【特集記事】秩序回復の為に費やす対価を再考する~止むを得ざる中東への関与縮小~(原典:The Price of Order~Settling for Less in the Middle East~ Foreign Affairs 2022, March/April号、P10-21)

著者/肩書: F・グレゴリー・ガウゼ3世 (F. Gregory Gause III)、テキサスA&M大学教授(国際関係)、及び同学内のブッシュスクールズ アルブリトンセンター(戦略研究機関)客員講師。

(論稿主旨)

 中東が混乱状態にある点に異論の余地はない。しかし、無秩序の理由として通常為(な)される説明は、実は根本的原因を捉えてはいない。即ち、大概の観察者達が、その要因として見立てるのは、宗派主義、民意を反映しない政府に対する大衆の不満、経済的破綻、並びに海外勢力による介入等である。しかし、これらは、中東地域の危機を物語る、飽くまで諸現象であって、その根源的要因ではない。現在、中東地域が無秩序なのは、同地の多数諸国に於ける、中央政府の脆弱さ、或いは屡々(しばしば)その崩壊こそが原因だ。つまり、イラクやレバノンの虚弱政府、及びパレスチナの疑似的政府、更にリビア、シリア及びイエメンの内戦が、同地域に於ける長期的な地政学的難題を形成し、これら政治的空白が、周辺と遠方の双方の諸勢力からの介入を招く。そして、これらは党派主義と民族意識を顕著化させ、テロリスト集団に増長の機会を提供し、経済成長を阻害し、更には根源的な、人的被害を生み、多くの難民流出を惹き起こすのだ。

 中東地域が、現代に於けるホッブス理念の悪夢(*訳者後注)の再来から逃れる為には、中央政府の権限を再構築する作業が必要だ。唯(ただ)、問題は、国家建設と云う事業は長期に亘り且つ暴力的過程を伴うという点だ。これらの工程を担うのは冷酷な男達(中東の指導者達は文字通り全て男だ)で、彼らは民主主義の素晴らしさや人権に係る国際規範を顧みる事はない。一方、この手の秩序構築が外部による力では、為(な)し得ないのは、アフガニスタンとイラクの事例が示す通りだ。民主党であれ共和党であれ、何れの政権下に在ってもワシントン政府は国家建設より寧ろ破壊するのが得意な点が皮肉にも証されたのだ。

 中東の脆弱で破綻した諸国家に対する政策選択を、良い政府か悪い政府、乃至は民主主義政権か独裁政権か、これら二者択一式と考えるのは愚かな事だ。我々が現在、現実に直面する選択は、不愉快で残酷な政府が存在するか、さもなくば、全く政府が存在しないかの二者択一なのだ。秩序が回復されれば、経済復興や政治的発展の機会が生まれるだろう。しかし、その何れも決して成功する保障はない。中東が今より非暴力的で、予想可能な、更に将来のある時点ではより公正な地域であれかしと、心を砕く者達にとり、極めて厳しい現実とは、無秩序が齎(もたら)す諸危険を抑止する唯一の方法が往々にして、その手を血で染めた、恐るべき欠陥を抱えた諸体制を相手にして対処を図らざるを得ない事だと理解する必要がある。

独裁者達と安定した諸国家との関係

 脆弱で今にも崩壊しそうな中東諸国家の現在の危機を見るに付け、皮肉なのは、20世紀最後の30年間に於いては、強大な権力を握った諸体制で在れば在る程、良きにつけ(社会サービスの普及)悪きにつけ(市民監視と支配の為の諸機関の設立)、より安定的で且つ配下の社会は良好に統治されていたと云う現実だ。第二次大戦以降、次々と独立を勝ち取った中東諸国は、抑々(そもそも)その設計に於いて万全ではなかった。その理由は、植民地大国の仏国と大英帝国の立場からすれば、有効な政府の建設にも人民に対する社会サービス提供にも、力を貸す義理はなかったという訳だ。つまり、彼らは、最も強力な組織として軍隊を創設はしたものの、その存在は国内秩序を保つのを目的として小規模に抑制され、戦争を闘う事を前提としなかったのだ。1940年代、1950年代、そして1960年代に同地域特有に繰り返し表出した不安定さと度重なるクーデター、君主制政権の倒壊、そして汎アラブ主義革命、これらは全て先述の中東諸国家が継承した脆弱さから必然的に発生したのだ。処(ところ)が、1970年代にそのスイッチが切り替わる。第二次大戦後の数十年間、中東世界の代名詞として名を馳せたその「不安定な地域」が安定化を見た。つまり、残存したヨルダン、モロッコ、及びアラビア半島の君主諸政権は、アルジェリアとエジプトの軍事諸政権と共に生き永らえた。一方、凡アラブ主義のバアス党がイラクとシリアの両地域を統治したが、この二国はアラブ諸国の中で最も情勢不安定な中、それぞれ、サダム・フセインとハフェザル‐アサドの下に結束した。又、より一層強烈な個性が特徴の独裁政権を振るった、リビアのムアマル・アル=カダフィとイエメンのアリ・アブドラ・サレハは、共に彼らの権力に対する挑戦を跳ね除けて数十年間地位に留まる事が出来たのだった。

 それでも、全ての国家が安定化した訳ではない。1978-79年の革命はイランを激しく揺るがし、その結果イスラム共和国が誕生した。トルコは1971年と1980年の軍事クーデターを経て、その後、民主主義へ向け不安定な移行期へ入った。しかし、両国共、国家自体は引き続き機能した。(実際、一時の崩壊が、その後の長期的安定を齎したとも云える。その事例が革命後のイラン政府と1980年のクーデター後のエジプトで、両者共その後、自国人民をより一層効率的に統治するに至ったのだ。)この甚(はなは)だしい例外としてレバノンがあり、同国では各党派集団が、公けに分裂し互いに争う状態だった。同国は1970年代中盤から1980年代を通じ、更に又それ以降も、内戦と海外からの軍事介入に晒され続けたのだ。

 中東諸国が強化された背景は、独立を勝ち取った後、極めて多くの体制が社会主義的政策を追求した結果と云う一面がある。土地改革、産業国営化、上意下達式計画経済と云った諸策が国家を補強した。更に、1970年代エネルギー危機が齎(もた)らした原油価格高騰は、政府規模が巨大成長するのに寄与した。嘗て貧しかった諸国は、今や十分な財政を手にし、官僚機構、軍隊、及び国内治安部隊を拡充させ、人民に対しより多くの便宜を提供すると同時に、彼らに対し強力な支配統治を行い得るようなったのだ。原油輸出が殆ど無いに等しいエジプトやヨルダンさえも、原油産出国からの海外援助や投資等の形で、中東地域のエネルギーブームの恩恵に浴した。又、経済成長下のアラブ産油諸国家は周辺諸国から何百万人もの労働者流入を歓迎し、その結果、資源に乏しく貧しい中東諸国に於いては失業率増加の懸念が払拭されたのだ。

 しかし、中東がより一層安定し且つ静的な状態である事は、中東がより平和的である事を必ずしも意味しない。武装した反政府運動に対し、暴力的な弾圧が多くの国々で行われた事は、シリアに於いて1980年代初頭に、アルジェリアに於いて1990年代その殆どを通じ、更にイラクの場合1991年湾岸戦争敗退後、各国共が内戦の様相を呈した際に見た通りだ。しかし、この何れの場合も、当時の体制が権力維持に足る力を保持した為、戦闘は主として自国国境内部に封じ込める事が出来たのだ。一方、国際間の衝突も又存在したのも事実だ。それは、湾岸戦争に限らず、1973年のアラブ‐イスラエル戦争、1980‐88年のイラン‐イラク戦争を含む。然し、これら全てが飽くまで国家間の戦争であり、内戦やゲリラ戦ではなかった。そして、これら諸戦争は、通常の外交交渉を通じ、又、アラブ‐イスラエル戦争の場合には実際のイスラエルとの平和条約により、終結した。然し、より力を持った国々は、この種の政治的圧力も、或いは、1950年代及び1960年代にイラク、リビア、シリア及びイエメン諸政府を失墜させ、これら地域を危機に追い込んだ如くの、海外勢力による介入をも、躱(かわ)す事が出来た。更に1980年代、テヘラン新体制がイスラム教原理主義革命を他の中東地域に拡散させようと尽力した際にも、それはレバノンのような弱体国家に於いて、しかも其処(そこ)でもヒズボラを設立する事により、漸く部分的な成功を見るのみに抑える事が出来た訳だ。

 国家を強化する為の工程は決して生易しいものではない。これを成し遂げた諸体制は決して民主的でない。苟(いやしく)も政治の自由が存在したとして、それは厳しく制限された。指導者達は彼らの政敵に対し冷酷だった。彼らの官僚達は、本来、政府とは一線が画されるべき、民間部門の経済発達、並びに市民社会の運営に対する壁を無効化し直接支配した。斯様(かよう)に、より堅牢な国家を構築する為の人的及び経済的代償は相当高価なものだった。しかし、その工程を通じ、より安定的な国内秩序に加え、国家間戦争が尚も存在したとは云え、平和と安定に向けた国際社会からの諸圧力に対しては現在より遥かに有効な反応を示す域内状勢が実現されていたのも事実だ。つまり、当時の中東地域は今日見るような、大規模な人道的悲劇の現場でもなければ、巨大難民移動の発生源でもなかった。無論それは完全とは云えない迄も、今日の混乱よりは遥かに上等なものだったのだ。

崩れ落ちる中東

 嘗てより強固で且つ安定していた中東諸国が、21世紀に入り後退傾向にあるのは如何なる理由に依るものか? それは、原油輸出の無い諸国では、人口増加が資源成長速度を上回り、1950年代と1960年代に建国された福祉諸国家にとって重圧となった為だ。イスラエルとトルコは、1990年代に世界の潮流が新自由主義的な自由市場政策に向う中、輸出主導型成長策を採用し生き残りを図る事が出来た。しかし実は、両国には更に極めて特別な利点が有った点は見逃せない。つまり、イスラエルは米国市場へのアクセスを持つ上に米国からの援助が期待出来、又、トルコの場合はEU自由貿易社会の一員という立場を享受出来た。一方、それ以外で、同様に新自由主義へと舵を切った中東諸国家は成功には至らなかったのだ。又、エジプトとチュニジアでは、部分的な新自由主義が熱狂的に受け入れられた後、徒党を組んだ資本家達が生み出される傾向となり、国民の間の不平等は一層悪化した。原油輸出に依存する諸国の国内格差は、大御馳走か飢餓に直面するかの両極端を意味する。又、原油価格の乱高下は、人口過多の、従って国民一人当たりエネルギー輸出量が左程大きくない国にとっては重圧となった。抑々(そもそも)イラクが1990年にクウエート侵攻した動機の一端は、1980年代中盤の石油価格暴落に在るのだ。アルジェリアもこれと同様、石油収入の減少から政府支出削減を余儀なくされ、民衆抗議活動、選挙へと至り、そして1990年代には最終的に悲惨な内戦に見舞われ、国家破綻した。これら諸問題を回避する事が出来たのは、クウエート、カタール、及びアラブ首長国連邦と云った、有り余る程の豊かな国民一人当たりエネルギー資産保有を誇る超裕福な国家のみだったのだ。

 今日、諸国家が弱体化する発端となったのは、これら長期的な年齢別人口構成や経済動態の傾向変化が、より速やかに政治に対し圧力を形成した事が背景なのだ。事の始まりは2003年の米国によるイラク侵攻だ。10年以上に亘る、容赦ない国際的制裁の結果、嘗てサダムがイラク石油資産を活用し築き上げた、極めて効率的な再配分を営む官僚制と恐怖政治に基づいた国家は、より限定的な支援者達が支える体制へと変容し、党派と部族への忠誠心と絶え間ない暴力によって辛うじて結束が維持さ得る状況だった。つまり、米国が侵攻した時、イランは既に弱体国だったのだ。侵攻後、それが破綻国家と化したに過ぎない。

 冷戦勝利による自信過剰と9/11襲撃以降に思い知らされた負の影響下に在って、当時の米国は、イラク国家に残存する物全てを破壊し、そして一から作り直す事が出来ると信じて疑わなかった。ジョージW・ブッシュ政権は、サダム・フセインの影響力から同国を脱却させる為、軍隊を解散させ、統治政党を法的に排除し、官僚組織を解体する事で、近代中東独裁国家の3本柱を打倒した。しかし、その結果生じたのは、社会破綻だった。数多(あまた)の武力を伴う暴動、電力不足、教育制度崩壊、国家資産の略奪が生じた。嘗ては、域内政治に於ける主要当事国として振舞ったイラクであったが、同地は逆に他諸国が凌ぎを削り合う舞台となり果て、その中でもイランが特に優位な位置を占めるに至った。米国は、アフガニスタンでそれを成し遂げられなかったと同様、イラクに於いても、強固で良く機能する民主主義国家を建設する事は出来なかった。その代わり、政治的真空地帯が生まれ、其処(そこ)にイスラミック・ステイツ(別名ISIS)のような非国家組織の繁栄を許したのだった。

 域内を襲った次の危機が、2010-11年のアラブの春だ。この抗議運動の伝染的拡散は、凡アラブ主義が終焉したとは云え、実は中東の人々は、原語や文化のみならず、ある種共通の政治信条に於ける一致をも、又共有すると云う事実を呼び覚ました。然し、間もなく、(大半は)平和的抗議運動を通じ市民達を党派、宗教、及び政治信条の一線を越え動員した絶調の日々は、リビア、シリア及びイエメンの国々では内戦へと発展した。エジプト議会に於けるムスリム同胞団による民主的勝利と幾度かの大統領選挙は、結局2013年のクーデターにより停止され、1952年来エジプトを統治して来た軍部エリートへの権力復帰を見た。又、チュニジアに於いて成功した民主主義の実験的試みは、民選され、一時大衆の支援も受けたかに見えた大統領自身によって、現在は議会と憲法が停止に追い込まれ、試練に直面する状況だ。

 エジプトとチュニジアの場合、体制は崩壊したが国家そのものは分裂しなかった。両国で民兵組織の結束力は残存し、彼らの官僚機構は機能し続けた。一方、リビア、シリア、そしてイエメンでは秩序は崩落した。彼らは、同域内の破綻し崩壊した諸国家を伴いイラクへ合流した。1970年代と1980年代のレバノンのように、中東の一国が政治的真空地帯になる場合、直接的影響を周囲諸国に限定し、その顛末も或る程度は当該域内に留め置く事も可能だ。然し乍ら、多くの国々が内戦に陥れば、ある国家の危機が地域に及び、やがて国際的な問題にすら発展して行くのは避けられない。

中東の混沌たる状況が国際社会に齎(もたら)す代償とは

 中東で実に多くの国々が体験した数々の内戦は、市民にとり恐ろしい結果を招いた。シリアとイエメン両国は過去10年間に幾度も、世界最悪の人道危機を生む場所と呼ばれた。そして、中東に於いては、一度(たび)斯(か)かる諸内戦が惹き起こされると、それを関係各国の国境線内に封じ込める事は不可能だ。何故ならば、同地域内の国家権力が危機に瀕すると、国際的に深刻な3つの帰結を齎(もたら)す為だ。

 その内2つは、比較的理解し易い。先ず第一に、国家が合法的武力行使に裏付けされた、独占的と云える権力を最早(もはや)主張する事が出来ない地帯には、非国家組織が繁殖する。1989年、ソ連によるアフガニスタン撤退により生じた真空地帯は、アルカイダに謂わば安全港を提供し、彼らは其処(そこ)で9/11襲撃計略を企てる事が出来たのだ。又、2003年の米国軍侵攻後、崩壊したイラクは、ISISに対し勢力増強と其処(そこ)からシリアへ拡大して行く為の拠点を提供した。更に、イエメン国内の秩序欠如こそが、同地で内戦が勃発する以前に、地元のアルカイダ分派組織の形で、アルカイダによるアラビア半島内の台頭を可能とした(同組織内の要職が、サウジアラビア人で多く占められていたのは、治安の厳しい母国内では活動の発展が困難と彼らが見極めた結果だ)。そして、リビアの混沌たる状態は、イスラミックステイツの北アフリカ支部が領土拠点を同国内に確保するのを許したのだ。この様に、破綻した諸国家は、テロリスト集団に対し彼らの野望拡大を追求する上で必要な自由度を与える事になるのだ。

 第2の問題は、内戦による人道危機であり、大量の人々が彼らの祖国から避難を余儀なくされる。更に欧州の近くでこれら内戦が発生する場合、米国のNATO同盟諸国は特に、その事態にどう対処するか難しい対応を迫られる。難民問題は多くの欧州諸国に於いて政治情勢を激しく揺さぶり、右翼大衆主義の台頭を加速させ、時としてEU内の深刻な分断を生んだ。ベラルーシのような国が2021年後半に仕出かしたように、同国に対するEU制裁緩和を狙い、ポーランドとの国境沿いにイラク難民達を、謂わば担保のように配置した事は、中東での国家権力崩壊が齎(もたら)す帰結は当該地域内に限定されない好事例と云えるのだ。

 第3番目の国際的帰結はより複雑だ。即ち、脆弱で破綻した諸国家が、中東地域で野望を抱く強豪諸国、又或る時には国際的強大諸国が犇(ひし)めいて互いが競合する舞台と化する場合だ。国家が根本的秩序と人民に対し最低限の便宜すら提供できず、その機能を減退させた時、その国の人々は、彼らの地域社会の中に支援と保護を求めざるを得ない。この場合、多くの歴史事例に拠れば、これら地域社会は往々にして(必ずしも全てとは云わぬ迄も)党派的である。例えば、イラクの国家破綻によって、同国アラブ人内のシーク派とスンニ派の帰属問題は政治的中心課題へと押し上げられ、一方、同国クルド人内に於いては、シーク、スンニ両派をして民族独立自治区(国際的承認を得ない独立であっても)設立の期待を実現せしめる事を許したのだ。国境を越えても強い絆が、部族、人種、党派及び政治信条の一致に基づいて形成される中東に於いては、先述の破綻した諸国家の人民が彼らの隣国に支援を求めるのは不思議な事ではない。イラク、レバノン、シリア及びイエメンのシーク派アラブ人は、同域内で最大のシーク派勢力であるイランを仰ぎ、彼ら自身の抗争の為に支援を求めた。これに対し、スンニ派アラブ人は、トルコやサウジアラビアを始めとする主導的スンニ派諸国のみならず、カタールやアラブ首長国連邦内に存する、小規模乍らも裕福な湾岸部族へも援助を要請した。これら地域の有力者達は、自らの手を染め紛争当時国で戦うには及ばない。その役割は、個別域内で自身が所属する社会の未来を賭け「生か死か」の闘いに従事する活動家達が担い、その替わりに、有力者達に対し間接的参画を求める仕組みだ。これら各地域の行動勢力は、資金、武器、政治的援助、軍事顧問、兵士を必要とし、一方、彼らの地域で力を持つ有力支援者達はこれら全てが提供可能なのだ。地域闘争に於ける徒党分派の動きは、抑々(そもそも)これら諸国家内部の党派分裂から生じる。イラン、サウジアラビア、及びトルコはこれらを利用するものの、乗り気でない代理諸勢力に対し無理強いする事はない。つまり、中東に於ける党派間抗争は、底辺から上部へと浸透する現象で、上意下達式ではない。

 党派抗争と云うのは寧ろ結果であって、域内に危機が発生するその原因ではないと証するのがリビアの事例だ。同国内に顕著な党派の違いは存在しなかった。殆(ほとん)ど誰しもがスンニ派イスラム教徒であった。しかし、2011年、カダフィ政権が米国主導の軍事介入の圧力下に崩壊すると、リビアは中東地域で屈指の分断社会と化したのだ。地域、部族、及び政治信条に拠って形成された様々な集団が権力を求め抗争した。そして、エジプト、仏国、カタール、露西亜(ロシア)、サウジアラビア、トルコ、アラブ首長国連邦、及びその他諸国が各々代理勢力を支援した。リビアに於いては、本来、党派主義間の抗争はなかったにも拘わらず、今や同国は、党派分裂が正に存在したイラクやイエメンの状況に酷似する。国家が破綻する時、その社会が如何に分裂していくかその過程は、無論、当該国固有の歴史的産物に拠って様々だ。しかし、それら地域が結局行き着く先は、何処(いずこ)も不幸と絶望である点に変わりない。

勝者と敗者

 今日、中東の危機の中で大きい勝ちを手にしたのがイランだ。同国は、破綻したアラブ諸国の内、顕著なシーク教徒人口数を持つ処(ところ)に対し影響力を及ぼす為に、効果ある秘訣を見出したのだ。この、謂わば成功の公式は、同盟相手に対し、資金、武器、政治的且つ物流面に加え、更には戦闘要員までも供与支援する手段を含むのだ。しかし、これらが成功する最大の理由は、当該地域の同盟者達が皆、イランが同地域内に進める画策に対し、思想上の同意を固く表明するからに他ならない。ヒズボラ、様々なアフガニスタン及びイラクの軍閥、そしてイエメンのフーシ派、彼らは皆、テヘラン政府の兄弟分になる事を望み、更にイラン政策を支援する為に国境を越境した活動すら辞さないのだ。彼らは、イランを見習うべき政治の手本とし、従い、同国指導力を合法的として受け入れる。ヒズボラは、アフガニスタンやイラクからのシーク派民兵と合力し、バッシャール・アル=アサド体制を支援すべくシリアで戦い、更にこれら戦闘員達がフーシ派兵士の訓練に従事したのだ。イランは自軍通常兵器能力が比較的脆弱であるにも拘わらず、東アラブ世界の破綻した諸政治体制を通じ、これ迄その影響力を拡大して来た。同域内の人々は何もイランによる軍事侵攻自体を恐れるのでなく、彼らの社会にイランが浸透する能力を持つ点を恐れるのだ。

 中東に於けるイラン対抗諸勢力で、同国に匹敵する程の成功を為し得た者はいない。サウジアラビアは、利害関係者に配る資金をイランより豊富に持ってはいるが、金が全てではないのがこの世界だ。リヤド政府の抱える問題は、本来、政治信条的には同盟者である、アルカイダやISIS等のサラフィー聖戦主義行動に従事する者達が、サウジ人を毛嫌いし寧ろ殺戮したいとさえ願っていると云う事情だ。これ故に、サウジ人達は、イラク、レバノン、シリア、そしてイエメンで勢力後退に直面した。サウジアラビアの資金力は、エジプトのアブドル ファッタ―フ・アッ=シーシー大統領の場合のように、既に確立された国家に於いて、彼自身の権力集中化を目指す者達には役立つ。しかし、リヤド政府は、当該地域の内戦に於いて彼らの利益を拡大して呉れる、忠実なる非国家同盟者も代理勢力も持ち合わせがないのだ。

 一方、トルコはアラブの春の後、当然の成り行きとして、アラブ世界の中でムスリム同胞団及び同類のスンニ派イスラム教徒達の活動に於けるリーダー的存在としての立場を前面に打ち出した。これは潜在的に力を有し、影響力発揮を可能とする行動だった。トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は、大衆的なスンニ派イスラム党が自由選挙によって常に勝利し、成功裏に(少なくとも一定期間は)経済政策を実行し、地域内の大国である同国を統治可能である事を、身を以って示したのだ。エルドアン方式に従い、ムスリム同胞団は、穏健な、民主主義的、大衆的イスラム教政党としての地盤を獲得し、エジプト及びチュニジアの選挙で成果を挙げた。2012年、リビアに於いても、これと類似路線を取ったイスラム教徒達が選挙に勝利、これは同国で実に70、80年ぶりに行われた選挙であった。従って、2011年、シリアのアサド政権が崩壊瀬戸際に在った際、同政権と長年敵対関係にあった、シリア内のムスリム同胞団派が、当然同地で政権継承するように思われた。

 しかし、エルドアンにとって不幸な事に、ムスリム同胞団の繁栄は短期に終わった。エジプトの同胞団派による統治は2013年のクーデターで終了。権力を回復した軍事政権は、残虐な行為で同胞団派の人々を追撃し、エジプト中の刑務所と遺体安置所が同派の人々で溢れた。シーシー大統領は、孤立無援ではなく、アラブ首長国連邦とサウジアラビア政府から支援を得る事が出来たのだ。理由は、その二国共に、スンニ派一般民衆の行動が同政府の存続を脅かす事態に進展する事を、イラン勢力拡大を恐れると同様、重大な危機と認識していた為だ。そして、これら大衆蜂起がリビアとシリアに於いて内戦へと展開して行くに連れ、当初から武力より平和的民主主義に基づく市民参画を掲げて来たムスリム同胞団派は、暴力による解決を叩きこまれたサラフィー聖戦主義者達によって、取って代わられる事態となった。同胞団派の最後の成功と云える、チュニジアのアンナハダ党の例は、議会閉鎖で守勢に立たされる中、カイス・サイード大統領への権力集中により2021年7月に成し遂げられたものだ。エルドアンは、彼がアラブの春後には、トルコがスンニ派世界を主導できると考えた10年前に比べ、今や国内で経済と政治両面で多くの諸問題を抱える状況となった。代わりに、イラク、レバノン、シリア、及びイエメンに於いて優位的な影響力を用いる事により、イランこそが中東地域に於ける諸危機を最も有利に利用できる立場に在る地域勢力となったのだ。

 各党派間争いと云う観点のレンズを通し、現在の中東危機を注視する場合に見えてくる問題は、スンニ諸派がまず結束する事はないと云う点だ。ムスリム同胞団派と、アルカイダやISISのようなサラフィー聖戦主義派とでは、イスラム教に基づく政治のあるべき姿に関する理念が、根本的に相容れない。又、トルコとサウジアラビアは単に地政学上の競合関係に在るに止まらない。アラブの春が進行する間、イスラム教が政治上に如何なる役割を果たすべきかに就いて、両国は互いに極めて異なる見解を支持している。更に、ムスリム同胞団派でもサラフィー主義派でもない、スンニ派世界の嘗てのエリート達は、2011年に一旦衰退したものの、今や、彼らは、その敵討ちをしようと勢力を盛り返している。斯様(かよう)に中東地域の危機を教義諸派間の闘争と捉える場合、スンニ諸派は決して一枚岩ではない点を承知して置く必要がある。

民主化の実現によって全ては解決しない

 党派間の暴力抗争を減じるには国内秩序が必要だ。これが確立されれば、各派(或いはそれに限らず)に対し国境外から介入を招く下地が減少するだろう。しかし、国内秩序を回復する仕事は容易ではない。

 当該域内で破綻した諸国家に民主主義が芽吹いたとして、其処(そこ)に必要な国内秩序が齎(もたら)されるかと云うと、寧ろそうならない場合が多い。中東危機問題の核心が党派主義に在るとの見解は、民主主義欠乏をその原因と見做すのと同様に誤りである。それにも拘わらず、近年、中東世界での反政府抗議行動、特にアルジェリア、イラク、及び2019年のレバノンに関し、民衆と彼らの指導者達との分断こそが不安定な中東状勢の根本原因である、との議論が依然取り沙汰されている。然し、政府が人民に対しより多くの責任を負うようになれば、彼らから受ける抵抗も少なくなるという前提に基づいて議論を進める事は出来ない。この前提は、実際上、理論的には正しい。処(ところ)が、社会が根本から分断されている場合には、政府は一体、誰の為に責任を果たせばいいと云うのだろうか? ある特定集団の要望に焦点を当てれば、それ以外の諸集団にとっては自ずと不利益となるか、或いは少なくとも、不利益であるように見える為に、結局収拾が付かないのだ。

 抑々(そもそも)選挙それ自体が国家の脆弱体質や社会分断等の諸問題を解決出来ると云う証拠は存在しない。米国侵攻後のイラクに於いて、行われた数々の選挙を以ってしても暴力的情勢を終わらせるには程遠く、又、誕生した諸政権が海外からの介入を防ぐ力量は殆ど持ち得なかった。これと正反対に、イランがイラクの様々な政党を支援する行為により、その見返りに選挙後、新政府樹立に際しテヘラン政府は共同参画する事を主張出来たのだ。エジプトの自由議会選挙と大統領選は、幅広い大衆支援を得た軍隊によって呆気(あっけ)なく覆(くつがえ)された。又、カダフィ体制後の、リビアの2014年の第二回議会選挙は、既に存在していた同地域内及び政治上での分断を招き、その結果、互いに対立する二つの政府が国の東西に存在するに至った。2021年12月に予定されていたリビアの大統領選挙は、緊張が高まる最中、結局延期された。2019年のアルジェリアの抗議運動は、アブデルジィス・ブーテフリカ大統領を辞任に追い込んだが、彼の後継者アブデルマジドは、抗議が強まった対象である政治エリート階層出身であり、抑々(そもそも)彼が選出された選挙そのものが著しい不正に満ちていた。もし、選挙の実施によってこそ、社会に生じた分断に橋架ける事が可能だと考える人がいるとしたら、過去2回の米国大統領選挙が齎(もたら)した、それとは真逆の結果を思い起こして頂きたい。

秩序回復が優先付けされるべき地域とそうでない地域

 中東に尚も利害を持つ米国は、同地域に正しい対処を行う為にも、問題を正確に分析する事が重要だ。9/11襲撃後の数年間のように、同地域が米国外交政策の優先課題ではなくなるのは避けられぬにせよ、それは米国が中東から撤退する事を意味しない。このように衆目を集める見出しとは裏腹に、米国の同地域に於ける政策と姿勢には変じ難い継続性が存在するのだ。同地に駐留する兵士数を削減したとて、米軍諸基地の組織体系そのものが解体した事にはならない。バイデン政権は、米国が中東でイランの影響力拡大に対抗する旨を、近来全ての米国諸政権と同様に表明したに止まらず、核開発計画に関してもテヘラン政府との交渉に臨む姿勢を示している。原油は依然として重要な戦略商品で、その世界最大の産地がペルシャ湾岸である。米国とイスラエルとの良好な関係を望むのは、米国外交政策に於ける超党的支柱のひとつだ。中東が利害衝突によって引き裂かれる事なく、秩序が回復し、より予見可能な地域になるようにと米国が願う理由は沢山ある。

 しかし、あるものを望むと、それが実現するとは別物だ。特定国家が脆弱である根源原因は、米国の力で解決できる類の問題ではない。アフガニスタンやイラクに対する米国の野心的な介入が失敗した事は、持てる軍事力及び際限ないかに見えるその軍事予算を以ってしても、米国が当該地域に強力な国家を直接建設するのは不可能な点を例示するものだ。これを教訓に、米国は中東に於いて、漠然と“安定維持”と云った一般論的な当該地域策ではなく、より控えめに、具体的利害得失を特定する作業が必要だ。例えば、石油資源が豊富に埋設されるペルシャ湾岸一帯に安定的な統治を回復させる事は、他地域の安定化よりも優先されるべき重要課題だ。イランに対し核兵器拡散の迫り来る危機を鎮静化させる行動の方が、リビアの統治者に対する同行動よりも重要だ。米国は、自国経済及び軍事的支援の許す範囲で中東諸政府の手助けが可能だが、その線を越え多くを望むべきでないし、又、資源投入の過度な拡散により、単に効果の薄い支援が多くの国々及ぶ事態は避けねばならない。それに代え、米国は、其処(そこ)に最も重要な利害が認められ、更に、同地で権力を持つ政権が、国境線を廻り一定の支配力を行使し且つ市民社会に政府サービスを提供しつつ、国家能力の構築に進捗を見る事が出来る地域を、選定する必要があるのだ。

 その事例の代表がイラクだ。同国は不動産投資を賄うだけの石油資源を保有する。ムスタファ・アル=カーズィミー首相は、イランからは一定の距離を取る事、及びイラク市民の要望に対し応えて行く意思を表明している。彼は、米国からの支援と理解を得るに値する人物だ。彼がイランと完全に断絶する事は有り得ない。即ち、今後の彼の政治生命は、ある一定期間は、イランを受容する事に依存せざるを得ないからだ。より安定的で、より組織整備された、そして独立国としてのイラクこそが、ペルシャ湾岸地域政治の修羅場の舞台と化する事なく、一国の当事者として振舞いつつ、同地域が秩序を保った予想可能な領域となる目標に向け、大きな進捗となるのだ。バイデン政権は、引き続きカーズィミー政府に対し、適度な軍事力配置と政治上支援を継続すべきで、一方、イラクがイランと闘わざるを得えなくなる事態に追い込まぬよう配慮を要するのも同じ理由に拠るものだ。

 それ以外の中東地域は、米国にとって余りにも無秩序な状態な為、支援、或いは脅威の対象、又は説得を試みる対象として満足な効果は期待出来ない段階に在る。リビアは分断と暴力が横行し、譬(たと)えその豊富な石油資源を以ってしても、国家建設に着手するには程遠い状況だ。レバノンは歴史的とも云える同国経済と社会制度の破綻に見舞われており、この事は、同国に資産や自らを投資して来た米国人達にとっては確かに心破れる事態だ。彼らの協力により同国大学制度や医療体制は嘗て中東で随一の質を誇ったのだ。しかし、今や、米国外交政策によって解決可能なレバノン諸問題は殆(ほとん)どなく、又、同国を巡る利害得失関係に於いて米国にとり決定的に重要なものは極(ごく)僅かだ。

 イエメンも同様の状況だ。同地内戦に終止符を打つ為の外交諸努力は賞賛に値するし、又、人道問題危機を緩和する為には不可欠の最初の第一歩でもあり、それ自体目的として大変結構なものである。しかし、イエメンが近い将来に安定化するか十分秩序を回復する可能性は殆(ほとん)ど無い。従い、米国が同地に於いて長期的に約束できる対応は取れないし、取るべきでなく、例外として出来るのはサウジアラビアに対し外交的解決を継続して働きかける事くらいである。

 米国は、破綻した社会や、非国家組織に対し彼らの将来の道筋を決する手助けが求められる類の対処が余り得意ではない。しかし、一方、当該地域に於いてしっかり国家としての秩序を持った国々が如何なる行動を取るかに対しては、極めて効果的な影響を与えうる丈(だけ)の経済的及び外交上の底力を有しているのだ。ワシントン政府は、例えば、エジプト、イスラエル、或いはサウジアラビアと云った諸国に対し、常にそのような影響力を持っているとは云えない迄も、寧ろ、影響力がない時の方が少ないのだ。時として、当該地域の敵国に対し影響を与える程の圧力を掛ける事すら出来るのは、オバマ政権が牽引した多国間による外交努力によりイランと核開発合意に達した事実が物語る通りだ。少なくとも国家機能を持つ相手に対し、個別具体的な米国の課題解決―石油、テロ対策、アラブ・イスラエル間の不協和、核不拡散等―の為に外交諸問題の優先付けを行う作業は、体制変換による国造りや民主主義拡大と云った非現実的な話を追い掛けるより、遥かに意味ある事なのだ。過去20年間で米国が中東で払った血と財政の犠牲は余りに多かった点が略(ほぼ)共通認識となった現在に於いては、同地に於ける米国外交目標を、自国で無理なく費やせる国家資源に見合う水準まで下方修正する必要があろう。

 もし、より秩序立ち予測可能な中東が米国益に叶うなら、ワシントン政府はこれら諸国家の指導者達と積極的に付き合って行く必要がある。譬(たと)え、彼らが同地域を統治するに於いて専制的で、屡々(しばしば)徳義上嫌悪すべき手法を用いているに拘わらずだ。例えば、イスラム共和国のイランと交渉するのは、何もワシントン政府が同国体制に便宜を授けている訳ではない。核兵器が拡散する可能性を減じるに必要だから止むを得ず行うのだ。この他にも、エジプト、ヨルダン、サウジアラビア、又はアラブ首長国連邦と云った諸国が専制国家体質である点は誰も疑わない事実であるものの、これらは同地域に於いて全て重要な友好相手なのだ。無論、自国市民を威厳と尊敬を以って遇するよう彼らに要求するのは間違った事ではないが、米国が彼らに対し保持する梃(てこ)の力は、より実際的且つ同地域特有の外交的方面の為に温存されるべきであるのだ。

 秩序と民主主義理念との鬩(せめ)ぎ合いが如実に現れているのがシリアだ。もし、シリアに秩序回復され、テロ諸組織が同領内を我が物顔で使用する事が無くなり、次第に同国が現在のイラン及び露西亜(ロシア)系支援者達との距離を取り始める事態となるなら、それは現在のシリアの姿より好ましい。しかし、今やアサド体制は国内敵対勢力を駆逐しつつあり、同国内で一定の支配を再確立する途上にある点が、リビアやイエメン政府と異なる処(ところ)だ。この現実を認識すれば、確かにアサドという人物が不愉快千万に違いないとは云え、彼の政府との段階的な対話を開始する事は有意義で、先ず手始めに同国に尚も残留する小規模米軍へ及ぶ危険を極小化し、最終的にはサラフィー聖戦主義者(Salafi jihard;イスラム原点回帰主義一派の過激主義)達を同国から排除する迄を画策すべきだ。アサド及び彼の父親が拠って立ったバアス党体制は、嘗て数十年間に亘りイスラエルとの国境線を平穏に保ち、且つイスラム派テロ諸組織が米国を攻撃する拠点としシリア領土を利用するのを防いで来たのだ。その地点まで時計の針を戻す事は、十分価値ある目標たり得よう。    

 アサドを戦争犯罪人と呼ばわり忌み避ける事で心情的満足は得られるだろうが、それによってシリアの現実に少しの変化も生じない。寧ろ、それはアサドのイランに対する結び付きを一層強化させ、イラン対イスラエルの危機がシリア本土に於いて発生する可能性を高める事になるのだ。民主主義に基づく、繁栄した、そして自由なシリアを目にする事がもし出来るならば、それは他の中東独裁主義政権が民主化へ向け推移するのを目撃すると同様、なんと結構な事ではあるものの、斯様(かよう)な変遷は、譬(たと)えあったにせよ決して一朝にして生じるものでない。現在の処(ところ)、米国が望み得るのは、比較の問題として、今よりは秩序立った中東を目指すと云うのが精一杯の線なのだ。    (了)

【訳者後注】

*ホッブス理念:17世紀の英国哲学者トマス・ホッブス(Thomas Hobbes 1588-1679)に因む。著書「リヴァイアサン(Leviathan)」に、人間本性は自己利益の為の競争と闘争に在る故に、悲惨な戦争状態に至るとの理念を唱えた。その回避の為に絶対的主権への服従の必要を説いた。

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