【書評】決断者 ~ブッシュ大統領はイラク戦争を何故選択したか~(The Decider ~Why Bush Chose War in Iraq~ 原本:Foreign Affairs 2020年Nov/Dec号、P144-152)評者 メルヴィン・P・レフラー(Melvyn P. Leffler) ヴァージニア大学教授

書籍: 「戦争の開始」~ブッシュ政権はどのように米国をイラク戦争に巻き込んだか~

    To Start a War : How the Bush Administration Took America Into Iraq

    2020年 ペンギン出版社発行 480ページ

著者: ロバート・ドレイパー(ROBERT DRAPER)  

 「人間は他人に騙されるのではない。自分で自分を騙すのだ」。独逸(ドイツ)の文豪ゲーテによる、この引用句は、今般ロバート・ドレイパーが、ブッシュ米国大統領がイラク戦争へと突入する決断に就いて著した、非常に興味深い新作の題辞として相応しいかも知れない。2003年3月の侵攻に至る意思決定に関し、この書籍「戦争の開始」は、従来の大半の解釈とは異って、その決断は大統領自身によって為された点を強調する。即ち、大統領自身が決めたのであって、側近のデック・チェイニー副大統領でもなく、ドナルド・ラムズフィールド国防長官でもなく、ポール・ウルフォウイッツ国防副長官でもなく、副大統領首席補佐官のスクーター・リビーでもなかったのだ。又、著者は、発足当初のブッシュ政権にとり、そもそもイラクは、脅迫観念に迫られて最優先に対処すべきような案件では決してなかった事を明かす。更に、彼は、9/11の奇襲テロによって、大統領方針が一転したのだと云う。これを数学のグラフに例えて云うなら、関数曲線上のある特定点に於いて、大統領が自身の微分計算によって接線を導き求めた結果、正に、悲劇的奇襲被害の出来事を起点とし、そしてイラク侵攻というより一層悲惨な決定を着地点とする、ひとつの一直線が其処(そこ)に創造されたのである、と。ブッシュ本人は「その当時は、まだ決意を固めてはいなかった」との談話を繰り返し、今に至る迄、この見解に固執している状況に反し、ドレイパーは、大統領は自分で自分自身を騙したのだと主張する。つまり、「(カードゲームに例えるならば、)自分の持ち札に、こっそり自分で不正を仕込みながら、結果は却って自ら不利になったようなもの」で、更に続けて、「大統領執務の実情は、側近に対し忠実性を最優先に求め、その上、側近の仕事は大統領の重要な決断を疑う事ではなく、大統領が下した決断の支援に徹するべきだ、と考える人材で自分の周囲を固めたのだ」と云う。

 更に、ブッシュの目論見は明らかであり、それは「苦しんでいる民を解放し」、「暴政的体制を終わらせる」事であったとドレイパーは論じる。ブッシュ大統領は、イラク独裁者サダム・フセインは大量殺戮兵器(WMD)を保有せず、アルカイダとも繋がりを持たず、従い9/11テロに責任がない事は、既に承知していた筈である。つまり、ドレイパーによれば、ブッシュが米国を必要のない戦争へ導いたのだ。大統領がそうした理由とは、彼自身が、米国の崇高さと同国の自由主義を広めると云う米国の役割を強く信奉し、ドレイパーの言を借りれば、ブッシュは“世界に対し大変な思い上がり”をしていた為なのだ。それ丈(だけ)に止まらず、ブッシュはフセインに関し、「奴は父さんを殺そうとした」のだ、と彼の父、ジョージ・H.W.ブッシュ暗殺計画(1993年未遂)を指して発言もしている。更に悪い事には、ブッシュは「サダムはアルカイダと同様に米国民が自由を信奉する事実そのものを嫌っているのだ」とも語っている。要するに、これらの感情によって、ブッシュが衝動的に行動を起こす事になった事を力説する。

 更に当時の政治家達は誰一人としてドレイパーのお眼鏡には適わないようだ。まず、チェイニーは彼の政権就任以来、化学兵器や生物兵器に対する攻撃に米国が脆弱である事を憂慮した。ドレイパーの記述によれば、9/11後、チェイニー副大統領の事務所は、全く思いもよらない諸事の検討を専(もっぱ)らとする頭脳集団の如くと化し、其処(そこ)では、例え殆どあり得ない確率の事象であろうがお構いなく、脅迫観念に取り憑かれ、兎に角、世界終末の如き完全破壊的攻撃を被るような将来のあらゆる展開を分析し予想する事に耽っていたのだ。一方、チェイニーは物静かで思慮深く、情報を重視する人物であったのに対し、ラムズフェルドと云えば癇癪持ちで、思慮なく威張り散らしていた。そして、彼はブッシュに取り入ろうとして、チェイニーと協力の上で、彼に同調しなかった文民官の部下や軍官を左遷する処置を取り、実は重要な諸問題に関し深い意見の相違が生じていても、国防省内部に於いては、恰も殆ど何事もなかったかの如くに始末する術を確保した。又、ドレイパーの見解によると、コーリン・パウェル国務長官は、戦争に突入する事に対し根強い疑念を抱き乍ら、彼の信ずる所を声に出す勇気を欠き、そうかと云って大統領に進言すべき代替策をも持ち合わせなかった。彼は、自分が不適切な存在とならぬよう、戦争への自らの疑念を外部に注意深く包み隠したのだった。一方、ジョージ・テネットCIA長官は、彼の局がブッシュから注目を賜る事を珍重し、彼自身が弱腰と見做されるのを恐れ、大統領へ上げる情報を改竄(かいざん)した。テネットの多くの部下達は、彼らのボスが、最も大切な顧客である大統領の反感を買うのを望まない事を慮(おもんぱか)って、イラク大量殺戮兵器計画に関し彼ら自身が行った評価の信憑性に関し、多くの疑念を発見し乍らも、それらを伝える事を躊躇したのだ。又、ブッシュ政権の国家安全保障担当補佐官のコンドリーザ・ライスは、この一連の反目と、疑念が渦巻く中で、過去の政権最中枢に於いて長年の経験を誇る側近達に囲まれていた。そして彼女は彼らに凌駕される結果、彼女の切望した提案に向け周囲の合意形成を図るには力が及ばなかったのだ。 

 以上語った事は既に、知られている事実だと云えばそうかも知れない。しかし、ドレイパーの真骨頂は、彼が広大な範囲に亘って実施した面談に由来する、驚異的膨大な量の詳細情報を駆使し議論を進めて行く点だ。彼の対話相手は、ウルフォウイッツ、パウェル、ライス、リチャード・アミティージ(パウェルの副官)、ステファン・ハドレイー(ライスの副官)、ダグラス・ファイス(政策担当国防次官)、エリック・エデルマン(リビーの顧問)等の錚々(そうそう)たる面々に加え、国務省、国防省、及びホワイトハウス内で、その他要職にあった大勢の高官達を含んでいる。それに加えて、問題をより一層照らし出す効果を発揮するのは、彼がCIA組織内の凡そ70人にも上る分析官、更に支局長達、そして、中間及び上級管理職者との対話を通して、丹念に収集した情報群である。これら面談を通じ、彼は、戦争開始を正当化する、ある重要書類が捏造されたという、衝撃的な告発を提示するのである。その書類とは、イラクの大量殺戮兵器に関する国家情報機関分析報告書(NIE: National Intelligence Estimate)で、同報告書は、2002年議会に於いて、戦争に懐疑的な議員を納得させる事を目的として、内容が構想・企画され、信頼性に欠く情報源を引き合いに出し、薄紙を重ねるが如くに造り上げられた事象を根拠として、誇大化された結論が盛り込まれる事になったと云うものだ。又、ドレイパーは、2003年2月初旬、パウェルが国連安全保障理事会で行った演説の原稿作成過程に関しても、更に悍(おぞ)ましい見解を提供する。その演説は、イラクが武装解除を受け入れなかった点を強く言い張る内容であった。ところが、この見解の根拠となる報告を行った、分析官や政治家達は、彼らが入手していたイラク武器開発計画に関する諸情報が極めて根拠希薄な代物であるとの山ほどの証拠が有ったにも拘わらず、それを無視したと云うのだ。又、ドレイパーは、戦後イラクに於ける占領政策に関し、それが不十分且つ混沌たるもので、これが後に一層の禍根を残す事になる点を分析している。一例は、国防省高官は、大統領の事前承諾を受けぬままに、イラク全軍を解散せしめる決定をしたというのだ。これが後に悲劇を生む。即ち、軍隊招集解除によって多くのイラク軍人将校達が離反し、その結果彼らを反乱蜂起へと走らせたのだった。

「戦争開始の決断」はブッシュ大統領と側近達が露呈した、機能不全、ばか正直さ、独断的体質に関し、これ迄に流布されて来た諸見解を、時間を掛け丹念に固めて行こうとするものである。ドレイパーは影響力を持つ報道記者で、諜報機関や政治家達との付き合いを通じ、広い情報源を持ち、彼が2007年にブッシュのホワイトハウスでの年月を著わした本は広く受け入れられている。今回の著作では、ブッシュ政権が、自尊心旺盛、単子眼的で、思慮に欠ける大統領と、尊大で無責任な側近達によって運営されていた事を、読者は読後に確信するようになるだろう。同書には、彼の面談記録並びに機密公開された諸情報から引用した、何百にも上る膨大な備考・注釈が含まれ、それらは信憑性があり、確かに価値あるものである。然し乍ら、その一方、彼の説明が果たして本当に真実を簡素に語るものだろうかと、読者はある種の迷いも感じるのではないだろうか。

サダム・フセインが仕掛けて来たゲームとは

 筆者が最も気になるのは、ドレイパーによるサダム・フセインの描写だ。本巻末、ドレイパーは、フセインが米国に危害を与える事を企てたと云う「一片の証拠」すら、果たして存在したのだろうか、と問い掛け、そして「ブッシュ政権はイラク諸問題を切り盛りする内に、集団的な想像力によって、“誇大妄想狂”というフセインの肖像を造り出したのだ」と自答する。又、フセインが現実から乖離し始めてていた事も彼は指摘する。即ち、フセインは(見せ掛けの民主化の為)権限を一部委譲し、小説執筆と詩作を趣味とし、(政敵の)イスラム教過激派と闘う為に米国とは和解を図る事を望んでいた事等だ。しかし、この記述の根拠は、ドレイパー自身が実施したチャールズ・デュエルファーとの面談に置かれている。彼は前兵器査察官としてイラク調査団を率い、イラク侵攻後、同調査団が大量殺戮兵器捜索に派遣されたものの、結局、成果なく帰還したのは周知の通りである。この調査団はイラク前政権の高官達と面談を実施し、それに基づきデュエルファーはドレイパーに対し、フセインは米国を潜在的な同盟国と見做していた旨を語っている。更に、デュエルファーは自身の回顧録に、彼の行き着いた結論として次のような悲観的な見解を記している。即ち、「私は、大統領の下した戦略的決断に同情を禁じ得ない。即ち、フセインの率いるイラクを米国の脅威と見做した事、並びに制裁によるフセイン封じ込め策が悪い方向に運命付けられていた事だ」と。しかし、ドレイパーはこの発言には一切触れていない。加え、デュエルファーの最終報告書にはフセインの戦略的意図に関する長文の項目が含まれているが、ドレイパーはこれをも十分考察していない。同項冒頭で、明確なる主張が以下の通り展開されている。即ち、「サダム・フセインはイラク国内体制を完全に支配しており、同国の戦略的意図は専ら彼一人で策定された。彼は制裁を終わらせたかったものの、その一方で、制裁が解かれた暁には、大量殺戮兵器を再度保有できる能力を温存して置きたかったのだ。」と。

 又、別の尋問団(米国統合戦力軍の進める研究、イラク総合計画[Iraqi Perspectives Project]に関わっていた)も、イラク侵攻後にバクダッド入りし、多くのイラク高官達と対話を行った。そして、彼らも、フセインは「国連安全保障理事会が制裁解除した途端、直ちに大量殺戮兵器の開発を再開させる用意をしていた」と結論付けている。更に、「フセインは、彼の敵対者達は、誰一人として十分な力や能力がなく、更に無慈悲な行動は慎まざるを得ない制約が有る為、結局は彼の長期的目的達成を挫く事は決してできないと確信していた」という事も聴取しているのだ。

 フセインはドレイパーの云う通り、現実から艫綱(ともづな)の切れた船の如く遊離して行ったのは事実だが、しかし、だからと云って彼は決して、従順でもなく、且つ無害な存在でもなかったのだ。2002年11月、国連安全保障理事会が、イラクが兵器査察に応じない事を非難する決議採択に至って、漸くフセインは検査員達の入国を受け入れたのであった。ここでも、ドレイパーは、この時点に於いて兵器査察団を遮断したのは米国自身であり、フセインではないと解釈する。彼の主張は、CIAが疑念のある兵器拠点の情報を隠し、代わりに混乱を生じるよう他の拠点情報を与えたと云うものだ。しかし、ドレイパーは、国連の武器査察団長であった、ハンス・ブリックスの回顧録から選別的な引用を試みており、米国高官に対する彼の不満に就いては、これを強調する一方、イラク側対応に関する彼の不平の感情に就いては十分に伝達していない。例えば、イラクが最初に開示した兵器在庫内訳に関し、ブリックスはそれを甚だしく不十分なもと見做した。即ち、彼の回顧録の中に、「その新たに開示された内容は、武力削減問題を効果的に解決するには程遠い代物であった」と記されている。そして、2003年1月に彼と共に国際原子力機関(IAEA)事務局長であるモハメッド・エルバラダイがバクダッドを訪問した際、フセインは彼らとの会談を拒絶しているのだ。そして、その一ヶ月後、英国議会に於ける、イラク戦争に関する公式調査の場で、ブリックスは欧州外交官の一団に対し、「イラクは上辺(うわべ)を取り繕うだけで、その本心は何ら変わっていない。彼らは我々を欺こうとしている」と証言した。ブリックスが米国の唱える計画日程には強い異議を唱えた点は、正にドレイパーの指摘する通りで、結局、彼は大量殺戮兵器に関し殆ど僅かしかその兆候を見出す事が出来なかった。しかし、その一方、ブリックスは、フセインが協力提供を出し渋り、遅らせ、そして留まる事のないその狡猾さに対し失望していた事も、又、事実であるのだが、ドレイパーはこの点を考慮していない。そして、真実は戦争が終わるまで明らかにはならなかった。つまり、フセインは、イランや嘗て彼が化学兵器による攻撃を加えたクルド族に代表される国内の敵を含む、彼の敵対勢力を牽制する目的から、敢えて大量殺戮兵器の存在に就いて関係者を騙していたのだった。

 更に、ドレイパーは、フセインの行動を注意深く考察する事も怠っている。それは、査察に関しドレイパーが強い思い込みを抱いた事が原因だ。即ち、ブッシュは査察を戦争に突入する為の企てに利用したと断定し、更に、例えそうなる可能性は低いにせよ、フセインを前回国連決議に従わせて査察を実現する事が、衝突を回避する為の方策の一つには決してなり得ないと、ドレイパーは固く信じ込んでいるのだ。彼の著述の中で、それを示す、重要な一括りの記述が以下だ。「例え、フセインが牙を抜かれてしまったとしても、彼を権力の座に残すという考えは、最早ブッシュの選択肢になかった」と。しかし、現在では、ブッシュは実際にはその可能性を積極的に受け入れる用意があったという証拠を、英国議会喚問に関する膨大な記録の中に見る事が出来る。即ち、2002年7月末の時点で、トニー・ブレア首相の海外政策顧問であったデヴィッド・マニングは、ホワイトハウスが戦争に向かっていると感じ、ワシントンへ飛びライスと会談した。そして、ブレアは如何なる方針であれブッシュを支持する事、但し、ブレアとしては、イラク体制変更の為の戦争には踏み込めない事を説明した。この意味する所は、フセインの国連決議違反は軍事行動を正当化することが出来はするものの、その前に兵器検査の査察員達をイラクへ再派遣すべく、誠実に尽力する必要があるというものだった。即ち、もしフセインが決議に従う場合には、その回答を受け入れざるをえないのだ。そして、マニングはブッシュと面会し、次いで、彼らは米英指導者間の電話打ち合わせを設定した。其処(そこ)でブレアがブッシュに語った所は、彼はサダム・フセインが新決議の内容に従うとは思えないが、しかし、万一、従った場合にはイラク侵攻は出来ないと云う点だった。ブレア政権首席補佐官のジョナサン・パウェルは「首相がブッシュ大統領に繰り返し念押ししたのは、フセインが国連決議に従った場合には、いかなる侵攻も不可能という事で、ブッシュはこの点に関し彼に同意した」と語る。ブレア自身も回顧録に「私は、あの時点でジョージがまだ決断していないという事を知っていた」と記している。

 それにも拘わらず、ブッシュはサダム・フセインと闘うことを決定した。彼の回顧録に、2002年9月7日の国家安全保障委員会会合に於いて、「彼が大量殺戮兵器を保有しないことを明らかにするか、さもなければ戦争に踏み切るしかない」と発言したと回想する。つまり、サダム・フセインにはまだ選択の余地が有り、戦争を回避する事も出来たのだ。ブレアが英国での調査に対し次の通り説明している。「我々はサダム・フセインに最後の機会を与えたのだ」、もしイラクの独裁者が査察員を受け入れ、そして要請に従ったのなら、軍事行動は停止されてだろう。「私はこの点をブッシュ大統領に対し明確にし、そして彼はそれに合意した」と。マニング曰く、米国民はこう理解したのだ、即ち、我々はサダム・フセインに対し、もし彼がその気があれば使用が可能な、刑務所からの出獄を許す免罪符を提供したのだと。しかし、査察の工程で明らかにされたように、彼はその札を切らなかったのだ。

恐怖心に煽られた一面を見過ごせない

 又、ドレイパーは、脅威を感ずる情緒が膨張していく過程を軽視している。彼は、強迫観念的な恐怖が副大統領事務所を苛んでいた点を強調はしているものの、9/11の痛手によって政権全体に充満していた精神的脆弱性に関して過小評価している。ブッシュの側近達全員が、彼らの回顧録の中でこの懸念を活写する。テネットは「毎日上がってくる夥しい量の情報と、そしてその内容の持つ深刻さは、とても言葉に言い現わせないものだった」、と記述している。当時、ホワイトハウスは「何時、何が起こるかわからないという雰囲気」に包まれており、ブッシュのスピーチライターのマイケル・ガーソンは「今にも起こるかもしれない脅威を懸念する、当時のあの心情」は忘れがたいと語っている。ブッシュ政権広報部長だったカレン・ヒューズは「最初の7~8日の内は、また別のテロ襲撃が起きるのではないかと毎日思えた」と当時を詳述する。

 これらの恐怖が持続していたという点が非常に重要なのだが、ドレイパーは記述を進めるに連れ、この点を省いて行くのだ。それら恐怖が続いた理由は、9/11以降もテロリストの攻撃が止まなかった為だ。しかし、ドレイパーの著書に、その後生じた数々のテロに関する著述はない。しかし、以下の諸事件を忘れてはなるまい。即ち、2002年には米国人30名を含め、700人以上がテロによって殺害されている。諸事例を枚挙すれば、2001年12月には、リチャード・レイなる人物が靴底に仕込んだ爆弾でアメリカンエアライン航空機を墜落させようと試みた件(未遂)、或いは2002年初に報道人ダニエル・パールが首を切り落とされた事件、又は、2002年4月チュニジアのユダヤ教会堂襲撃事件、更に2002年9月、アルカイダとの繋がりのあるイエメン系米国人達がバファロー氏近郊に於いて逮捕された件、そして2002年10月200名以上の死者を出したバリ島のナイトクラブ爆破事件、同じ2002年10月、ヨルダンに於ける米国外交官ローレンス・フォーリー殺害事件、及び2001年と2002年にイスラエルで発生した数多くの自爆テロ、等が発生している。その上、ドレイパーは、当時、“面倒を引き起こす三重奏”と云われていた問題を解き明かそうともしていない。即ち、イラクがテロリズムを支援し、そのイラクは大量殺戮兵器開発計画を有し、そしてアルカイダはその兵器を探し求めている、との一説が流布し、イラクの化学乃至生物兵器がやがてテロリスト達の手に渡るかも知れないという危惧が、米国高官達の間に高まっていたのだ。ところが、ドレイパーはこのような噂は虚偽に基づくもので、その当否に就いて、本来ブッシュの側近達が見分けるべきであったのだと、有無を云わせず述べる。そして、この説の虚実が吟味される事がなかった、その理由としてドレイパーは以下見解を繰り返し述べるに留まっている。つまり、チェイニー、リビー、そしてファイス等が、(フセインを)有罪にする証拠に沿うよう調査員達に対し絶えず圧力を掛け、又、テネットは彼の最重要顧客である大統領を失望させる事を警戒していたからだ、と。

 ドレイパー自身が実施した諸面談から得られた、生々しい材料を用いる事で、彼の主張は極めて説得力を持つように見える。例えば、イラク亡命者で、当時「曲玉(くせだまCurve ball)」という暗号名で呼ばれた、独逸(ドイツ)在住の内偵者、実はこの男こそはサダム・フセインの化学兵器に関する偽情報を拡散させた根源なのだが、この彼から出てくる諸報告に対しては、諜報活動者達が当然もっと疑いを持って然るべきであったのだ、と指摘した上で、その諸理由が十二分に提示される。つまり、当時の分析官達には、イラク大量殺戮兵器の情報解析の過程で生じた種々の疑念に関し、例え声を挙げ訴えても無駄であるとの感情が蔓延していたのだ。その原因は、フセイン体制転覆を目的とした武力行使実行方針は、ブッシュ、チェイニー、及びラムズフェルド達による既定路線として決定済であった事を分析官達も確信していたからだと、ドレイパーは記述する。しかし、彼のこの結論は、もう一方の膨大な量に上る複数の公的報告書内容とは一致しない点は留意を要する。即ち、それら公的書面とは、一つは情報活動に関する上院特別委員会報告書で、もう一つは大統領の指名に基づくロブ-シルバーマン調査委員会報告書である。これら報告書は、何れも、情報分析官達が大量殺戮兵器の情報操作を行うよう圧力を受けた事実はなかった点を強調しているのだ。ドレイパーの示す証拠が、譬(たと)え、如何に耳目を集める価値あるものであるにせよ、それに反する諸見解に対し彼は十分な扱いをしていない。ドレイパーとは異なる見解を示す別事例が、当時の国務省政策企画本部長であったリチャード・ハスだ(因みに、彼は、フォーリンアフェアーズ誌の発行元である外交問題評議会[CFR :Council on Foreign Relation]の現会長)。ハスは自身の回顧録に記して曰く、「私が政府に在った数年来の全ての会議の中で、情報分析官或いは、他の何人も、公の場であるか、或いは会議室の隅に呼ばれて話す個人的会話であるかを問わず、イラクが大量破壊兵器を保有していないという話は、唯の一度たりとて出た事はなかったのだ」と。

 主だった政府高官達、即ちブッシュ大統領、チェイニー副大統領、ラムズフェルド、ライス、テネット等、彼らが、それぞれの回顧録で全員一様に強調している事がある。つまり、彼らは安全保障上の理由から戦争に踏み切った。9/11に加え更なるテロ攻撃、しかも今度は大量殺戮兵器を伴って襲撃される事を恐れたのだ。ところが、ドレイパーは斯様な恐怖心には注意を払う事なく、ブッシュとその側近達が自由主義を普及させる為にイラク侵攻したと固執する。ドレイパーのこの議論は、動機と目的を混同しているきらいがある。確かに、大統領はイラク侵攻を決断したからには、民主主義を振興したかったに違いない、しかしだからと云って、民主主義振興が大統領をしてイラク侵攻を決断せしめた原因ではないのだ。ブッシュが戦争に踏み切った理由とは、彼がイラクを脅威であると認知した為であり、又、彼が、過去に相手を欺いた履歴がある、その独裁者を信頼できなかった為であり、又、彼は9/11の惨事に政権を担当していた責任を痛感してた為であり、又、彼は同様の惨劇を二度と繰り返すまいと固く決意してた為であるのだ。この事についてライスは次の様に明確に著述している。「我々は我が国並びに同盟諸国の安全保障に対する脅威があると判断した為に戦争に踏み切った。しかし、もし我々がフセイン政権を転覆させる必要があったのならば、米国はその後をどう処置するかの見識を持っているべきであったのだ。しかし、それがなかった。」

 ドレイパーが著作で生き生きと描写している通り、残念乍ら、ライスと彼女の同僚達は、フセイン後のイラク体制をどうするかに就いて合意に至る事は露ぞなく、そして懸念された通り戦後体制は悲惨な物となった。しかし、この失敗から生じる疑問がある。それは、果たして、イラク侵攻の意思決定はその始まりからそもそも賢明でなかったのか、或いは、同意思決定は、その後の実行の仕方が極めて拙(まず)かった為に結果として賢明でなかったと判明したのか、その両者の何れだろうかという点だ。ドレイパーは、それは不要な戦争だったと説明する。つまり、大統領が9/11テロ襲撃の略(ほぼ)直後に本能的に戦争を決意し、その経緯は、大統領自身が自分は職務に全力を注いでいなかったとの思い違いに陥る中で、正確でない情報を報告して来る側近達に耳を傾け、その結果、実際に存在しないにも拘わらず、脅威が迫っていると云い張る事態に至ったというものだ。

 ドレイパーは、戦争は無用だったと力強く議論を進めるのだが、証拠を注意深く読み込んで行くと、もっと複雑な背景が浮かび上がって来る。例えば、英国側の資料で、議会喚問に関連し得られる記録には、新たな事実が明かされている。即ち、当時の主要国指導者達はその殆どが、フセインは武力行使に直面しない限りは、兵器査察団を受け入れず、国連決議にも従わないと確信していた事だ。つまり、ブッシュ大統領とブレア首相のみならず、仏国ジャク・シラク大統領、露国ウラジミール・プーチン大統領、更に、ブリックスと同様に英国外務大臣のジャック・ストローも同じ考えだったのだ。そして、これらの内、多くの高官達が、皆戦争を回避したいと切実に望んでいた一方、フセインに対して兵器査察と国連決議の順守を求める中で、フセインは脅されない限りは、それらを受け入れる事はないと信じていた。そして、現実に、フセインは、武力による脅威に対し反応を見せたのだった。彼は、緩慢ではあったが、出し惜しみをしつつも追加の検査対象拠点を開示し始め、部下や科学者達に対し検査に協力するよう指示を出した。とは云え、彼は尚も、仏国と露国を米国から分断させ、結局、米国が手を引く展開になる事を望んでいた。要するに、フセインは、強気を張り合う、所謂(いわゆる)チキンレースを挑み、そして勝負に負けた。米国側は、ブッシュ、チェイニー、ラムズフェルド、及びライスの全員が、一度(ひとたび)軍事展開が生じ、それらにより米国威信が傷つく危険があると見做されれば、最早(もはや)戦争突入が避けられないとの覚悟を持っていたのだ。

 ブッシュと彼の側近達は、戦争に迄(まで)踏み込むべきだったのか? 無用だったと云うのはドレイパーの答えだ。即ち、それは誠に愚かしく、単純に過ぎ、そして荒唐無稽な決定であったと。つまり、9/11のテロにはイラクが関係していたとする、タカ派側近達からの誤った主張を大統領は受け入れ、自分の考えとしたのだと、ドレイパーは論ずる。側近である、チェイニー、ウルフォウイッツ、リビー、及びファイス等は、オサマ・ビン・ラーデインがイラク情報局との関係を維持する事を大統領に納得させようと、絶えず説得に力を注いでいた事が強調される。

 ところが、ブッシュ自身は、イラクによる9/11への関与を信じて戦争に踏み切ったのではないと、公的と私的、双方の場に於いて幾度も繰り返し述べている事実は見逃してはなるまい。更に、ブッシュに対するCIA報告官であった、マイケル・モレルは9/11テロとフセインとは無関係であった事を、大統領に明確に説明しているのだ。それにも拘わらず、フセインは切迫した脅威を米国に与える存在であると、ブッシュが確信したのは、フセインが大量殺戮兵器を保有するとの情報が流布しており、彼がそれらを見境なくテロリストへ渡す可能性があった為である。ブッシュがこれを恐れたのは、湾岸戦争後にはイラクに対する国際制裁が緩み始め、多くの側近や調査官達が、フセインは石油からの増収を使い、通常兵器を拡充し、大量殺戮兵器開発計画を再開し、米国並びに同盟諸国に挑み或いは脅しにかかる事を予想していた背景が有る。実際に、イラク調査団報告書に明らかなように、1998から2002年に掛け、フセインは既に原油密輸による不法収益を使い通常兵器増強を実施した。フセインの軍事力は、以前10年間の内に相当程度弱体化していたものの、制裁解除されれば再び強化される事は確実で、フセインが彼の野望実現に向け行動再開の後押しになると考えられた。そして、それらの野望は決して無害なものではなかったのだ。フセインはアルカイダの活動とは無関係だったものの、他の多くのテロ組織との繋がりを持っていた事は、国防省の研究組織であるIDA(Institute for Defence Analyses:米国防分析研究所)が公表した、当時押収したイラク側書類に明らかである。即ち、フセインは、パレスチナ解放戦線(PLF)、ハマス、エジプトイスラム聖戦団、及びアフガニスタン所在のヘズブ・エ・イスラミ等との関係を有していたのだ。彼はイスラム教聖戦主義者達と積極的に手を組んでいた。彼は米国の利益及びその同盟諸国に対し挑戦を試みようとしていた。そして、彼は実際に、エジプト、インドネシア、イラン、フィリピン、及びスリランカに於けるテロ活動の支援を模索していた。つまり彼は米国人に危害を加える事を欲していたのだ。

何故こうなったのか

 上述した事柄を以って、戦争への決断をドレイパーが非難するのは誤りだと、私は云うつもりはない。私が指摘したいのは、当時制裁が軟化し始めサダム・フセインは一層挑戦的態度を強める方向にはあったものの、それは決して米国の決定的に重要な利益を損なうような目前の脅威ではなかったという点だ。一部で議論のあった通り、クリントン政権時の高官達がサダム・フセインを箱の中に閉じ込めようとする方策を好んだように、彼を囲い込むことは尚あの段階でも可能だったと我々は論じる事が可能だ。即ち、ブッシュが高圧的外交路線に乗り出す前に、軍事介入を実施した場合の費用と帰結に就いて、組織的な議論を主導すべきだったのだ。ところが、彼の側近達は、途轍(とてつ)もない不首尾に終わるかも知れない予防的軍事行動を取るに際し、事前に二律背反的な選択肢を検証する作業を怠り、専ら戦術と達成目標を主題とする際限なき会議に時間を費やしたのだった。ドレイパーが、この失敗の責任者として大統領を批判する事は当を得ていると云える。

 しかし、ブッシュの実際の動機、知覚、及び行動は「戦争の開始」に描かれたよりも遥かに複雑なものであったのだ。ブッシュは、今にも起こる切迫した脅威ではなく、不気味に迫りやがて来る脅威を排除すべく意思決定したと云える(尤も、彼は公けの演説の中ではこの二つの脅威を混合して使用しているのだが)。タリバンをアフガニスタンに於いて成功裏に速やかに転覆させた事に触発され、彼は、今こそ米国の圧倒的力を動員するに絶好な機会と考え、それを使って、大量殺戮兵器を保有し、米国や同盟国を害する数多くのテロリストとの繋がりを持つ、反抗的で性懲りのない独裁者と対決しようとしたのだ。ブッシュは、サダム・フセインが米国を恫喝し、又は、中東地区に於いて米国が権益保護の為に取る行動が妨害される事を許さなかった。大統領は、敵対する者達に、米国は強く断固とした国であることを知らしめたかったのだ。

 恐怖と権力、傲慢さと罪悪感、それらがイラク侵攻の最終決定へと導いたのであり、決して彼の純朴さや独断性が原因ではない。その恐怖は現実の物であった。あの9/11の襲撃は正に心身が捩れる程の経験だった。想像して頂きたい、アルカイダが米国々民に重大な危害を与えようとしているとして、事前に警戒は呼びかけられていた、その後で、不意打ちの襲撃により現実に3,000人近くの犠牲者が出るという事態は、一体どのように感じるだろうか。例えその警告情報が極めて曖昧なもので有ったにせよ、その後悔の念は、怒りと共に如何許(いかばか)りであっただろうか。その罪悪感と復讐への渇望がどれほど大きいものだったか想像に難くない。これらの諸感情はブッシュ政権高官達の記録に滲み出ている。例えば、ロバート・ゲイツが国防省長官の職をラムズフェルドから引き継いだ際、彼は早々に大統領と側近達が次の心情を抱いていた事を悟ったのだった。即ち、「彼らは、自らの監督下に於いて、米国に対する甚大な攻撃を許し、国を凋落せしめたという、非常に強い思いを抱いていた」と、彼の回顧録に記す。国防省とポトマック川を隔てて所在する国務省に於いても、当時、同省高官のカール・フォードは同様の結論に至っている。後年、彼は随筆に、大統領と彼の側近達にとり「9/11が忘れがたい精神的衝撃になっていた」と懐述。それに続け、「それは、彼らの政権下に発生した。彼らは、国内外からのあらゆる脅威から国民を守る事を誓っていた立場だ。それに失敗したのだ」と語る。斯くして9月11日の襲撃は、血に染まった殺意を残したに止まらなかった。即ち、二度とあのような大惨事を繰り返す事丈(だけ)は防がねばならないとの、ある種の責任感を遺(のこ)す事になったのだ。

 サダム・フセインの支配するイラクで危険が醸造され発散すると予想したのは、巧みに考案された空想物語であったと云うのがドレイパーの考えだ。しかし、それは事実ではない。当時の前後の状況を把握する為に、政権が取るべき行動としては、何がより妥当であったかに就いて考察する必要がある。即ち、次に挙げる二つの可能性に就いて、政権はどちらを予想して備えるべきであっただろう。一つは、惨劇の起こる一日前、即ち2001年9月10日の時点で、ナイフや紙箱用カッターを持った19人の男達が飛行機4機を乗っ取り、世界貿易センターのツインタワーとペンタゴンの一部が破壊される事を想像すべきであったろうか。或いは、それから一年経った後に、イラクが化学兵器か生物兵器を何処かのテロリスト集団に手渡し、それによって米国又は同盟諸国が攻撃を受ける事を想像し念頭に置くべきであったろうか? 結果として、後者の危惧は見当違い且つ過剰に過ぎたものだった訳だが、そうかと云って、その想像は、愚かで理念に走る助言者達や、野望を持ち、独善的で、純朴な大統領によって為されたと云うのは正しくない。そうではなく、寧ろ現実には、前者の9/11の襲撃前に想像力が働かなかった事を罵倒された高官達によって、後者の想像が造り出されたと見るべきではないだろうか。

 イラク戦争突入への意思決定を吟味する際、ハス自身の回顧録、巻末近くに記述された以下見解は十分参考とする事ができよう。「私は米国政策に合意できなかったものの、それは根本的に異議を唱えると云うものではなかった」。そして続けて曰く、「謂わば戦争開始に対し私の反対の立場は、以前は60/40の度合いであったのだ。しかし、もし仮に、イラクは最早(もはや)大量殺戮兵器を保持していない事を、私が事前に知り得ていれば、開戦の意思決定に反対する私の度合いは90/10に高まっていただろう」と。ブッシュ自身も回顧録の中で、多かれ少なかれ同様な一連の思考が有った事を認めている。即ち、もしサダム・フセインが大量殺戮兵器を保有していない事を、ブッシュが知っていれば、異なった対応を取っていたかも知れないのだ。つまり、ドレイパーには、当時ブッシュが知り得なかった事を知っているという優位性があり、更に、彼が面談した人々も又、2003年当初に戦争の行方は不透明であったものの、今となっては、あの戦争が大きな間違いであった事を皆承知しているのだ。従って、意思決定に至る、真実の生みの苦しみを把握する為には、我々は、後知恵を以って大統領が賢明さを欠いていたと非難すべきではないし、又、彼が当時は判断材料として知り得なかった情報に基づいて、その評価を為すべきではない。寧ろ、我々が為すべきは、大統領の傲慢さ及びそれと共存した恐怖、彼の米国の権力と脆弱性双方への憂慮、そして彼の復讐への渇望と同様に9/11に対する自責の念、更に米国民を守る事が世界を造り変えるのと同じく重要だとの彼の信念、等々を解明して行く事ではないだろうか。             (了)

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