【書評】市場経済原理の先駆者達~新しい経済学への道程~(原典:Market Prophets~The Path to a New Economics~, Foreign Affairs 2021年Nov/Dec号P178-183)執筆者:フェリシア・ウォン(Felicia Wong)、ルーズヴェルト協会代表及びCEO

対象書籍:「サミュエルソンとフリードマン~自由市場経済を巡る論争~」(原題:Samuelson Friedman : The Battle Over the Free Market

書籍著者:ニコラス・ワップショット(NICHOLAS WAPSHOTT)

出版社: ノートン社 2021年 384ページ

(書評主旨)

 経済恐慌の最中、米国大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは、即座に政府と経済との従来の係り方を覆した。ニューディール政策により、新しい諸産業と何百万人もの雇用を創出すると云う、先例のない手法をワシントン政府は取ったのだった。この政府支出は数えきれない程多くの米国国民を貧困から救い、最終的に戦後経済好況へと弾みを付けた。しかし、1980年代迄には、小さな政府と低い税金を経済繁栄の鍵と見做す、超党派的合意が形成されて行った。1941年に、ルーズベルト大統領が、あらゆる米国民は「欠乏からの自由」を得る権利があり、それを達成するのが政府の役割である旨を宣言したものの、時代が下り1996年になると、ビル・クリントン大統領は「大きな政府の時代が終わる」事を約束した。この間に一体何が変わったのか?

 ニコラス・ワプショットの新刊「サミュエルソンとフリードマン」がその答えを教えてくれる。即ち、同書は、1980年代の市場自由主義が、1900年代中半に台頭した福祉国家主義に勝利するに至った経緯を、経済学上の二大巨人である、ポール・サミュエルソンとミルトン・フリードマンとの論争として語る。ケインズ派学者であったサミュエルソンは、所謂、新古典派の統合と呼ばれる彼の功績により知られ、それは政府による経済への介入を提唱するものだった。一方、これと対照的に、一時はニューディール政策の推奨者だった、フリードマンは1950年代頃迄には、恐らく当時では最も議論好きで且つ熱心な完全自由主義者となっていた。

 現在、世界的感染症蔓延の中に在って、サミュエルソンとフリードマンの物語から学ぶべき点は多い。1960年代及び1970年代の当時がそうであった様に、今日、過去の前提は崩れ去った。つまり、小さな政府と低い税率の経済と云う、フリードマン等が想像しそして実践された手法は、遂に権力を失いつつある。市場は自由に保たれるのが最善で、政府は小さい程上手く機能すると云う、これ迄の信念に対し、米国の大衆が疑いを持ち始めたのみに留まらず、政治全体領域を通し専門家達もが、これら諸前提が誤りだと証された点を次第に認めている。新型コロナウィルスは、長年の経済統計が示唆していたある事実を浮き彫りにした。つまり、自由放任主義下に、繁栄は等しく共有されず、不平等が拡大すると云う事だ。これ迄確固として支持されて来た諸信条が批判に晒される中、より平等な経済を設計する為の極めて重要な機会に、今、指導者達は直面しているのだ。

偉大なる先駆者達

 ワップショットの同書は、1960年代中盤にニューズウィーク誌編集長、オズボーン・エリオットが、同誌の手強いライバル、ヘンリー・ルースのタイム誌を凌駕すべく、優れたコラムニストを新たに求める所から物語が始まる。大物経済学者達がその日のニュースに関し論評すれば、若い購読者達に歓迎されると考えたのだ。

 エリオットは、時の経済理論学者であったサミュエルソンを確保出来る事を幸いに思った。彼は「経済学」と銘打たれた、1948年初版以来当時最もよく売れていた経済学入門本の著者でもあった。サミュエルソンは、マサチューセッツ工科大学常任教授の地位を32歳の若さで得ており、今更コラム連載を担当する苦労や原稿料を必要とする立場ではなかったものの、ニューズウィーク誌の持つ毎週1,400万人の購読者達に接する事が出来ると云う考えに魅力を感じたのだった。エリオットは、更にフリードマンに対してもコラムニストとして契約締結を試みた。彼は、シカゴ大学に於ける保守自由主義者で、当時の米国に於いて、1900年代半ばの経済理論を独占していたケインズ主義の部外者だった。フリードマンは当初、多忙を理由に申し入れを辞退した。ところが、彼の妻ローズが本件を強く推した。政治の自由と自由経済市場との関係を説明する役割がまだ十分果たせていなかった事がその理由だと、彼女は1976年オリエンタルエコノミスト誌への投稿記事で語っている。(ワップショットの物語には、ローズ・フリードマンからの引用を、もっと豊富に活用出来たはずだ。彼女は自身著名な経済学者で、フリードマンの多くの著作の共著者である事に加え、演説原稿集を編纂し、彼女の夫の著作の中で、最も影響力があり流布した教科書「資本主義と自由」を世に送り出す役割を果たしている。)

 1966年、サミュエルソンとフリードマンは共にニューズウィーク誌に加わり、1980年代初頭まで執筆を続けた。彼らの在職期間中、双方の思想家は、適正な税率、連邦準備制度理事会の適切な役割等、当時の経済上の重要課題を論じた。しかし、ワップショットが著述する通り、二人は経済学理論の重要な諸要因の中でも、特に市場システムは外部介入なく自立的に調整され得るかという点に関し根本的に対立した。フリードマンは、殆ど全ての政府介入から免れた、彼の提唱する束縛から解放された形態の資本主義が、経済的且つ政治的な自由と同義であると信じた。これに対し、サミュエルソンは「政府なくしては、何ら解決策は存在しない」という姿勢を生涯貫いたのだった。

 「サミュエルソンとフリードマン」の書は、知的歴史上に於ける偉大な男の理論(意図的に性差を強調して)に賛同するものだ。ワップショットの叙述では、一方では、政府による積極的財政政策を通じ経済を管理する手法の略称と云える、ケインズ主義と、他方では、中央銀行と通貨供給を最重視し、自由主義に影響を受けたマネタリズムとの、この両派論争の殆ど全てを二人の経済学者によって代弁させる。ところが、サミュエルソンとフリードマンが属した知的人脈網に関しては深く語られない。これは根本的手抜かりだ。例えば、フリードマンは、フリードリッヒ・ハイエク、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、カール・ポッパー等と共に、最初に新自由主義を発達させ、同理念の普及に影響力を持った「モンペルラン・ソサエティー」の創立メンバーであった点だ。このような人脈による、知的、社会的、そして政治的な積極的支援が、彼らの主義が世間から承認と正当性を獲得する手助けとなったのだ。半面、ワップショットは、MIT、シカゴ大学、及びヴァージニア大学等、有力な名門学術諸機関に対しては多少注意を払い、これら諸大学が何世代にも亘り、ケインズ主義と新自由主義双方の学生達を教育した点を指摘する。しかし、これら諸機関も、サミュエルソンとフリードマンとに関しては、飽くまで二次的な役割を持つに過ぎない。

 それよりも、同書のより大きな問題は、当時の時代感覚を読者に対し十分伝えきれていない点だ。1960年代と1970年代は激動の時代だ。即ち、ヴェトナム戦争、セックス革命、更に民権運動により、米国の旧い、社会、人種及び経済上の諸秩序が覆された。これらの諸変化は屡々(しばしば)自由化を齎(もたら)したものの、それらに伴う混乱によって、サンベルト地帯郊外に居住する主婦層や南部の企業経営者達を含む、多くの白人米国人中間層は、連邦政府による介入と云うサミュエルソンの構想を拒絶し、それに代えて、単純にして秩序立った自由主義経済の仕組みを好む傾向になったのだ。

 種々の変化から生じる国民の大きい不安感は1964年になると一層明確化する。それは、反共産主義者で、経済的に保守層を基盤とし、福祉国家構想と1964年公民権法には反対する、バリー・ゴールドウオーターが民主党大統領候補として名乗りを挙げた為だ。ゴールドウオーターは、公民権法が、民間の諸事に国家が介入を図ろうとする又も悪しき事例の一つであるとして排斥を試み、その過程の中で、フリードマンの小さな政府主義を、人種差別解消運動に反対する南部白人達に結び付けたのだった。こうして、1960年代の終わり迄には、民権運動自体は、明らかに人種と経済学に関係付けられたが、今度はその方向が真逆に向かった。つまり、マーチン・ルーサー・キングJrは「人種的不平等と経済的不平等の問題は、政治及び経済権力の大胆な再配分なくして解決しない」と1967年に宣言したのだ。この様に、経済学上の闘いが、明確に人種闘争の様相を呈したのだった。

 このように、1960年代と1970年代という年代が、サミュエルソンの推奨するニューディール時代の政府の有り方と、社会混乱の時代にフリードマンが提唱する事業、利益及び株主を重視した世界観とを戦わせたのだった。多くの白人米国人にとり、恐らくフリードマンの政治的自由主義を経済版に置き換えたものは説得力を持ったのだ。この主義によれば、政治、道徳、及び経済上での正しい答えとは、それが譬えどんな地点であれ、需要と供給が合致した所とするのだ。経済全体に影響を及ぼす手法として、税制と政府支出を巡る複雑な法的手続きに頼る替わりに、通貨供給を用いるマネタリズム理論も同様に、優雅にして且つ政治と無関係なものであった。フリードマンの経済と政治の議論は一つにして常に同じだ。自由は制限された政府を意味し、これは、新自由主義(ネオリベラリズム)の勝利を意味したのだった。

スタグフレーションに陥った米国

 サミュエルソンとフリードマンの闘いに於いて、恐らくインフレーションの問題が最も示唆に富み且つ重要なものであった。即ち、それが何故生じ、政府はどうすれば鎮静化する事が出来るかという問題だ。1970年代のインフレーションは米国政治を活性化させ、尚も訓戒的な物語であった。低成長と高インフレーションが理論に背き一定期間同居する、所謂スタグフレーションに対し、ケインズ派は説明する事が出来なかった事実が、サミュエルソンの凋落とフリードマン台頭を招いた主原因と云うのが通説とされる。確かに、スタグフレーションはケインズ主義者達にパズルを投げ掛け、彼らはそれを解く鍵を持ち合わせなかった。当時のインフレーションは、十年間を通し凡そ年率平均7%に登ったが、これは高い失業率下に経済成長が低迷する中では本来あり得ないレベルだ。この問題に対して、フリードマンの回答は、連邦準備制度理事会が通貨供給ストック量を3~5%増加させると云う単純な性質のものだった。しかし、これ以上増やし過ぎると、今度は供給僅少な財に通貨が向かい一層物価が上昇してしまう。

 1970年代のインフレーション諸論争が如何に複雑で長く尾を曳くものであったかを明らかにする段で、ワプショットの著作は、ここ一番の力強さを発揮する。サミュエルソンとフリードマンは、スタグフレーションが惹き起された理由を巡って何年にも亘り議論した。即ち、労働組合の契約により高賃金が持続的に下支えされた為か、継続するヴェトナム戦争への支出によるのか、或いは原油の世界供給に対して生じたショックの為か等。しかし、1970年代のインフレーションの諸原因に就いては、今日尚も激しい議論がなされ定説に至らないのだ。

 結局、サミュエルソンが提案した解決策とは、増税と政府支出を高水準に維持するもので、利上げがインフレーションに対する唯一の処方箋だと考えていた通常の経済学者達から見て、これは卓越した策だった。一方、フリードマンは、公的支出を抑える事と通貨供給量を注意深く管理する両者組み合わせの実行を訴え続けた。そして、1980年代初頭には、政府支出拡大を唱えたサミュエルソンの議論は敗北する。急激に高騰した利子率とインフレーションに対する取組が、雇用よりも当時の優先事項となったのだ。そして、ロナルド・レーガンは、大統領選挙に勝利した。彼はフリードマンに触発された政策を約束する事で、自身の政治的キャリアを築いて来たのだった。それは、税金を引き下げる事と、見せ掛けの、遠回しな人種差別的活動、即ち、黒人シングルマザーを類型化し、政府の支払い小切手を違法に多額受給するとして、当時、福祉の女王と呼ばれた人々を批判する運動を展開する事だった。彼が執務開始すると、富裕層の税金を下げし(一方、就労世帯へは増税)労働諸組合と対立し、ストライキ中の航空管制官達を解雇した話は有名だ。こうして戦後のケインズ派の福祉国家は、少なくとも米国に於いては終焉を迎えた。経済は深刻な不況下にあったが、パラダイムは移行したのだった。

 しかし、フリードマンにとっても、この結果は勝利とは呼べなかった。当時の連邦準備理事会議長ポール・ボルカーが1979年秋に急激な金利上昇を実施した際、それに激怒したフリードマンに関するワプショットの著述は、本書中に優れた洞察力を発揮した箇所の一つだ。20%にも登る金利上昇政策を実施したボルカーを“通俗的マネタリズム”と酷評したフリードマンは、長年に亘り、持続的にアルゴリズムに基づき通貨供給の調整を決定する事を提唱し、その間、連邦準備理事会及び他の政治的諸機構の裁量に委ねられる余地を認めなかった。しかし、その単純さを美徳と売りとした、簡潔な諸理論は、実行するのが得てして容易ではない。最高峰の経済界の司祭達も、彼ら自身で設けた諸前提に束縛され、失意の内に次第にそれらに合意する事が困難になって行った。

フリードマン時代終焉の日

 米国は1970年代から多くの事を学ぶ事ができる。当時の経済学の巨人の衝突、この決裂がケインズ主義を破り、レーガノミクスに力を与えたのだと纏めるのは容易いが、この変化には10年という歳月を要したのだ。その変革は決して個人の人格に根差したものではなく、経済学諸理論が複雑な政治の諸現実に染み透って生じるのだ。

 今日在る経済規範への移行も長い歳月を掛け為されたもので、新型コロナウィルスの蔓延するより遥か前より既にその兆しが始まっていたのはワップショットの述べる通りだ。今日の混乱を理解するには、2008年金融危機とその直後の景気後退を招いた政治的過失を吟味する事が必要だ。米国人の民間資本に対する崇敬の念は、金融界の巨人、ベアー・スターンズ社とリーマン・ブラザーズ社の破綻により揺らいだ。一般市民は、これら諸機関が自分達の事など心底構って呉れない事を早々見て取ったのだった。ギャラップ世論調査によると、銀行システムを信頼できると回答した民衆は、2004年の53%から2009年には22%に低下し、その後回復する事はなかった。

 金融危機から10年が経過し、政府最高レベルでは何か新しいものが出現している。即ち、バイデン政権の国家経済会議ブライアン・ディーズ委員長は、現政権の新型コロナウィルス経済復興計画が過去の諸策と全く異なる事を明らかにした。米国救済計画なる、先の3月に議会通過した、一連の経済刺激策は、失業者や悪戦苦闘している州や市に対し資金を直接支給する事を優先するものだ。こうして、緊縮財政と云う過去数十年間の標語は、役目を終えた。ジョー・バイデン大統領自身も新しい経済規範を議論し、そして7月には「私達は、古くて誤った世界へはもう戻れない」と宣言したのだった。

 この新しい規範はフリードマンのマネタリズムよりも遥かに複雑な事は特筆に値する。実際、通貨循環量に弛みない注意を払った、マネタリズム後期の施策に対し、現在の主流派経済学者達は批判的である。それに代え、現在現れつつある骨格とは、連邦州政府が、米国経済と社会の健全化を図るべく様々な役割を果たす為に必要な奨励策に係るものだ。公共諸機関は、企業独占を防ぐ為の厳格なルールを作成・適用し、グリーンエネルギーや、健康医療、児童手当、及び教育等の公共に資する分野への投資増強が求められる。政府は、賃金、富、住居、教育、健康、並びにその他分野に於ける人種差別を解消する為に意欲的に尽力する事が求められるのだ。

 この新構想の一部は既に現実の物になり始めた。4兆ドルが新型コロナウィルス対策法(CARES Act)と米国救済計画 ―何れも感染症拡大に対する緊急対策― は低賃金所得者及び米国人就労層、若年児童を持つ家庭、及び中小企業に、先例のない金額による政府支援が含まれた。この支援は一時的なものではあるが、最近の経済下降局面に於いて最悪の事態を水際で喰い止める為に採られた、それら諸手法は数年前には決して考えられなかった類のものなのだ。連邦政府の救済資金は賃金上昇に寄与し、又、新型コロナウィルスによる休業を回避し、最近の経済回復速度は、金融危機後の大不況からの回復に比べ5倍の速さだ。即ち、10年間でなく、2年間である。

 新型コロナ感染拡大は、フリードマン経済学の棺の蓋に打ち込まれた最後の釘だとも云えるが、高税制と政府が経済を管理する耐久性ある世界 ―恐らく、サミュエルソンが賞賛したであろうもの― は、未だ完全には実現していない。この新しい規範が根付くか堂は、1940年代のケインズ主義や1980年代のフリードマン派市場原理主義がそうであったように、様々な諸要因に依るのだ。「文化の戦争」 ―人種や性差の平等に対する反動の為に、婉曲表現へ移行する事― は、米国が真に包括的な諸政策を実施する機会を後退させる可能性もある。小さくはあるが、強大な権力を持つ気候変動を否定する政治家集団は、炭素排出の速やかな削減の必要性が存在しないかの如く装い、引き続きこれを回避するかも知れない。現在考慮されている野心的な諸計画を実現する為には、政府自体の資質と諸機関の耐久性が保たれる丈では十分とは云えない。政府自身も、多くの理由から猜疑心を持ち、連邦政府の行動に不信を抱く米国民に対し、信頼回復が得られない可能性もあるのだ。

 もし、米国指導者達が、このモデルの追求に継続し尽力すれば、その先には新しい社会的そして政治上の可能性が開かれるだろう。国際経済協力諸機関が、多国籍企業に利する貿易障壁を単に削減するばかりでなく、国際課税逃れや感染症蔓延対策と云った、真に公共的な諸課題の解決を目指し行動するようになるかも知れない。又、より多くの米国就労者達が、政府からの支払い小切手で食いつなぐ生活から脱し、漸く経済的安定に辿り着く事が出来るかも知れない。更にワシントン政府は、気候変動による最悪の影響を辛うじて回避するべく、低炭素経済への移行を誘導も出来るだろう。しかし、より重要なのは、自由と云う理念が本来市場取引に由来するのではなく、米国自身が、平等で民主的な未来の約束の上に自由という理念を築く国に変容する可能性を有する点を、我々として認識する事だ。 (了)

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