【書評】
(1)資本論のそれから (原書 P165-170)
~不平等を抑制する為の過激な一手法~
筆者 アーヴィンド・スブラマニアン
紹介図書:『資本と基礎理念』(原題:Capital and Ideology)
著者:トマ・ピケティ
英訳者: アーサー・ゴールドハマー
出版データ: ベルナップ プレス社 2020年出版 1,104ページ
コロナウィルス感染拡大は世界中を蹂躙し、特に西欧資本主義の機能不全を暴露した。その結果、
今や一斉に有識者達は異口同音に次のように唱え始めている。“(大きな)政府復権の時が来た。レーガン-
サッチャー改革はもはや意義を失った。我々が知るところの資本主義は時代遅れだ“と。
そして、このような状態が特に露わになったのは、嘗て卓越した地位を極めた米国に於いてである。
小説家マーティン・エイミスが描写した表現を借りれば、米国は“犠牲者を出しても利益を
上げる者が賞賛される場所、患者を運ぶ救急車の走行距離がタクシーメーター化されている本場“と
呼ばれる国になったことの見返りに、国民は高い代償を払う羽目になったと云える。
このように利益追求の動機を鋭く批判することが今や流行であるものの、一方、資本主義にとっては救世主に事欠くことがない状況で、大勢が特定の諸対処手法について異なる観点から様々な提唱をしている。即ち、ある者は
市場が評価した結果から所得の調整を行うべき(再配分論者)と云い、またある者達は、市場の配分結果に対し影響を与えるべき(事前配分論者)と云う。更には、最低賃金底上げと独占禁止法の手直しを唱える人々、或いは、企業統治を改革し医療制度の社会化こそ解決であると提唱する者達など多彩だ。そして、そこに仏国経済学者ピケティが、今度は何と私的永久資産をすっかり廃止するという、型破りな資本主義の修正提言を引っ提げ登場してきた。
『資本論と基本理念』は、ベストセラーとなったピケティの前著『21世紀の資本論』の精力的な続編である。
800ページに及んだ前作と同様の密度で更により長編な続編の出版に積極的に取り組むことは、著者自身が大変な自信過剰家であるか、或いは読者がそれに付いてこれるだけのスタミナをきっと持っていることを固く信じて疑わないか、そのいずれかでない限
りとてもなせる業ではない。更に、今回ピケティは新刊の中で、実に大胆な180度方針転換を行っているのだ。先の著作は、資本主義の鉄則に基づく思想、即ちr > g - 資本収益率が全体の経済成長率を上回ること - を前提とし、社会の不平等が際限なく広がると見なされた。本質的に、rは資本家達の所得を意味し、gは社会全体の所得とする。そして、この式が当てはまる場合、前者に有利な形で不平等が生じるということを示したのだ。
しかし、彼は今回の新著では考えを逆転させ、諸選択と作用する力を支持する代わりに、運命論はあっさり捨て去っている。即ち、社会は外因性の力に抵抗するすべを持たない犠牲者ではない、と従来の考えを否定し、人々が不平等に直面するのも、結局は自分達がそれを選択した結果だと論ずる。資本収益率を決するのは科学技術でなく、政治であり、詰まるところ真の元凶は政治なのだと断じる。前作で議論の核心に据えた、前出の資本主義の不動の鉄則は、続編では一切言及されることすらない。経済学者や理論家達の間で、現在もrはgより大なるか、小なるか、或いは等しいかの論争が継続されている最中、ピケティはこの問題に頓着することなく、もはや別のステージに旅立ってしまったのだ。
それでも、『資本と基本理念』は不平等というプリズムを通して観察された、威厳に満ちた経済発展の歴史書といえる。
その学識と広い範囲(世界のどの片隅とて、調査の及ばぬ場所がほぼない程)は正に圧巻であり、且つ又、数々の洞察力は素晴らしく、これらはピケティと協力者達が数十年を掛けて収集した統計から導き出されている。
革命によって越えられない限界とは
ピケティは根本的な疑問を提起する。不公正な社会秩序の転覆を意図した革命や歴史の大変動は、これまで何故その全てが、結局はピラミッドの低層部の人々にとって、極僅かな変化をもたらすことしかできなかったのだろうか。 仏国に於ける不平等格差は、実は、第一次世界大戦前夜の方が仏国革命前よりも大きかった。例えば、上位富裕層1%の保有する私有財産が全体に占める比率は、1910年の方が1780年よりも10%ポイント高いのだ。
“自由と友愛”に向けては、何かしらのことが起こったにせよ、こと、“平等”に関して実現された成果は乏しく、寧ろ武力蜂起に向けた覚醒に果たした役割程には大きくなかったと云える。
ピケティは、この謎を説明すべく、様々な国が被った余波と後遺症の歴史事例を引いて用いる。ブラジル、仏国、ハイチ、インド、英国、そして米国の国々である。これら社会のすべてが、土地、資本、奴隷といった資産を、その所有者に対し補償することに腐心する一方、農奴や奴隷達が顧みられることはなかった。ハイチ革命後の賠償金についての議論では、ピケティは、19世紀の仏詩人で奴隷制度廃止論者であったアルフォンス・ド・ラマルティーヌの言葉を引用してこう述べる。「入植者に対し奴隷の法的所有権を補償することが絶対に必要であったのだ。これらは本来没収されるべきものである。. . . . そして革命こそが補償なき没収を可能にする。しかし、遺憾ながら立法者がこのような行動をとることは絶えてなかった。彼らは、変化し、変遷を遂げはしたものの決して崩壊することはなかった。即ち、彼らが既得権を尊重することは甚だしく、その権利がどこから生来したかなど所詮気にも掛けないのだ。」
ピケティは、資産の神聖化からその衝動は分岐してきたものなのだと説明する。即ち、当時の時の権力者達は、例え自分らが先の政治秩序を革命的な手段で放擲したことによってその地位を得た場合でも、もし所有権が深刻に侵害されれば経済と社会秩序が崩壊することを危惧した。従い、それ故に、社会的公正と所有権との間の抗争は、実は相競合するものではあり得なかったのだ。例を挙げれば、1800年代半ば頃の英国では、奴隷制廃止に際し、カリブ海植民地の裕福な奴隷所有者達に対し、何と英国連邦の国民総生産額の凡そ5%にも上る金額を補償として支払うという選択を選好し、自国本土の貧困改善の為の教育や公衆衛生に対する直接支出に同資金を回すより優先させたのだ。
一方、『資本と基本理念』は、経済史に関する、幾つかの驚くべき新事実も提供している。その一例は、1400年以前の歴史の中で、中国々家は強大であったと一般的に理解されてきた。しかし、財政能力に注目すると、それに続く諸王朝(特に、明王朝、清王朝)が徴収した税収額は、実は西欧諸国の国々に比べ、それらが徴税した額の僅か何分の一に過ぎず、このことが1800年代初期に始まった英国帝国主義による略奪に対し中国が脆弱であったことの説明の助けとなるとピケティは示している。
ピケティ理論はパテック・フィリップ社の高級時計(永久保証付)に類似する
本書の最も斬新な部分は、ピケティの処方箋に関するもので、特に永久私有財産を廃止するという提案だ。即ち、ピケティ及び共同執筆者のエマニュエル・サエズ、ガブリエル・ズックマンは、伝統的資本主義に代え、恐らくは最大限の想像力に富み且つ急進的な選択肢の青写真を描き出している。つまり、市民は誰でも25歳に到達した段階で、社会の平均的富の60%に相当する資本基金を与えられるというものだ。これらの資金は、資産、所得、及び相続に対して課す累進税によって賄われる。これによって、若者が“住宅を購入したり、ビジネスを開業する、等”、ある意味、新しい可能性を持って人生をスタートできる仕組みだ。過剰な富の蓄積は、個人の存命中及び死亡時の相続を通じ国家によって課税される為、資本が社会に循環していく。
ピケティの概念は“パテック・フィリップ社式のカストデイアリズム”と呼ぶに相応しいかも知れない。
即ち、この超高級時計メーカーの有名な次のキャッチフレーズになぞらえて。
「お客様は、実は我が社の時計を所有されるのではありません。お客様はただその時計を大切に愛おしんだ後、次の世代へと受け継いでいかれるのです。」 これこそがピケティが究極に目指す資本の姿であり、唯一大きく異なるのは、富の移転が家族内で発生する代わりに、市民と国家との間でなされる点である。
興味深いのは、ピケティが私有財産に対して抱く大そうな嫌悪感は、決してソビエト連邦や中国共産党モデルが機能しないことを悲しむことに由来するのではない点だ。事実、彼は、レーガンーサッチャー改革の台頭はソビエト連邦の経済破綻が一因と分析しており、また、中国の奇跡的経済発展に関しても、同国の非民主主義的で、透明性を欠く、圧力的手法は彼の好むところでもない。
左派の識者達は“億万長者主義”(billionairism)なるものについては、それが私有財産制によって現れる物の中でも、最もとんでもないものであり、社会病理学上、その存在すら許されざる非道徳的な悪害として公然と非難し、ピケティもこの合唱に同調する立場だ。彼らは、資本主義を和らげると同時にこの病害を取り除く為に、財産税を課することを含めた政策提言を行っている。
ピケティが、所謂“パイの取分への効果”という経済学者が唱える法則に対し注意を払わないのは、上記が原因とも考えられる。この法則は、もし余りに行き過ぎた再配分の行使が提唱された場合、それが却って勤労意欲、起業家精神、資本蓄積といったものを著しく損なう結果、そもそも再配分されるべきもとのパイの大きさ自体が、より縮小してしまわないのかを懸念するものだ。
この問題に対するピケティの無頓着ぶりは、意図的且つ侮蔑的ですらあるとの印象を与える。それは、彼は本当に不均衡の是正を望んでいるのか、怪しく思われる程だ。というのは、彼はより多くの情熱を、ネオリベラル派の第三の道(the Third Way)の御用達人達を批判することに注いでいるのだ。これらの人々とは、仏国のフランシ・ミッテラン大統領、エマニエル・マクロン大統領である。そして、英国のトニー・ブレア首相、そしてアングロアメリカでは米国大統領のビル・クリントン、バラク・オバマ大統領等、加えて彼らの知的な陰の助力者達、これらの指導者や理論家達は、市場と金欲に大そう魅入られてしまった結果、先進諸国をハーメルンの笛吹きよろしく現在の苦境に誘い込んだ張本人であると主張する。彼がマクロン大統領に名付けた、「反平等主義的な国際主義者」というあだ名も明かされる。
それでも尚、ピケティの提言は現実的でないことは明らかだ。ピケティとその共同研究者達が提唱する90%にも上る、高い水準の累進税率に対しては、社会の大半は躊躇せざるを得ないだろう。しかし、ピケティの主なる目的は自己満足に安住する中道政治に戦いを挑むことなのだ。即ち、彼はビィジョンを描き、それを達成する手助けとして、実験を行っていくことを呼び掛けているのだ。そして、米国大統領予備選挙では、民主党バーニー・サンダース上院議員(バーモント州)や同党エリザベス・ウオーレン上院議員(マサチューセッツ州)の主張した内容は、ピケティが描くビジョンの中の重要な諸要素が、実は批判者達が彼に対し言い立てる程には、政治上非現実的な話ではない、ということを我々に認識させたのだった。
人種に関する問題考察
政治上の不平等に対し、人種と氏素性がどのように影響するかという問題は、ピケティが現在の左派と見解を分かっている領域の一つだ。米国では、かつて民主党の重要な支持基盤は低学歴の非富裕層白人米国人であった。
しかし、今や、これらの人々の多くは、経済的には自己の利益に反するにも拘わらず、何故共和党に投票するのだろうか? 共和党は、彼らを手助けしないし(寧ろ、富裕層に減税実施し)、或いは彼らを積極的に害している(福祉政策を縮小している)にも拘わらずだ。多くの左傾化識者は、人種をその動機として指摘し、氏素性を廻る多様化、特に人種が投票行動に影響すると論じている。
ピケティは、このような有権者の右傾化を説明するに当たり、人種が十分な牽引要因である可能性を認める一方で、実はより一層、事を押し進める要因が存在したことを論じる。即ち、賃金低迷など、就労者を今や40年近くに亘り苦しめる諸問題を喰いとめることに対し、中道左派政党は殆どなすところなく、結局は、同党の方が彼らを裏切ったのだ、と。
米国は人種によって、これまでも常に分断されてきており、上述の有権者の行動変化を説明するには、継続的な要因だけでは引き起こされ得ない、何かしらの変化、について解明することが必要である、とピケティは説く。
そして、彼は、白人労働者層の資産に於ける変化こそが原因だと見立てる。彼らが技術進歩と国際化によって翻弄される間、政治指導者達からは極僅かな手助けしか受けてはいないのだ。即ち、ピケティが暗示するのは、彼らが民主党離れをしたのではなく、同党の方が、彼らを見捨てたということだ。彼は著作で述べて曰く、「要約しよう。仏国では左派諸政党がしたと同様に、米国民主党は優先順位を変えたのだ。大勢の恵まれない人々の生活を改善させるのは、もはや同党の主題ではなくなったのだ」と。民主党は次第に、より高学歴で上昇志向の強い階層 ―彼が所謂ブラーミン左派と呼ぶもの- に尽くすようになったのだ。
ピケティは労働者層有権者が中道左派政党から逃避する傾向は、米国のみに止まらない現象だとする。人種識別が略間違いなく顕著ではない西欧に於いても、それは起こっている。大西洋を挟む欧米の両側で、殆ど一致するような、教育格差の悪化が何故生じているか、という問題に説明付かぬという難点がある以上、全ての問題を人種的要因に煮詰めることは誤りである、と彼は云う。
また、インドのカースト制度に関するピケティの議論は興味深い。1950年以降、米国やアパルトヘイト後の南アフリカに於いて、人種間の不平等の是正がなされた度合いよりも、同時期にインド国内のカースト制度に於いてなされた不平等是正の方が見るべき進展があった、と彼は驚くべき発見をした。インドで低階級カーストの所得の高階級カーストのそれに対する比率は、前述二国でそれぞれ黒人所得の白人所得に対する比率よりも高かった事実があり、更にインドでは長い年月を掛けて、より強力な改善をなし得ているとする。
上記の成果が生まれた理由は、“リザヴェーション制度”という断固たる行動によってカースト制の不平等是正をインドが試みたもので、これに対し、ピケティは前向きな評価を下している。因みに、リザヴェーションとは、憲法上に謳われている厳格な割り当て制の婉曲的な名称で、特定カーストに所属する人々のために公共部門の職業及び、政府や教育機関に於いて用意された枠のことである。
独立後、このような割当てとして22.5%が、指定カースト(所謂、最下層被差別階級でアンタッチャブルと呼ばれる)と指定部族(先住民部族)に対し設定された。時を経て、割当ては異なる別の社会集団、例えば“その他、後進諸階級(Other Backward Class)”にも拡大され、ある部門では今やその60%に至った事例もある。
この割当領域が拡大するに連れ、特に上層階級のインド人達の間で、同リザヴェーション制度は次第に論争を引き起こしている。しかし、ピケティは含蓄のある評価を披露、不平等是正に取り組もうとする他国にとって、インドの同システムが感化を与える可能性があることを示唆し以下に語る。
「インド、そして世界中に長きに亘り頑強に存在する、社会的な、或いは地位の様々な不平等を克服すべく、我々はもっと何ができるのかを考察する場合に、斯のインド リザヴェーション制度の経験に於ける成功と限界とを洩れなく検証することは有益であろう」と。
朗報的一面も見過ごされるべきではない
この本が西欧諸国のみならず、世界を論じようとするその意気は賞賛に値する。一方、ある意味歴史を歪めているのが否めない点は、深刻な錯誤を含むと云える。ピケティの書は、1980年以後の期間に於いて所謂暗黒の時代が形成され、当時、経済的な平等に向かって約10年続いていた傾向に対し、逆行する流れが目の当たりになったことを考察する。しかし、読者がこの見解を離れて他に目を向ければ、中国、インド、そして他の多くの国々の、平均的市民にとっては、その期間こそが正に黄金時代と云え、この間に、200年間にも亘って続いた、成長低迷、日常的必需品の欠乏、及び大多数市民が貧困層に沈んでいた、という歴史を反転させ、生活水準は劇的な改善を遂げたことに気づく。即ち、ピケティが悲観するところのものを、実は人類のほぼ半分は大喜びして良いと云えるだろう。
つまり、もしピケティがより国際的で全世界に亘る展望を持っておれば、もっと希望に満ちた話が語れたのではないか。不平等は一国内で見れば拡大しているかも知れないが、世界規模では急速に減じられたのは経済学者のブランコ・ミラノヴィッチが示した通りだ。相関的な成果にのみ注目すると、絶対的成果に於ける大きな成長を見過ごすことになる。即ち、一国内、特に裕福な諸国内での不平等を強調した結果、ピケティは世界の将来がより暗いものであるとの考えに至ってしまったのだ。
更に、ここにもう一つ、扱いにくい、基準の問題がある。西欧諸国以外の人々の資産が増加したこと自体が、実は、正に先進国内で不平等拡大をもたらした、そのいくつかの要因の一つなのだ。シンガポール、韓国、後に中国やインド、そして更に最近ではバングラデッシュやベトナムでは、開かれた世界市場に輸出することにより、彼らの生活を繁栄へと導いた。一方、このことは急進的西欧諸国の経済学者達を束縛することになる。
即ち、もし、グローバリゼーションによってしばしば大学学位を持たない、リールやピッツバーグ在住の白人が職を失い、代わりにバンガロールやハノイ在住のより学歴の高い人々が職を得る場合には、いったい革新派は誰の味方をすべきなのか、寧ろ或いは、誰の為に立ち上がるべきなのか?ピケティは、このような居住まいの悪い問題には取り組んでいない。
『資本と理念』は、方法論としても不安定な観が免れ得ない。ピケティは歴史の必然性という考えを否定して置きながら、その対抗軸である社会行動と選択についての議論は不十分である。
同書の中には数々の口先的な主張が多くを占めるが、それらが説得性を欠くことは、恰も、実際とは異なる歴史展開になっていたであろうと、その可能性を以って、行動の要因の証明となすが如くものである。もし、同書の通り不平等の拡大と不十分な富の再配分こそが、憂鬱に持続する歴史の典型であるとするならば、その一方で、実は人々が異なる選択をすることができたのだ、との主張を読者が同時に受け入れるのは困難であろう。
しかし、これらの欠点を差し引いても、本書は、壮大な過程で提示される不平等の歴史及び、その大胆な処方箋を以ってして、経済史と発展に関する重要図書の目録の中の一冊に、堂々とその名を刻まれるべき著作である。
特に、昨今、経済発展の研究に於いて、経済学者達のアプローチは一層狭窄的傾向に陥り勝ちで、ある特定の場所の、ある一定期間の時間に於いて、ある政策介入が有効であることを明白に証明することに腐心しているのが実情である。斯かる状況下、この主流に反抗を試みた、ピケティは賞賛に値しよう。
アナール歴史学派の偉大な伝統を引き継ぎ、歴史の進歩に関して違いを見分ける見識眼を養い、世界を理解することに止まらず、それを変革することを志す彼に対し、改め敬意を表したい。
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