【特集記事】中国共産党の賞味期限 ~同党体制は盤石か?~(Life of the Party~How Secure Is the CCP ? ~)原本Foreign Affairs 2021年 July/August号P68~74 執筆者:オーヴィル・シェル(Orville Schell)アジア協会 米中関係部本部 アーサー・ロスダイレクター (その他肩書は省略)

(投稿文関連書籍)

中国共産党 ~十人の生涯で綴る百年~(The Chinese Communist Party: A Century in Ten Lives) 

編集者:ティモーシー・チーク、クラウス・ミュルハン、ハンス・ヴァン・デ・ヴェン

出版:2021年 ケンブリッジ大学出版 

中国の指導者達 ~毛沢東から今日迄~ (China’s Leaders: From Mao to Now)

著者:デイヴィッド・シャンボー

出版:2021年 ポリテイー社

共産党と人民 ~21世紀の中国政治~(The Party and the People: Chinese Politics in the 21st Century)

著者:ブルース・ディックソン

出版:2021年 プリンストン大学出版

(論稿要旨)

 今年7月23日は、中国共産党が1921年に上海で結成以来100周年記念日に当たる。当時、第一回党大会に参集した大勢に混じり、ある27歳の青年が居た。その人、毛沢東は内陸の故郷、湖南省から遥々(はるばる)難儀な旅をしてやって来たのだった。扨(さ)て、今年の夏、中国では、この慶事を祝し記念行事が開催される。中国共産党は天安門広場で軍事パレード挙行を予定し(尤も、軍事色が過度に至らぬよう配慮しつつ)、同国愛国主義新聞である「グローバルタイムス」は、その内容に就いて次のように報じた。即ち、「大規模なお披露目が行われる計画だ。これにより、中国共産党栄光の軌跡と数々の偉業、並びに過去100年に亘り同党が得た貴重なる経験を世に示すのだ」と。又、これに合わせ、書籍の祝賀出版、セミナー開催、記念切手や貨幣、「同党の偉人達」を刻したメダルが発行されると述べた後、更に、もし「歴史に抗する無政府主義者達」、云い換えれば、「我が国の進歩した社会主義的文化の美徳を、愚かにも否定しようとする」悪漢達を見つけた場合には、愛国心に燃える国民達が、即座に当局に通報出来るよう、今回特別に緊急回線が設営される事も付け加えている。

 習近平、中国国家主席兼共産党総書記は、同党員9千万人に対し、毛沢東が聞いたらさぞ喜ぶだろうたいそうな言葉を以って、赤化革命の伝統を一層邁進するよう熱心に説いたのだった。一方、宣伝諸機関からは民衆に対し、くどくどしく次のようなスローガンが浴びせられた。「マルクス-レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、“三つの代表”論(訳者注1)、“科学的発展観”(訳者注2)、そして、我々を導く道標として、新時代の中国特性に沿った社会主義に関する習近平理論とに固執せよ!」と。

(訳者注)1)江沢民が提唱した同党位置付に関する定義 2)胡錦涛が提唱した同党が目標とする発展観

 これらの言語は、毛時代を生きた年配の中国人達には馴染みが有ろう。一方、それ以外の大勢の人々は、時代に逆行する、この様な大指導者崇拝文化が、果たして、近代のグローバル化世界に於いて、尚(なお)も相応(ふさわ)しいものなのか、首を傾げる状況となったのだ。特に、専制的な同人民共和国が直近2021年第一四半期に年率18%もの経済成長を成し遂げ、分析者達を驚かせた中に在っては殊更(ことさら)である。つまり、嘗て西欧の理論家達は、成長する経済は民主主義の発達と表裏一体である、と主張したが、結局の所、これは正しくなかったと云う事になるのだろうか? 

 我々の様な研究者は、 ―私の場合、中国との係りは1960年代初頭、ハーバード大学でジョン・フェアバンク、ベンジャミン・シュウオルツ両教授に師事する学生として、中国研究男子社交倶楽部に所属した事に遡る、長きものであり― 当時、米国人達が赤化中国から遮断され、毛の地殻変動的革命に就いて、中国新聞各紙や香港、澳門(マカオ)及び台湾等、云わば板塀の節穴を通して覗き見て感じ取らざるを得なかったと云う、今も鮮明に思い出されるあの頃の状況に、今この時代に及んで、再び我々が逆戻りしつつある事を実感するのだ。事態は更に深刻だ。外交関係の進展が期待されつつ数十年間の歳月が流れた後、今となっては、北京政府の所謂「戦狼」外交が再び米国との関係悪化を招いている。中国の図書館や公文書保管所は学者に対し扉を閉ざし、同政府は海外関係者へのビザ発給を拒否し、厳しい弾圧により国際的文化団体の締付けを図り、更に新型コロナウィルスによって海外との文化交流は停止に追い込まれた。そして、今回ばかりは、米国はこれ迄とは異なり、遥かに繁栄し、権力に満ち、そして大きな脅威となる勢力に対し競合しているのだ。

 中国共産党が創立100周年を祝する中、同国が単一的権力国家である旨を誇る、正式党史が雪崩の如く満ち溢れる状況下に在り、今般刊行された上記3冊の本は、中国共産主義は、その諸見解と指導力に於いて、実に驚くべき多様性を発揮して来たと云う事実を我々に再認識させて呉れる良書である。同国指導者達は、誰もが一様にレーニン主義政府による一党独裁を是とし賛同して来たものの、実際にはこの裏に、不確実性が深く根を下ろしている事実が覆い隠されているのだ。中国「再興」並びに国家造りの成功を掲げ、国家主義的虚勢を張りながら、一層の支配強化に執着を強める共産党の姿勢には、実は自党が造り上げた仕組に自信を持てないで居る事の裏返しが露呈されている点を見落としてはなるまい。

一党独裁体制の歴史に、実に多くの異なる側面が含まれる

 共産主義国家たる中国が、歴史の中で多様化へと変遷を遂げ行く有様を、最も如実に物語るのが、ティモーシー・チーク、クラウス・ミュルハーン、そしてハンス・ヴァンドファン編集による著書である。彼らは、中国共産党の矛盾に満ちた発展経路に於いて重要な役割を果たした百年、10名の人物を評価して行く。その中には、例えば、1920年代中国共産党の組織化に貢献した和蘭(オランダ)人共産主義政治家、ヘンク・スネーフリート、別名マーリンと呼ばれた人物が含まれる。或いは、著名左翼派知識人であった王實味、彼は自身が誠実率直であったが故に、1947年斬首され果てた人物だ。更に、改革思考派の趙紫陽共産党総書記、彼は1989年に抗議グループの学生達に温情的であるとして党追放の憂き目に逢ったのだった。

 一方、デイヴィッド・シャンボーによる「中国の指導者達」は、略同様の広範な期間を、毛並びに彼の後継者達に関する5つの論説を以って網羅する。後継者達とは、鄧小平、江沢民、胡錦涛、そして習である。習は、彼以外の毛後継者達から、明瞭なる決別を図った事が、シャンボーにより巧みに叙述される。即ち、彼は集団統治体制を終焉させ、彼こそを独裁的指導者へと冠たらしめ、中国を極度な中央集権型で且つ新毛沢東主義者の専門技術者官僚達による専制政治体制へ再生せしめたのだ。更に、彼は、外界と中国との相互関与が助長されると云う夢を打ち砕き、これにより米中関係を益々悪化させ、負の旋回軌道へと投げ出したのだった。本来、外界との繋がりを通じ、貿易の増長、学術界での交流、民間社会間での交流、並びに外交活発化が生じ、米中の溝を埋める事が出来る前提なのだが、その希望は断たれた。

 又、政治学者のブルース・ディックソンによる著書「共産党と人民」は、同党の強みと弱みのバランスシートを描く事で、中国共産党は、同党が持つ多機能に変容可能な特性を生かし、如何にして歴史上、最長の統治を誇る共産党たり得たかを読者が理解する助けとなる。鄧による活気溢れる諸改革により、中国のレーニン主義者達の気質は曲折し始めたのだが、習の指導の下に中国は再び、急速に嘗ての毛沢東主義者達の姿に戻ってしまった。但し、其処での新しい点を、ディックソンは明らかにする。即ち、同党の拠る所の正当性とは「最早国民の同意に基づくものではなく、それに替え、国の近代化を推進する力そのものなのだ」と。

 中国共産党の歴史に関し、これら物語を通して明らかなのは、同党は外部からの批判的意見も聞き届ける事により、党方針を変化させて来たという点だ。この多様化を遂げる伝統は中国共産党のDNAに組み込まれ、恰も潜性遺伝子の如くに、いつ何時(なんどき)それを発芽させても不思議はないのだ。これらの幾度かの諸変遷から、観測者達が思い起こす事は、中国の体制というのは、如何なる時代に於いても、その一時の瞬間に於ける、ひとつの静止画像に過ぎず、決して安定的に継続すると誤解してはならない、という点だ。

 それでは、この無際限に変容を遂げつつも、目覚ましい自己発展に関する洞察力と、一方では自傷に至る無分別ぶりを併せ持ち、分析者達を驚愕させて止む事のない、この国に就いて、一体、我々外部の者達はどのように理解すべきだろうか? シャンボーの以下見解は参考となろう。即ち、彼は、習式統治が展開される基礎を、PCに譬えてOS“基本ソフトウエアー”と呼び、この中には、中国が常に国内及び海外の敵に囲まれているという脅迫観念,並びに、秘密主義への病的執着、全てを支配する欲求、終わりなき「再教育」と「修正」を求める運動、更に、「共産党による武力一手支配」への拘りと云ったプログラミングが詰まっていると云うのだ。この事に加え、中国共産党は、「人類には出来得る限り自由度が与えられる事が最善である」と云う、市場経済にも適合するこの見解に対し、決して同意せず、その代わり、却って、人類の生活は、凡そあらゆる観点に於いて管理、介入される事が望ましいのだと強く主張する。そして、同党は「一党支配に挑戦しようとする如何なる要求も許容しない」とディックソンは記す。

 中国共産党に深く根差す、国民を支配し制約を課す事への衝動的欲求は、中国が外界世界と織りなす交流に於いても、類似の表現とし表出する。例えば、所謂ソフトパワーに関し、大方の民主主義国家では、それを、独立した、彼らの文化や社会活動から自然派生した何かしらのものと捉える一方、中国共産党に於いては、これを注意深く管理する必要のある何かしらのものと見解し、しかも、それを管理する手法として捏造や攪乱行為をも容認するのだ。中国の好印象を海外に広める為、同国共産党は、潤沢な予算を持った巨大機構である、中央統一戦線工作部を維持運営し、此処が習版の社会主義を代表し、世界中に宣伝活動を展開している。

 そして、国際貿易政策に就いても、北京政府は同様の動機に従う。市場経済に於ける世界共通の知恵として、国際的商業活動は規制されない状態で最もよく機能する事は明白だ(WTO等、国際機関による監督行為に従う事を例外として)。ところが、中国では、同国共産党により、貿易とは自国の影響力や地政学的戦略上の優勢を確保する為に行使し得る武器であると見做されている。

 最近の中国貿易政策は、第二次世界大戦前に独逸(ドイツ)が採った経済戦略に酷似する。1941年当時、ベルリン政府を評し、経済学者のアルバート・ハーシュマン曰く、最早、自由貿易信奉者や保護主義者とは無縁な、単なる支配的強権を振う貿易従事者に過ぎないと。最近では、経済学者のロバート・アトキンソンが、次のように著している。即ち、ヒトラーの率いる独逸は、国際取引を敵対諸国に対し、商業上及び軍事上の優位性を確保する為の重要な道具として利用し、譬えそれが自国での経済費用を増す事になろうとも、彼らの経済を弱体化させる事を優先目的とし、海外貿易を権力、圧力、及び征服の為の道具へと変貌させたのだと。今日、アトキンソンは更に論じて曰く、中国は丁度この様な強権的貿易者になり、素材・資源の重要な産地であることを盾に、「いつ何時(なんどき)、中国は輸出停止するかもしれぬと相手を恐れさせ、他国を属国の如くに変じせしめようとしている」と。

 そして、北京政府は、自身が報復的で制裁好きな貿易相手国である本性を既に現わしている。ノルウェーに対し、反体制派の劉暁波がノーベル平和賞受賞後、サーモン輸出を禁じ、又、韓国に対しては、ソウル政府が米国ミサイル防衛システム配備を受け入れた後に、自国内の韓国チェーンのロッテ系販売店を閉鎖し、同国への観光を止め、Kポップの交流も停止。更に、カナダの場合には、中国通信機器企業ファーウェイ財務責任者がバンクーバーで逮捕されると、同国輸出産品に対し禁輸措置を取った。豪州に対しては、キャンベラ政府が新型コロナウィルス感染拡大の中国起源説調査をWHOに調査依頼するや、同国産のワイン、綿花、及び大麦に関税を課した。更には、ベルリン所在のシンクタンク並びに欧州議会員達に対し、彼らが中国による同国内ウイグル人に対する扱いを非難した途端、彼らへの制裁を発表した、と云った具合だ。  

 アトキンソンの見解によれば、中国は、単により大きい市場と利益を求める貿易国ではなく、自身を世界に冠たる覇権国へと変遷させる事を目指す、専制権力なのだ。実際、習自身が以下主張を述べている。「中国帝国の大いなる再興を実現し、我が国が世界中全ての国々の中でより確実にそして強力に存在できるよう、一致団結し尽力する事が我々の責務である」と。もし、アトキンソンが正しいなら、今や世界が対峙するのは、単に貿易、技術、産業、そして軍事力に優れる、新興の手強い相手であるのみならず、同国専制体制が安んじられる世界を造り出そうとして、あらゆる権力を動員する国家、と云う事になる。

北京政府の弁証法

 独逸の哲学者ヘーゲルは、歴史は弛まず前進する事を確信した。カールマルクスは、この理念を発展させ、歴史は社会主義の世界へと不可避的に進むと結論付けた。又、実に多くの西欧の思想家達も同様の目的論的観念に陥り、偉大なる自由と民主主義へと進むのが逃れられない道だと信じたのだった。

 マーチン・ルーサー・キング、ジュニアは、「道徳世界の弧は長く長く連なる。しかし、必ずそれは正義へと向かい曲線を描いているのだ」との名言を残した。レーガン米国大統領は、マルクス・レーニン主義は歴史上、灰塵の山と帰す運命にあると、英国議会の場で語った。ビル・クリントン大統領は、専制主義的国家は、特に中国を念頭に置き、「歴史上で誤った立ち位置にある」と、数多く言及した。バラック・オバマ大統領は、テロとの戦いで勝利を予想し、その理由を「我々こそが、歴史上で正当な立場に居る」事に帰した。同大統領が、前出キング牧師の言葉を織り込んだ絨毯をあつらえ、執務室に敷いて居たのは有名な話だ。

 しかし、これら理想主義の米国人達は、結局、歴史の方向を見誤っただろうか? 或いは、そもそも、歴史に方向性は存在するだろうか? 米国に於いて、人種差別への抗議活動、銃乱射事件、右派大衆主義者達の米国議会への乱入、更に、同国保守層による、自由尊重の名の下にコロナウィルスのワクチン接種拒絶という諸問題が満ち溢れている中、寧ろ、自由主義と民主主義に替えて、歴史は、習体制による大胆なレーニン主義的資本主義に軍配を上げるに至るのだろうか?

 党結成100年に合わせ発行された、これら3冊の本の著者達は、残念乍ら、歴史がどのような結末を意図しているかに就いては、千里眼的な先見を提供するには至らない。しかし、彼らの著述による幾つかの素描を通じ、歴史の方向性は見出せないにせよ、歴史とは安定的であるよりは、常に変化を齎(もたら)し続けるものだと云う事に関しては、信じるに足る丈の諸理由が十分提供されている。彼らの叙述によれば、中国共産党の長い冒険に満ちた旅路とは、権力闘争、様々な主義間でのぶつかり合い、各派間での争い、そして理想の姿を巡っての激しい衝突が絶え間なく続く、常に引き裂かれた歴史だったのだ。スターリンが北京に遺した、一党独裁体制は、党創立1921年以来、本質的に変わらず維持されて来たものの、これと裏腹に、3冊の本に綴られた同党の生い立ちが、実は帝国主義の終焉以来、中国政治は互いに対立する両極の間で振れる、と云う事態を惹起したのだっだ。そして、正にこの変動し止む事なく、且つ不安定な状況こそが、北京政府が未だに予測の付きにくい状態に置かれている原因と云える。

 今日、中国での、厳格な社会支配、目を見張るような社会基盤整備、成長著しい経済、並びに軍備近代化を見れば、それは一見、秩序正しく、自信に満ち、突出した指導者と結束された党の周りに一丸となった、無敵国家と映るかも知れない。確かに、同国の成功は軽んじるべきではない。しかし、一度(ひとたび)、同胞相争う闘争、支配力への病的執着、式典への強い拘り、及び宣伝狂、といった面を持つ同党歴史を考慮すると、又異なった図式が浮かび上がる。即ち、同体制が実は不確実で自信に裏打ちされたものではないが故に、指導者達は偉大な国家の幻影を維持する為に多額の費用を投じ、彼らの政権運営があっぱれな技量であると信じられるよう取り繕う、と云う姿である。歴史がどのような帰結に至るにせよ、起こるべくして起こる決定論から予想される最終形態とは如何なるものだろう。少なくとも、国家による厳格な支配と「狼戦士」的外交術を駆使する事により国威維持を目する、不安定な新毛沢東主義の技術官僚専制政治に落ち着くとは考えにくいのだ。何故ならば、その様に厳しい締付けを伴う、不安定で、好戦的な仕組みは、現代の人類が抱く最も強い欲求とは衝突し矛盾を来すからだ。つまり、人々は、その所属する社会で、譬え如何なる制約下に置かれようとも、最大限の自由と不干渉を享受する欲求が止む事はないのである。かと云って、どう考えても、習近平版の中国共産党統治下にある限り、同党や不安で落ち着かない同党員達が、中国市民に対し、政治上の自由な権利と不干渉を実質的に認める事は断じてなさそうである。

 ところが、その一方、中国でも、特筆すべき様々な挑戦的行為が繰り返し突発的に発生、上辺(うわべ)は繕われた同国表層を吹き飛ばし、その下に煮え滾(たぎ)る溶融核の存在を露呈しつつある。中国共産党中央学校の元教授、蔡霞により最近発表された随筆の内容は、一つの事例だろう。彼女は明け透けに「習は改革者ではない」と記述する。「彼の在任期間を通じ、同体制は残虐さと無慈悲を以って権力に固執する、寡頭政治へと更に劣化して行った。そして一層弾圧的且つ独裁的な体制に変じて行ったのだ」と。蔡は中国共産党と仲違いの後、職を追われ亡命を余儀なくされた。(昨年8月)

 又、清華大学の許章潤法学教授は、体制批判を展開、(インターネット上に)鋭く且つ皮肉の利いた文章を公開したのだった。即ち、新型コロナウィルス感染爆発への処置を誤り、又、個人崇拝により毛語録を復活させた習を次のように非難した。「型で押したような神格化と個人崇拝は、もういい加減にして欲しい。」彼は、更に訴えて曰く、「大量の嘘と終わりなき苦難は、もう十分だ。血を啜る赤い恐竜も、貪欲な党体制国家も、もう沢山。愚かしい政治と、過去7年間の時を巻き戻そうとする諸策には、うんざりする。過去70年に亘る、赤い専制政治が齎した死体の山と血の海はもう、御免被りたい」と。そして、同教授は即座に、大学の地位を解雇された(昨年7月)。

 更に、この春、温家宝前国務院総理迄もが意見を発し、彼の亡き母親の追悼文を、非著名新聞「マカオヘラルド」紙に投稿、文化大革命中に迫害を受けた彼の父親に就いて記述した。記事に曰く、「彼は乱暴な尋問や、殴打を受ける事が屡々(しばしば)あり」、一方、「私自身は、中国は公正と正義の国であるべきと信じており、更に、人民、人間、そして人類の特性に対し常に敬意が払われるべきだと考えていた」と。しかし、この彼の間接的な批判は、システムに感知され早々にネット上から削除されている。

自らが最大の敵となる可能性が秘められている

 中国共産党の歴史を通じ、先例に見た如く不協和な意見発信が繰り返し表出する事態は一体何を物語るだろう。それは、政治抑圧、経済成長、そして社会基盤への投資だけでは耐久性ある国家は造り得ないと云う事だ。では、何が足りないのか? それは、古典派経済学者のアダムスミスが「道徳感情」と名付けた領域に存在する諸条件である。即ち、中国が驚くべき成長の世紀を具現して尚、この領域に関しては、最も未発達の儘、不完全且つ脆弱な状況に甘んじている状況なのだ。

 「中国共産党」に描かれた幾人かの人物は、中国が人民を尊重する価値観と改革とに対し、実に長きに亘る歴史的伝統を有していた事を、改めて我々に思い起こさせて呉れる。一方、これら伝統に就いて、今の党は一切黙して語らない。代わりに、習は党広報部に以下の警告を発したのだった。「党の広報は必ず党の意思を反映し、党の権威と結束を守るのだ。党を愛せよ。党を守護せよ。思想、政治、行動に於ける党指導要綱に一縷の乱れなく寄り添うのだ」と。

 シャンボーの見解は、「毛沢東主義時代以降、これ迄見る事のなかったような、常に抑圧による統治と網羅的な中国国内支配体制を、習近平が出現せしめた」というものである。一方、これに対し、ディックソンは分析者達への注意喚起として、北京政府の弾圧姿勢に注目する余り、中国共産党がこれ迄も環境へ対応し講じた諸策を見過ごしてはならないと訴える。「中国共産党は、彼らが敵と認識する者達に対し、弾圧を用いる事は紛れもない事実」であると彼は認めた上で、尚、曰く「他方、大衆からの支援を造り出す他の道具もまた利用するのである。即ち、経済を繁栄させ、国威を高揚し、更に一定程度内の世論の揺らぎをも許容する即応性すら見せるのだ」と。「中国共産党」の編集者達は、彼らの意見として、我々に対し以下助言を発している。即ち、中国共産党は挑発すると危険な存在である為、中国外の人々は、中国が和解不可能な敵対勢力へと変遷しないよう、あらゆる策を講じなければならないと。この指摘は事実かも知れないが、それら諸努力が双方方向的でない限りは、事が成就する見込みは薄いと見るべきだろう。

 これらの学術書から、読者は、中国の物質的発展へは敬意を覚えると同時に、習が歯車を変速させた事で出現した闘争的独裁政権に関しては、極めて憂慮すべき警鐘と印象付けられる事だろう。一方、これら書籍には、習による帝国統治によって提起された、ある問題が三冊に共通し標榜している。即ち、人権上の道徳に係る骨格を持たずして、中国は果たして人民の纏まりを維持しつつ成長を継続出来るか、と云う点だ。本質的に重要な構成要素を欠く状態の中、中国は正に自らが壮大なる社会科学実験の場となっている。恐らくは、中国共産党は、国民への国家不干渉や、公正と自由主義、と云った、これら古式ゆかしい価値観が追求される事がない、云わば、完全に新しい発展形態を完成させる所へと、今や漕ぎ着けたのだ。しかし、これら要素が欠乏すれば国家を危うくするのは、近代史が示す所だ。全体主義国家としての伊太利亜(イタリア)並びに独逸(ドイツ)、帝国主義を奉じた日本、フランコ独裁体制下の西班牙(スペイン)、神権政権イラン、そして嘗てのソヴィエト連邦等、枚挙に暇(いとま)ない。

 しかし、中国共産党が斯かる人類の優れた点を欠きつつも、今般、実に100周年を迎えようとしている。中国人民は、他の国、特に西欧諸国とは異なる人達なのだろうか? この問いに応え、或る者は説いてこう云うかも知れない。即ち、中国市民は、他国では人が人為(ひとた)り得(う)るに必要と、社会が一般に見做す根本的な諸観点を持たずとも、蓄財と権力追求に明け暮れる事で十分満足を感じるのだと。しかし、この様な前提が、傲慢な事は云う及ばず、現実的とも思われない。とどのつまり、中国国民が欲求する所の物は、カナダ人、チェコ人、日本人、或いは韓国人と大きくは変わらないだろう。今現在、中国の外側に居る人々が、普遍的価値に就いて過度な表現を同国内に見聞き出来ない事と、そもそも斯かる要求自体が存在していない事とは別問題である。今暫く鳴りは潜めても、過去、それは幾度も幾度も繰り返し発露されて来ており、そして将来、必ず現れ出でる、その事は避けて通れない定めであろうと私には思えるのだ。     (了)

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