【特集記事】国力を増強させる要因分析 ~国家興亡を左右する真の諸要因とは~(原典: What Makes a Power Great ~The Real Drivers of Rise and Fall~ Foreign Affairs 2022年Jul/August号 P52~63)

執筆者/肩書:マイケル・マザル(Michael Mazarr)、ランド・コーポレーション所属、上席政治科学者

論稿主旨

 露西亜(ロシア)によるウクライナ侵攻と、中国が表明した、この国際秩序を崩す暴挙に対する暗黙裏の支援は、大国間の戦略競争を改めて激甚化さる結果を招いた。そして、米国では、今や、同戦略こそが自国安全保障政策自体を決定付ける重要課題になっている。これ迄生じた事態は、ある不確かな、ほんの序の口と思えた出来事が、突如、緊急且つ危機に瀕した現実となり眼前に迫って来た、と衆目は認識したに相違ない。現に、米国高官や分析者達の多くは、事態に対応し軍事能力、防衛力、及び基幹諸技術投資の増強を声高に叫ぶのだった。彼らは説いて曰く「ワシントン政府は、国家の意思を今後、幾度も幾度も試される覚悟を据えねばならぬ。つまり、代理戦争及び、米国同盟諸国網や安全保障協約に対し別途、新たなる諸挑戦が生じる事態に、毅然と構える事が必要だ」と。然し、このような短絡的発想は「大国間競合に於ける勝利が、支配を巡り争われる一連の個別競争に一々勝利を重ね、その蓄積度に依存する」と云う誤った考えに基くものだ。

 歴史からの教訓は、それと異なる道を示唆する。長く苦しい闘いに国家が勝利する真の要因とは何か? それは、相手に勝(まさ)った軍事力や技術力ではなく、又、危機や戦争の度に国民に対し意思を強要する事でもない。大国と雖(いえど)も、多くの過ちを犯し得る ―戦争に敗北し、同盟諸国を失い、軍事力上の優越性すら失くし― それでも最終的に長期的競争に勝利する事は可能だ。つまり、世界権力の優劣を競う闘争に於いて、決定的な差異を齎(もたら)すものとは、軍事力でも経済力でもなく、それは社会が持つ根源的な性質乃至特質と云えるのだ。即ち、それらは、経済生産性、技術革新、社会結束、そして国家意思と云った諸実態を創出する為の基礎となる「国家が元々備えている諸特性」である。

 無論、これは目新しい洞察ではない。実際、米国でも政治家、学者及び批評家の多くの者達が過去数十年間に亘り「国内の最前線が活動的で靭性に優れる事が、海外に成功を収める為の石杖だ」との考えに少なくとも口先では賛同して来た経緯がある。然し、斯かる、曖昧にして陳腐な文言ではあっても、社会科学者達の手に掛かれば、この背景に潜む、国家としての諸資質を特定し且つ計測する事は可能なのだ。筆者は、米国防省総合評価局の依頼を受け、ランド・コーポレーション社に於いて15ケ月間に亘る研究を主導、又、外部歴史家達から諸分析の支援に基き、正にそれら諸要因の特定と計測を実施した。我々の手法は以下の通りだ。先ず、経済発展、技術革新、及びその他多くの諸項目に関する膨大な歴史事例の研究や調査資料を当たり、其処(そこ)から、歴史を通じ「国家の競争的成功を支えた」幾つかの、国家としての共通特性を抽出した。それにより炙り出されたのは「強い国家的野心」、「学びと順応性を尊ぶ文化」、「社会が差異を受け入れる寛容性を持ち多様化した社会」等、の特徴であった。

 これら国内に於ける種々の強みが、国際的な権力を築く為の基礎となる。然し、国家が成功する為には、強みの諸点を強化すると同時に、これらが互いに補強し合う関係になり、更にそれぞれの均衡を欠かぬよう努める必要がある。例えば、国家的野心が余りに強い場合、国家は限度を超えた拡張に走る可能性があり、過剰な目標を自身に課し国を危機に陥れる。一方、反対に、余りに過少な野心しか持たぬか、或いは多様性や、積極的に学び順応する姿勢を欠く場合、国家は衰退へ向かう負のサイクルに入り始める虞がある。もし、今日の米国人達が、嘗て20世紀後半に米国繁栄を推進した多くの資質に就いて思い返すならば、現在はそれらが何とも様変わりしている事に気付くだろう。其処(そこ)で、米国が競争力の優位性を再度回復すべきと考えるなら ―更に、中国と露西亜との闘争での勝利を望むなら― 米国として為すべきは、国防予算や最新軍事技術に対し競合諸国より多くの資金を費やす丈(だけ)では不十分なのだ。本当に必要なのは、我が国が強みとする処(ところ)の諸特性を、一層、動的且つ改革的で、更に順応性に富むよう、改めて養成する事である。

発展中毒症

 紀元前432年のペロポネソス戦争前夜、コリントスからの協議団は、その後一世代もの時を費やし闘われた、同戦争回避の為に最後の努力を試みるべく、スパルタの地へ赴いた。トゥキディデスが自身の戦争歴史書に詳述するには、コリントス人達は、スパルタ及びその諸同盟が、アテネの権力増長に対し警戒の目を怠った点を叱責した。云って曰く「アテネ人達は、改新主義者(発明中毒)で、彼らの設計は、概念上そして実践面に於ける迅速性に最も優れる特徴を持つのだ。これに対し、諸君達は現状維持の才には長け、発明に対する総合的熱意は有するものの、愈々(いよいよ)動かざるを得なくなった時に、十分遠くまで行く力を欠くのだ」とコリントス人達は苦情した。更に彼らが続けて云うには「彼らの気性を一言で説明するならば、この世で自身が働き詰めに働き、そして、他人に対しても少しの休みも与えぬ為に生まれてきたようなものだ」と。換言すれば、アテネが与える脅威は、海軍規模や、土地の肥沃さ、人口の多さと云った要因に根差すものではなかった。アテネが、スパルタに取って代わるべく立ち向うに至った理由とは、もっと広範で包括的なものだ。即ち、社会的そして政治上の仕組みがスパルタより優れていた為なのだ。

 これと極めて似た話が2000年後に展開した。冷戦に於いて、米国は最終的にソヴィエト連邦を打ち負かした。その理由は、二国を比較した時、米国はより活力に満ち、発展的で、生産的で、法制度に沿っていた。現に、ある評論家は、直接的にワシントンをペロポネソス戦争に於けるアテネに、そしてモスクワを不活発で保守的なスパルタに譬えたのだ。以上の二件の歴史的競合事例が与える教訓は、恐らく世界の全ての強国間の対立関係に当て嵌まる。と云うのは、国家の興亡は、複雑で相互に関連し合う一連の特徴によって生み出される「国家動態と競争上の優位」により常に左右されるからだ。

 然し、これら諸特徴を特定するには、困難な分析作業を伴う。多くのものは抽象的で且つ誤った定義に至り勝ちだ。又、多くの事象に対し信頼に足る評価を下すのが困難或いは寧ろ不可能である点は、殊(こと)正確な資料が存在しない歴史上の諸事例の場合に当て嵌まる。又、複雑に入り組んだ地政学上の相互諸交流に於いて、決定的な因果関係を辿る事も困難乃至は不可能だ。この事も起因し、動態(ダイナミズム)や競争力を支える諸要因の特定を過去試みた、これ迄の多くの努力は、結局、国家的意思や衰退が「本来特定の民族人種に備わる特質だ」との本質主義論によって片付けられるか、さもなくば、「ある特定の諸文化がそもそも優れていたのだ」との仮説に終始してしまったのだ。

 この問題を克服するには、先ず何よりも、国家の成功と失敗に関し基準となる尺度を定める必要が生じる。経済成長の諸計測値や技術改革の諸指標がある限り、これらが明確な尺度になると考える向きがあるかも知れない。然し、実はこれらは原因と結果との間の仲介因子に過ぎない。即ち、経済成長は無論、国力増強の源泉ではあるのだが、同時にこれは、経済発展自体を創出する、何か他のより根源的な要因により生み出された結果なのだ。これと同様の関係が、技術革新、軍備近代化、生産性向上、及びその他の多くの国家力量を計測する尺度にも当て嵌まるのだ。

 更に問題を複雑化するのは、国家ダイナミズムと競争力に関連した諸特性に高く秀でた幾つかの国々は、必ずしも世界階層に於いて頂点迄昇り詰めた訳ではない。例えば、和蘭(オランダ)やシンガポール等の場合は、国が小さ過ぎたのだ。又、スウェーデンや韓国等その他の国々も、世界的指導力へ至る推進力を失うか、又は手にする事はなかった。それでも、これらの国々は、経済成長、高度な技術、高い生活水準、国家の団結、及びその他の成功に関連する諸成果を生み出した事は確かだ。ある諸闘争では、社会的諸特性以外の要因が決定的な差異を齎(もたら)す場合が存在する事も、これに関連した問題だ。具体的事例として、アテネはスパルタよりも、地政学的力量と長期の文化的影響力に勝っていたものの、疫病蔓延(ペスト)やシシリー島侵略等戦略上の諸失策も手伝った結果、ペロポネソス戦争に敗北した。これらは次の事を示すであろう。即ち、優位性を持つ社会的な様々な特質を特定する試みに於いては「安全と繁栄を享受する寿命や能力」及びそれに関連し「競合者達との相互闘争や世界舞台に於ける立ち位置に於ける勝ち負け」と云った諸点に関し、国家の力を計る「絶対尺度」を考慮に入れる必要がある、と云う事だ。

 我々ランド・コーポレーションの研究はこの双方を対象とした。我々は先ず、国家の興亡並びに経済と技術進歩に関する文献を調査、そして主要な歴史事例に就いて数多くのケース・スタディを実施し、その歴史的研究手法を更に、不平等、多様性、及び国家アイデンティティーと云った観点から一層近代的な調査手法を以って補完した。其処で、我々が発見したのは、絶対及び相対の双方基準評価に於いて競争に勝つ力を示した諸国は、それらの上昇途上、或いは世界階層の頂点に長く位置した、それら一定期間に於いて、どの国も皆、七つの優れた特性を反映する傾向が在ったと云う点だ。その七つの特性とは「国家的野心を推進する力」、「市民への機会均等」、「共通し結束力ある国家アイデンティティー」、「活力ある国家」、「有効な社会諸機関」、「学びと順応を重んじる姿勢」そして「差異の許容と多様化の顕著な進行」である。

 これら諸特性と競争下で国家が成功する事との間に、一貫した因果関係が一般的に認められたが、時代や国同士により多少変動する。そして、無論、これら諸要因のみが、国家の成否に関連する変数ではなく、例えば、自然災害、感染症蔓延、及び地理的要因等の他諸要因も当然影響する。然し、競争環境下に於いて国が運命を決する際に、これら七つの特性が極めて重大な役割を演じる事が、広汎な調査の証拠により示されたのだ。

成功の条件

 最初に必要不可欠な特質 ―先ず間違いなく、「国家力量に関連する全ての諸形態を創設する」能力に他ならないが― これは、ある種、「国家的野心を維持推進して行く為の手法」に等しいものと云える。即ち、外界に対しては、この気質が、国家の帯びる使命、国家の偉大さ、及び世界的政治舞台で影響を振う事を望む願望、と云った感覚を生み出す。又、内に於いては、この気質は科学研究から事業や産業、更には芸術等、全ての分野に於いて、学び、為し遂げ、そして成功する為の国家的推進力を創出するのだ。国家的野心を推進するには、全ての国民に対し、必要な知識と彼らが世界に与える影響力とを身に付けるよう求める事になる。それらは、国家が探求し、統制し、理解し導いて行く為には不可欠な要素だからだ。但し、この衝動は又誤り易くもある。過剰な国家野心は、破壊的な戦争か、或いは、限度を超えた国家資源を使用する、帝国主義による征服かの何れかを選択し、破壊的な諸反動を被る可能性がある。一方、この様な野心なくしては、諸国家は、力強い国内経済や技術的革新力構築や、それら分野に関する競争に打ち勝つ事は滅多に出来ないのだ。

 国家的野心が重要な要因と示す多くの証拠は歴史上の記録に見いだされる。即ち、「競争に勝利する事」と、「この野心に類似した、一定変種の特性を有する事」との間に、一対一の相対関係があるのだ。例えば、ローマは拡大への野望を抱いていた。同国は、共和制時代の中期から後期、及び帝国時代初期に掛けて、正しく大国への上昇を体現し、且つ、当時、他の諸大国に勝る同国優越性を保持していた。この双方の達成は共に、統制、支配、そして征服を重要な価値と見なす、非常に強力な社会的慣習によって推進されたものだ。更に、これに類似した野望は、国家内に於ける偉業達成や発見への願望を含み、高度な競争力を備えた全ての国々、例えば英国、米国、明治時代の日本、伊太利亜ルネッサンス期の都市諸国家、等々に共通に見られるものだ。一方、これと反対に、社会が劣化する原因は、冒険精神が衰退し、本来それに伴って生じるべき諸特性、つまり改革への渇望や新しい知識への好奇心、並びに危険を冒して挑戦する気質等迄も喪失して行く傾向がある為だ。

 又、高い競争力を有する社会の共通点として、精力的に国家野心を抱く事に加え、「彼ら市民の間に諸機会が広く等しく開かれている」傾向が有る事は見落とせない。この様な社会は、市民に対し成功に至る多くの道筋を提供し、これにより生産的役割から除外される集団を、総人口に対し低い比率 ―少なくとも競合国との比較上― に止める効果を持つ。時間経過に従い、この気質を持つ社会は、様々な点に於いて差別が一層減少する。即ち、全ての社会集団に対し、あらゆる権利と機会が付与され、起業精神に満ち創造的発展に続く多くの道筋が明示され提供されるのだ。ローマ、明治時代の日本、更に産業革命時の英国が、皆、大いなる優位性を確保出来た背景には、機会均等を提供する様々な手段 ―最もこれらは現代の視点から見れば尚も信じがたい程度に制限的ではあったものの― による貢献が有ったのだ。これら社会は、当時の水準として一般的に、他の競合諸国に比し、より大勢の母集団から、より多くの生産的で才能に満ちた人材を吸引する様々な手段を発展させ得たと云える。

 歴史を通じ、市民に均等な機会を供した諸国は、そうでない国々に比較し、優位性を得た事は明らかだ。征服された人民に対し市民権を与え、解放された奴隷達をも重要な社会的役割の中に組み入れたローマの政策は、経済上並びに軍事上の利点を与えた。同様に、欧州大陸の諸国家が厳格な階級社会であったのに対し、英国と米国は社会の流動性を備え、この利点に力を注ぐ事が、19世紀と20世紀に於ける両国の卓越した経済的そして科学上の躍進に貢献した。調査チームは、特定問題に絞り込んだ諸研究を通じ、均等な機会が社会で共有されるのが重要な条件である点に就いて多くの証拠を発見した。例えば、不平等は成長の減速と技術革新の停滞とに相関関係があり、又、不平等が解消されている状態が、創造性、技術革新、従って経済成長と関連している事が判明したのだ。

 国家競争力を促進する、もう一つの特性は、「国民に共有された、理路整然たる、国家アイデンティティー」である。競争力に満ちた社会は、その大半が、集団内で強く共有されたアイデンティティーを基礎にして立ち、目標を達成する。それらは、現代的に云えば「独立国家としての地位」を意識する事だ。集団で共有されたアイデンティティーの利点は、政治や人種問題の脆弱性から生じる、競争観点上の障害を国家として回避する丈に止まらず、その国に於いて、競争的努力を積む目標に国民を結集させるのを可能にする事だ。歴史家のデヴィッド・ランデスは、国民に共通し首尾一貫した国家アイデンティティーに就いて、『国家の富と貧困』(The Wealth and Poverty of Nations)の中で以下の通り見事に述べる。

 『英国は、国家として早期に形態を整えた処(ところ)に利があった。これは、単に、統治者が君臨する王国とか、政治的責任を負う一団を持つ国家との意ではない。それは、自覚と自意識を備え、共通価値観、忠誠心、並びに等しい市民権に裏打ちされた集団だ。国家は社会的目標に対し個人の願望と実力との調和を図り、集団力による相乗効果発揮によって成果を向上させる力を有する。市民達が国からの鼓舞と新しい目標に対し一層効果的に反応する場合、これらの国々は競争に打ち勝つ力を備える事が出来るのだ。』

 これと同じダイナミズムは、競争力に優れた他の多くの諸大国台頭に寄与した。その好事例は、日本が明治、第二次大戦後の二時代に見せた傑出した産業と軍備の発展で、これらの達成には国家アイデンティティーの共有化が寄与した側面が大きいのだ。「真の日本人特性とは何ぞや?」の問題を巡る論争は止まず、このアイデンティティーは同国内で常に奥深く複雑で明瞭性を欠くものであったにも拘わらず、それでも、それは「自己犠牲と苦しみを分かち合う」国家精神を筋金入りに迄、陶冶するに至ったのだった。

 又、高度に競争的な諸社会は、ある種の「積極的国家形態」によって便益を得る傾向がある。即ち、斯かる国家像を記述すれば、有益な社会的資本と国家能力増進に対する投資を惜しまず、一貫性を保持し、強力で、目的意識を持ち、且つ有効な政府、と云う事になる。積極的諸国家は、国々やその時代により異なる形態をとるものの、それでも、それらは、一般的に経済の成功と社会安定には欠かせない公的及び民間諸機関の育成に注力した共通点を持つ。これは、国家が主導し発展を引き受ける事であり、具体的には、民間部門を育成し、国家の安定を確保し、強力な教育制度を推進し、革命的な諸技術に対し十分な市場を確保し、そして、決定的な局面に際しては、堅固な国家の意思を展開する事を意味する。積極的国家が競争的優位を創出した明らかな事例は、米国が初期に採用した産業政策や、後に国家による研究開発と特定諸技術に対する国家支援を行った事等だ。伊太利亜ルネッサンスの都市国家や近代の英国や日本も、又その好事例と云える。これと反対の例としては、西国(スペイン)ハップスブルグ朝やオスマン帝国の場合、国家権力の鍵となる諸特質を増進する為に不可欠な「首尾一貫し持続的な対応手法」を発達させる事に失敗した為、結果として彼等の競争力が損なわれたのだ。

 経済学者達も又、活動力ある諸国家が近代国家に於ける成長を起動し成功させた、多くの手法を列挙する。例えば、マリアナ・マッツカートは、情報技術、グリーンエネルギー及び製薬分野の発展に、国家支援が不可欠な事を示す。即ち、インターネットやGPS技術は何れも、米国防高等研究計画局(Advanced Recearch Project Agency)の開発計画から派生した事例を始め、政府支援は、原子力や先進的航空システムを含む数多くの技術を生み出す事に寄与したのだ。 

 積極的国家は、更に、競争的諸社会が備えるもう一つの特徴にも依存する。つまり、「効率的な諸機関が存在」している事だ。経済学者ダロン・アシモグル、ダグラス・ノース、及びジェイムズ・ロビンソンは、強力な包括力を有する諸機関が経済成長を促し、国家法治性を促進し、社会的諸課題に対応し、更に有効な軍事力を創出する点を明らかにした。例えば、英国の場合、100年の歴史を刻む国家議会、強力な金融部門、そして無敵の海軍、これら全てが同国の経済的及び地政学的台頭に貢献した。一方、ソヴィエト連邦の衰退と最終的な崩壊は、諸機関が腐敗し非効率化した場合に何が生じるかを露呈した事例だ。然し、競争的優位と効率的な社会諸機関に関連する全ての諸特性を備える丈では、尚も国家の成功と没落を説明する条件として十分ではない。即ち、これら特性は、更に、より汎用的な価値観と慣習とに結び付いて初めて有効に機能するのだ。

 大概の競争力に優れた諸社会は、もう一つ共通した特徴を持っている。つまり、彼らは「学びと順応」の重要性を強調する傾向があるのだ。これら社会は、創造し、探査し、そして学ぶ必要性に、正に火が付いたように駆り立てられるのだ。既存の規範や伝統に縛られる代わりに、彼らは、順応性と試行錯誤を受け入れ、公共政策、事業形態、軍事概念や教義、更には芸術と文化に於いてすら、改革断行する覚悟を有する。歴史を通じた分析から ―アテネからローマ、そして産業化された大英帝国、そして米国等― 競争に勝利した国々は、皆、ある特性と密接な相関関係を有する事が判明した。それは「広汎に亘る旺盛な知的好奇心と学ぶ姿勢を堅持する」特性だ。同様に、国家成長と改革に対しては、「国が現代技術の教育実施を誓約する」特性が正の相関関係を持つ点が最近の研究により立証され、更に、国家成長に対し「国民の教育習熟度」も同様の相関関係が有る事が明らかとなった。

 最後に、活力に満ち競争力を備えた国家は、殆ど例外なく、「差異に対する敬意(diversity)と多様化主義(pluralism)」とを具現する。幅広い経験を積み、そして偏りのない知覚を得る事は、一層、豊かな思考や能力を創出する助けとなり、それらが結果として国家力を支えるのだ。多様化が、企業、国防諸軍等の組織を強化する理由は、組織員達が競争環境の中で互いに競い合う為だ。又、異種の尊重は多くの形態に展開して行く。ヴィクトリア時代の英国、或いは近代日本のように、譬(たと)え、人種や種族が単一の国家であっても、幅広い政治や商業の多様性が国家競争力を推進する。

 現代の意味に於ける「多様性」も、又、競争的優位を約束する。坩堝(るつぼ)の如き社会では、競争や革新を阻害する素になる、種々の頑迷な教義が採用されにくい傾向にあり、これら社会に生活する外国人達をも同化させる能力は、更に海外から有能人材を吸引する効果を発揮する。こうして、これら諸利点は、多くの諸大国台頭と競争優位性維持に貢献し、それら効果は、諸組織多様化に関する膨大な実証研究でも裏付けられたのだ。

均衡の取れた処方箋

 前述七つの特性が全て国家の競争力に関連するとは云え、その全諸特性の保持を誇る社会であっても、長期的成功が必ずしも約束される訳ではない。長期間に亘り競争力を維持する国家はそれぞれの特性の均衡を取る必要があるのだ。何故なら、これら強味は、そのどれ一つを取っても、急激に増進し過剰になると寧ろ逆に不利に働く為だ。それは多分「国家的野心」に就いて最も如実であり、同特性は国家自身を過剰な拡張へ導く危険性も秘めるのだ。この点は他の諸特性に就いても同様だ。例えば、積極的な国家構築に向け尽力する程、中央集権的諸課題を追求する結果、これらは独裁主義と不寛容を揺籃する可能性がある。効率的な諸機関も屡々(しばしば)過度に膨張し、風通しの悪い抑圧的官僚体質に陥る。多様性も過剰になれば国家の一体感が損われる虞がある、等々だ。従って、大半の活力に満ち、成功を収めた諸国家は、本質的な七つの特性全てを健全な度合いを以って追及した共通点を持つのだ。

 一方、これら諸特性は、各々が特性を相互に補強し合う作用を持つ。それぞれが優位性を最大限に発揮する場合とは、個々の特性の持つ単独効果を越え、他の諸特性と合わせた総合的成果が発揮された時だ。国家的野心と学びや順応を尊ぶ文化は互いに強固に補強し合う点は、躍動的な諸国家や有効に機能する諸機関の事例に見られる。機会均等は多様性の尊重や実社会の多様化実践主義と合わさって、真の価値実現へと結実するだろう。斯かる国家成功の諸処方が、他の要素と互いに補強し合う事により、顕著に効き目を発揮する事は、その時代や手法に違いはあるとは云え、過去、競争力を以って支配した社会に共通な点だ。云うなれば、国家成功の秘訣とは、これら諸要因がごった煮の如く交じり合う状況、即ち、「強い国家的野心と充実した政府支援」、「変化に富み多様性のある人的資源」、「効率的に機能する社会諸機関と法の支配」、「国家社会に共有された精神」、「実験を懼れず新しい考えを歓迎する姿勢への深い崇敬の念」、これら全てが、混合された状態であらねばならぬ。

 しかし、上述秘訣が実際に成功を収める為には、社会に無くてはならぬ存在がある。それが、私心を捨てたエリート階層の一団である。そして、この積極果敢で私心なきエリートの一団が、社会階層内を流動化する手段を通じ、より広い社会を代表しつつ、それとの繋がりを維持可能な場合、その国家は底知れぬ程強大なる競争的優位性を得る事が出来るのだ。然し、一度(ひとたび)、その国家エリート集団がそっくり腐敗に陥るか、或いは大半のメンバーが腐食し、過剰な利益追求に現(うつつ)を抜かす場合、国家の闊達さ、強靭性、及び競争力は衰える。即ち、国家エリート集団の資質こそが、同国統治機構自体の適法性を決定付ける意味に於いて、極めて重要な役割を果たすのだ。エリート達が腐敗し、公共利益への献身を忘れ、自己利益優先する場合、彼らの運営する社会や機構は停滞し破綻が免れない。

頂点を過ぎて下り坂へ?

 上記に鑑みれば、米国の指導者達はちょっと立ち止まり思考する必要があるだろう。20世紀後半、米国は歴史上、如何なる国よりも上手に国家競争力を身につける秘訣を会得した。そして現在、米国社会は、様々な観点から見て、本質的な七つの特性、全てを依然力強く発揮し続けている。つまり、社会的流動性、差異許容、そして特に、政治的多様性である。更に、これらは多くの諸問題を抱えるものの、それでも、米国政府諸機関は、地方政府から連邦政府レベルに至るまで、その透明性と効率性の観点で、世界標準評価により、尚も高い順位に位置付けられる。一方、重大な懸念も又存在する。即ち、もし、この儘の軌道を走り続けるならば、米国が75年間に亘り自身を世界の支配的勢力へと押し上げて来た多くの気質を、弱めるか、或いは更には失ってしまう危険性があると云う問題だ。

 前出七つの特性の内、四つに関し特に危うい状況に在る。先ず、最初は「意思と野望」だ。調査結果から明らかな事は、米国に関し、国家そのもの、その価値、或いはその野心に関し、若年米国人達は、老齢層とは見解を異にする点だ。ユーラシアグループ財団の2019年調査の例を見てみよう。年齢18歳から29歳の若手米国人層はその内、優に55%以上が「米国が特別な国との認識を持たない」とする。一方、60歳以上の高齢米国人層は同見解に共感する人々の割合が25%に過ぎない。米国は「特別な国だ」と信じる事は、無論、野心とは別物だ。然し、その信念こそが、国家として果たすべき役割がある、との揺るがぬ自信を指し示す尺度なのだ。多くの諸調査結果を総合すると、海外へ米国軍事力を展開する必要性を疑問視する人々は増加を続け、国家が果たすべき役割に関し自信が減退し、斯かる状況は、取りも直さず、その国が嘗てより自信喪失状態に陥りつつあると云える。幅広い分野の諸問題に関し、半世紀前と比較すると、米国人は、一般的に将来に対すると同様、主要な政治、社会上の諸機関に対し信頼を失なっている実態が、世論調査から明らかとなった。無論、斯かる調査結果に不沈は付き物で、現に例えば、国内諸機関に関する調査に於いて、議会に対する米国人信頼度は、此処(ここ)数十年間、今に至るまで常に低位停滞を続けている。然し、全体として見れば、世論調査によって描き出されたのは、最早、自国に対する自信欠如に止まらず、国家意思を世界に対し課さんとする時、その根拠たるべき権利と義務に就いて、より一層懐疑的な考えを持つ国の姿である。

 上記に加え、嘗て米国民が共有した、「国家アイデンティティー」が今や、より重大な危機に面している状況と云えるかも知れない。世論調査や他の観測結果からは「社会的分類化」等への傾斜が一層強くなっている事が判る。斯様に、人々が似たような見解を持つもの同士が移動して隣接し、集まり暮らす傾向は、この国が、共通し拠って立つ基盤がなく、相互に不信感を抱く各々の陣営毎に分断されつつある事を語る。国家の脆弱性が加速する理由として、情報が互いに隔てられ連携を欠く環境下に、情報秘匿や陰謀理論の蔓延を許してしまう状況にその一因があるのだ。 

 「機会の均等」維持の面にも按ずべき兆候がある。つまり、不平等は拡大し、世代間の交流が停滞している。経済学者ラジ・チェティと彼の協力者達による「ハーバード機会分析プロジェクト」の研究に拠れば、今や若年層の内、自分達の両親よりも多く稼ぐ者は半数に過ぎぬのに対し、1940年代生まれの人々では同比率が90%に上っていたのだ。無論、例えばベンチャー企業分野等に於けるアクセス機会の格差解消の諸方策等は、やらぬよりはましだが、これら根本的傾向を覆すには力量不足だ。米国機会均等の水準は、精々良くて停滞状態で、現実には、寧ろ過去数十年間に亘り進展を遂げた後、今や、後退期に入ったと云えるだろう。

 更に、米国人達の「学びと適応の精神」も、有害な情報社会環境によって次第に脅かされている。競争的社会は、謂わば情報を処理する有機体の集合で、これらを構成する様々な組織が世界に関し諸洞察を加え、それらを行動へと変えていく。処(ところ)が、米国の情報市場自体が著しく棄損し、今や有害且つ悪影響を与える環境下にある。この原因を説明するのが、膨大な量でソーシャルメディアを通じ湯水の如く流布する誤った情報、ニュースメディアの視聴率目当ての刺激性偏向姿勢、信頼するに足り得ない多くの諸情報源、そして、公けの討議の場に於いて、敵意と偏狭な思考を煽る“トロール”主義(インターネット荒らし)の出現等だ。

 米国は、今後も社会的強味を発揮し続けはするだろう。しかし、種々状況に鑑みれば、行く末は極めて危惧に満ちている。即ち、国内では非常に多くの政府や民間諸機関に官僚的統治機能が爆発的に増殖し、方や、拡大している投資の多くの部分は自社株買を含む、所謂「価値の搾奪」の為に投じられると云う現状は、我が国は新たなる競争に打ち勝つ力を創出するよりは、これ迄長きに亘り維持された優位性によって蓄積された便益の山に専ら安住し始めた明らかなる兆候と見える。嘗て支配的権力を振るった一国が、その競争力の頂点を過ぎつつある場合に見られる複数の特徴点を、今の米国は示している。つまり、物事を図る幾つかの重要な基準に照らし、最早、我が国は深刻な自己満足に陥っているのだ。それらを列挙すれば、先ず、目先の利益と過剰利潤追求に血道を上げ、長期的な利を生む生産的な突破手段としての投資を顧みない。そして、米国は今、社会的且つ政治的分断の中に在る事が明らかで、それを打開する為に改善策が必要であると認識しているにも拘わらず、国民はその改革には消極的であるか、或いは実行する能力を欠いている。そして、その結果、嘗て政府に対する信頼増強に大いに貢献した、国民皆が共有する国家的事業に対して、今や国民は逆に著しい信用失墜の念を抱く有様なのだ。

 米国自身が社会的力量の衰退を許す中、一方、その競合国中国は驚くべき圧倒的量を以って、幾つかの諸分野で社会的権力増強を図り、同時に他諸国に対し、将来決定的痛手となる潜在的な弱みの種を植え付ける事にまんまと成功していると云える。中国は、力強く説得力に富む国家的意思と野望、並びに人口の大半が共有する統一的国家意識(アイデンティティー)を駆使し、国内、海外双方の便益を疑いなく享受している。つまり同国は、資源を人的資本、研究開発、ハイテク分野、及びインフラ基盤へと集中的に継ぎ込む積極策を講じる躍動的な国家だ。又、地方政府は、活力と多様性に満ちた社会政策の諸実験の場を理論的に提供する役を担うべく準備万端で控えている。中国はその学びの姿勢と教育制度の水準に関し伝統的に誉高く、更にその政府諸機関は極めて高度な法体系下に運営されて来た。それを示すように、2022年のエデルマン・トラストバロメーターのオンライン世論調査に拠れば、非政府機関、民間事業体、政府、及びメディアに対する平均信頼度に於いて、28ケ国中、中国が最上位の位置付けを獲得した。斯様に、既に幾つかの観点に於いて中国は競争に打ち勝ち、今後、米国を追い抜き、更に前に抜け出す為には不可欠となる、強力な諸特徴の組み合わせを、現在着々と育んでいる事が今や明らかなのだ。

 それでも、中国の先行きは頓挫すると考えられる理由も幾つか存在する。確かに同国が提供する機会は広く展開するものの、尚も限定的だ。例えば、同国々内格差は拡大し、世界経済フォーラムによる性的差別調査に於いて、その平等度は153ケ国中106位だ。又、若者達の間で社会の流動性欠如を益々懸念する向きがある。更に、世界銀行による世界各国の政府指標は、政府の質の良し悪しを計測するものだが、中国の順位は依然米国より劣後する。同評価が示す中国の弱点は、多様性を欠くばかりか、それを称える風土がない。然し、最も致命的な点は、同国発展に重要な諸特徴に関し、それらの間で健全な均衡を取る作業が放置されている事だ。つまり、同国野望は今や過剰に膨張し、最早自滅的な様相を呈する迄に至っている。誇り高き祖国を思う共通信条は、外国人嫌悪や排他的精神へと凝結する虞があり、これらが海外から学ぼうとする謙虚な姿勢を阻む。更に、中国国家は、社会及び経済生活に於ける全ての分野を支配しようと試みる、過度に積極的状態に陥りつつあり、政治改革や順応の機運を窒息死させ、自由な調査や研究を阻害する厳格な教義を課す流れにある。これら諸傾向は、周知のその他諸難題 ―人口の急速な老齢化及び債務膨張等― と相俟って、中国に取っては危険を警告する信号なのだ。

意思の問題

 米国に於いては、中国と真逆に、嘗て支配的権力を保持した国が停滞状態へ凝固して行く傾向に対し警戒すべき様々な前触れが見られる。同様の兆候が数多くの他諸大国や強大な諸文明を衰退に追いやり、競争的地位を失わしめた歴史事例は、枚挙に暇ない。この過程は実に毒に満ちた周期と云え、競争的優位を獲得する為に役立つ様々な気性が積極的に補強されていく過程とは、丁度真逆の性格のものだ。即ち、本来積極的に挑むべき諸機会が退蔵され、社会は自己満足に陥り、新しい規範に左右される結果、国家が表明すべき強い志は後退し、国際的課題の達成や、国内での知的、社会的、及び科学的発展の為の推進力が失われる。党派や理念の衝突により一体感が脆弱化し、社会上の諸機関は弱体化し機能不良となるか又は独裁的乃至極度な官僚的体質に陥る。嘗ては行動力に満ちた国家が凝固し、問題解決や新しい機会創出に向けた大胆な策を打てなくなるのだ。

 米国競争力を維持する為に最も必要なのは、本質的特徴を再活性化させる為の国家計画を策定する事だろう。我々ランド・コーポレーションの分析は、具体的諸策採用の提言を導き出す事を目的としないが、我々の研究成果は、どのような分野に於いて、政策的動機と誘導が必要かを示唆している。それと別途、同研究が呈示するのは、今や国家がその約束を新たにすべき時が来たと云う事だ。即ち、万人に均等な機会を与え、更に、報われない階層や低所得層生活者層の中に存在する、国家創造力や活力を自由に解き放つと云う約束の履行だ。市民に共有される米国アイデンティティーを育むには、米国々家社会とその精神が国民から賞賛される手法を見出す事が不可欠だ。その為には、同国の過去の歴史の複雑な一面に配慮は加えつつ、何ら悪びれる事なく、米国の歴史と文化に関する統一的諸テーマを振興すべきだ。そして、研究、開発、及び学びの為の新しい諸典型と云った分野を促進し乍ら、限定的で的を絞った領域に於いて、米国が持つ新規の積極的な役割を受け入れる必要がある。即ち、過剰に官僚的な体質や、民間及び公的諸部門での創造的活動に対し抑圧的な管理に対しては、これを排除すべく挑むと云う事だ。更に、情報分野に於いては、誤った情報や偽情報に対し断固戦う事を意味する。

 これらの議題は完全に超党派の問題だ。但し、例えば、闊達な商業市場促進や、国内社会とアイデンティティー意識の強化等には、種々の先導力が必要になる。と云うのは、これら諸問題が屡々(しばしば)保守的な諸議題と関連付けられる為だ。一方、その他の問題は、発展に必要な、より一般的な優先事項と見做される。その事例として、機会をより広く分け合い、更に、公共利益に資する諸市場を形成すべく、活動的国家に力を与える為の諸努力等がこれらに含まれる。「皆が信奉出来る何かが確かに存在する」と断言可能な理由は、国が追求すべき、優先的諸課題の組み合わせに関しては、必ずそれらが建設的且つ健全であるよう、政治領域を通じ常に調整と反映がなされ、これによって米国は常に優勢へと導かれる社会的特徴が在る、との前提に立っているからだと考えられる。従って、「偉大な米国」という見識を、党派を超え、再度取り戻す事が今日重要になるのだ。

 米国が現在直面する諸挑戦は、至極現実的なものだ。中国と露西亜とにより呈示される脅威を誇大化する事はあってはならぬものの、この両国が目指す目的は、米国益と価値観に反するのみならず、これ迄米国に利する処が大であった、第二次世界大戦後の国際秩序に対しても真逆であるのは確かだ。処が、これらに反応しワシントン政府の取るべき策として今日広く流布する、軍事力倍加や露西亜及び中国権力の封じ込め策の新規展開を賞賛する行為は、実は精々解決策のほんの一部分に過ぎぬ。これら諸努力は、ややもすれば容易(たやす)く非生産的になり得る。即ち、米国の海外領域の過剰伸長を招くか、或いは国内に於いては新しい圧政や規範を生じる可能性を孕む。従い、それらに代え、米国という国を、競争的で、変化・進展止む事なく前進させ、歴史上極めて偉大な駆動力へと押し上げるのに成功した、その資質を再び活性化させる為にこそ、断固たる国家的努力を払う事が一層重要になるのだ。

 2005年、歴史家のケネス・バートレットは、伊太利亜ルネッサンスに関する一連の講義を終えるに際し、同国停滞と衰退の理由に就いて、次のような哀惜を帯びた考察で結んでいる。

 『ルネッサンスが終わりを迎えた理由は、一連の行動と信念、及び自己に対する自信、即ち、神話に力を与え、ルネッサンス精神の増進力となっていた、これらのものが単に機能停止し終焉した為だ。そして、その後ルネサンスが嘗ての形態で進行する事はなかった。発展を維持できなかった背景に、軍事、政治、或いは経済上の失敗が文脈上存在するのは確かだが、ルネッサンスが頓挫した真の原因は、精神面に在った。つまり、意思の崩落だ。伊太利亜人は、自身がその只中にあると理解し乍らも、それら諸危機に対し立ち向う精神を喪失してしまったのだ。これは、負の影響を将来に招く過酷な決断なのだが、一方、その決断を甘んじて受け入れてしまうのも、又、人間の自然の性(さが)なのだ。つまり、安全と安定を重視し、眼前の、在るが儘の事態に従属する傾向だ。』

 その運命的な決断が、全盛期には顕著なる進捗を加速させた、あの知的炎に大量の水を浴びせるかの如きものとなった。バートレットの言を借りれば、この決定が、それまで伊太利亜人達をして斯くも短い期間に人類の経験を遥か遠くへと延伸せしめ、斯くも偉大な事業へと駆り立てて来た、「自己鍛錬を怠らぬ神話」を葬り去ってしまったのだ。これこそが、社会には欠くべからざるダイナミズムと活力なのだ。そしてこれが突如失われると、伊太利亜の姿は途端に変わり果てた。即ち、市民は野望、或いは学び続ける姿勢を失い、実験的挑戦と改革を懼れる気運に陥り、権力と利益を他の何物にも代えて執心するエリート層達によって社会は支配されるようになったのだ。

 今日の米国は、非常に驚く程、これと類似した危機に直面している。米国の動態並びに競争的立場に対する主要な脅威は、外部からでなく内部から訪れる。即ち、米国社会が有した特質に変化を来す事から生じる脅威だ。米国にとって次なる大きな挑戦は、競争的優位の時代を刺激し、それにより過去100年間自国を発展させた資質を回復し、更に次の100年の維持を図る事だ。ルネッサンス末期の伊太利亜がそうであったと同様、米国にとって究極的問題は、このような事態に取り組むに際しての理解力や実行能力ではない。此処に問われるのは、最早「意思」の問題だ。即ち、米国が目下重大なる挑戦を受けて立つに足る資質を保持出来るか否かは、同国が創造的決断力、国内連帯感、及び政治意思決定を備えているか堂か次第なのだ。

(了)

コメント

タイトルとURLをコピーしました