執筆者:ステファン・コトキン(Stephen Kotkin)
肩書:プリンストン大学教授(歴史・国際関係)、スタンフォード大学内フーバー研究所上席研究員。『スターリン:絶大なる独裁者』著者(同三部作の最終編近来発刊予定)。
<本論稿の取り上げた参考図書>
書籍:『血と廃墟:最後の帝国主義戦争1931年から1945年』(Blood and Ruins:The last Imperial War, 1935-1945)
著者:リチャード・オヴァリー(Richard Overy)
出版:ヴァイキング社(Viking) 2022年 (1,040ページ)
(論稿主旨)
あの事態に、皆、驚いたかも知れないが、それは抑々(そもそも)驚愕に値する出来事なのか? これが私の問いだ。事態はこう展開した。クレムリン所在の、ならず者体制は、隣の小さな国により自国安全保障が脅かされた旨宣言した。その隣国は、実態は主権国家ですらなく、より遥かに強力な西欧諸国の傀儡政権だ、と同体制は主張。そして、更に自分達の安全の為、その隣国領地の幾らかを切り取る必要があると固執した。両者交渉は決裂、そして、モスクワ政府は侵攻した。見覚えのある風景だ。
1939年の事だ。当時クレムリン体制はジョセフ・スターリンが率い、その隣国はフィンランドだ。スターリンはフィンランドに対し、領土部分交換を提案。彼の狙いは、レニングラードをその南端部に位置して其処(そこ)から北へ延伸するカレリア地峡の略完全掌握に加え、バルト海に於ける前線基地としてフィンランド諸島を活用する事だ。彼は、交換対価として、同地峡の遥か北方にフィンランドと国境を接するソヴィエト傘下のカレリア自治国内の広大ではあるが沼地の森林地帯を提供する案を申し出た。スターリンにとって意外な事に、その後、彼が原案から一連の修正を講じたにも拘わらず、フィンランドはこの取引を拒否。僅か人口400万人で小さな軍隊しか持たない国が、当時世界最大の軍事力を誇り、一億7千万の人口に支えられた圧倒的力を持つ帝国―ソヴィエトの巨人―を断固拒絶したのだった。
ソヴィエトは侵攻したが、フィンランド軍は、計画も実践も杜撰(ずさん)なソヴィエト軍攻撃を数ヶ月に亘り防いだ結果、赤軍に不名誉を与えた。彼らの抵抗が西側諸国の心を捉える。英国首相ウインストン・チャーチル及び他諸国の指導者達は勇敢なフィンランドを賞賛。しかし、賛美は麗句のみに止まり、西欧諸国が武器を送る事は無く、況(ま)して軍事介入を図る動きは絶えてなかった。結局、フィンランドは名声を得た替わり、過酷な消耗戦に敗れ、スターリンが当初に要求したより多くの領土を削られる結果となった。ソヴィエト側戦死者はフィンランドのそれを上回り、スターリンは、遅きに失した、徹底的なる赤軍再編成に着手。アドルフ・ヒトラーと独逸(ドイツ)上層部指揮官達は、ソヴィエトの軍事力は、所詮子供騙しの水準で恐れるに足らぬと結論した。
扨(さ)て、時を今一度、現代に戻す。クレムリンのある独裁者は再度、またしても小国の侵攻を命じ、その制圧がいとも簡単と考えた。日頃から、如何に西側諸国が凋落傾向にあるかを詳しく説く彼は、衰退期の米国とそれに従属する国々から多少の不平と苦情は出るにせよ、誰も弱小国の救済に駆けつける者はいないと考えた。だが、この独裁者は読み違えていた。盲従する側近達に囲まれ、謂わば残響室内に閉じ籠った状態のこの独裁者は、同意見が反響で一層増幅されるが如く、自身の宣伝通りの戦略に勝算ある事を疑わなかった。一方、西側諸国は闘う事に尻込みする処(どころ)か、意を決した米国を筆頭に、再結集したのだった。
時は移って1950年。スターリンは尚も権力の坐に在ったが、今回問題となる小国は韓国だ。彼が、平壌(ピョンヤン)の独裁者、金日成に対し作戦進行を了承し、北朝鮮軍は韓国に侵攻した。しかし、スターリンにとり意外な事に、米国は国連承認を得て多国籍の国連軍を結成した。ソヴィエトは国連安全保障理事会をボイコットし、彼らは拒否権行使が出来なかった。国連軍は朝鮮半島の南端に上陸、北朝鮮軍を中国国境線迄退けた。スターリンは、ワシントン政府内の諜報報告の共有不備にも助けられ、彼の失策をまんまと中国指導者の毛沢東に付け替えた。一方、中国人民解放軍による大規模介入は米軍指揮官を驚愕させた。米国主導の国連軍は、北朝鮮侵攻前の南北を介する境界線迄後退を余儀なくされ、代償の高い膠着状態に帰したのだった。
再度時計の針を現在に戻そう。無論、スターリンもソヴィエト連邦も、とうの昔にこの世から消えた。その替わりに存在するのは、専制度合いが遥かに弱い独裁者としてのウラジミール・プーチンと、旧ソヴィエト連邦から最終兵器、国連拒否権、及び西側諸国に対する憎悪を引き継いだお陰で、尚も危険な権力を保持はするとは云え、格としては2等級国家に過ぎない露西亜(ロシア)だ。先の2月にプーチンがウクライナの主権を侵害し侵攻決断をした際、同国が露西亜(ロシア)敵対勢力の手による傀儡であると中傷した。そして、彼は、これに対する世界の反応は、1939年フィンランド侵攻の際、スターリンが目撃したと類似のものになると期待した。即ち、周辺から様々な雑音が入り交じり、統一感を欠き、結局、国際社会が断固とした行動を取る事はないと高を括っていたのだ。然し、これ迄の処(ところ)、ウクライナの戦争は1950年に韓国で生じた展開と類似の様相を呈している―尤(もっと)も、今回は、米国に先んじ欧州が行動を起こした点が異なるが。プーチンによる無慈悲な侵攻に対し、ウクライナ国民の、兵士と非戦闘員とを問わぬ、知恵深く英雄的行動、及びウクライナ大統領ウオロディミル・ゼレンスキーの見せた強固な意思と優れた手腕は、決定的な反響を起こして西欧諸国を促し、行動を起こさせた。ウクライナ人達は、フィンランド人同様、彼らの名誉を保った。しかし、今回は西欧諸国も又同様に面目を保ったのだ。
これらの並行的諸事の比較から明らかになる事は、歴史は再現したり韻を繰り返すのではなく、これら以前の時代に造られた歴史が今日尚も継続すると云う点だ。不滅の露西亜(ロシア)帝国主義が突如表出する理由は、最も安易な説明として、同国は生来より攻撃性向の文化なのだとの解釈も有る。しかし、それは事実ではない。寧ろ反対に、こう見るのが最も分かり易い。即ち、露西亜(ロシア)による侵攻は、単に西側帝国主義に対する反応に過ぎず―それがNATOの枠組み自体であれ、或いは、その拡大であるにせよ―この反応形態はNATO結成以前に遥かかに遡り繰り返されて来たものなのだ。
これら繰り返される露西亜(ロシア)侵攻の物語は、それぞれ内容は異なるとは云え、実は、露西亜(ロシア)の支配者達が幾度も繰り返し陥った、地政学上の同じ罠を反映している。即ち、多くの露西亜(ロシア)人は自国が、神意により授けられた権力と特異な文明を背景とし、世界に於いて特別の使命を有する国だと見解する。一方、現実に露西亜(ロシア)はその大望実現に足る丈(だけ)の能力がない為に、時の支配者達は西側諸国に対する大きな開きを埋めるべく、強制的な尽力を国内で総動員し、その結果、過度な集中体制に幾度となく訴える事となった。処(ところ)が、強国を目指す斯様な努力は実を結ばぬ儘、体制は常に独裁主義者による統治へと変貌した。一方、「弱小な実力と壮大な構想」の組み合わせは、独裁者をして、抑々(そもそも)彼の出現を手助けした、理想と現実の差異という云う問題を一層悪化させるよう駆り立てて行く。現に、1991年以降、斯くして、西側に対する開きが劇的に拡大した際、それでも露西亜(ロシア)の飽くなき地政学上の野望は、私が2016年当時本誌で指摘した通り、尚も持ち堪(こた)えたのだ。そして、それは決して絶える事はないだろう。少なくとも露西亜(ロシア)の支配者達が、西側に伍する強大国になると云う、抑々(そもそも)不可能な野望を捨て、西側と共に生きて露西亜(ロシア)の国内発展に専念すると云う戦略的選択を実施する時迄は。
上述した全ての事柄が、冷戦の終焉とは幻影に過ぎなかった事を証している。1989-91年の出来事は重大には違いないが、然し、私も含め当時の大半の観察者達が捉えた程には、実は重要ではなかったのだ。その数年の間に、独逸(ドイツ)は、大西洋を挟んだ欧米同盟に組み込まれる形で統合され、一方、露西亜(ロシア)は一時的に甚大な縮小を被り、その結果、これに続きモスクワ政府軍が撤収し、東欧の小規模諸国は、民主主義憲法に基づく秩序と市場経済を採用し、EUとNATOの西側に参入する自由を与えられた。これら出来事は、独逸(ドイツ)と露西亜(ロシア)の人々の間の人生を変え、更に歴史的に友人を装った敵対者であった東西両独逸の彼ら自身の人生をも確かに変革した。それにも拘わらず、これが世界を変じる程の影響力を発揮する事はなかったのだ。統合された独逸(ドイツ)は、当時、地政学上は依然として決定的因子たり得えない存在だった。尤(もっと)も、今般ウクライナへの侵攻が開始され数週間後、ベルリン政府が、少なくとも当面、より遥かに対抗的な姿勢を取った事によって、今回は事情が変じた点は特記に値する。一方、東欧のハンガリーやポーランド等、偶々(たまたま)、世界大戦とそれに続く平和諸条約に於いて大敗を喫したした側に属した国々は、次第に非自由主義的な気質を現わし始め、斯くしてEUの枠組みの中にも種々限界を抱える点が明らかになって来たのだ。一方、露西亜(ロシア)の国家としての規模は、現状の処(ところ)、極端に削減された儘ではあるが、1919年のヴェルサイユ条約以降も、そうであったように、露西亜(ロシア)覇権への野望は、決してその儘に立ち消える事はない。露西亜(ロシア)との強権を巡る、西側諸国の競合が、比較的短期とは云え一時停止状態に在ったのは、実は、寧ろ驚くべき歴史上稀なほんの一瞬の出来事だったのだ。
上述の諸事態が推移する間も、朝鮮半島の分断は継続、そして中国は依然共産主義政権下に在り、更に、民主主義に基づく自治統治下の台湾島に対し、大陸本土への強制併合をも含む領有権を執拗に主張している。米国覇権と西側諸国の自称する理想的諸理念に対しては、主義主張に染まった競合諸勢力や様々な抵抗が、亜細亜(アジア)を遥かに越え尚も根強く存在するのだ。加え、冷戦酣(たけなわ)時に明示された、核兵器による最終戦(アルマゲドン)局面すらその危険が尚存在する。これ丈(だけ)の諸状況に囲まれながら、冷戦が終焉したと論ずる事は、換言すれば、ソヴィエト国家存在に対立する対抗力を減じ、同国家の増長を助長する 試みに他ならない点を理解すべきだ。
1991年以降、極めて重大な構造変化が生じた点は異論を待たない。然し、それは技術革新分野に止まる話ではなく、より大きな流れがあったのだ。先ず、嘗て中国は、西欧に対抗する秩序の中でまだ地位の低い同盟国だった。処(ところ)が、今や、露西亜(ロシア)がその位置に入れ替わった。更に、大きい転換は、大国同士が競合する舞台が印度‐太平洋地域へと移った点だ。この流れは1970年代から徐々に生じ、21世紀初頭に加速したものだ。然し、この変化の素を辿れば、その種は、実は既に第二次政界大戦中に存在し、それが冷戦期間中に拡大したものなのだ。
地政学的見地から、20世紀後半の歴史的転換期としての意味合いは、1989-91年よりも1979年の方が大きい。つまり、この年、中国指導者、鄧小平が米国との交正常化を為し、中国共産党の黙認下に経済自由化を開始、これにより同国経済と国際世界に於ける影響力は幾何学級数的に発展したのだ。同じ年、イランではイスラム教政権が革命によって権力を握り、この影響は同国を越え拡散したが、その原因の一端として、ソヴィエト連邦によるアフガニスタン侵攻に抗するイスラム系抵抗勢力を、米国自身が組織した事も測らずしも寄与している。更に、時期を略同じくして、深刻なスタグフレーションと社会の無規則状態に見舞われる中、レーガン・サッチャー改革は、英米の影響領域の一新を掲げ、自由市場主義を強調、これによって、数十年に亘る成長過程に火が付いた。結果として、左派勢力を政治の中心に帰り咲かせる事になり、英国にトニー・ブレア新労働党、米国にビル・クリントン新民主党政権を出現させた。斯様に、レーニン主義下で市場自由化した中国、イスラム教政権の台頭、そして再興した西欧諸国と云う、この特筆すべき組み合わせこそが、大戦後の独逸(ドイツ)と日本の体制変換並びに米国主導による西欧諸国の統合以降、他に類を見ない程に、根底から世界を再編する原動となったのだった。
ソヴィエト連邦崩壊を以って冷戦は終結したとの誤った見識に従って、ワシントン政府が、ある外国政策の選択肢を推進させて行く事は必然的な定めであった。つまり、主義理念の闘争が明らかに自らに有利に決着したと確信する結果、大概の米国政策指導者達及び思想家達は、彼らの国こそが西側諸国にとっての根本原則の中心地なりとする考えからは離れていった。中心地とは、地理上の在所を意味するのでなく、諸機関並びに、個人の自由、法制、開かれた市場、政治上の見解相違と云った様々な価値観の連鎖に於いて、且つ、西欧と北米に限定される事なく、豪州、日本、韓国、台湾及び他の多くの国々を包含するとの意だ。西側諸国という概念の尊重を捨てて、多くの米国人エリート達は、米国が主導する「自由主義国際秩序」構想を賞賛し、同秩序が理論的には、西側が主催した諸機関や諸価値観を共有しない社会をも含めて、地球上を一つに纏めることが出来るものと思い違いをしたのだ。
自由主義秩序が世界に遍くに至るとの熱に浮かれた夢によって、地政学上に実は強固なる持続性が存在すると云う事実が見過ごされた。ユーラシア大陸の3大古代文明、即ち、中国、イラン、及び露西亜(ロシア)が突然消滅する事はなく、1990年代迄にはこれらエリート階層達は、西欧規範に基づく世界一体主義に加担する意思が全くない点を明白に表明したのだ。中国は、それにも拘わらず、自らの経済上の責任を履行せぬのは云うに及ばず、況(ま)してや同国政治体制の民主化など眼中ない儘に、世界経済の中へ自国統合させる利益を専ら貪ったのだった。イランは、自国の安全保障を名目とし、同策にとって米国のイラク侵攻は測らずしも格好の支援材料として寄与し、近隣諸国を破壊する為に継続的に必要な冒険へと乗り出した。露西亜(ロシア)エリート階層人が、嘗てのソヴィエトの衛星諸国や共和諸国が西側に吸収されて行く事態に苛立つ中、多くの露西亜(ロシア)政府高官達は、西欧大手諸企業によって提供される資金洗浄機能を利用するに至る有様だった。そんな状況下に在り乍らも、然し、遂にクレムリン政府は形勢挽回する為の策を見出した。つまり、凡そ20年前に、中国と露西亜(ロシア)は、西欧側に対する相互の憤懣を共有する同盟関係を明白(あからさま)に深化させ始めたのだ。
戦争が造った世界
これらの出来事がある議論を突如巻き起こした。「果たして、米国が主として中国を相手に戦う、来るべき新冷戦なるものは登場するだろうか、しないだろうか(或いは既にもう存在しているのだろうか)」と云う問題だ。然し、この手の記述は的外れだ。斯かる闘争は何ら新奇な話ではない。
この次に大規模で世界的な抗争が繰り返される場合、それは恐らく亜細亜(アジア)周辺に於いて発生するだろう。その理由の一端は、先の二つの大戦も―実は相当程度、多くの西欧の観察者達はこの点を正当に評価していないのだが―やはり亜細亜(亜細亜)で発祥した事に拠るのだ。それに関する従来の誤った認識を、少なくとも第二次世界大戦に関し修正する事が、歴史学者オヴァリーが彼の最新著作「血と廃墟」(Blood and Ruins)の中で、やり遂げようとした目的の一つだ。彼は同書で戦争及び戦後時代に対する視点を移す事を追求し、より一層亜細亜(アジア)への注目を呼び掛ける。彼は見立てて曰く「先の亜細亜(アジア)戦争とその様々な帰結は、戦後世界の構築に際し、欧州に於ける独逸(ドイツ)の敗戦と等しく、いやそれより一層重要であった事が証明可能なのだ」と。
オヴァリーの幾つかの議論は、自身に対する訓戒のように読める。彼は、第二次世界大戦の徴候を、欧州中心に1939年迄の年代記に書き連ねるのは「最早有効ではない」と云う。更に「戦争は、世界規模の事象と捉えるべきであり、欧州に於ける枢軸諸国家の敗退と云った限定的見解の下に、太平洋戦争を付録のように扱ってはならない」と主張。又、「両陣営の衝突は、夥しい数の種類の異なる様々な戦争、そして、主要な軍事対立に伴って発生した複数の内戦、並びに、自由化を求めた多くの闘い―それが占領軍(連合諸国軍をも含む)に対するものか、或いは市民による自己防衛戦であるかを問わず―によって再定義される必要がある」と云う。彼が展開する「あの長い第二次世界大戦が最後の帝国主義戦争である」との根本議論は、亜細亜(アジア)史或いは世界史の学者の見解として、従来と一線を画す斬新なものである。(今般の露西亜によるウクライナ侵攻により)彼のこの論点は不首尾に帰した事が判明したと云えるが、それでも、彼が亜細亜(アジア)の重要性に関し、これ迄になく強調し、注意喚起行った点は歓迎されるべき事だろう。
オヴァリーは、彼の帝国主義に関する枠組みに就いて、1914年以前の、1894-95年の日清戦争等、様々な主要戦争を書き起こす事から始める。そして、あの時の資本主義の危機が市場の争奪戦を激烈化させ、それに伴う極度な国家主義経済が、世界及び勢力圏を新しく再分割する目的遂行の為に、当時の秩序の中に戦争と云う手段を位置付けたのだと云う、その効果に関連付ける中で、彼がスターリンに言及するのは当を得ている。然し、難点を挙げれば、スターリン自身が目論んだのは、飽くまで世界を強制的に階級社会の影響下に分断する事であり、それら社会が市場獲得の動きとは無関係な事実には、オヴァリーは一向に拘泥する向きがない。更に、彼が帝国主義を強調し、又、亜細亜(アジア)への焦点回帰を叫び乍ら、彼の巻頭の数章には、新味のないヒトラーを中心とする戦争外交と、彼の主題である第二次世界大戦勃発が月並みに開陳されているのは残念と云わざるを得ない。それでも、彼がある種の修正的見解を物にすべく挑戦を試みている点は特筆に値する。即ち、当時の英国の宥和政策を、彼は、抑止力を伴った「封じ込め」戦略であったと再評価を展開、ロンドン政府による軍備増強が遅きに失し、その為、意図した囲い込みは有効に機能しなかったのだと見解する。然し、彼は此処(ここ)で1939年のヒトラーとスターリンが交わした不可侵条約の存在を無視し、恰(あたか)もソヴィエト連邦が戦争勃発に関与しておらぬかのように扱う点に於いては、過誤の指摘を免れ得ぬだろう。
いずれにせよ、何百万人もの亜細亜(アジア)人達が戦争の大災害に巻き込まれた歴史的事実は、ヒトラー、スターリン、英国首相ネヴィル・チェンバレンでもなく、全ては日本帝国と米国との衝突に関係している点に関し、オヴァリーは、これらを自身の記述の中では副次的な事象に格下げして扱っている。更に、彼は帝国主義が好戦的な軍事力を伴うと云う本質を十分説明出来ていない。即ち、彼は、当時帝国軍を巨大規模で展開していたのは唯一英国丈(だけ)だったと云う。つまり、その動員兵士数は英国自治領に260万人、印度には270万人以上に上ったと。然し、私が指摘したいのは、これら兵力は、抑々(そもそも)核心的戦争地域の外に展開していたと云う事実だ。
それでも、オヴァリーの同書は、その論述が兵站、生産、並び機械的側面に転じると、内容は高く飛翔し見るべきものがある。例えば、今日我々が「近代戦争」と呼ぶ処(ところ)の物は、20世紀中盤の時点に在っては、その産業力を動員した衝突の度合いが、今とは比較にならぬ程の別物なのだと云う事を例示して呉れる。第二次世界大戦中、戦争従事者達は、大半は比較的単純な兵器であるが、それらを驚異的に大量に生産した。背景には、ろくな軍事訓練も受けずに戦闘投入された1億人以上の男女達でも扱える必要があった為だ。これ迄の多くの戦争史とは対照的に、オヴァリーによって有名な戦車戦闘諸戦が語られる事はない。その替わり、戦時生産された戦車の略(ほぼ)全てが破壊されると云う、驚愕すべき損失を被った事実が述べられる。彼が語るのは、お偉い将軍手腕の手柄話ではなく、計り知れない喪失と、残虐行為と、そして大量殺戮の歴史なのだ。
又、組織論に関する記述も極めて説得力がある。オヴァリーが示すのは、初期局面を切り開いた、枢軸諸国による目覚ましい数々の進撃は、実はそれ自体にそもそも限界を内包していた点だ。彼曰く、「枢軸諸国は、専ら広い空間を確保した。然し、時間を手に入れた訳ではない。そして、その広大な空間自体によって彼らの優位性が次第に蝕まれ、遂に1942年にはそれが休するに至った」。そして加え「連合国は1942年の段階では、日本、独逸(ドイツ)、伊太利亜(イタリア)そのいずれの本土へも侵攻するに程遠い状況だった。然し、彼らには時間の優位性があった。更に世界に展開する力を有した彼らは、最後の2年間を掛け、軍事能力を再編し、そして向上する事が出来たのだ」と主張する。勝利への厳しい道程は、より上手に戦う方法を苦労し乍ら学んで、その為のあらゆる手段を発達させる事だ。オヴァリーが明らかにするは、ソヴィエト人達が独逸(ドイツ)との戦車戦の手痛い教訓を吸収し、そして最終的にナチス独逸の優れた能力を模倣し、仕様標準化された戦車生産への改革に成功した点だ。これらは、ソヴィエトが巨大な領地を喪失し、物理的基盤設備と労働力の破壊を受けにも拘わらず成し遂げられたのだった。又、英国も骨の折れる作業に耐え、独逸(ドイツ)式空戦を模倣し、自国空軍を修正した点が述べられる。処(ところ)が、その一方で難があるのが、オヴァリーの洞察が、米国の戦時対応に関しては明らかに鋭さを欠く点だ。つまり、米国は、世界最新鋭の海軍と空軍を造り上げる間も、同時に如何に諸海戦を闘うかを学ぶ必要に迫られ、これら全てが交絡する難題に対し米国人達がどのように立ち向ったかに関する分析が不十分なのだ。それでも、結局、彼は「連合国軍側の軍事増強に於いて、組織理論家のトレント・ホーンが“複雑適応系(complex adaptive systems)”と呼ぶ手法を起用する事で、学習曲線―この専門用語は1936年に発明されたのだが―が効果を発揮すると云う環境が生まれた」と正しい結論を導いてはいる。
終局的に、先の大戦では、主に東部戦線に勝利したのではないと私は考える。同戦線に於いては、独逸(ドイツ)国防軍を全滅させる為、ソヴィエト赤軍も又計り知れない戦死者を被ったのだ。勝利したのは寧ろ海上と空域だ。英国と米国が意図的に攻撃を仕掛けた対象は、独逸(ドイツ)と日本帝国の戦争兵器製造能力及びそれらを前線へ送る兵站手段だった。これにより、1944年迄に、前線に投入されるべき、独逸(ドイツ)と日本帝国の戦争継続余力は極僅(ごくわず)かしか残らなかった。米国軍の攻撃によって日本帝国の商業船団が壊滅した瞬間、同国が広大な海域制圧と莫大な天然資源確保の為に貴重で不可欠なものが消え失せたのだ。独逸(ドイツ)に於いては、製造現場を移転(通常は地下工場化)させたものの、性急な工場分散は製品の不良率を悪化させ、作業者を本来の重要な基幹部品の製造工程から遠ざける結果となったのだ。
然し乍らオヴァリーは、私が上述した、これら連合軍側の諸行動の成果よりも、寧ろ、英米の採った領域拒否戦略が枢軸国側に与えた代償を一層強調する。彼は、ソヴィエト連邦が大仕掛けな経済戦争を遂行する手段を持たなかった事、又、一方、英国に対す独逸(ドイツ)の海上封鎖は、同国潜水艦製造投資が不十分でそれに気付つくのが遅きに失した結果、弱々しく、成功を収められなかった事を認識している。それにも拘わらず、彼の結論は以下のように導かれる。即ち、「結局の処(ところ)、大量生産と軍事設備の共同使用による経済的貢献が、勝利に向けより確実な効果を持った点が証明された」のだと。云うまでもなく、戦争の優劣を論ずる際、生産と破壊は、本来一枚の同じ貨幣の表と裏の関係にあるのだが、オヴァリー彼自身は、海上輸送路を支配し、遠くからの攻撃を増強する為の空軍と海軍への巨額投資に対してスポットを当てる。更に彼は、連合国が、石油や希少金属等、必要不可欠だが枢軸国勢では支配できない資源への経路阻害を図ろうとするのに対し、枢軸諸国はこれを予防する為に、戦争を開始せざるを得なかった事情を例示する。独逸(ドイツ)と日本帝国の指導者達は、比類なき豊富な資源、大英帝国と大陸国米国の攻撃阻止能力、及び広大なソヴィエト連邦に魅入られてしまったのだと云える。即ち、戦争の履行を可能とする為には、彼らが戦争を闘わざるを得ないという状況に追い込まれたと云う訳だ。
カリフォルニアを恋する中国の無い物強請(ねだ)り
同書の中で、帝国主義に関するのオヴァリーの解釈は、明らかに政治学上これ迄とは著しく異なる陣営のものだ。その具体例を挙げると、先ず、第二次世界大戦後、ソヴィエトが東欧地域を占領し強制的に傀儡体制を課した行為は帝国主義を構成するものではないとする見解。そして、次に、英国帝国主義が、枢軸国による征服と略奪とに等しいとの判断だ。特に、後者に就いて、彼は「ある日本人高官がこう反論した」と次のように引用する。「英国が印度を支配するのは道徳規範上許されるのに、何故、日本による中国支配は許されないのかね?」と。然し、これに対し、私が指摘、反論を試みたいのは、領土支配の実態は全てが一様ではなく、違いがあると云う点だ。
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【*訳者注:上に続く原文英語18行分の翻訳文は当欄より削除し不掲載】
(理由)無根の伝聞に基づく、著しく偏狭的且つ不正確な著者見解が開陳され、当該誌の本来あるべき水準には未達であるとの訳者判断による。尚、当該部分の訳文詳細は、飽くまで参考のみとし訳者後注にて別途後載した。
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(原文18行 中間省略)
これらに加え、オヴァリーは英国帝国主義に、これ程迄に焦点を当て乍ら、その後の歴史に極めて重要な帰結を齎(もたら)した、英国による香港の再占領の事象に就いての考察を落とすと云う過ちを犯している。香港は、日本帝国が1941年に占領するより、遥か100年前から英国が支配していた地だ。つまり、これ迄不十分であった亜細亜(アジア)に対する再注目の呼び掛けを主眼に、オヴァリーが同書を執筆したのであれば尚更の事、もしも彼が香港問題を深堀りして取り上げていたなら、同地の運命こそが地政学的諸条件から判断し、例えば、ポーランドよりも遥かに重要な意味を持った点を、堂々たる説得力を以って証する事も出来た筈だと、惜しまれるのだ。就いては、本件に関する私の見解を以下に述べよう。即ち、1945年、英国が香港を物理的に再度占領した事実に匹敵する程に、戦略的意義上でより重要な出来事はないと云えるのだ。無論、その少ない例外として、1945年5月のソヴィエト軍によるベルリン占領と、同年8月に、その激烈なる文面で有名な、米国大統領ハリー・トーマンがスターリンに宛て、決して北海道(日本本土4島の内の一つ)を侵略してはならぬとくぎを刺した電報の2例はあるのだが。
扨(さ)て、1945年の夏も差し迫った頃、日本帝国は突如降伏の意向を現わし、ワシントン政府を驚かせた。トルーマン政権は、大慌てで日本帝国による占領地の引き渡しの諸策を纏め上げた。そして、その案では、香港は英国ではなく、蒋介石率いる中華民国政府に対して返還する旨を日本帝国から受諾取り付けようとする内容だった。処(ところ)が、英国は、怒りに燃えた軍人達に対し、香港は自らが再度領有する事を請け合い、政治的な準備に着手した。米国政府高官達は、彼らの同盟国たる英国の要望に応えたいと考える一方、蒋介石の面子を立てる必要もあった。其処(そこ)で、彼らは狡猾にも、英国が中華民国政府の代理として領有権を受けると云う代案を示唆した。然し、英国は同案を拒絶し、結局ワシントン政府は英国の主張を黙諾した。蒋介石は、中国本土の他領土を取り戻すべく共産政権と尚も戦闘を繰り広げる最中、軍事力と兵站を米国支援に依存する状況に在った為、彼も又、香港に関する英国主張を黙認したのだった。その結果、香港は日本帝国から英国へ引き渡され、更に、同体制は1949年に共産党が蒋介石の国民政府を破り中国内戦に勝利した後ですら、尚維持されたのだ。その時、中国共産党は、戦略的な意味を持つ、南部に位置するこの港から英国人達を追い出す事を回避したのだった。
此処(ここ)で一考を要するのは、当時の香港返還問題に関し、米国人や蔣介石が譲歩するのでなく、逆に蒋介石政権への直接返還案を、もしも英国が黙諾していたなら歴史は全く異なった展開になっていた点だ。つまり、その後、北京の共産党政権は、香港島に存在した機能を、労する事無く、しかも決して自分達では手にする事のできないものを、そっくり在るが儘に入手すると云う、異例の便益を得たのだ。即ち、法制度の下に運営される、世界第一級の国際金融市場である。事実、鄧小平による改革中、香港は、無くてはならない海外直接投資を特に日本、台湾から呼び込み、本土の共産体制中国へ資金を注ぎ込む役割を果たしたのだ。
ソヴィエト首相ミカエル・ゴルバチョフが1980年代後半に同国経済再活性化を目指す際、「何故改革の成功例として中国手法に倣わなかったか?」と、疑問に感じる人々は今でも屡々(しばしば)いる。両国の間には、高度に都市化され重度に産業化された国と、方(かた)や、抑々(そもそも)田舎の農業国であると云う大きな開きがある点は扨(さ)て置き、ソヴィエト連邦は香港を持っていなかったのが実は何よりも最大の原因なのだ。つまり、市場原理に従い海外直接投資を惹き付ける香港のような存在を持たないソヴィエトは、旧態依然たる、政治配慮に依存した経済に頼らざるを得なかった訳だ。これは、もし英国領香港がなければ、中国も又、奇跡的成長を遂げられなかった事を意味する。
香港が漸(ようや)く北京政府の支配に復したのは1997年、それは中国と英国が1984年に発表した合意条約に基づいたものだった。つまり「一国二制度」と云うの条件下、中国共産党は香港に対し、自治統治の水準、民主的ルール及び市民の自由を少なくとも2047年迄は認める事に合意したのだった。処(ところ)が習近平中国主席は、自国が取り結んだ同条約の約束を反故にした。共産党による統治理論に従い、凶暴で自滅的とも云える弾圧が、香港で独立していた財産、権力、自由に対し加速的に増加した。これらは全て、中国共産党にとっては一党独占権力を脅かす存在だったのだ。
中国帝国主義を表すこれら諸事例は、オヴァリーが主張する「帝国主義が終焉した」との筋書とは矢張り一致しない。更に、同様の被害を被った場所は、決して香港丈(だけ)に止まらない。中国共産党は、歴史的に清王朝から極めて多人種で構成される帝国を受け継いでいたのだ。そして、共産党は1950年と51年にチベット占領。同国は1912年以来自治政府により運営されていた地だ。又、スターリンは大戦中及び戦後を通じ、新疆のウイグル地区を主拠点としたイスラム系独立主義者達を支援して来たものの、1949年になると方針一転し、中国共産党に対し同地に漢民族を入植させるよう助言した。そして、中国は同地発展と自らの監督強化の為、新疆地区の人口に占める中国民族比率を、入植前の5%から30%へ増加させる目標を設定した。2020年の年鑑調査によれば、漢民族が新疆人口の42%を占める迄に至っている。又、2018年の国連報告書は、利用可能な夥しい衛星画像も裏付けとし、少なくとも百万人のウイグル人が“再教育”収容所や強制労働収容場へ監禁されたと報じている。
チベットからトルクメニスタンへ広がる、所謂、内亜細亜(アジア)地帯に対し、軍事占領を成功裏に遂げ、領有を適法化した後も、共産国家中国が直面した困難は、人種問題の緊張のみに止まらなかった。これら地形は険しい。砂漠、山脈、そして高原しかない。また、その占有によっても米国の西海岸に匹敵するようなものは中国の手に入らない。中国にカリフォルニアは存在しないのだ。今日、中国は、同国のインフラ基盤を延伸、ベンガル湾とアラビア海を経由し印度(インド)洋へと続き、一触即発危機を孕む地域であるパキスタンやミャンマー迄にも至る、何かしらカリフォルニアに代わるようなものを手にいれようと努めている。然し、斯かる構想も、所詮、現実のものには敵わない。即ち、安全保障上に濠のような防御と便利な商業用幹線道路網を備えた、第二のカリフォルニア海岸は所詮(しょせん)無い物強請(ねだ)りなのだ。カリフォルニア州は世界第5位のGDP規模を誇る。この様なものを保有出来ないのが、正しく中国戦略上最大の欠点と云える。
西欧結束史
欧州や露西亜(ロシア)問題で偉大な政治手腕を発揮し名を成した、多くの米国人達に対しても、亜細亜(アジア)は厳しい影を様々に投げ掛けて来た経緯がある。先ず、全権特使ジョージ・マーシャルの場合は、蒋介石率いる国民政府と毛沢東による共産党との調停に失敗し味噌を付けた。外交官ジョージ・ケナンの場合は、台湾の国民政府を見捨て米国軍自らが同地に侵攻する事で、国民党と共産党とその双方共を排除すべきと提言したが、同案は無残に無視された。デイーン・アチソン国務長官は、朝鮮半島を米国防衛境界範囲から除外する事すら主張する有様だった。一方、スターリンは、実の処(ところ)、米国の政策立案者達以上に、中国が持つその競争者としての重要性を恐れた。そして、現に、1953年の彼の死後、中国は共産圏(加えて、更に当時所謂第三世界と称された地域)に於いて覇を競ったのだった。多くの専門家達はクリントン大統領が、無邪気にも中国のWTO正式加盟を後押しし、その見返りに適切な制約条項や相互的条件を何ら課さなかった点を非難する。当然な批判である。然し、同様にジミー・カーター大統領も、非市場主義経済で独裁政権の中国に対し「最恵国」待遇を回復した点に於いて、その責任を問われる立場なのだ。
事実、近代中国を巡り米国が頻繁に失策を重ねるに至ったその根源は、フランクリン・ルーズベルト大統領に遡る。当時の戦時下指導者だった彼は、戦後世界に於ける中国の重要性を直感で認識し乍らも、中国を体よく見限ったのだ。彼は、国連に新たに設置された常任理事会で拒否権を与えられた4ケ国(後に5ケ国に増加)の一つに中国を任命し同国の格上げすら実行したのだった。「中国は今後大国としての役割を果たすに足る国である」とのルーズベルト見識に対し、当時チャーチルが激怒した(即ち、この英国首相は、北京政府はまだ“見かけ倒し”の力しか持たぬと考えていた)。オヴァリーが著書に回想する通り、当時、米国は中国に対し既に莫大な資金を注ぎ込んでいた。1945-48年の間、中国向けに約8億ドル援助を実施(今日の貨幣価値換算で100億ドル以上)し、国民政府軍の16の師団を訓練し、更に20の師団も支援し、蒋介石側軍備の内80%の提供を担っていた。しかし、中国内戦から米国が手を引く事で、これらの支援は水泡に帰した。一方、毛沢東は、彼の共産主義と反西欧主義の信条を追求し、米中関係が混沌とする中、その好戦姿勢を鮮明化した。これから後、10年に及び、米国人達の間では「中国を失ったのは誰であるか」との問題に就き議論が続いたのだった。然し、実際には、毛沢東政権下に、中国が米国を失ったと云えるのだ。そして、今日、米中国交正常化から40年を経て、習近平は毛と同じ危険を犯そうとしている。
然し、我々が居る今の世界は、過去のものから様変わりした。中国と米国とが同時に大国として対峙するのは歴史上初の出来事だ。中国は昔、それも亜米利加(アメリカ)の13の植民地が英国から独立した頃から、既に長く世界に傑出する大国だったのだ。その後の凡そ200年間に、方や米国が世界最大の経済規模と歴史上最大の軍事力を誇る国へと駆け上ったのに対し、中国は長く、暗いトンネルの中へ突入し、殊(こと)、国内の荒廃を経験する事になったのは偶然ではない。しかし、両大国が互いに密接に絡み合う関係になった時、中国はそのトンネルから脱したのだった。此処(ここ)に至った経路は、米国ニクソン大統領が毛沢東に叩頭外交を展開し、北京政府がモスクワ政府と不仲になり始めた際、その亀裂拡大を狙った事象とは余り関係がない。それより、重要な影響を与えたのは、鄧小平がソヴィエトを捨てると云う歴史的決断と、彼が1979年にカーボーイハットを被ってテキサス州を訪問し、米国と云う飽く事を知らぬ巨大消費者市場へ中国製品の売り込みを図った事だ。斯くして、中国は嘗て日本、次に韓国、そして台湾が大々的に先鞭を付けた道筋に従って行ったのだ。1990年代になると、江沢民中国主席が、一度は捨てた露西亜(ロシア)と同国軍需産業複合体との活発な関係を回復した。その一方で、米国に対しては中国戦略方針を維持する事で、経済的果実を手にし、そしてそれを貪る事も出来た。
然し、ユーラシア大陸の諸体制は、米国と同盟諸国が一旦は深い錯覚に陥ったとしても、「重要なものは何か、そして何故重要なのか」に就いて、最後には常にその目を覚まさせる効果を発揮して来た。米国大統領ドナルド・トランプは強者への憧れを示し、貿易条件の取引をする事丈(だけ)に専念したが、彼の政権期には、中国に対するタカ派的国内合意を加速させ、この傾向は、バイデン政権の出現下、同大統領チームの多くのメンバーが嘗て万事服従的なオバマ政権に仕えてたにも拘わらず、絶える事はなかった。一方、プーチンによる侵攻並びにこれに対して習近平が明らかに共謀していた事実を目の当たりにした欧州では、露西亜(ロシア)へのエネルギー依存、及び中国とその指導者に対して欧州が抱いていた貿易至上主義に基づく独りよがりの安心感は払拭される事となった。そして、ウクライナと欧州の安全保障上に止まらず、米国が同盟国と共に追求する亜細亜(アジア)戦略上からも、プーチンをウクライナで勝利させてはならぬとの見解が広く行き渡った。今や、モスクワ政府は、古代印度(インド)の不可触民の如く、爪弾(つまはじ)き者の扱いを受け、又、北京政府に対する平常な商業取引も最早持続期待出来ない。今後、最も需要なのは、西側諸国が露西亜(ロシア)と中国に対する結束を強める事だ。正に此処(ここ)に於いて、バイデン政権は、これ迄アフガニスタン撤退とAUKUS(米英豪安全保障協力)開始で失態を重ねたものの、今回は重要な第一歩を踏み出した処(ところ)なのだ。
中国に於いて、露西亜(ロシア)への傾斜は習近平に限った話ではない。中国の国家主義者達は―より広範な大衆の中や、専門家達、及び支配者グループの中に存在し―ウクライナ戦争を巡り、NATOと米国を熱心に非難している。彼らは中国が露西亜(ロシア)へ一層接近すべきだと強く説く。これら強硬派中国人達は露西亜(ロシア)の勝利を望む。その理由は、彼ら中国自身が台湾奪取を望み、そして、米国は自国の優越的立場追求の為には如何なる国際規範も犯すと確信するからだ。それでも、中国エリートの一部の者達は既に以下の事を心得ているのだ。つまり、西側の諜報活動がプーチン体制に如何に深く侵入を謀っているか、そして、国際金融制度からの制裁により、露西亜(ロシア)がいとも容易(たやすく)深刻な損失を被る事、そして、独裁者が、諂(へつらい)者達に囲まれ反響室の中に居る場合、どのように深刻な読み違いを生じるかと云う事共だ。恐らく、上記に加え、これ迄無数の利害関係団体に資していた独裁体制が、全てが危険に晒される虞を内包しつつ、唯(だた)一人の個人領主の封土へと変じて行く事を、一人の男に許容するのは、結局の処(ところ)得策ではないと云う認識も生じ始めているだろう。
それでも、スターリンが嘗て巧に操作し、朝鮮戦争の失態を騙して毛沢東と中国の使い捨て兵士達に背負わせたのに対し、今回のウクライナ戦争では、今度は習近平が、今の処(ところ)、プーチンと露西亜(ロシア)軍兵士に対し、西側に来るべき凋落、及び中国指導者が宣伝して已まない「この100年間、例のない大変化」の実現を加速させる試みが生む代償に関し、その全てを押し付けようとしている状況だ。
処(ところ)で、西側諸国はその多種多様な力をこれ迄再発見して来た事実がある。大西洋主義は死んだと何度も云われ、その都度、幾度も復活し、そして、恐らく今回程に力強く蘇った事例は過去になかったろう。バイデン政権内の複数の高官をも含む、最もリベラル国際主義を信奉する者達ですら、手強い競合者が今後も継続的な冷戦を組成すると云う実態を理解し始めるに至ったのだ。然も、それは、1989-91年に世界が体験した類似型ではなく、寧ろ、その規模は1940年代、歴史上最も大きな勢力圏が、ソヴィエト連邦とスターリンに対抗すべく、意図的に結成されたものに匹敵するのだ。そして、この勢力圏とは、相互の繁栄と平和を齎(もたら)す事を目的とし、本源的に自発的に形成されるものである。この点に於いて、ウクライナ領土内の露西亜(ロシア)や中国の同国内領域とその外部に於いても行われている、力による強制的な勢力圏形成とは対照を為すものなのだ。
そして、上記と並んで重要なのは、“自由な国際秩序”といった獏たる想像上の産物を追求する代わりに、米国が地理的概念を超えて西側諸国を牽引する事を可能とするのは、靭性に富んだ諸体質であると云う点だ。米国指導者達は度々過ちを犯すものの、彼らは自分達の失敗から学ぶ事が出来る。即ち、同国は自由にして公正な選挙制度と動態的な市場経済と云う形態に基づく、修正の仕組みを保持している。斯くして、米国と同盟諸国は、強力な諸機関、闊達な市民社会、そして独立し自由な報道機関を有する。然し、実はこれらは、気後れする事もなく、平然と西側諸国に属している事によって、初めて提供される便益である。つまり、米国人達はこれらを当然の事と思って、その有難味(ありがたみ)を忘れるような事が有ってはならないのだ。
域内同盟(ブロックパーティー)
1979年に勃発した先述3つの事象は、その後苦難の道を歩み始める。イスラム教政権は既に相当以前の段階から、同体制が破綻状況に在るのを現わしたのは、イランの事例に最も顕著に見る通りだ。国民に対し満足な経済成長も福祉も提供する事が出来ぬ儘、イスラム共和国は、国内に対する圧制、政権の掲げる虚像、及び敵対者達の海外移住によって辛うじて体制を保つ状況に在る。一方、中国は、歪(いびつ)な年齢別人口構成問題を抱え、経済的には所謂「中産階級の罠」から脱する為の厳しい試練に直面し、更に加え、政権公約上複数の失敗と統治制度上の有り得ない様々な矛盾が隠せない。今や、巨大に成長を遂げた民間部門は、その動態的活力に極めて優れ、経済成長と雇用促進に寄与する反面、体制の存続を脅かす存在となった為、北京のレーニン主義体制はこれらに対する寛容策を停止するに至った。一方、米国と英国に於いて、サッチャー‐レーガン両主義を合成した諸策が自然消滅して行った背景は、同手法による副作用が拡大した一面と、実はより大きな理由として、その成功が抑々(そもそも)同主義を生み育んで来た諸環境自体を排除して行く面があったのだ。他方、イスラム主義と「レーニン型市場主義」体制は共に、自己発展を遂げる制度を育成する事が出来ない乍(なが)らも、尚も体制安定を保っている状況だ。斯かる環境下であっても、歴史が示すのは、指導力と確たる未来像とを兼ね備えて臨めば、西側法治体制をより広範囲に影響が及ぶよう刷新する作業が可能であると云う事だ。西側諸国が―その所在が何処であれ関係なく、今必要とされるのは、各国に於いて実質的な諸機会拡大と国内政策上の合意とを新たに合成させる事なのである。
世界から見て西側諸国は羨望の的であると同時に憎しみの対象でもあった。処(ところ)が最近数十年間、欧州及び特に米国は、人々の羨望を減じ憎しみを増加させるよう寄与し、この傾向は殊(こと)、南米諸国と東南亜細亜諸国、及びその中間に位置する各国で顕著だった。この動的傾向を後戻りさせる必要があるのは云うまでもない。然し、今の処(ところ)は、露西亜(ロシア)のウクライナ侵攻に対する西側の対応が、却って、この傾向を短期的には一層悪化させる展開になっている。と云うのは、予てより偽善的介入行為、利己的な国際法利用の試み、及び過剰に強大な権力と云った問題に関連して、西側の落ち度に付け込み、同体制を中傷しようとする人々には、今回の西側の反応は追い風になる局面があるからだ。
又、プーチンや習近平を特別視し、斯かる個人は偶然、大国の頂点に上り詰め、彼らを排除しさいすれば、同体制の提示する地政学的脅威が解消されると考えたくなるのは人情だ。無論、個人の個性が影響を与えるのは事実だが、寧ろ一定種の指導者が選ばれるのはその体制の仕組みがそうさせると見るべきだ。ユーラシアの広大な地の帝国は、対比の問題として、近代英米式の典型―圧倒的海上制圧権を持ち、裕福な国々との自由貿易を営み、比較的小規模に制限された政府を持つ―国々より抑々(そもそも)弱いのだ。連合軍が第二次世界大戦に勝利した事で、上記の典型例が西欧のみならず、欧州中央部も、そして更に時間の経過と伴に、東南亜細亜(アジア)の第一列島線までも包含する事が可能になった。一方、中国も貿易大国となり、米国海軍の提供する海上安全保障にタダ乗りしつつ、他方で遅まき乍ら自国海軍を自分の形勢を守る為に増強した。然し、それでも、同国はユーラシア大陸が持つ固有な複数の弱点からは免れ得ない。つまり、一つの大陸に一つの海岸線しか持っていない。南志那海の珊瑚環礁を奪取し軍事基地化を図っているとは云っても、同国は尚も大部分は囲まれた地形なのだ。この事から判断し、彼らの高圧的な発言と強制的な近代化遂行は、謂わば西側に示す賛辞の皮肉な裏返しとも解釈できるのだ。即ち、米国と欧州の消費者市場への連絡経路、高度技術の移転、海上支配、外貨準備、安定的なエネルギーと希少金属の供給は、中国にとって依然として欠く事の出来ない重要事項であると云う証なのだ。オヴァリーの著作が示すのは、上述した諸事、それに加え、自給自足型域内を探求する行為こそが、世界的諸大戦、それら戦争の特徴、及び戦後の後遺症に至る道をも生み出す根底にあると云う点だ。この事実と帝国主義とを融合させた結果、彼は、第二次世界大戦が帝国主義の時代全体を打ち砕いたと主張したのだ。
それでも、各帝国は登場しては滅んで行く。だが、地域共同体は存続する。今日の中国がナチス独逸(ドイツ)や日本帝国が採用したと類似戦略を追求している事は明らかだ。但し、彼らは何としても戦争を仕掛けない点が大きく異なる。その理由は、包囲されぬよう、且つ制裁を受けぬように体制を維持する事を優先し狙うからだ。そして、今やプーチンが結果的に、露西亜(ロシア)自体が世界から包囲される事態を引き起こした例を目の当たりし、習は一層上述の策を推進するだろう。
他の者達は、大国間の闘争と安全保障上の課題は永続するや否やを討議し已まぬ事だろう。然し、その際に於いては、理論より歴史的解釈がより重要な意味を持つ。即ち、第二次世界大戦が形作った近代世界の輪郭は、1979年の歴史的大転換期と1989-91年の中規模転換期を経て、現在に尚継続しているのだ。今日、正に世界が直面しているこの瞬間が、新たな歴史上の転換点として、偉大なものとなるか、小規模に止まるかは、ウクライナ戦争の展開に加えて、西欧勢が自らの歴史からの再発見を無為にするか、或いは、歴史から学び改善し統合する事が出来るかの違いに大きく懸かっている。
(了)
【*訳者後注】上記訳文に不掲載とした問題の英語原文に関する参考記述
- 当該箇所の不適切な記述に関しては、同誌編集者に対し訳者からはその旨指摘の出状を発状し対応実施。書面原文英文と和文内容は下記の通り。
<編集長宛 出状内容>
1)和文訳:
=引用始=
2022年6月7日
フォーリンアフェアーズ誌
編集長 ダニエル・カーツフェラン殿
貴誌5月・6月号掲載『終わっていなかった冷戦』(ステファン・コトキン寄稿)への意見
拝啓
掲題コトキンの論稿は、冷戦の歴史認識、並びに帝国主義に関し、全編を通じ深い洞察に富み印象深いものでした。処(ところ)が、彼が英国の帝国主義が日本の帝国主義と識別されるべきと主張する一件(くだり)では、突如一転し、客観性と説得力を著しく欠いております。
オヴァリーの今般の新刊書に反論する形で、コトキンは英国による印度(インド)占領と日本による中国占領を比較し、「英国の場合は、印度の基盤設備を跡形もなく破壊する事なく、—- 何百万人もの印度人を強制的に性的奴隷にする事も—-なかった。それに比べ、これら全ての諸事を、日本帝国は中国の亜細亜(アジア)人達に行ったのだ」と述べます。これは、英国帝国主義は日本のそれと異なり、正当化可能であると主張を試みるかのようです。
しかし、彼の記述は不公正の非難を免れません。何故なら。コトキンは英国政府が起こしたベンガル飢饉に言及しつつも、英国政府がこの責任は不問と断じ乍ら、その理由を説明していません。加えて、彼は、アフリカ地域に於ける英国帝国主義を見事に除外し、第二次ボーア戦争(1899-1902年)とこれに続く強制収容所内の地元市民圧制には一切言及がありません(これらを抜きに英国帝国主義に語れないにも拘わらず)。
更に、上述の引用部は、余りに度が過ぎた比喩表現で、これらは明らかに、反日ロビイスト達によるお馴染みのプロパガンダによる著しい偏向を受けており、学術研究の枠を逸脱するものです。
又、彼は、1945年英国によるマレー半島と香港の再奪還行為と、日本による同地占領行為を比較し、前者を“善” 、後者は”悪”と区別しようと試み、以下に主張します。即ち「英国下の統治を拒否した多くの亜細亜(アジア)人達が、英国による統治と日本帝国が行う虐殺と云う両国の違いは明確に識別していた事実があるからだ」と。しかし、具体的にどの亜細亜人(中国人、マレーシア人、印度人、シンガポール人、或いはその他)が、どの事件を指して云うのか、証明も説明も一切ない状態では、これは漠然たる、彼の単なる印象の域を出ないものです。
抑々、侵攻と占領は全て悪だと私見します。コトキンが帝国主義を、良いものと悪いもの、或いは、悪いものと更に悪いものとに区別しようとする試みは結局不首尾に帰したばかりか、非生産的です。もしも、正当化可能な帝国主義が存在するならば、コトキンは露西亜のウクライナ侵攻を止める代わりに、プーチンに英国流の良い占領をするよう助言すべきでしょう。貴見は如何に?
敬具
日向陸生
=引用了=
2)英文:
=引用始=
June 7, 2022
Mr. Daniel Kurtz-Phelan
Editor, Foreign Affairs
58 East 68th Street
New York, NY 10065
United States of America
Re: Review on “The Cold War Never Ended” by Stephen Kotkin
(Foreign Affairs, May/June 2022)
Dear Mr. Kurts-phelan:
Above mentioned argument by Kotkin has a deep insight impressively on the historical understanding on Cold War and imperialism. However, it suddenly became unconvinced at all without any objectivity, when he tries distinguishing British imperialism from that of Japan, in response to opinions of the new book by Richard Overy.
In comparison between British domination in India and Japanese domination in China, Kotkin says “The British —did not obliterate India’s infrastructure, —and coerce millions of Indians into sex slavery,— ―all of which the Japanese did to Asians in China.” He seemingly challenges to prove that the British domination could be justified, unlike that of Japan.
But it is unfair because he never explains the reason how British government is free from responsibility for the 1943 Bengal famine, besides he excludes cleanly the facts about British domination in Africa including the second Boer War (1899-1902) and following repression on those civilian people in concentration camps. On top of that, above quoted descriptions are too terrible examples, apparently being biased by the familiar propaganda of anti-Japanese lobbyists, of which appealing steps out of the academic fields.
Kotkin also tries concluding that British recovery war of Malaya and Hong Kong in 1945 was good one, while Japanese initial attack and domination on those areas was evil one, by saying “in fact, many Asians who rejected British rule could tell the difference between it and Japan’s carnage.” However, this is just his personal feeling in vague without any proof or explanation on which kind of Asian, Chinese, Malaysian, Indian, Singaporean, or what else, on which incidents.
Invasions and dominations are all bad profoundly. His challenge of discriminating between good imperialism and bad one, or bad imperialism and worse one looked not only unsuccessful but also unproductive. If there were a justifiable imperialism, instead of stopping Russian’s Ukraine war, Kotkin should advise Putin to follow a good imperialism in the British manner. Should he?
Regards
Hyuga Rikusei
=引用了=
(2)訳文本欄に不掲載とした問題部(英語原文18行)の訳
(該当部 Foreign Affairs May/June号 P72 右段 上から11行目~18行目迄)
=訳開始=
即ち、英国人達は、同国施政の失策が惹き起こした1943年ベンガル大飢饉をも含め、数々の背信行為を犯しはしたものの、決して、印度(インド)の基盤設備を跡形もなく破壊する事なく、印度民間人に対し爆撃や砲撃を仕掛ける事なく、何百万人もの印度人を強制的に性的奴隷にする事もなく、人間におぞましい科学実験を施す事もなかった。それに比べ、これら全ての諸事を、日本帝国は中国の亜細亜(アジア)人達に行ったのだ。更にオヴァリーは、1945年、英国が実施したマレー半島と香港の再度奪回作戦の一途(いちず)な迄の狙いは、先に日本帝国が同地を攻撃し占領した際の目的と差して変わらぬものなのだと示唆する。私はこの見解に対しても同意し兼ねる。何故なら、英国下の統治を拒否した多くの亜細亜(アジア)人達が、英国による統治と日本帝国が行う虐殺と云う両国の違いは明確に識別していた事実があるからだ。
=訳終了=
(ブログ公開記録)
冒頭論文主旨部 : 2022/05/27
それ以降の全訳及び後注: 2022/06/08
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