い起こして頂きたい。
シンガポールは、移民者居住域内に於ける彼らの社会生活網に関し無知であった為、政府は、これら移民社会内での検査とウィルス拡散の追跡調査を十分に行うことが出来ず、移民労働者内での感染拡大を契機として、遂にはコロナ(covit-19)の爆発的感染拡大を体験する結果となった。これと対照的に、韓国では、ある大手教会の一人の信者が検査で陽性と判明すると、政府は拡大防止の為、集会に集まった人達全員へのテスト実施に素早く動いた。
ここから米国が得る教訓は、公的健康保健上の重要問題に関し判断を下す権限は、州並びに地方当局に委ねられるべきだという点だ。結局のところ、彼らこそが、地域での感染拡散の動態メカニズムを最も良く理解しているのだ。
一方、連邦政府は成功する為の条件を創出する必要がある。もし、これが小さな島嶼国家の場合には、事は比較的簡単である。というのは、この場合、政府は現場レベルに根差した政策を策定すること、加えて、それら諸政策を支援すべく国家全体の経済調整を行うこと、この双方共に自らの手でなすことができるからだ。しかし、米国合衆国の場合、例えば市政は同市の予算を通貨政策の変更によって支えたくとも、自らはこのような権限を持っていない。また、州政府ですら、戦時体制下の経済傾斜配分生産のような指揮発動権限は持っておらず、民間企業に対し、換気設備、マスク、及び検査機器などを優先生産するよう命ずることはできないのだ。唯一、連邦政府のみが、国防産業法(1950年)を根拠として、これを行うことができる。ところが、トランプは同法を発動するのに極めて緩慢で、貴重な数週間を無駄にしてしまった。
米国合衆国は、階層構造の政府になっており、感染拡大に対応する権限に就いても、上は大統領から下は群の保険事務職員に至るまで各階層の公務員に付与されている。この制度は、末端小規模に及ぶ、きめ細かい特別仕立ての政策を実行していく上で重要なのである。HIV/危機の際、公的保健諸機関によって明らかにされたように、接触者追跡調査というものは、同地域内で住民が信頼を置く人々の手によって調査が遂行される場合に最も有効である。遺憾乍ら、米国連邦政府に対する国民の不信感はここ数十年間継続して悪化しているものの、幸い、地方政府に対しての信頼は依然として厚いことが判る。即ち、2018年ギャロップ調査では、回答を得た調査対象者の内、72%もの人々が、彼らの居住する地域政府に対する信頼度は“極めて高い”或いは“満足いく”と述べているのだ。
これこそが、例えば、個人情報保護が必要な、接触者追跡調査は地方レベルで導入されるのが最も相応しい理由なのだ。もし、ある個人が接触した人全員の名前といった、取扱に注意を要する情報が、国家で集中管理するデータベースに吸い上げられる場合には、これら情報が悪用に晒される潜在的危険性は高い。といのは、如何なるシステムでも完璧なものはない事実の下、比較の問題として、国家の単一データベースに比べると、地域毎にいくつものポケットのように分散された諸データは、ハッカーや不当利得者達にとって魅力的な攻撃対象にとして選ばれる可能性が遥かに少ないのだ。従って、地域健康保健公務員達が使用する、デジタル網整備の設計に関しては、スケールメリットによるコスト削減の観点からも当然政府がその開発に於いて助言、支援行うべきであるものの、いざ、これを利用する段階に於いては、その整備網の使用は、州政府の監督の下、専ら地域権限者達の手に委ねてしまうことこそ妥当であろう。
上述したことを広く当てはめれば、米国国民は、連邦政府に対しそれがより大きな方針に集中することを期待すべきである。即ち、同政府は長期的且つ包括的な最終目的地を設定し、感染拡大に対しては、生命と経済活動の双方を救済できるよう、どのような対応が最善であるかについて、有望な実践的手法を特定していくということだ。一方、州、群、大都市、及び地方自治の各政府に対しては、もっと物事の核心に迫るよう国民は求めるべきなのだ。即ち、感染接触者の追跡調査、陽陰性検査、治療、更に一人暮らし世帯への支援等。実は、これら各々の分野に応じた対応体制自体は、実はコロナウィルスが広がるよりも、随分以前に既に出来上がってはいるのだ。米国連邦主義制度にはこのような危機に対応するに必要な要素は全て揃っていたと換言できる。これが上手く機能しなかったのは、寧ろ運営統治の面での失敗によるのだ。
行政運営能力に溝が存在する
危機に直面した際、国家の責務とは、問題を診断吟味し、そしてその解決の為に、共有された計画を明らかにしていくことを通じて人民を導くことである。これは根本的には公衆を啓蒙することだ。人々を教化することこそ、大統領の職務の中で最も重要な骨格ともなるべきものである。そして、この計画を遂行するに指導者達は、言うなれば政府という機械を稼働させ、更に政策を設定し必要な諸資源を割り当てる、という極めて実際的な作業を行う必要がある。また、政府を機械に例えたならば、国民の合意を得るということが潤滑油の役割を果たすのだ。しかし、我が国を感染拡大が襲った際に、上述した行動のいずれも全く採られることはなかったのだ。つまり、国民を啓蒙し、共通の目標の下に全国民を鼓舞する為に、最大の権限を有するところの、この男、トランプは、あろうことか、この権限を使うことを回避したのだ。
これは明らかに人災であった、が、しかし問題はそれだけに止まらない。社会を運営統治していくに当たり、市民に求められるべき義務と要求に関する米国国民の認識が、今後数十年にも亘って委縮してしまう事態が生じたのだ。実は、この問題は2016年にトランプが大統領に選出された後に、我が国を既に襲っていた。というのは、当時、選挙結果を受けて不機嫌となった米国人達は、全国から私に便りを寄越して、如何にすれば市民としての役割を果たせるか、またどの様にしたら彼らが案ずるところの価値観を擁護できるのか、を問い合わせて来たのだ。(米国護憲民主主義の歴史家、兼民主主義の政治哲学者という私の肩書は、差し詰め、市民論に関する“人生相談窓口”として世間に認識されるに十分であった訳だ)ともあれ、そこで私が驚いたことがある。何と、殆どの人々は、一体、何から始めたらいいのかが分からないのだ。つまり、彼らは、集会を呼び掛けるすべも知らなければ、仲間の米国人達を話し合いに参加させ、彼らの置かれている状況を分析診断し、そして何かしらの共通の目的を見つけ出す為の知識すら持っていなかったのだ。
感染が拡大するに連れ、国民はトランプを際限なく非難するのでなく、ここで答えを得るべき問題は何なのかとうことを、もっと問いかけるべきだったのだ。もし、そうしておれば、感染拡大に如何に対応すべきかという問題は、何も決して公衆衛生の専門家達や、経済学者達に限られた話ではないということを皆悟った筈だ。公衆衛生家は疫病と闘う術を知るものの、前例のない大きな規模で、感染判定実施を可能にする為の基盤整備や兵站手配の知識に欠ける。経済学者は、経済後退を回復させる術を知るものの、自宅待機命令に代わるものとして、疫病を抑える為に、他にどのような有効な手段があるかについては知識に欠けるのだ。二つの専門家群の中から助言を得て、その上で総合的な判断を下すことが求められる場合、どうも米国人は、いずれかの陣営に汲みしがちで、どちらか片方の陣営の単一的焦点に基づく認識を擁護しようとしてきた。米国国民は、所謂テクノクラートに対して抱く、敬意という足かせを振り解く必要があったのだ。即ち、選挙で選ばれた指導者達は、このような専門技術者達に対しては、正しい質問を問いかける過程を経ながら指導を行い、そしてこれら専門家が提言する最善な助言を考慮に入れ、その上で判断を下すべきであったのだ。
これを可能とするような瞬間が、僅かであるが3月下旬に訪れた。即ち、トランプが国民に対し、集団的在宅命令に関する以下のツイートをした時である。
「治療策が、元凶の問題よりも更に悪い問題となってはならない。」(WE CANNOT LET THE CURE BE WORSE THAN THE PROBLEM ITSELF.)
彼は正しい。これは、健康問題への取り組みに関しては、経済を冷え込ませないような、他の代替的手段を募ろうとする、本来、まさに喜ぶべき呼びかけの瞬間となるべきだったのだ。ところが、大多数の国民は彼のコメントをそのようには受け止めなかった。その代わり、大統領は疫病に戦いを挑んでいく、そのこと自体を拒絶したのだ、と人々は解釈した。
共通の目的というものは、けっして現実離れしていてはならない。それは、人々が一緒になって何かを成し遂げられるようにする為の、実際的な道具なのだ。事実、それは目的地が記された地図であり、集団的な誘導を実現させるための案内人と云える。目的を共有することは、民主主義の道具立ての中でも、特に危機下に於いては恐らく最も力強い効力を発揮するものであろう。何故なら、それは人々の間に一体感を生み出し、苦しい事柄に対しても、強権に基づいて強制されるのではなく、自発的に取り組むように仕向けるからである。ところが、今やこの道具は使われないことによって破損壊滅しつつある。
公民授業
何故、立憲民主主義及び同体制下の個人の役割に関し、我が国民の理解が劣化してしまったか。答えは恐らく、過去のもう一つの危機に遡る。米国が第二次大戦に参戦した際、枢軸国の脅威に打ち勝つべく戦時動員体制を敷いた。その試みの一環として、ドイツを負かし原子力爆弾の開発を進めるべく、マンハッタン計画を通して科学地域なるものを発動させた。これが米国社会の科学化の始まりであった。
冷戦が始まり、ソビエト連邦が1957年にスプートニック打ち上げに成功すると、米国は科学研究と所謂STEM(科学、技術、エンジニアリング、そして数学)分野への投資を増加させていった。目的は経済と軍事力の双方で世界の競争に勝ち残ることであった。そして、米国国民が1983年には思いを新たにさせられた、『国家の危機』と題する連邦政府レポートは、嘗て米国は商業、産業、技術改革、全てに於いて並び立つ者が存在しなかった立場であったが、今や世界中の競合者達に追いつかれつつあるとの内容を報じたのだ。更に最近では、2007年、米国科学アカデミー(the National Academy of Science)による「不穏な嵐の兆候を突き抜ける為に」(Rising Above the Gathering Storm)と題するレポートは「米国の経済的指導力にとり決定的に重要な科学や技術の基礎分野は、他の多くの国が力を蓄えつつある中で、逆に衰えている傾向がある」という危惧が発表された。
米国に科学が必要であることは論を待たない。技術革新は不可欠であるし、選挙で選ばれたリーダー達に助言を行う科学者も必要だ。しかし、逆に、これらが国の必要とする全て、という訳ではない。科学を解釈することができ、その上で、判断を下す場合には、より広範な要因が考慮されるように注意喚起を行える人々も必要なのだ。ところが、米国政府による科学分野に於ける教育投資の増加は、実は公民教育向けの資金が常に削減されるという側面を伴って来たきた。
1950年代には、殆どの高校は三つの異なる公民学科の授業を生徒に提供した。ところが今日では各校共、一コースだけに授業が減じられるのが一般化され、更に生徒の内15%はその一科目すら受講していない。更に何と、公民科の授業そのものすら求めていない州が11にも上るのだ。連邦政府は先述の所謂STEM分野には生徒一人当たり年間54ドルの費用を費やしているのに対し、公民教育に対するそれは、何とたったの5セントである。2018年に実施された、米国教育省が試験管理を行う国内教育実態調査によれば、8年生(eighth grades)の内、公民学科に熟達した生徒は僅か全体の24%に過ぎなかったことが判明したのだが、それは無理もなからぬことと云えよう。
更に言えば、科学教育と政治参画とは負の相関関係にあるのだ。大学生が科学科目をより多く受講すればする程、彼らの投票率は悪化し、或いはその他の普段の生活に於ける公民活動への参加が少なることが、調査によって明らかになった。過去80年にも亘り、米国は科学分野での競争強化への投資を重んじる間、公民の観点の教育を怠っていたのだ。
そのツケが現在回って来た。今日の米国で、統治術の妙技と呼べるような代物は、生命維持の分野に於けるものが精々であろう。皮肉にもトランプは、ここ数世代の内で最良の公民上の教訓を与えたとも云える。つまり、彼の弾劾裁判を廻る一連の騒ぎのお陰で、米国国民は執行権の拘束力、法制や法的機関による査定、及び憲法による戒め等々について考えざるを得ない状況となった。また、今回の感染危機下に於ける統治の失敗事例によって、多くの人々は米国連邦制度がどのように機能すべきかを、初めて学んだのであった。
我が国の護憲民主主義が将来も健全である為には、今回の危機を終焉させるに於いて、保健基盤への投資を行うことに止まらず、公民教育の復権ということも念頭に置くべきだ。即ち、学校教育では、歴史、公民、そして社会科学により多くの時間が費やされるべきである。では、如何にすればこれらの時間が捻出できるだろう。ひとつの答えは諸スポーツを削ることだ。米国では、スポーツに関し他国に比べ破格の時間と金とが継ぎ込まれている。米国人は民主主義よりフットボールが好きと見える。そこで提案しよう、今こそ、これらを見直す時だ。これは、嘗てプロフットボールのラニングバックになるのが人生最初の夢であった、この私が敢えて物申すのだ。過去には米国はこのような犠牲を受け入れてきたではないか。つまり、第二次世界大戦中には全国のフットボール及びサッカー試合が中止された。スポーツの催しは、米国人達が戦地から復員し経済活動が再開された際に、優先順の最後に位置づけられてよいものだろう。従って、今日、教育界は、スポーツから捻出される時間を用い、公民教育を倍旧に強化すべきでなのである。
今回の危機は、米国護憲民主主義が如何に壊れやすく不安定なものかを露見させた。今こそ我が国は、国内を秩序立て、そして希望や願望に関しては、何を最終的目標とするかの優先順位をつけていかねばならない。米国国民は今回の危機に対応するに必要な道具を全て備えてはいるのものの、唯一、それらを何の為に使用するか、正にその理由を欠いているのだ。つまり、共通の目的である。これを模索することから始めよう。
(了)
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