トランプ米国大統領は、誤りに至る歴史や諸傾向を顧みることが殆どない。「ここで、一体何が起こったんだ?」彼が2017年にハワイを訪問、真珠湾国立記念館(アリゾナ記念館)を訪れた際に、こう質問したと云われている。彼が歴史に注意を払う時は、歴史を訪ねるに際し、それは恰も好意的な裁判官を訪問するようなもので、同官がトランプに最優秀評価を与え、彼の正当性を立証してくれることを期待するのだ。その結果、彼は幾度となく、トランプ政権は米国史上最高の出来だ、と繰り返し主張して来た訳だ。ところが、証拠は、これは少なくとも歴史学者達は真剣に吟味するところのものであるのだが、先の見解とは異なった様相を示している。
彼が例え何時政権を去るにせよ、それが2021年か2025年の初頭、或いはその中間点の何時であっても、問題はその時の世界情勢が2016年より悪化しておろうと云うことだ。中国は、益々、権利をはっきり主張しするようになり、侵略的ですらある。ロシアは、プーチンによる永世大統領制の下、ならず者国家として鉄面皮に行動し、周辺諸国を不安定に陥れ、且つサイバー攻撃や暗殺の手段により民主主義国家に対し水面下の戦争を遂行させている。又、ブラジル、ハンガリー、フィリピン、及びサウジアラビアでは、強権を持つ統治者達の一団が出現している。また、世界はコロナウィルス感染拡大に対処すべく奮闘を続ける中、経済や社会に与える余波の甚大さを漸く理解し始めたところだ。一方、何事にも優先し、我々は最も急迫する気候変動という問題にも直面している。
これら難渋な諸環境は、全てがトランプの過失に帰されるものではないものの、彼が諸事態を悪化させたことは確かだ。独裁者達に対し甘言を以ってするのは、殊に、世界で最も強力な国家の指導者の立場を鑑みて、適切ではない。何故なら、それは独裁者達の自惚れと欲望を一層膨らませることになるからである。また、ワシントン政府の感染拡大に対する、気まぐれで混沌とした諸対応によって、米国と周辺国の人民はウイルスに
より晒される事態となり、更に米国が世界保健機構(WHO)を脱退することによって、トランプは現在の感染拡大と、そして将来起こりうる感染爆発に対する我が国の対応能力を棄損させようとしているのだ。そして、軍縮諸条約を放棄することによって、世界の危険はより増すこととなった。その上、米国の同盟諸国に対するトランプの脅しや、NATOや欧州連合(EU)に対する彼の攻撃によって、数十年間に亘り米国と同盟諸国に貢献してきた様々な絆が弱まることとなった。最後に、その損害の程を計測するのは困難乍ら、米国は、信望に基づく自国の権威を大幅に喪失してしまったのだ。
今後、来る数十年間には、新たなる冷戦が齎され、中国が嘗てのソヴィエト連邦の役柄となり、その他の世界は、どちらの陣営の側に付くか、或いは中間地帯を見出すかを余儀なくされることになるだろうか? 人類が最初の冷戦を生き残ることができた理由は、一つは、両陣営が備える莫大な量の核兵器が、実戦を交えることを抑止させたのであり、また、一つは、西側とソヴィエト陣営とが、時を経る内に、お互いと付き合うことに慣れ、ある意味、長年、不幸せな関係に甘んじるパートナーの如くに化し、そして、頻繁な協議と信頼構築の諸手段を伴った、法的規律を作り出したことだ。これから数十年の先には、中国と米国も、恐らくは、同様に、恒久平和は無理としても、彼ら自身の緊張を何とか解決して行けるだろう。ところが、今日の不安定な世界情勢というのは1910年代、乃至は1930年代のそれに酷似している。というのは、その当時、社会と経済の不安が蔓延し、国際舞台には多くの大国が犇めき合い、その中の幾らかの者は既存の秩序を覆そうとして力を注いでいた。そして、今日、中国が正に米国に対し挑むが如くに、1910年代には、当時の覇権勢力である大英帝国に対し、新興勢力の独逸、日本、そして米国が脅威を与えていたのだ。一方、新型コロナウィルスの世界的感染蔓延によって引き起こされた経済不況は、1930年代の世界恐慌を彷彿とさせるのだ。
20世紀前半の歴史が雄弁に語ることがある。それは、牽制が掛からぬか、或いは緩和がなされぬ緊張というものは、国内に過激派への傾倒、海外に紛争の招来を来たし得るということだ。
更にその歴史の示すところは、極度に高まった緊張状態に於いては、偶発事象が、恰も火薬庫に火花が生じる如くに、爆発を招くことが、もし危機の瞬間に当事諸国に賢明で有能な指導力を欠いていた場合には、特に起こり得る、ということだ。仮に、1914年6月、サラエボで、フランツ・フェルディナンド皇太子が暗殺されなかったのならば、第一次大戦は勃発しなかったかも知れない。さて、これらの諸観点から、読者は、今日、南支那海に於いて、万が一、中国と米国間で軍艦か戦闘機が遭遇する事態が起きた際、次々と起こり得る悲劇的な一連の出来事を想像することも難くないことだろう。
「歴史がそっくり繰り返されることはないが、それはしばしば似た姿でやって来る」と云った、マーク・トウェインの言葉は有名だが、これは我々を落ち着かない気持ちにさせるものだ。もし、トランプ政権を引き継ぐ次期政権が、棄損した世界を修復し、安定した国際秩序を再構築したいと考えるならば、歴史に関しては、これを、判断を決する裁判官としてではなく、寧ろ聡明なる助言者と心得て、是非とも活用すべきである。即ち、過去は、我々に対し警鐘を鳴らして呉れるのみならず、勇気づけても呉れるのだ。危機に直面しているその瞬間が、時として挽回を期す好機ということもある。例えば、30年戦争の終結が、ウェストファリアの和を齎し、それと共に国家主権を尊重する原則が同意された。又、ナポレオン戦争の直後、ウィーン会議の打ち出した解決は、過去例のない数十年間にも亘る平和を欧州に提供することになった。20世紀に於ける二つの世界大戦は、闘争に頼ることなく、協調に基づいた、安定的且つ公正なる国際秩序を確立し維持する為の、新しい諸理念と諸機構を生んだ。さて、一度、トランプ政権が終わりを告げた時には、世界各国の指導者達は、果たして、既に深刻な諸問題が一層深まって行くのを許してしまうのだろうか、或いは、国際的な平和と安定に向け尽力できるの
だろうか。
警戒を知らせる兆候が必ずある
歴史から得る知識は、突発的衝撃に対し保険の役割を提供する。世界大戦や大不況は、晴天の霹靂の如く降って湧くのではない。これらは、望ましからぬ所作に対し、以前の統制が弱まった時に発生するのだ。19世紀の欧州では、特にオーストリア、仏国、プロイセン、ロシア、そして英国の五大々国を始め、十分多くの国々が、正当な理由なき侵攻は許されぬということを信条となし、その結果、欧州は困難続きの歴史の中でも、最も長く続いた平和な期間を(1945年以降を例外として)享受することができた。
今日、トルコやロシアが斯かる規律を公然と無視し、しかも殆ど何ら制裁を受けることがない状態に於いては、彼らは一層大胆になり、また他諸国は彼らの真似をする誘惑に駆られるのである。
国際的秩序の崩壊が更に早まるか否かは、各国が、本質と見掛けの姿勢との双方に於いて、
如何に、闘争を好む政治手法に益々頼ろうとするかに依る。この場合、彼らの諸動機は、各国
の創立と同じ程に古くから存在するものだ。即ち、それらは、野望、貪欲、理想と感情、或いは、単に相手国が意図するところに対する恐怖、といったもの。そして、衝突に備えをすることや、又は、そうした振る舞いを見せるだけでも、相手国を戦闘的な態度に追い込んでいく。
もっと平穏な時代なれば、可能性として設計されたに過ぎない種々の筋書きは、在り得る諸選択肢へと格上げされ、指導者達は、彼らの計略に自由裁量の余地が狭まってく状態に気づくのだ。
第一次世界大戦中、米国と日本の双方海軍は、いつの日か両者が太平洋の覇権を競い合う日が来るものとして、その想定熟慮を開始した。1920年代及び1930年代を通じ、各々が基地建設と設備購入を進め、戦略を検討し軍事訓練を実施したのは、いつの日か双方が戦火を交えるかも知れないという予想をお互いが持っていたからに他ならない。しかし、このこと自体が、両国間の戦争を不可避にしたのではない。そうではなく、双方が相手の言動を、敵意を持つ例証と解釈することにより、単に、より戦争が起こり易いという状況にならしめたのだ。
ソヴィエト連邦が大韓航空機を1983年に撃墜した直後、同連邦の指導者達は、米国がこの事件を口実に戦争を生じせしめ、先制核攻撃によって騙し打ちを仕掛けてくるに違いないと思い込んだ。米国レーガン大統領から英国サッチャー首相への電話通話の頻度が突然増加したことすらも、更に、核攻撃準備を裏付ける証拠であると彼らには考えられたのだ。
大衆の言動も問題となる。何故なれば、それは戦争の予想を形成し、更には切望にまで発展し、指導者達ですら制御できない力を煽動していくからである。一例を挙げれば、1967年、エジプトのガマ―ル・アドベル・ナセル大統領は、恐らくイスラエルとの戦争を望んではいなかったのだが、彼の雄弁と、アラブ国民主義(彼の決断したホルムズ海峡封鎖などの)への承認が、既に緊張していた状況に火を付けたのだ。今日の中国では、学校に於ける数十年間に亘る愛国教育により、強度な国家主義的若い世代が育成され、彼らは、同国政府が世界に対し、はっきり主張することを期待するようになっている。
緊張を取り除くことは可能だが、その為に必要なのが、忍耐強い外交術、相互信頼構築、そして、妥協の、三拍子に裏打ちされた指導力である。この好事例として、1962年のキューバ・ミサイル危機、恐らく冷戦時代に於ける最も危険な瞬間、に於いて、米国ケネディー大統領とソヴィエト連邦ニキータ・フルシチョフ首相が、お互いの面子が保たれるような取引の斡旋が可能な交渉の諸窓口を、見つけ出したことが挙げられよう。不幸にして、国内の民衆や上流階級の人々は、彼ら自身の名誉や地位を国家のそれらと結び付ける為、政府の行う妥協が常に好評を博するという訳にはいかないものだ。但し、有能な指導者は、これらの障害を克服することができる。現に、ケネディーとフルシチョフは、戦争を強く主張する彼らの軍部を統制したのだ。彼らは、相当の危険を負いながらも、寧ろ互いに対話を模索する道を選択し、斯くして世界を核戦争から救ったのだ。
一方、トランプも国際政治の世界に於いて、かなり高い個人的知名度を残したとは云える。
歴史を決定づけるのにより重要なのは、個人を越えた巨大な力か、或いは特定の指導者か、という問題は、長く歴史家や国際関係の専門家達の間での論争であり、彼の政権は間違いなく、後者の見解を後押しするものである。彼は権力の座を拡声器の如くに活用した。彼の性格特性、人生経験、そして野望が、対外政策の施行に於いて大統領が行使し得る著しく大きな権限と相まって、過去4年間、米国の海外政策の殆どは、恰もプーチン大統領が、冷戦が終焉した際の、屈辱とソヴィエト連邦の消滅という記憶によって、ロシアを国際舞台に於いて再び重きをなさしめるべく決意を固めたのと同じような形で、進められたのであった。更に問題なのは、両人が偶々、共に巨大で力のある国を率いる立場であることだ。アルバニアを第二次大戦後から40年以上統治したエンヴェル・ホッジャは、アルバニア国民に対して圧政者で、バルカンの周辺諸国にとって脅威であったものの、欧州や世界の平和を脅かす存在ではなかった。一方、これとは対照的に、独逸がアドルフ・ヒットラーの手中に落ちた時、彼は世界規模の戦争を始めることができたのだ。
「黄金」時代とは呼べなかった時代
比較的安定している時代には、例え問題のある指導者達であっても、世界としては永続的な損失を伴うことなしに、彼らを受け入れることも可能である。しかし、障害となる様々な事態が同時発生する場合には、権力行使者である彼らが、壊滅的な大厄災を引き起こしてしまうことがあるのだ。この事例を見るには、僅か20世紀前半まで遡り、当時の国際関係を以下に振り返れば事は足りよう。
第一次大戦勃発前の10年間に於いては、多くの欧州諸国、多分、大多数の国々が、以前の19世紀を、満足感を以って、そしてある意味自惚れさえ帯びて回顧していた。即ち、欧州大陸は実に長い道のりを経てそこまで辿り着いたのだった。同大陸は世界の多くの地を支配し、益々増していく繁栄を謳歌し、そして平和が継続することを望んでいた。オーストリアの著述家、ステファン・ツヴァィヒは、当時を評し「安全保障の黄金時代」と呼んだ。即ち、貿易、投資、及び通信を通じ、欧州と世界は結びつきが従来にまして強まり、軍備管理や戦争作法に関する国際法や多国間協定、並びに広範に亘る熱意ある和平運動といったものが、戦争の勃発を防ぐ、確かな障壁になると考えられたのだ。
しかし、その一方で、欧州は暗い一面を持ち、実際には、国内と国際、双方の政治上に種々の問題が山積されていた。各国々内に於いて、政治上並びに階級間の鋭い分断が生じ、労働争議は増加し、しばしば暴力的な革命運動も発生、そして上流階級の人々は錯乱状態に陥る、といった状態で、これらによって、健全な政治の仕組みすらも機能することが損なわれ始めた。
民族国家主義の台頭は、多民族を抱える、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア、英国といった諸国を脅かすこととなった。一方、帝国主義の食欲は、アフリカとアジアの大半を切り取ることでも飽くことはなく、諸大国は、今度は、中国とオットーマン帝国に対し貪欲な食指を伸ばそうとしていたのだ。
これまで欧州諸大国を律してきた、行動と規範は崩れ始めた。「欧州の協調」は最早、見る影もなく、諸大国は行動を共にすることが益々困難だと考えた。1911年に、伊国が今日のリビアに侵攻した時、衰退するオットーマン帝国に対しては、何れの大国も危険な競争を仕掛けることはしない、という暗黙の約束を同国が破ったのだ。これに対し、他の諸大国は遺憾の意を表明したものの、それは細やかなものに過ぎず、彼らの行動を伴わなかったこの対応が、世間に印象付けられた。そして1912年には、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロ、及びセルビアのバルカン諸国は、欧州に残るオットーマン帝国領土を奪取する為に手を結び、しかし間もなく、その戦利品を廻り彼らの内に仲違いを生じた。そして、これに続いて起きたバルカン戦争は、同地域を越え脅威を与えることとなる。即ち、オーストリア=ハンガリー帝国はグレートセルビアを脅威と見做し、一方、ロシアは同国をオーソドックス教の弟分と見做した。この為、両大国は戦火を交える寸前に至った。もし、この戦争が起きておれば、仏国は同盟国ロシアを支援せざるを得ないと判断しただろうし、独逸はオーストリア=ハンガリー帝国の応援に駆け付けたかもしれない。現実に、一定量の好戦的な対話や脅威行動が行われた後、名ばかりの
和平が取り繕われることとなったのは、当時、独逸と英国がそれぞれの事情から全面戦争を望まなかったことがその主たる背景であった。しかし、それにも拘わらず、戦争に対する恐怖は、相互に対する不信と怨恨という有害な残留物を各国に残した。即ち、ロシアは、将来セルビアを支援することを決意し、オーストリア=ハンガリー帝国は、不俱戴天の敵と見做した国は破壊することを決心したのだった。
それでも、これら一連の危機は、この時点に於いては、戦争は、まだ、欧州政治手法の内の、ひとつの可能性の高いものであることを示すに止まっていた。更に、大陸を2大同盟に分離する仕組みは、一定の政治家達は双方陣営が抑制する効果があると想定したのだが、実はその反対であることが判明した。即ち、ロシアの場合は、国の威信の維持と同盟国を満足させる必要性に鑑みれば、セルビアに就いては、その小国が如何に無鉄砲な振る舞いをしたにせよ、同国の支援に向かわないという選択肢を採ることは困難と考えられた。独逸の指導者達は、彼らの立場として、もしオーストリア=ハンガリー帝国の支援に失敗すれば、彼らにとり唯一、頼むに足る同盟国を失うことを危惧せざるを得なかった。一方、仏国は、独逸に対する牽制の為には、ロシアとの同盟関係を維持することを熱望し、それは、ロシアとオーストリア=ハンガリー帝国との紛争に於いて、ロシア支援を意味することをも是としたのだった。
1914年までには、当事者全てが、戦争が好ましい選択だと思い始めていた。唯一、英国が例外で、同国は尚も大陸全体に飛び火する戦争が起こらないことを望み、少なくとも自国が巻き込まれるのは避けたい意向であった。また、諸政府は、軍事的行動や自国大使の本国召還といった威嚇的な対応を採ることに慣れっこになってもいた。緊張が更にもたらされることにより、欧州の海軍及び陸軍は加速度的な割合で増強されて行った。政府や個人の言動は、より過激さを増した。
独逸のウイルヘルム・カイザーは、1913年の親族の結婚式の場で、英国人の従兄のキング・ジョージ5世が堕落した仏国や、半野蛮国のロシアの肩を持ったことを激しく非難した。更に、欧州中で、新聞は憎悪を煽り、敵国の陰謀に関する恐るべき記事を報道した。大勢の欧州人は、自らはそれとは気づかない内に、精神的には戦争準備に入っていたのである。自国の軍事力への過信と、(適者生存を謳う)社会的ダーウィニズムの幅広い影響により、戦争は、国家が生存競争をなす為の、崇高で且つ必要な部分であるという信念が助長された。
そして、政府及び軍部の指導者達は、潜在的な諸敵国が、いよいよ現実の敵国へと変貌する瀬戸際であると確信したのだ。即ち、独逸軍幹部は、ロシアの近代化が急速に進んでいる為、2017年までには独逸はこの東側の隣国に対し、最早太刀打ちできなくなることを恐れた。更に、独逸指導者達は、紛争に際しては仏国がロシアの支援に駆けつけると考えていたので、独逸は2正面の戦争を戦わざるを得ないと想定した。また、ロシア軍部も同様に、オーストリア=ハンガリー帝国と独逸との2正面作戦を戦わねばならぬと覚悟した。
特定地域の紛争が大陸規模の災禍へ拡大するのを防ぐ為の機会は、軍の動員命令書に署名するか否かを究極的に判断する文民統制者達の手中にあった。しかし、実際には、これらの人々は名目的な権限者に過ぎず、従って、その責務を負うには相応しい人々ではなかったのだ。即ち、オーストリア=ハンガリー帝国、独逸、及びロシアの各政府共、皆、彼らの軍部がどのような計画を描きたいかを把握しきれていなかった。更に、嘗て軍部に対する文民統制が根強い伝統であった筈の、英国と仏国までもが、恐らくは各国政府の意図を越える線で、共同軍事行動と戦争に備えた海軍配備計画が軍部によって策定されていたのだ。
1914年の7月から8月初旬まで、平和の内にあった最後の日々の中で、欧州での衝突を回避するという責務は、益々、ごく少数の者達に圧し掛かって行くことになる。それらは、とりわけ、独逸皇帝ウィルヘルム2世、ロシア皇帝ニコラス2世、そしてオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・ヨゼフ皇帝の3人であった。彼らは、いずれも、戦争を主張する者達の圧力に抗することができなかったのだ。というのは、各々が、それぞれの事情で、皆、脆弱であった。独逸皇帝は、前回の軍事衝突では後退していたので、臆病者と呼ばれることを恐れていた。ロシア皇帝は、自身の王位とロシアの名誉のことを心配していた。そして、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝は病中にありしかも孤独で、将軍達に対抗することはできなかった。彼らは、揃って全員が、戦時動員命令書が目の前に提示された時、それらに署名したのだった。後者の2名は大戦が終了する1918年迄に死去し、ウィルヘルムは王位を失いオランダへ追放された。こうして欧州は永遠に変貌を遂げたのだ。即ち、オーストリア=ハンガリー帝国は消滅、ロシアは内戦に疲弊し、英国と仏国両国は戦勝国でありながら1914年当時に比べ極端に弱体化した。世
界的な力の均衡は移ろい、大西洋を隔ては、新たな国際的な大国が、更に、東方には、国力を増して積極的に権利を主張する日本が出現したのだ。
誤解されていた10年間の再評価
後知恵の恩恵を以って、歴史家達は1919年のパリ平和会議が失敗であり、1920年代は、圧政者達が不可避的に台頭し、そして第二次世界大戦への突入へと導かれる、一つの序幕に過ぎなかったと判断して来た。
欧州並びに世界が1919年に多くの問題に直面していたのは事実である。戦争終結後にしばしば起こるように、同盟諸国は分裂漂流し、戦勝国も敗戦国も同様に、平和条約からは彼らの正当な取分が確保されなかったと感じたのだった。独逸人は、とりわけ右派がヴェルサイユ条約を酷く嫌悪する一方、多くの仏国人は同条約が寛大に過ぎたと感じた。伊国と日本は、戦勝国側にありながら公正に遇されていないと論じ立てた。オーストリア=ハンガリー帝国を継承した諸国家、及びロシア帝国圏から派生した諸国は弱小で、経済的にも脆弱、国内は階級と人種による分断を生じ、各国お互いが言い争う傾向になり勝ちであった。これら諸国家は人種国家主義に基づいて創立された為、どの国も皆、実質上、しかもしばしば不幸な形での少数民族を抱えていた。この火の付きやすい混成状態に加え、国際的に共産主義が台頭していた。ロシアに於けるボルシェビキの勝利が世界中で革命運動のうねりを焚き付けた。仏国、独逸、及び伊国では、力を持った共産党が一層モスクワに対し忠実化し、各々自国に存在した民主的国家構造を転覆させる運動へと身を投じたのだ。
一方、後になり、一部の歴史家達は、戦争と戦争の間のあの10年間を別の観点から、即ち、ある強固な国際秩序へ向けて本当の進歩を見た時代でもある、と考察し始めた。即ち、第一次大戦は、何が誤っていたか、そして斯かる悲劇を繰り返さぬ為に何が必要かという評価を、人類に強いることにもなったのだ。国際協調の大切さは、前世紀から常に論じられてきた問題であり、既に諸国はこれに向け幾つかの確実な踏み石を打っていた。即ち、それらは、多国間協定、国際裁判所などで、更に疫病に対応する為の会議設置さえなされた。このような環境故に、1918年、米国ウッドロー・ウィルソン大統領が、新しい国際秩序として彼の考えを、有名な14箇条の表明とそれに続く諸演説で示した際には、世界中の聴衆はこれらを熱狂し受け入れ表明をしたのだった。
彼の着想に基づき、1920年に設立された国際連盟は、米国が加盟しなかったとは云え、重要な足掛かりとなった。つまり、それによって、加盟国に対し集団的安全保障を提供する国際的な組織が創出され、しかもそれは侵略者に対し、制裁や、更には戦争の行使さえ含む権限を有した。創立初期の数年間は前途有望だった。1923年には、世界規模の戦争に発展し兼ねなかったギリシャと伊国との紛争を解決し、欧州内に論争のある処々の領地では国民投票の監視を行い、そして世界保健機構の前身となる組織から国際労働組織に至るまで、これら数多くの国際諸機構の調整を図った。米国は連盟の多くの仕事を外部から支援し、欧州内平和構築に協力したのだ。具体例として、米国政府の支援を背景に、同国交渉人達が、独逸賠償問題に係る二つの条約締結(1924年のドーズプラン及び1929年のヤングプラン)の斡旋を手助けし、この結果、独逸の賠償金支払に関し、海外借り入れの活用、及びその他諸手段により、同国債務合計額の圧縮に寄与した。
このように、1920年代の国際関係は、総じて、闘争ではなく協調の時代であった。この年代の大半は、主要大国の指導者達は、ソヴィエト連邦を例外として、平和な国際秩序を支持したのだ。米国は1921年と1922年にワシントンで主要な海軍々縮会議を開催し、その後の10年間、太平洋に於ける海軍の競争を凍結させることに寄与した。その会議の中で、太平洋に利害を有する9ケ国の大国が、中国の領土保全を尊重する条約に調印した。日本政府は、パリ平和会議の結果には尚も憤慨していたものの、自身を国際秩序の一部と見做し、それを維持することに協力した。一方、独逸は1923年から1929年まで外務大臣を務めた、グスタフ・シュトレーゼマンの聡明な指導力の下に、国連に加盟し、再度、国際社会の中で一目置かれる一員となった。
シュトレーゼマンは、仏国政治家のアリスティード・ブリアンと共に尽力し、属領を含んだ、仏国独逸間領土合意となる基礎条件を提示した。二人は1926年にノーベル平和賞を受賞した。
伊国では、べニート・ムソリーニが政治家としての能力を発揮し、平和会議から生じた幾つかの事案の緊張状態を、仏国と英国と協調して取り除いた。更に、1925年のロカルノ会議に於いては、独逸が西側の新たな国境線を受け入れ且つベルギーと仏国に対する不可侵条約に合意するに際し、伊国は英国と共に保証人の役割を果たしたのだった。そして、1928年、ケロッグ=ブリアン条約の下、仏国、独逸、伊国、日本、ソヴィエト連邦、英国、及び米国を含み、最終的には50ケ国以上の調印者達が、紛争解決の手段として戦争を放棄したのだ。
しかし、1920年代の種々の約束事は、大不況の到来により突如潰えたのだった。銀行倒産、急激な国内生産減少、激甚な貿易縮小は大量の失業を生み出すと共に、富裕諸国ですら貧窮の度を深めていった。人民は、危機に対処する彼らの指導者達の能力に信を失って行った。更に不吉なことには、彼らは、往々にして資本主義と民主主義とに於ける信頼をもなくしたのだった。その結果、右派と左派その何れに於いても過激的党派が台頭した。幾らかの国では、民主主義が順応し生き残ったが、他の国々ではそうはならなかった。独逸に於いて、反民主主義の保守派は、愚かにもナチ党々首ヒトラーを彼らの便に利用しようと、1933年に首相として招き入れた時に、ワイマール共和国は不面目な形で終焉を遂げた。即ち、ヒトラーは、逆に彼らを利用した末、お払い箱にしたのだ。日本では、国粋的軍国主義者達が権力を把握した。一方、ムソリーニは、風がどちらに吹いているかを観察した末、結局、彼の賽を枢軸国側へ投げ入れたのだった。
これに続く悲劇は、個人というものが、権力の行使に際しては、やはり極めて重要であることを示している。ヒトラーは、ヴェルサイユ条約による“束縛”と彼が呼んだところのものを打破し、そして独逸とアーリア人種とを、世界規模とは云わぬまでも、欧州に於いて支配的地位にする、という明確な目標を持ち、これらを達成する為には如何なる犠牲も辞さぬと決意したのだ。一度権力を掴むと、彼は、彼自身の政党を除き、それ以外全ての政治党派を禁止し、労働組合を非合法とし、市民社会の諸機構を再組織した。彼にとり、戦闘や戦争となる見込みは歓迎すべきものだった。彼は、これらを独逸の国を一体化させ、更に且つ、彼の望むところの軍備礼賛の素地を形成する為の手段だと見做した。軍部は、国防費の増額に嬉々としながら、栄誉と領土拡張というヒトラーの約束に騙され、彼に従順なままに道を誤って行った。伊国では、第二ローマ帝国を長年夢見ていたムソリーニが、嘗ての慎重さをかなぐり捨てた。世界のもう一方の端では、日本の新しい指導者達も、また、帝国の栄誉の観点より考え、領土制圧による大東亜共栄圏構築に着手していたのだ。
民主主義を維持していた国の指導者達は、皆それぞれ固有の問題に手一杯の状態であった為、世界秩序に対し増大していく脅威を知覚するのが遅れ、対応は緩慢となった。国内で深まる政治分断に直面していた仏国は、英国が反応するのを頼りとしたが、一方、英国は国内に同国自身の諸問題を有し、海外では過剰な領土拡大が深刻化し、同帝国域内の諸問題が悪化して行った。そこで、両国は米国からの支援を期待したものの、米国フランクリン・ルーズベルト大統領は自国の問題解決に専念したのだった。
国際連盟は、加盟諸国が確固たる態度を維持してこそ、極めて強い力を持つのだが、当時、国際連盟は、各国の露骨な侵略行動に直面しても無力であった。1931年、日本は、同連盟の禁止条項と東京政府自身の条約義務を破り、中国の満州を占領、それでも殆ど実質的な制裁を受けることはなかったのだ。数年後には、ムソリーニが無慈悲な軍事行動によりエチオピアを制圧した。ここでも民主諸国家は武力による制裁を殆ど加えることはなかった。一方、ヒトラーは1933年の時点で早々に独逸を国際連盟から脱退させ、その後の4~5年を掛け段階的に、ヴェルサイユ条約の諸条項を侵害して行った。即ち、1936年にラインラントに進駐、1938年にはオーストリアを併合したのだ。その年、ヒトラーを宥和すべく、仏国と英国は、民主国家チェコスロヴァキアの相当な領土を独逸に引き渡したが、それは虚しい試みと帰したのだった。つまり、1939年、ヒトラーはそれには飽き足らず、チェコスロヴァキアの残りの領土を制圧してしまった。ここに至り初めて、仏国と英国は、屈服を続けるか或いは抵抗するかの選択を迫られた結果、後者を選び、そして戦争はその年の秋に勃発した。今回の戦争は、無謀な恫喝外交や脆弱な政府によって惹き起こされたのではなく、確たる権限を掌握した強い指導者達が意図して戦いの道を選んだ結果であった。当時の英国ネヴィル・チェンバレン首相等は、以前の早い段階で相手諸国に対抗することもできたのだが、そうする代わりに、戦争を回避できるとの期待から、彼らを宥和する政策を選択して来た。つまり、繰り返えし条約と国際法が侵犯される事態に対し、確たる行動を採ることに失敗して、民主主義諸国の指導者達は、国際秩序が崩壊するのを許してしまったのだ。
前兆は繰り返しやって来る
現在の国際秩序が弱まるに連れ、様々な諸紛争が一層顕著化する。ロシアは、なりふり構わぬ干渉を継続、プーチンは欧州連合を崩壊させることを夢想している。米国と中国との関係は、敵対化の度合いを強め、貿易、先端技術、そして相手戦略の他国への影響を廻り、小競り合いが続き、今や双方共が、交戦の可能性について
筋書きの研究を始めている。米中二国の言動は、より好戦的なものへと増進している。中国では、人気連作映画から名を借り「狼軍団」、と呼ばれる外交官達が、北京政府に批判や反対を試みる人々や、同様の反応を示す米国高官達に激しい非難を加えている。趙立堅中国外交部報道官は、新型コロナウィルスは米国軍によって武漢に持ち込まれたのだとツイートすると、トランプが、透かさず中国武術をもじり、これは「カンフーインフルエンザ」(kung flue)であると口にした。そして、マイク・ポンぺオ米国々務長官は中国共産党を「ならず者」と呼ぶと、今度は、中国国家管理下の報道機関は、ポンぺオは「気が狂っており」、「明らかな人類の敵」であるとした。
これら威嚇的姿勢を単に、上辺の誇示として軽視し、世界は来るべき危機を乗り越えるだろうと無頓着に考えるのは容易である。どのような危機が存在するのかは、予想出来よう。しかし、異なる要因が、如何に関与を与え、また、危機がどのような順番でやって来るかを見通すことは不可能だ。斯かる不透明な環境下、世界が如何なる協調行動を採れるかは、時の国際諸機構の影響力の強弱、そして決定的瞬間に際しての各国の指導力に掛かるのだ。軟弱で優柔不断な指導者達は、1914年の如くに、好ましからぬ諸環境が更に悪化して行くのを許すかも知れない。断固とし、そして無慈悲な指導者達は、1939年の如くに、様々な戦争を生み出すかも知れない。一方、賢明で勇敢な指導者達は、嵐の中を切り抜けて、世界を導くことが出来るかもしれない。そして、今、我々は、最後に述べた範疇の指導者達が過去の歴史から教訓を学び取っていることを願うばかりだ。
(了)
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