【書評】英国は悪魔の帝国だったのか? ~暗い影を長く落とす英国植民地主義~(原典:Evil Empires? ~The long shadow of British Colonialism~ Foreign Affairs, 2022 July/August号、P190-196)

対象書籍

 『暴虐の遺産:大英帝国史の側面』(Legacy of Violence: A History of the British Empire

 著者:キャロライン・エルキンズ(CAROLINE ELKINS)

   出版: クノッフ社(Knopf)2022年出版 (896ページ)  

書評者/肩書

ローレン・ベントン(Lauren Benton)、イエール大学 歴史学、及び法学教授。

著書『秩序への渇望:大英帝国に国際法の起源を辿る、1800-1850年』の共同執筆者。(Rage for Order: The British Empire and the Origins of international law, 1800-1850. リサ・フォード(Lisa Ford)共著)

(訳者前注)

先月5月/6月号の特集記事に掲載された、ステファン・コトキンの英国植民地主義を礼賛する論文「終わっていなかった冷静(The Cold War Never Ended)」に対し、訳者を始め各方面より異論続出したと見え、当月書評欄に同植民地主義の暴虐性に焦点を当てた掲題書籍が登場。前出コトキンの偏狭な見解に対し、真逆の論調紹介により均衡目論む同誌姿勢を評し、今回その全訳文を以下紹介します。書評は、エルキンズ(ハーバード大学歴史教授、ピューリッツアー賞受賞者)の当該新書に対し、ベントン(イエール大学歴史教授)が容赦ない批判を試みる構図。

[以下 書評全訳]

 欧州帝国主義諸国の大半は20世紀中に崩壊を見たが、彼らの遺産は今に残る。露西亜(ロシア)大統領ウラジミール・プーチンが、2月ウクライナ侵攻に際し、それを「戦争」と呼ばわるのを避けたのは、彼が現在も尚「帝国主義の言語」を読み上げる証だ。つまり、プーチンの見解では、ウクライナは未だ嘗て真の独立国家たり得た事がない。同国は、嘗て露西亜帝国の一部領土に過ぎず、それが、米国と西欧所在の同盟諸国が主導する敵対的帝国主義陣営に吸収されたとの認識だ。プーチンが同侵攻を「特別軍事作戦」と敢えて呼んだ、その意図とは裏腹に、同戦争は軍事行動ではなく「帝国主義に基づいた政策」である点が皮肉にも露呈したと云える。

 今回、プーチンの諸行動と理屈は、嘗ての帝国主義国領内に現在も居住する人々にとっては、居住まいの悪い疑問を投げ掛けた。即ち「帝国主義を経て誕生した国家は、非力な人民の政治的渇望が完全封殺され続けたその国の歴史から、完全に解き放たれる事は果たして可能なのか?」との疑問を、これらの人々が抱き始めるのは当然だろう。この問いを解明する為に、一つの鍵となるのは、諸帝国の仕出かした悪しき所業の問題の程度だ。つまり、それは極(ごく)限られた一局面であったか、或いは、それより根深いものであったか、更には不正の為の構造的傾向に基づいた組織的暴力であったのか、等々の度合いを評価する必要がある。そして、もう一つの鍵は、片や、法の秩序に忠誠なりと明文上に体裁を整えた、自称「自由主義に基づく帝国主義」と、もう一方、専制的権力行使と国家当局の刑事免責を容認する根っからの「非自由主義帝国主義」と、この両者の間には実質的な差異が存在する点を認めるのか否か、それを吟味する作業だ。   

 歴史家キャロライン・エリキンズの新著「暴虐の遺産」は、890ページに及ぶ圧倒的量感に加え、内容も又、驚愕に値する幾つかの答えを示唆する。エリキンズにとっては、英国帝国主義を定義付ける「自由主義に基づく帝国主義」とは矛盾語法に過ぎない。彼女の見解は次の通りだ。つまり、英国政府は、英国法の下、良好な統治と人民に等しい保護を提供する事が同帝国の明白なる目的であると主張し乍ら、現実には、帝国国家に純粋な自由主義は何ら存在せず、結局、同政府は国家主導による体系的な権力行使にのめり込んで行くのが不可避であったとする。彼女曰く「暴力は、大英帝国の誕生を手助けしたに止まらない。それは、寧ろ、英国規範の構造と体系に於いて、謂わば、風土病の如く根付いた存在なのだ」と。そして、18世紀、印度(インド)の東印度会社拡大に始まり、20世紀、ケニアのマウマウ団反乱に対する残忍な弾圧に至る迄、彼女が本書の中で次々と暴いて行く、大英帝国が為した暴虐の有様は背筋も凍らんばかりである。彼女はそれら諸事例を、帝国主義の規範が惹き起こした陰惨な結末であるとして、これでもかと、これでもかと積み上げて行く。

 こうして、エリキンズは、帝国主義下の法律が暴力を先導し、民衆抑圧の具体手法が如何に帝国内に流布して行ったかを示す。しかし、彼女は、微妙な差異を熱心に探求する事に頓着しないタイプのようだ。即ち、彼女が、帝国の暗黒部を暴くのに多大な熱量を注ぐばかりに、その一方、法律は立場の弱い集団や、更には反帝国主義運動の闘争の場に於いての支えとなり得た面に対して、殆ど注意を払っていない。更に、同書では恰(あたか)も大英帝国が、一貫した理念に貫かれ、政治体制として非常に首尾一貫したものの如く叙述される点は、彼女の認識違いであり、同国の正確な現実とは異なる姿だ。それでも、同書が有益な価値を有するのは、一方で、大英帝国の遺産を徹底的に肯定賞賛して止まぬ、スコットランド人歴史家ニーアル・ファーガソンと神学者ナイジェル・ビガー等を筆頭とする一派の見識に対し、これへの修正見解を提供している事に拠る。然し、エリキンズが同帝国を常に害を為す権力として証しようとする試みは、彼女が反対論に取って代わるには聊(いささか)力量不足である事を図らずしも露呈する結果となっている。何故ならば、彼女の同見解は偽りであるのみならず、歴史上の解釈に不愉快な歪みを齎(もたら)す丈であるからだ。殊(こと)、彼女が、大英帝国の所謂、自由主義的帝国主義とナチス独逸の全体主義とを対比させる箇所に関しては、この発想自体が極めて疑わしいと云わざるを得ない。大英帝国の場合には、現実に思想が持った力と影響が、エリキンズが見做す程に強大であった証は、先ず以って存在しないのだ。

帝国が生んだ血塗られた犠牲

 エリキンズは、読者を英国が犯した極悪非道を辿り世界を巡る旅へと誘う。此処(ここ)に近代英国帝国主義の遺した醜聞の全て一式が集約される。先ず、彼女は、1900年、ボーア戦争時に発明された強制収容所を探求する。当時英国は、先住アフリカ黒人及びボーア人、計約20万人、非戦闘員数千人を含む、それら全員を、悪名高い殺人キャンプ(現在の南アフリカに所在)へと移送したのだ。それから数年後、アイルランドに於いては冷酷な報復行為が発生する。即ち、同地最大級の反乱、1916年のイースター蜂起に対し激しい弾圧が行われた。此処では、戒厳令下、英国軍の銃殺部隊がアイルランド人15人を処刑、少なくとも1500人を拘束した。1919年、印度のアムリトサルに発生した虐殺は隠蔽され、この事件では、英国軍が非武装の民間抗議集団に向け発砲し、少なくとも死亡者400人、負傷者凡そ1500人の被害が出た。略これと同じ頃、英国は、警察による暴力戦術を高度化させる事で、1930年代のアラブ反乱の全面鎮圧に於ける先導的役目を果たした。これら技術は、ケニヤの1950年代のマウマウ団反乱が齎(もたら)した壊滅的な打撃に直面した政府が、尚その状況に持ち堪(こた)えられる迄に、帝国各植民地で一層研ぎ澄まされて来たもと云える。英国は、このマウマウ団の反乱を、逮捕、拘留、及び拷問の無慈悲な行為で鎮圧。帝国側当局が行った殺人、傷害や拷問の被害者は9万人に上り、16万人が強制収容所へ移送されたのだった。  

 斯様な所業が絶え間なく同書に復唱される展開に、読者は流石に食傷気味となるだろう。然し、同書の価値は、単なる残虐行為の目録一覧以上のものが有ると云わざるを得ない。その理由は、異常な状況描写を伝えるのが目的ではなく、彼女の主眼は、公的暴虐事件の諸事例が、調査、弾圧、及び軍事主義に偏重した、恐るべき国家的装置により、計画的且つ組織的に惹き起こされた物であった点を明らかにする事に在るからだ。関係者及び彼らの諸思想が高めた気運に乗じて、これら残虐行為が帝国中で実践され、暴力による征服政策により、政治的にも文化的にも異種である植民地の統合が推進されたのだ。戒厳令や他の緊急諸手段を通じ、国家暴力は必要なものであると定義された事により、更に暴力行為に対し法的効力が与えられたのだった。

 エリキンズは、高官達が帝国内各地の転任を通じ、弾圧の新手段を各所へ如何に導入を図ったかを追跡、その実情を特に効果的に著している。例えば、ヘンリー・チューダー少将は、ボーア戦争の退役軍人達を採用し1920年にアイルランドに民兵軍団を組織した体験を持ち、彼はその後パレスチナへ転任、其処で残忍な振る舞いを行う。又、チャールズ・テガートは1920年代にコルカタ警察署長として印度独立運動を弾圧、その後、英国委任統治領パレスチナに於いて群島の如く各地に要塞化された警察所と国境柵を建築する計画を監督した。ジェラルド・テンプラー将軍は、パレスチナで会得した拷問と弾圧の手法をマラヤへ展開、そして、アーサー・ヤング大佐はマラヤに於ける警察の諸戦術を改良し、其処(そこ)で学んだ事を、後にケニヤで展開する、と云った具合だ。軍事諜報官だったフランク・キットソンは、ケニヤ、マラヤ、キプロス、オマーン、そしてアーデンと任地を渡り歩いた末、北アイルランドに於いて将軍の地位迄昇り詰めた事をエリキンズは叙述する。

 一方、本書の一つの思いがけぬ効果は、アイルランドを帝国に不可欠な構成要素との見解を彼女が一貫して貫く点だ。アイルランドは「曖昧な状況」を保持していたと、エリキンズは指摘する。即ち、同地は公式には英国領内で在り乍ら、一度(ひとたび)「法規範と市民の自由の問題」になった途端、英国領外に位置した、との見立てだ。彼女は、英国にとってアイルランドの地は、帝国主義による暴力の新しい諸手段を試す場であり、且つ、その後それ以外の地域に於いて更に残虐な諸手法を発達させ適用する場として機能した点を指摘する。

 帝国主義の過熱した前線を統治すべく起用された手荒な所業は、母国にも移入され姿を現して行く。帝国に適用される戦時緊急諸権限は、英国の場合にも反対意見を抑圧する為に適合化され、1939年議会による法制後、国家治安に脅威を与える英国市民を裁判抜きに拘留する権限が付与された。戦後、新しい国際秩序に於ける地位を確保する事に腐心する英国は、移民と市民権に関し排他的な国内政策を強化した。即ち、英国社会に急増した民族主義を反映し、1962年と1971年に議会法案が法制化され、非白人が過半数を占める植民地及び嘗ての植民地居住民の市民権資格を変更したのだった。

 又、同書終盤、最近の英国政府による、帝国主義時代の暴虐行為の記録隠蔽画策の動きが説明される箇所は、特に興味惹かれるものだ。2009年、英国政府を相手取り、マウマウ団反乱の後、拘束され拷問を受けた5人のケニヤ人原告は、拘留期間中のそれら処遇に関し裁判を起こした。然し、2011年、英国政府の発表は周囲を驚愕させた。即ち、20世紀になり次々と植民地が独立を遂げる中、ケニヤを始め他の旧帝国植民地に於いて国家主導で実施された恐怖の所業の詳細を記した大量の書類は、当時の英国政府により処分されてしまった、と云うのだ。2006年ピューリッツアー賞を受賞した彼女の著書『英国帝国主義の代償:ケニヤ強制収容所の語られざる真実』(Imperial Reckoning: The Untold Story of Britain’s Culag in Kenya)の中で描写された、英国によって行われた残虐行為は恐らくは誇大化されたものだと、当時批判を受けたものの、エリキンズが当件に於ける証人として、彼女が使命感を以って闘争する姿勢は肯定されるべきだ。そして、その後発見された、極秘資料によって、彼女が正しかった事が証されたのだ。

法と秩序

 2012年、マウマウ団の反乱を巡る裁判に於いて、原告側の同団に有利な判決が出た事を記述する箇所は、英国法が暴力的国家による圧制の後押しした数多(あまた)事例を扱う同書の中では、極めて珍しい例外が到来した瞬間と云える。即ち、同箇所を除けば、著者が同書を通じ全般に強調するのは、飽くまで「帝国の権力を法定化する為に、立法が如何に機能を果たしたか」と云う点に絞られるのだ。戒厳令やその他緊急諸措置により、帝国下の被支配民達に対し人身保護令状を含む、基本的人権保護が停止された諸事例がエリキンズによってこれでもかと繰り返し提示される。

 その他歴史家は、エリキンズ自身が引用する多くの学者達を含め、英国に於ける暴力的弾圧は、戒厳令によって、その防潮堤の水門が開かれた旨を予てより結論付けて来た。それでも、これら歴史家達は、戒厳令宣言が、その後、帝国憲法に関し集中的な論議を惹き起こした事実をも明らかにしている。つまり、帝国主義への批判者達は、戒厳令が植民地のエリート階層の利益増大に利用され、そして専制的権力を解き放つ事に対しては、幾度もその制限強化を要求し、牽制を試みた事実があるのだ。エリキンズは、資料で確認可能な、帝国に於ける法と正義に関するこれら論争の歴史を棚上げしつつ、諸権利は飽くまで断続的に停止された、との安易な説明を支持する立場を取っている。

 彼女は「例外的な国家主導による暴力」という現象を捉えるに当たり「法制化された違法性」なる用語を読者に提供する。此処(ここ)でのエリキンズの見解は、恰(あたか)も、ナチス党員で自由主義に批判的な独逸人法学者カール・シュミットや伊太利亜人哲学者ジョルジョ・アガンベンらの主張を彷彿とさせるものだ。後者は、「例外的な国家」が露骨な国家権力行使への道を開き、徐々にそれが規範化されるとの考えを発展させた人物だ。エリキンズはこの観念を用いる事によって、大英帝国内の極度な暴虐行為が法によって裁可され、やがて暴力の出現が常態化に至って行くと云う、これらの「例外的な」一定時期、或いは「合法性の危機」の分析を試みているのだ。

 彼女が唱える「法的に支えられた違法性」と云うラベル表示は適切と思えない。その言語の意味する処がややこしいと云う理由からではない。そうではなく、エリキンズが“例外的な”暴力諸事例を強調すればする程、その手法が寧ろ、本書で彼女が展開を試みる議論の核心たる「大英帝国の暴虐は日常的且つ組織全体に及ぶものであった」との主張とは矛盾を来す為だ。彼女自身も随所でこの矛盾点を承知するかに見える。即ち、戒厳令発布の宣言手法は多彩であり、帝国の法的権限が、地元高官、植民地のエリート階層、或いは軍隊指揮官達へ委任される等、種々様式を伴っていた点を、彼女は認識する。つまり、極端な暴力を増進させた真の理由は、この構造的要因であり、この要因こそが、幾つかの例外的時期や、暴力が容認される諸機会の倍加による影響を遥かに凌ぐものだったのだ。それにも拘わらず、エリキンズは最終的に、“例外主義”を根本原因とする解釈に繰り返し着地するのだ。

 この手法に欠けるものは、より幅広い法律史から帝国を考察する視点だ。一部の歴史家達、ロヒト・デ、リサ・フォード、リチャード・ロバーツ、及びロバート・トラバーズ等の面々は、帝国内の一般男女が、彼らの権利を守り、自身の掲げる正義の実行の為に使用した、膨大な量の法律と法的用語に関し追跡調査を実施した。これらに拠れば、植民地の被支配民達は、財産の防衛の為に嘆願と訴訟を行い、法に基づく裁判等の一般的法律諸手続適用を求めて闘ったのだった。流刑地植民地の前科者達は彼らの法的権利を回復すべく巧妙に立ち回った。又、植民地裁判に於いて証言が認められていなかった、先住民の証人や被告達は、それでも証拠を提出出来る手法を見つけた。つまり、現地人達は、公証人や弁護士の地位を手に入れようと努力したのだ。そして、植民地のエリート階層達は「自由主義」を、政府をして憲法の定める人民「保護」の諸事約束を堅持せしめる道を追求する為の言葉として適合化させたのだった。帝国主義支配に対し挑戦を挑み、或いはその打倒を目する為に用いられた、これらの法律及び自由主義を追求した諸運動を網羅する事は、同書領域外であるかも知れないものの、この文脈での理解無くしては、「法定化された違法性」との主題は、単に「標語」の域を出る事なく、又有用性を欠くものだ。

判然としない自由主義の概念

 エリキンズが、「自由主義的帝国主義」に関し国際的影響力の考察を試みる局面で、これら諸問題は更に深刻化する。同用語は本書を通じ頻繁に登場するにも拘わらず、エリキンズは同語を精密に定義していない。多くの自由主義者達が発達させた「帝国主義とは、良好な統治実現の為に、身を投じて尽力する、文明化された権力であった」との主張に、彼女は言及する。そして、古典的自由主義が、政府合意という理念を中心に据えるのに対し、大英帝国は征服、乃至は同意なき儘に規範を設置するその他諸手段を通じ、繁栄を維持して来たとも記述する。更に彼女は、理想的な自由主義の政府が暴力行為を牽制するものである事に対比させ、帝国主義の公式な政府諸施策とは暴力諸行為の現実あるのみである、と主張するのだ。

 エリキンズが「帝国主義国家に内在する自由主義」に対し妥協なき攻撃を追求しようと試みる内に、彼女は歴史の有する複雑さを敢えて封印せざるを得ない状況に陥っている。例えば、彼女は18世紀後半の事蹟、初代ベンガル総督のウォーレン・ヘースティングズに関し、印度(インド)での汚職を巡る弾劾裁判とその無罪宣告の一件を書き起こす。当時の保守政治家エドマンド・バークが同訴追を指揮したのだが、彼女の叙述に拠れば、彼こそが帝国主義についての説明責任を負うべき、敗れて地に塗れた王者として登場する。然し、バークは抑々(そもそも)改革派ではない。帝国主義の抑制を求める、極めて特異な広告塔的存在であった彼の真の狙いは、東印度会社の権限を弱め、より議会、特に貴族院により確実に従属させる事であったのだ。又、エリキンズは、ヘースティングズ側弁護人の主なる言い分を割愛している。即ち、印度に於いて、ヒンディーやイスラム法や、東印度会社の法治領域の制限等を認めさせようと彼が尽力したと云う事実である。ヘースティングズ裁判取材に関しての弱点は、彼女が悪役と善玉の役者を取り違えた事ではない。そうではなく、彼女の手法では、これら法定諸闘争を過度に単純化する結果、自由主義と帝国との関係に於ける曖昧性が見落とされていると云う点だ。

 1865年、ジャマイカに於けるモラント・ベイ暴動の直後、同地で実施された弾圧の合憲性に関し本国英国で行われた議論を本書が辿る段にでは、エリキンズの直接主題である「帝国主義暴力に於ける自由主義の共犯性」が適合しない為、彼女が針路変更を余儀なくされているのは明白だ。上述暴動後、ジャマイカ総督だったアドワード・エアは、植民地政権に対する批判家として著名であった、民間人ジョージ・ウィリアム・ゴードンの逮捕を命じた。ゴードンは当時、同島で戒厳令が敷かれた区域外であるにも拘わらず其処で捕縛され、モラント・ベイへ移送されて後、軍事裁判に掛けられ絞首刑判決を受け、刑が執行される。これらの動きを受け、当時ロンドンに於いては、ジョン・スチュアート・ミル(*後注1)やその他自由主義者達は、大英帝国が内包する不平等で不公平な正義の現実を眼前にしたのだった。彼らは、全市民と被支配民達に対し等しく庇護を提供する事に心を砕く、本来理想とすべき政府象と現実とのギャップを何とか解消し、折り合いを付ける道筋を思索奮闘試みる。此処に於いて、エリキンズは、同書の中で自由主義と帝国主義との緊張関係を考察開始するかのように見えた。     

 然し、結局、それは読者が抱く淡い期待でしかない。何故なら、エリキンズは「権力を牽制する有効な道標を、自由主義は提供する事が出来なかった」との見解に固着してしまうからだ。即ち、彼女の解釈では、自由主義とは「帝国主義の暴力」に「改革」という衣を纏(まと)わせたに過ぎない、と云う訳だ。即ち、具体的には、彼女が記述して曰く、パレスチナに於いて、自由主義的帝国主義がその「円熟期」を迎える頃迄には、「帝国主義国家は現実には、無花果(いちじく)の葉の如き、“見せ掛けの法の支配“の陰に隠れ、実際は機能を続けていた」と。

 帝国主義国家に固有な特徴は、それらがひと度(たび)出現すると、最早(もはや)抗する事が不可能な全体的権力を備えると云う事だ。然し、この特徴付け自体が、帝国が終焉を迎える場面で綻びを見せる。つまり、エリキンズは帝国が何故終わりを遂げたか、何ら説得力ある説明を提供しない。彼女は、戦後、帝国領土中で生じた反帝国主義運動の足跡調査を通じ、暴力的諸行動を、非暴力的な活動より重視し強調して見せるのだが、大英帝国がそれ迄行って来た圧倒的な圧政的権力に比較した場合、これに釣り合う程の効果を果たして反帝国諸運動が発揮し得たのか、その査証を示すに程遠い状況と云わざるを得ない。挙句の果て、彼女は最後に「抑圧的機関として存続が出来なくなった時」大英帝国は自ら崩壊した、とお茶を濁すかのように締め括る。

 エリキンズが「自由主義的帝国主義」という用語を、しきりに使用すればする程、彼女の説には少なからぬ非一貫性が顕れ、結局は、この語の概念自体が未成熟である点が暴露される。抑々(そもそも)、大英帝国はある種、思想に於ける闘争の場で在ったと云え、其処で、自由主義が断続的ではあるが一定の役割を果たした事は事実だ。一方、公的暴力は次第に組織化されて行ったとは云え、それでも、反対派や反乱を有効に抑える為には、完璧と云うに未だ程遠い状況だった。つまり、反帝国主義運動が成功した歴史諸事例を振り返れば、帝国による暴力は一致総力化されたものでもなかったし、帝国下に於ける自由主義も又、完全な偽物ではなかった事が判るのだ。

帝国は非自由主義である

 エリキンズが、強大な制度として「自由主義的帝国主義」の叙述を試みるに連れ、彼女は大英帝国をファシストと呼ぶに近しい状況に至る。即ち、英国帝国主義者達をナチスと比較検討行う、現代批評家達を、エリキンズはしきりと繰り返し引用するのだ。これらの引用箇所は、私の数えた処(ところ)15ケ所に及び、その幾つかは、相当軽薄な文脈化であるにも拘わらず、それを以って歴史的著述に代えようと意図するかに見える。斯様な方法論、もしそう呼ぶに相応し価値があるとすれば、それは次のような問題を含む。即ち、これら批判者達が、斯様な比較を引き合いに出す場合、戦後英国公衆は、未だナチス独逸による戦争被災に苦しむ中、彼らに対し衝撃を与える効果がある事を内心見込んでいるにも拘わらず、その意図を敢えて隠し曖昧にしていると云う問題だ。

 エリキンズは更に踏み込み、自由主義的帝国主義とナチズムとの直接的関連を、具体的特定の無い儘に、暗示して見せる。即ち、彼女は後書きで次の様に述べる。「今日、我々が見る事が出来る、英国帝国主義と全体主義国家諸体制との類似点は、その一因を、抑々(そもそも)ナチス独逸の高官達が大英帝国主義下の法と諸統治を借用した事に有するのだ」と。これに関する証拠を私は見出し難い。彼女は、アドルフ・ヒトラーが帝国野望を如実に語った著作『我が闘争』から都合良く拾い読みをするばかりか、其処(そこ)から提供される証拠と云っても、それは「征服した諸国家政体を跡形もなく消し去った」と云う、僅か一つの類似点を以って、独逸の帝国主義的東方拡大が「自由主義的帝国主義」を採用し実施されたとする彼女の主張を構成するのが精一杯であろう。

 エリキンズは、独逸が帝国主義国家であった事を雄弁に語る歴史家、マーク・マゾワーを引用する。しかし、マゾワールの手法とは異なり、エリキンズの場合は、ナチス独逸が保持した特定の諸機関や諸行動を分析する労を取らずして、帝国主義のラベルを張っている。この違いは極めて明白だ。即ち、独逸が、英国帝国主義の諸戦術を転用して「主権諸国家を平らげてナチ帝国を築き、大量虐殺の諸行動を各地に展開した」とする彼女の主張を支えるような証拠は、殆ど提示される事がないのだ。

 一方、処々(ところどころ)でエリキンズは、自由主義的帝国主義とナチズムを等視する立場を後退させもする。例えば、相当控え目な表現を以って「ナチス帝国主義の野望に関しては、改革者なる人々は存在しなかった」と記述し、又、彼女は、ナチズムに於ける、民族優位の思想が自滅の原因であった点を認める。然し、この並行的見解は結局解消されずに尚も続く。彼女は叙述し曰く、ナチス独逸が東欧を席巻する一方、英国と仏国も又、アフリカに巨大な領地を要求したのだ、と。又、幾つかの点に於いては、自由主義的帝国主義は、全体主義よりも尚一層、永続的且つ広汎に至る激烈な権力として登場すると指摘。つまり、エリキンズは主張して曰く、自由主義的帝国主義は、次の新たなる政治体制への適応を図るべく、移行を遂げ行く中間的形態の意味合いとして、ナチズムより上等なものだ、と。そして、とても上質な故に、事実、帝国による暴力への批判や論評が行き詰まる事は滅多になかった。即ち、自由主義的帝国主義は「理念上の弾力性を備え、これはナチス全体主義には欠ける特徴だったのだ」と。

 これらの著述は、歴史の事実を不愉快な暗示へと置き換えるものだ。つまり、合法的な、国家主導により行われた暴力行為が、20世紀の大英帝国に於いて組織的であった事は、既に十分裏付けのある点である。それにも拘わらず、エリキンズはこの事実を見失い、「自由主義的帝国主義」なる地位を、悪の殿堂へと押し上げるべく精力を注いでいる。この議題は確かに知的興味をそそられるものではあるものの、帝国及びその残した遺産に関し細心の分析と評価を行うべき点に於いて同書は失敗している。本来、その作業には、英国帝国主義に於いて諸機関が果たした役割に関するより広範な調査、並びに、帝国主義諸国家が支配的政治政体であり続けた、100年に亘る当時の世界秩序の分析が求められる筈だ。

 大英帝国統治下での公的暴力の問題は、尚も詳細な研究に値し、故にエリキンズはその隠された歴史を暴露する点に重要な貢献をなしたのは確かだ。然し、それを以ってしても「自由主義的帝国主義」と云うレンズを通した見解は、歪んだものと云わざるを得ない。1940年代の独逸(ドイツ)や、今日の露西亜(ロシア)が再び示した通り、大望を抱く諸帝国は、法の規範に準じようとする装い無くしては、最悪の種の暴力をも受け入れるだろう。一方、謂わば、改革版の帝国の場合に於いては、それは暴力を助長もすれば批判もする、両面の経緯を持つのだ。彼らは、国家主導による独裁主義政権を是とする扉を開く、何か特別な鍵を有していた訳ではない。

 帝国主義が為した暴挙の歴史に関し、その論理と諸典型の発見を試みるエルキンズの呼び掛けを、読者諸氏は支持すべきだろう。又、帝国主義の暴力が過去如何なるものであり、そして今日現在に於いても尚、如何に組織化され、機能し、周囲の理解を得るのかを、問い続ける彼女の強い衝動も、同様に支持されて然るべきだ。しかし、読者達が彼女に付いていけるのは精々この線が限界で、それを越える部分に賛同を得る事は無理筋と云わざるを得ぬと私は思う。

(了)

【訳者後注*】

1)ジョン・スチュワート・ミル:英国人政治哲学者、経済思想家(1806-1873年)。当時を代表する自由主義者。著書『自由論』、『功利主義』等。後者の一節からの意訳「肥えた豚より痩せたソクラテスたれ」を、1964年東京大学卒業式祝辞に当時同大総長(大河内一男)が引用し有名。

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