対象図書:『東京裁判 ~第二次大戦、戦後裁判での論争と近代亜細亜への幕開け~』Judgement at Tokyo: World War II on Trial and the Making Modern Asia
著者:ゲイリー J. バース (GARY J.BASS)
出版:クノップ社(Knopf) 2023年出版 912ページ
評者 / 肩書:ジェニファー・リンド(JENNIFER LIND)/ ダートマス大学政治学准教授、
ハーバード大学ライシャワー日本研究所准教授
**訳者前書き:当月フォーリン・アフェアーズ誌書評欄に東京裁判関連書籍が取り上げられた。今更何をと云う思い拭い難く、殊、同書著者自身が、20年以上前の書籍ハーバート・ビックスによる『昭和天皇』(原題:Hirohito and the Making of Modern Japan)を踏襲する旨を言明し、米国に眠る新資料が近来発掘でもされたなら兎も角、書評見る限り、日本の中高生の持つ知識以上の新事実もなく、例により歪な米国ロビー活動の賜物なるか、日本側から見れば、腰も抜かさんばかりの不正確な情報が多々ある点、見過ごせない。本邦識者達の反論を望みたい(特に問題箇所を、訳者判断にて黄着色を施した)**
=以下 掲載文の全邦訳=
<書評>
1946年5月3日、東京が穏やかな春に包まれていたその朝、法務官は、聴衆に大きな声で起立を命じ、11 人の判事達が列をなし法廷に入場した。極東国際軍事裁判が開始された瞬間だ。法廷には、百人を越える日本の傍聴人と、同じく百人以上の日本国内外の報道人達が詰め、居並ぶ判事達に一斉に注目が注がれた。彼らは、様々な連合諸国から選出されていた。日本が連合国側へ降伏し、未だ1年も経過しなかったこの時、その数日前に日本軍部と民間の指導者達28人に対し、55ケ条に及ぶ起訴状が首席検事から言い渡されていた。
判事達の前に、着席した28人の被告人達の中に東條英機(1944年中盤まで首相)が居た。彼にとり、その建物の内部は見慣れた光景だった。裁判の舞台となったこのビルは戦時中、帝国陸軍省が使用し、東條の執務室が所在していたのだ。その執務室は今や、判事達が占拠し、そして彼らの手中に東條の運命は握られてた。この点に止まらず、当該法廷が孕(はら)む様々な皮肉な運命を、東條のみならず、その他の被告人達全員が噛み締めていた。
「東京裁判」として知られる同法廷は、殊(こと)、ニュルンベルグ裁判に比べ、欧州での知名度は低い。西欧が第二次大戦を回顧する際には、飽くまで、仏国陥落や英国本土航空決戦、そしてノルマンディー上陸作戦等の欧州戦線の域を出ない。彼らが亜細亜(アジア)へ視線を向ける場合も、1942年の英国領シンガポールの日本軍進撃による陥落、或いはサイパン島や硫黄島決戦の上陸作戦で血に染まった海岸線、と云った西側の戦場追体験に基づくものだ。一方、米国人の場合は、日本に原爆投下した記憶に直結し、之(これ)を以って戦争終結や核時代到来の事柄を思い起こすが、民間人犠牲者に対し哀悼の意が払われる事は稀だ。
ゲイリー・バースの力作『東京裁判の審判』は、戦時及び占領下の亜細亜で何が起きたか、読者がより深い理解を得る助けとなるだろう。戦後亜細亜地域の政治体系、並びに戦後国際的人権擁護体制の成立に於いて、同裁判が形成的役割を果たした事を、同書は明らかにする。著者のバースはプリンストン大学の政治及び国際関係学教授で、人権に関する諸規範と政治との相互関係の研究に造詣が深い。彼は、過去「エコノミスト誌」記者としてジャーナリズム界に身を置いた丈(だけ)あり、その文体は明快にして活力が在る。『東京裁判の審判』は、深刻なテーマを扱うに相応しく、重厚な筆致で描かれる一方、ちょっとしたウイットも忘れない。(一例は「ソヴィエト判事の英語力は、思った程に悪くなく、少なくとも、(酒好きの彼は)“乾杯!”(bottoms up)の単語を知っていた」と云った具合だ。)
同裁判は1946年から48年迄継続、之はニュールンベルク裁判に比べ3倍の期間に相当する。その間に繰り広げられた出来事を通じ、判事達の特別な物語に加え、彼らがそれぞれ独自の大局観を有していた事を、読者は知るだろう。同裁判には国際的で多彩な顔触れが揃った。日本の昭和天皇と米国軍ダグラス・マッカーサー将軍等著名な大所を始め、左程知名度のない脇役的人々が、この一大転換に位置付けられる舞台に登場する。例えば、バースは東郷重徳の悲劇的存在に焦点を当てる。彼は、平和主義の日本外務大臣で、真珠湾攻撃を阻止しようと試みたが、戦争犯罪人として法廷へ引き出されたのだった(結局獄中死に至る)。驚くべき著名人も顔をみせ、まだ当時大学生だったシンガポールのリー・クワンユーや清国最後の皇帝溥儀等も証人として登場する。
400人以上の証人が、日本帝国主義行動と身の毛もよだつ恐ろしい残虐行為を詳述した。又、被告人達も証言台に立った。特に、東條の落ち着き払い、堂々として権威に媚ない証言姿勢を描く章は、バースの迫真の描写だ。つまり、東條は首席検事のジョセフ・キーナンをいとも簡単にやり込めてしまったのだ。一つは東條の証言―そして、もう一つ、印度人ラダ・ビノード・パール判事の反対意見書―は、本流とは矛盾する反証的物語を生む助けとなり、之は戦後日本の保守層に根強く支持される処となったのだった。
之によって日本の保守主義者、及びその他大勢の人々が東京裁判を「戦勝国裁定」と嘲笑した。一方、『東京裁判の審判』でバースは同法廷を“誤りを含むものの、賞賛に値する試みだった”と説明する。彼は、夢想的理想主義者や、斜に構えた皮肉屋の何れにも属さず、飽く迄「連合国側が第二次世界大戦を終結に導くに当たり、自由主義的理想が如何に彼らの尽力を形造って行ったか」と云う視点で描き切る。一方、彼は、これら自由主義の理想が、政治や軍事上の現実を前に、時として犠牲とならざるを得なかった事例も明示して行く。その中でも最も重大なのが、昭和天皇を免責とする連合国側の決定だったと論じている。
『東京裁判の審判』が投げ掛ける問題の中心は何であろう。評者が思うに、当該裁判が、偽善でもない代わりに、本来目指されるべき、原則を追求した模範例とも云えない場合に、我々はそれを歴史的にどう評価すべきか、と云う点だ。この問題は、歴史的観点に止まらない。つまり、それは、現在、米国と同盟諸国が中心となって支持する「規範に基づく国際秩序」に関し、目下盛んに為される議論と深い関わりが在る。この秩序に異を唱える者達は、“規範”と云う言葉は「冷酷な現実主義が理想主義と云う衣を纏ったに過ぎぬ」と同規範の無視を決め込んでいる。斯かる現状下、バスによる東京裁判探究の旅は、読者が現在、この問題を考察する上で新鮮な視点を与えて呉れるだろう。即ち、彼の叙述は、国際政治に於いて、理想主義を追求するに当たっては、実用主義と自己利益、更には、二律背反下に行う必要がある決断と憎悪拡大化の事態等が、相競合する中で、それらの折り合いを付ける難題に常に直面する点を明らかにするのだ。
造り上げられる戦争の話
第二次世界大戦後には、空想物語の時代到来と呼べる程に、様々な曲解的逸話が世に溢れた。例えば、米国人と欧州人は、1944年連合軍によるノルマンディー上陸作戦を戦争の一大転機と特定するが、現実にそれ迄に膨大なドイツ陸軍兵力を東部戦線で殲滅したのはソヴィエト連邦の手柄によるものだった。又、1944年8月、シャルルドゴールはシャンゼリゼ通りに戦勝パレードを意気揚々と敢行したが、パリを実際に解放したのは彼ではない。更に、伊太利亜(イタリア)軍兵士は独逸(ドイツ)軍が為したと同様の残虐行為を加えたしたにも拘わらず、戦後、国民達は彼らを「素晴らしき卓越せる人々」として記憶に刻んだのだった。
当然、戦後亜細亜に関しても、政治的利用を目的とした物語が生まれた。今日、米国の教科書が小学生に教えるのは、広島と長崎に原爆投下され、日本は米国に対し無条件降伏をした、との史実だ。然し、バースが明らかにするのは、米国が日本の60余の都市を焼き尽くした上で、更に残っていた二つの都市を原爆攻撃で破壊した、その後に及び尚も、その時点では戦争終結の諾否に就いて交渉が継続されていたと云う事実だ。この交渉に於いて、戦勝国は切歯し大いに憤慨やるかたないような妥協を余儀なくされたのだ。(この件を語る章は、今日ウクライナ戦争の終結方法を検討する人々に取っては重要な示唆になる筈だ。即ち、停戦に際し、露西亜に対し同国の目標の全てを放棄させる事が可能だと考える人々にとっては、敗戦国日本国に対してすら戦勝国側は全ての要求を通せなかった史実に鑑み、そのような安易な思考を捨てて再考すべきだろう)
即ち、日本の“無条件降伏”は、実は「昭和天皇の免責」を条件としていた。昭和天皇を法廷起訴から除外する決定は、多くの裁判官を激怒させ、連合諸国の国民達を憤慨させた。何故なら、彼らは皆、昭和天皇こそが日本帝国主義の中心人物と考えたからだ。
然し、米国軍指導者達は、敗戦後の日本に、大規模な暴力的反乱が生じる事を危惧した。マッカーサーは「天皇は日本全国民を一つに束ねる象徴的存在」で在る故に、「天皇を亡き者とすれば、日本国家は大瓦解するだろう」と警告を発したのだ。
その結果、「亜細亜での拡大諸策並びに真珠湾攻撃に関する、多くの御前会議に於いて昭和天皇の関与が在ったにも拘わらず、昭和天皇を皇居に無傷で住まわせ戦争は幕引きとなり、一方、天皇陛下の部下達は法廷へと引き出された」とバスは指摘する。
「昭和天皇を無傷に温存する決定」は、日本のエリート層及び、戦後日本占領政策を構築した米国高官達とが、共同し“天皇の無実神話”を紡ぐ作業へと駆り立てた。即ち、バースの言葉を借りれば、「昭和天皇の戦時に果たした役割を浄化」したのだった。更に、戦後に米国高官が影響を振るい検閲すらも実施した日本メディアは、東京裁判の被告人達と結託し、この物語を紡いで「積極的な軍部指導者達に如何ともし難く引き摺られていった天皇像」を造り上げた。この神話創造に際し、昭和天皇御自ら1946年に、ご自身が「実質は捕らわれの身で権限を持たなかった」と演出に加担されたのだった。
バスはこの神話像を支持しない。そして『東京裁判の審判』に於いて、前述、天皇の謂わば敗北宣言に関し、その天皇神話は、ハーバート・ビックス(原題Hirohito and the Making of Modern Japan邦訳書タイトル『昭和天皇』)、及びジョン・ダワー(原題Embracing Defeat邦訳書タイトル『敗北を抱きしめて』)の書籍で既に指摘された事項であり、バスも同見解を受け継いだ点を付言している。
然し、バスの著作ならではの力強い筆致は、之が神話であった事実を、それが破綻する瞬間を叙述する事によって示している点だ。即ち、それは、皮肉にも天皇が最も信を置いた側近の失言から生じたものだった。東條は証言中、ある時、「舌をすべらせ致命的な発言を」放ったのだ。即ち、「日本国家は、天皇陛下の意に沿って戦争に踏み切った」と。裁判長は言質を取るべくこの失言を指摘すると、法廷内は一瞬、水を打ったように静まり返った。
茶番の側面を持つ裁判
東京裁判が政治的企てへと仕立てられた事の元凶が、昭和天皇の免責に在ったと多くの者達が見做した。現に、仏国判事アンリ・ベルナールは、反対の意見書に論じて曰く、「日本の軍部指導者達が企てた陰謀に関し有罪ならば、その陰謀には首謀者が存在した筈だが、その本人が全ての訴追を免れている」と。更に、裁判が、個人責任と説明義務の原則を、天皇に対し如何に曲げたものであるかに加え、バースはその他にも、法体系の在るべき基準に悖(もと)った多くの事例を例示して行く。
当初、被告人弁護団は、「裁判自体の適法性に対し果敢な挑戦」を試み、「法廷自体が適切に組成されておらず、極東国際軍事裁判所条例に規定された罪の内、幾つかは犯罪に該当しない」と論じた。バースの叙述によれば、この成り行きに、キーナン首席検事は慌てふためき、真っ赤になり(実際は、真っ青になったと中国人判事の梅汝璈は伝える)、「人間が法律に手足を縛られ、為されるべき事に手出し出来ないとは本末転倒だ」と激しく抗議した。事態に窮した裁判長ウィリアム・ウェブは、最終的に「当裁判の法的妥当性関し、その正当性は追って確認する」と宣言しその場を収める。しかし、その正当性が後日証される事は遂になかった。
又、裁判は法的独立性の規範も破るものだった。つまり、多くの裁判官達が自国政府と密接な連携を取り続けていた。又、個人体験を判断に持ち込んではならぬとの法的秩序にも背くものだった。梅汝璈は、重慶で日本軍空爆に被災した。フィリピンの判事ハラニーリャは1942年のバタム死の行進の被害者だったのだ。
裁判は更に、人権侵害を意図的に選別し見過ごした。誰一人として戦時中の日本の従軍慰安婦問題を起訴する者はなかった。同計画によって、亜細亜の何十万人という女性が前線の娼館に拉致され繰り返し強姦されたのだ。もし、同裁判がこれらの残虐行為に焦点を当てていれば、女性に対する暴力と性的人身売買を禁じる規範強化に貢献を果たせたであろう。之に反し現実は、その後、数十年に亘り、亜細亜人女性の肉体は、売春目的の旅行先として東南亜細亜で、或いは、米軍基地周辺の繁華街に繁盛した売春宿で、引き続き商品して取り扱われ続けたのだ。
裁判が見逃した点の指摘はまだ続く。法廷は、日本軍石井四郎中将、731部隊の指揮官を放免した。この細菌兵器極秘開発計画は中国人の兵士及び民間人を対象に恐ろしい医療実験を施し、中国の複数都市に「ペスト」細菌を意図的にばら撒き、25万人を死に至らしめたのだ。起訴を免れた石井は、米国軍と取引し、その結果、米国側は石井から“悍(おぞ)ましい実験成果”とバースが記述する処のものを、入手する事が出来たのだった。
他方、法廷では、残虐行為を被った日本人犠牲者の存在も消し去られた。ソヴィエト連邦判事の証言が重んぜられた結果、日本人戦争捕虜に対する犯罪に関し、ソヴィエト側の士官は誰一人として法廷に召喚される事はなかった。「実際には、ソヴィエトで殺された日本兵捕虜の人数は驚くべき大規模なものだった」とバースは記している。
『東京裁判の審判』は、米国軍が行った一般爆撃及び核爆弾投下による日本の被害に言及する。即ち、もし、戦後処理が違った形で行われていたなら、これら爆撃は戦争犯罪として罰せられただろうとバースは指摘する。実際、この点を裏付けるが如く、裁判の数年後、米軍大将カーチス・ルメイ(訳者補足:東京大空襲の立案者兼指揮官)は「我々が勝者側に居た事が、幸いだったのだ」と回想しつぶやいた旨が伝わる。
又、バースは、裁判は屡々(しばしば)帝国主義と人種差別に満ちたものだったと記述する。つまり「日本の指導者達は、ビルマ、マレーシア、或いはシンガポールを攻撃した咎(とが)ではなく、英国連邦を攻撃した責任を問われようとしていた」と。又、誰が法廷で証言すべきかは、帝国主義の都合で決定された。つまり、「インドネシアやヴェトナム国民の声が直接聞き届けられる事はなく、和蘭(オランダ)人と仏国人がそれぞれを代弁し、韓国側からの証言は一切なかったのだ」。
印度のパール判事による「歴史的な反対」は、これらの山積する諸問題に就いて、謂わばカーテンを開けっ広げて、全ての裏事情を露わにしてしまったのだ。一千ページにも亘る、パールの反対意見書こそが「東京裁判に於いて、人種差別と帝国主義を主要問題として明確に取り上げた、唯一の部分である」とバースは指摘する。パール判事は、ソヴィエトが戦後、東欧で残虐行為を働いた事の偽善をも厳しく非難した。一方、同判事は公平にも、西欧植民地主義も恥ずべきものと考え、「ある国家が他の国を支配するのが国際犯罪であるとするなら、大国と呼ばれる多くの国は殆どが犯罪国家だ」と記述したのだった。
パールは、「当裁判の設計者達は、(明白な線引きよりも)ある程度の曖昧さの温存を是とし選好したのだ」との意見を表明した。然し、バースは、このパールの反論は厄介な問題を後に残したと著述する。実際、印度のジャワハルラール・ネルー首相は、当時、パル判事の見解にはうんざりし「之は日本の30年間に及んだ、その行為の、よもや正当化を図ろうとする、画期的所業だ」と非難した。又、バースの見立てによれば、パールが日本の残虐行為に対し真剣に対処せずに置いた結果、戦後日本に東京裁判を批判する保守的見解の誕生を許した、とする。
公明正大を目指した裁判
裁判は多くの欠点を伴ったのは確かだが、兎も角、苟(いやしく)も裁判が行われた事、それ自体が賞賛に値する、と云うのがバースの見解だ。当該図書『東京裁判の裁き』が現時代に寄与するのは、この裁判が回避し、採用される事はなかった手法が如何なるものであったかを、我々に示唆して呉れる点に在る。即ち、マッカーサーは、当初、米国人判事のみで構成された法廷の下に、東條とその他、責任者を真珠湾攻撃の咎で裁く事に執着していた。又、復讐心を抱く、連合軍側同盟諸国の国民達が好んだのは、中国と露西亜の指導者達の考えと同様、「日本帝国指導者達へは単純明快な対処を為す事―即ち、彼らを全員死刑に処す」事だったのだ。
然し、裁判が斯かる顛末を避け得たのは、広汎な証人達の証言と判事達の多様性のお陰によるもので、同裁判は確かに完璧とは云えぬが、それは亜細亜に於ける当該戦争の歴史をある意味、実り在るものとしたのだ。担当判事達は、縁故で無能な者が採用された訳ではなく、寧ろ、大多数の場合、各国を代表する最高の法精神の持ち主達だった。その証拠に、和蘭(オランダ)、仏国、印度の判事達は法原則を断固護持し、自国政府が恣意的に設定した裁定を拒否する反対意見諸を提出した。又、被告人達は皆「一通りの審査過程と法的諸手続きを」踏む事が出来、更に、被告側弁護人達は日本人と米国人とを問わず、全員が「堅固なプロ意識」に徹し、「彼らの被告の為にそれこそ、渾身の力を振り絞り」弁護に努めた点をバースは指摘する。
例えば、米国人弁護士兼米国陸軍少佐軍のベン・ブレイクニーが法廷で取った姿勢には、日本側被告人たちは皆、感銘を禁じ得なかった。即ち、彼は「真珠湾攻撃による米国軍人殺害を殺人の罪に問うならば、我々は、広島への原爆投下スイッチを押した兵士も名指し、罪に問うべきだ」と、彼の母国米国政府の起訴状に対し真っ向反対を呈し議論したのだった。
バースは、東京裁判が、世界並びに日本に対し、非常に生々しい指導的教育の役割を果たしたとの理論を展開して行く。即ち「中国侵略と米国攻撃と云う、悲惨を齎(もたら)した意思決定に対し容赦ない光を当てた」のだと。そして「“南京とマニラでの恐ろしい略奪”、そして日本軍による“民間婦女の大量レイプ”に関する証言を知った時に、日本国民は衝撃を受け委縮したのだ」と。無論、この法廷で、もしも、植民国家側ではなく、亜細亜諸国自体をより一層、重視するよう努力を払い、更に連合軍側が被った被害と同様に、連合軍側が犯した暴力に就いても等しく暴いていたのなら、この歴史的事蹟は、一層意義深いものとなっていただろう。然し、先述した一連の人権侵害を明らかにする事によって、同裁判は日本の軍国主義外交を否認し、歴史上の記録として貢献を果たし、自由主義の学者達や政治指導者達が、日本軍の人権侵害を否定しようと試みる勢力を退けるのに力を貸したのだった。
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然し、『東京裁判の審判』で非常に興味深い要素は、同書が、自由主義的理想主義からの出発によって戦後の安定が形成されて行く道程に注目した点だ。昭和天皇の罪を不問とした事案に就いては、実用主義(プラグマティズム)の美徳に、読者は思いを馳せざるを得ぬだろう。昭和天皇を裁判に付した場合、日本国内に暴動を発したか否かは何人も知り得ない。然し、バースが著して曰くは「現実には組織的抵抗が起きる兆候はなく、日本人自身が動員解体という一大作業が惹き起す副作用を過剰視していたのだ」と。その後、日本は目を見張るような経済成長を遂げ、世界でも繁栄を誇る国々の仲間入りを果たしたのだった。
未来への後戻りを避け、過去の教訓を将来に生かす為に
バースはこの自著で「東京裁判がどのように営まれ、歴史に如何なる意義を残したのかに就いて、読者各位が判断を下すに当たり、本書がその助に資すれば幸甚だ」と述べる。之は余りに謙遜に過ぎる自評だろう。同書の為す貢献は、1940年代の東京を舞台とした事象を遥か越え、自由主義と国際政治に関し尽きない議論に遍(あまね)く光を照らすものと、評者は高く評価したい。
今日、米国や同盟諸国の指導者達が、外交諸政策の目標に関し、屡々(しばしば)表明する主旨は、嘗て東京裁判に於ける連合国側の立振る舞いを彷彿とさせるものが在る。それは、つまり「外交政策は、自己利益に根差す視点ではなく、世界全体の平和増進の為、一式の“客観法”を基盤とし支える事を目的とする」点だ。例えば、2022年、独逸(ドイツ)オラフ・ショルツ首相がフォーリンアフェアーズ誌寄稿文に明言し曰く、「西欧諸政権は“規範が権力を統制し、且つ修正主義者的諸行動に抗し得る、世界秩序”を維持する事を唯一目的としているのだ」と。又、同年にアントニー・ブリンケン米国国務長官も同誌寄稿し「自由主義に基づく国際秩序とは、“世界が二つの大戦を経た後、諸国家間の利害関係を調整し、紛争を回避し、人民全ての諸権利を保護する為に協力して打ち立てたもの”なのだ」と述べて居る。
本書の著者バースは、第二次世界大戦直後に「多くの日本人達が国際法に纏わる協議は全て空想的夢物語であると確信した」現象にも言及する。又、今日に於いて、自由主義を謳う美辞麗句に対し、軽蔑的態度を以って批判を加える人々が世界中に尚も存在する。例えば、米国のイラク侵攻20周年の記念行事に際し、中国外務省の報道官Wang Wenbin(おう・ぶんひん)は、「米国主導による規範に基づく国際秩序は、強者都合による弱肉強食の掟と何ら変わる処がない」とこき下ろした。又、2022年、露西亜のプーチン大統領が非難して曰く、「西側陣営は規範に基づく秩序が必要だと事在る毎に主張するが、一体それは何処から来たものなのか? そのような規範を誰が見つけたのだ? そして誰がそれに合意や承認与えたと云うのだ?」と。更にプーチンは2007年の段階で既に論じたと同様の内容を、今般以下に蒸し返す有様なのだ。つまり「武力の行使こそ、我々が適法と見做すべき唯一の規範であり、もし、我々の軍事行動が国連から制裁対象となった場合には、殊更そうである」と。
露西亜がウクライナに侵攻し、中国は暗黙に同行動を支持した。当然、この状況は国連から支持や承認も得られておらぬ中、国際的に弱い立場に追い込まれているのは露西亜と中国の指導者達だと、大半の人々は考えるだろう。然し、意に反し、中露に対し浴びせられた諸批判の対象となった行為は、タフツ大学の研究に拠れば、実際は、米国の取っている諸行動と共鳴する部分があるのだ。即ち、同大学フレッチャー校の研究は、1990年以降、米国が100回以上の武力行使をする内、国連の承認なく実施した事例は夥しい点を明らかにしている。更に、米国の振る舞いが、中露が批判を受けている内容と共鳴する事例は之に止まらない。即ち、米国はウクライナ国家の独立的主権を激賞しつつ、自身はアフガニスタンとイラクの戦争に於いて、これら諸国の主権は無視したのだった。要は、中露と米国も同じ穴の貉(むじな)と云えるのだ。ワシントン政府が国際規範に基づく貿易秩序を尊重する旨を宣伝しその正当性を述べる一方、正にその貿易秩序の中に自身の影響力を行使し、イランや露西亜経済を破壊し、世界の半導体供給網から中国を除外し、中国製品に対しWTOが規定違反と見做すような高関税を課した事は世界の記憶に新しい。
自由な国際秩序を支持する人々が論じたのは、其処に含まれる幾多の矛盾と偽善ですら、現実には、それらが将来へ期待を生む土壌となり得ると云う点だ。学者のマチス・スペクターが今年フォーリンアフェアーズ誌に投稿し述べた如く、「西欧側の偽善から便益が生まれる事も在り得る」その理由は「彼らが徳義上の約束に違う失敗を仕出かした事態に直面した場合、西欧同盟の政治家達は、それが何時如何なる時であれ、正しい対応を取る事を求められるからだ」と。即ち、スペクターが論じたのは「西欧側の国際秩序は学習し、適応し、進化する能力を備える」点だ。斯様に「物事を問うて疑う姿勢」の便益を我々が呼び掛ける時に、奇しくも思い起こされるのが「東京裁判」の事蹟なのだ。即ち、同法廷は当時次の言葉を世界に保し閉廷した。「当法廷の法的妥当性は後世に証明されるであろう」と。同裁判は目も蔽いたくなる失敗に満ちたものだったが、ともあれ裁判により新時代が切り開かれた。一方、現在の世界情勢に目を転ずれば、戦争裁判を嘗て主宰した力は今日の米国に最早見る事が出来ぬは遺憾な点と云える。
(了)
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