対象図書: 『経済学者のように思考する(~米国公共政策に於いて平等概念が効率によって駆逐された理由~)』(Thinking Like an Economist: How Efficiency Replaced Equality in U.S. Public Policy)
著者:エリザベス・ポップ・バーマン(ELIZABETH POPP BERMAN)
出版:2022年、プリンストン大学出版、344ページ
評者/肩書: ジェイソン・ファーマン(Jason Furman)、ハーバード大学教授(経済政策)。元、米国大統領経済諮問員会委員長(在籍期間2013年~2017年)
20世紀に於ける最も偉大な経済学者の一人であるケネス・アローは、1962年、米国大統領経済諮問委員会に参画する(同委員会は、大統領に公平な経済分析を提供する為、その15年程前に設置された機関)。当時、ジョン・F・ケネディーの大統領就任後間もなく、民主党は健康保険の在り方と加入者拡大手法に関し議論の最中に在った。この討議はアローが参画するに打ってつけのものだった。何故なら、アローは市場行動や市場不均衡の専門家で、翌年には、彼の金字塔と云える論文『米国経済分析(American Econimic Review)』を発刊し医療経済学と云う新分野を確立したのだった。同書に論じたのは、健康医療市場は不正確な情報と非対等な交渉力に満ちている為、公正な価格形成が極めて困難な状況に在ると云う点だ。そして、これは、以降、健康医療専門家達が同領域に関し意見形成する際の基本理念になった。
アローがホワイトハウスに参加し3年後、議会はメディケア(Medicare)とメディケィド(Medicaid)両法案を成立させた。何れも政府が運営する健康保険制度で、前者が65歳以上の高齢者、後者が貧困層をそれぞれ加入対象とした。これは米国健康医療史に於ける最大の変革と云え、アローの地位と業績から判断すれば、同制度創設に彼が相当な役割を果たしたと考えるのは自然だろう。然し、2015年、これら諸計画で彼の果たした役割に就いて、私が直接本人に尋ねた際、彼の回答は私を驚愕させた。即ち「基本的には何もしなかった」と云うのだ。経済学への貢献で後にノーベル賞を受賞する、アロー程の人物が、政府内在職中並びに非在職期間を含め、何ら一切相談に与る事なく、メディケアとメディケィドは船出したのだ。
今、思い返しても、彼がこれら策定作業に関与していなかったのは驚くべき事だ。今日に於いて、斯かる記念碑的大変革、或いは譬(たと)え、極(ごく)些細な修正でも、それが連邦政府の政策である限りは、経済学者達を交えず策定される事は有り得ない。例えば、もし現在、議会が医療制度拡大を目論むと想像してみよう。この場合、ブルックリン・インスティテューション、ハーバード大学、及び、その他シンクタンク、諸大学が逆巻く如くに、政策提言と提案書を大量生産する事態となるだろう。次いでアーバン・インスティテュートやランド・コーポレーションが、これらあらゆる政府提案を精査する運びとなる。斯くしてホワイトハウスの廊下と議会予算局は、経済学者達で充満し、行政府と立法府の双方からの政府職員等は彼らの分析に熱中すると云う事態が出現するのだ。
今般、ミシガン大学の社会学者エリザベス・ポップ・バーマンが、著作『経済学者のように思考する』の中で示す見解は次の通りだ。抑々(そもそも)近代米国史で、その大半の時期に於いては、経済学者達が政策決定に対し幅を利かせるような事はなかった。しかし、1960年代に入ると状況が変じ、経済学の学術分野が、規制や規則制定に於いて重要な役割を演じ始めたのだ。その後、1980年代中盤を経て、政府諸省庁は経済学と政策研究の為に事務所を設立し、諸提案に関し費用対効果の諸分析を開始する。更に、これら事務所を支援すべく、教育界の指導者達や諸学会は、新設のシンクタンク及び政策評価企業に対すると同様に、公共政策を専攻とした学校や修士課程に対し組織網を築いて発達させた。そして、裁判官達も経済分析を利用し始める及び、最終的に、経済学は単に政策策定の一部分ではなく、その中心を占めるに至ったのだ。
『経済学者のように思考する』に述べられる歴史的説明は、同書のかなりの部分を占める。それは、個性と洞察力に富み、そして説得力がある。ケインズ主義者(政府による財政出動重視)対マネタリスト(通貨供給量調節に集中)の広く知られるマクロ経済論争はすっかり割愛し、バーマンは新鮮な視点で広範な分野に及ぶミクロ経済の諸問題、即ち、反トラスト法、貧困政策、健康医療、環境対策等を取り上げ強調するのだ。彼女は一方、シカゴ大学が中心に唱えた、自由市場の権利が果たす役割も重視しない。それに代え、彼女が論じるのは、経済学者達の政治的権力が中道左派勢力により強められたと云う点だ。バーマンに拠れば、積極的でより大きな政府の支持者達は、経済学分析の活用によって「大きな政府が政策目標をより効率的に達成する」事がより確実に実現可能になると信じたのだった。これらの目標とは、例えば、貧困減少から、競争的市場を維持すべく交通手段を増やす策迄も含んでいる。
一方、バーマンが社会科学者としてその面目を発揮するのは、彼女が下す価値ある諸判定を、自身による歴史的分析の記述箇所から意図的に切り離している点だ。この為、もし読者が同書の最初と最後の章を読み飛ばしたならば、バーマンが年代順に記録した諸発展に対し、実は彼女自身が否定的な立場を取る事に多分気付かないだろう。しかし、先述の二章を読めば、彼女が指摘する経済学者達の権力台頭を、彼女は酷く毛嫌いする事が明らかとなる。その理由は、これらが社会や環境問題に於ける平等性よりも効率を重要視する傾向を招いた為だ。つまり、これによって本来であれば、公的医療保障、学生の抱える負債免除、及びその他、進歩的左派の好む諸政策分野に於いて、彼らが実現できたであろう発展が制約され、その結果、政治家達の野心が狭められたと云う訳だ。バーマンは論じて曰く、ビル・クリントン、バラック・オバマ両大統領政権下での「民主党の明らかな野心の欠如」は、少なくともその一因が「政策に関し独特な思考法の台頭」―彼女はこれを「経済学者のような理由説明」と呼ぶ― に在り、現在もそれはワシントン政府内に蔓延している、と。
自由市場重視主義が厳しい批判に晒された時代に於いては、この非難は確かに説得力を持つだろう。然し、結局、バーマンの経済学に対する諸批判は、主張が多く述べられる一方、立証が不足している。彼女は、経済学的思考が、物事に対する理解を純粋に改善する結果、進化を遂げ得るその度合いを過小評価している。彼女は、それに代え、経済学的思考とは、単に権力や利益団体の為に媚びた予想を行う為の道具だと想定する。又、彼女の議論は、帰結よりも権利に焦点を当てる。然し、其処(そこ)で彼女は、自身が重んじる「権利に基づいた問題解決手法」に於いても、彼女の価値観に反した多くの諸事例に就いては、これを体よく無視している。例えば「高額所得者には税率を下げる権利がある」と云った自由主義者の見解に就いて、一切言及しないと云う矛盾に陥っているのだ。結局、彼女は、経済学者達並びに経済学者のような理由説明が発揮する、その影響力に関し現実以上に過剰評価して疑わないのだ。大統領諮問員会委員長を務めた私はその実情を知っている。つまり、当時、私のような立場の人間に彼女が主張するような力はない。寧ろ、そんな権力を本当に持てたなら、どれ程幸せだったろうと回顧する程なのだ。
経済学者は権力を握るか、或いは学術の権威に過ぎぬか
バーマンに拠れば、経済学が最初に顕著な頭角を現し始めたのは第二次世界大戦の最中、政府が「作戦研究」なる分野に注力した事を切っ掛けとする。これは、爆撃機編隊がどのような隊列を編成すれば最大の攻撃効果を挙げられるかと云った、特定諸目的を達する為の最善解を発見する作業だ。「作戦研究」には意思決定を向上させる為に、定量分析諸手法が使用されたが、これらは経済学と密接に係わる分野である。そして、同分析が戦時中に成果を挙げた為、米国空軍は連合国側の戦勝後も、同分野の予算投入を継続した。斯くして、同軍が1948年設立したのが、ランド・コーポレーション(Rand Corporation)― 米国で初となる、所謂、主要シンクタンクの走りだった。
ランド社は、計画 – 設計 – 予算方式(PPBS: Planning – Programming – Budgeting System)なるシステムを開発。バーマンに拠れば、この手順は次の通りだ。つまり「ある機関や事務所に於いて、先ずある程度広い幅を設けた目標を特定する;諸目標の達成に貢献可能と目される様々な諸設計を見つけ出す;これら選択可能な諸計画の費用有効性に関し出来得る限り計量化を図る;そして、これら情報を予算編成指針として利用する」。当初、同方式は陸軍に広く利用されたが、1965年にリンドン・ジョンソン大統領がこのPPBS方式を、大統領行政府全体へ適用拡大を図ったのを機に「経済学的観点からの理由説明」が国内政策の中に根付いて行く。間もなく、連邦政府ではどこもかしこも諸機関が、同経済分析を実施する為の事務所を開設するに至った。これらの諸分析は、屡々(しばしば)アリス・リヴリンやアラン・エントーヴェン等の経済学者達を長として実施され、予算編成に関連する諸領域へと適用拡大されて行ったのだ。そして、これら事務所は、皆、政策研修員と称する人員を用意し配置したのだった。連邦政府が、自分自身や米国社会に関し、より多くの豊富な諸統計資料集積が可能になるに連れ、これら事務所及びその従業員達は、次第に洗練された試算術を身に付けて行った。これら一連の作業が増大すると、今度は、これら求人需要が米国中の諸大学によって賄われ、他方、各大学は政策研究の学校を設立し、経済学に関する学位課程を次々と新設して行ったのだ。
そして、経済学者の仕事は政府予算編成から、遂には規制分野へと及び、其処(そこ)に於いて、費用対効果分析(ある目的達成の為の最も安価な手段を探求)から今度は費用対便益分析(抑々、その目的に追求する価値が在るか否か)へ比重が移って行った。斯くして、彼らは主要な政策決定にも関与し始める。経済学者達はジミー・カーター大統領を説得し、1978年には航空業界、そして1980年にはトラック運送業界に於ける規制撤廃が実施された。何れも、航空及びトラック運送業界市場を開く事が、乗客や商品をより効率良く且つ効果的に輸送するのに寄与する点が、費用対便益分析により証された為だ。ジョージ・H.W.ブッシュ大統領がホワイトハウスを去る頃迄には、同分析は全ての規制政策に於いて不可欠な手法として組み込まれていた。
これと時を同じくし、経済学研究を通じ、諸学会や弁護士達は「巨大企業は必然的に悪い」との考えを改め、企業統合や企業運営が消費者に齎(もたら)す現実的なトレードオフ(二律背反的選択肢)をしきりと探求し始める。これら諸研究の結果、経済学者達は、企業統合に就いて、嘗て「全て一律否定的」として来た見解とは逆の結論を示す事となった。斯くして、彼らの新解釈は徐々に司法省、連邦取引委員会(FTC)に於いて影響力を持つに至り、その結果、最終的には、裁判所に於いても、反トラスト法に基づく取り締まり強化の野望は大幅に減じられたのだ。
今日、経済学者達はホワイトハウス複合施設内に事務所を構え、政策変更により経済活動が如何に変化するか、そしてその結果、誰が得をし誰が損をするかを日夜研究する。又、彼らは、殆どの政府諸機関内に於いても重要な役割を果たす。彼らの存在は、予算編成、規制手続き、及び連邦取引委員会(FTC)等の執行機関の中にも深く根付いて行った。「もしも1965年時点に議会予算局(CBO;Congressional Budget Office訳者注:1974年設置の連邦議会の予算局)が存在していたら、果たして“メディケア法案”は成立し得ただろうか、と人々が疑問に感じるのも頷ける」と彼女は記述する。
然し、経済学者の持つ力と諸思想に関し、彼女は聊(いささ)か買いかぶり、それらの持つ現実の実力を越えた記載が為されている。政策策定の諸過程に於いて経済学が、歴史学、心理学、或いはその他学問に比べ、強い影響力を持つのは確かだ。それは、例えば、社会学専門家による諮問委員会が存在していない事実が物語る。然し、実態は、政策決定者達が、彼ら自身の既定の方策案に対し、何かしらの支援材料を見出す為に、経済学を重宝に利用する場合が非常に多いのだ。特定の諸問題や論点を明示するか、或いは、それらの理解を広く容易にする事は目的とされない。実際は、政府高官達が、彼らの既に腹に決めた決断に対し、事後的に合理性を付与する目的で、経済分析を頻繁に利用するのだ。ホワイトハウス内の会議で私が体験した、ある出来事がこれを物語る。当時、ある人が私の方へ身を乗り出し、発言中だった大統領の広報部長補佐官を指して呟いた。「おい、奴こそがこの部屋でとびっきりの、お偉いさんって訳かい。それとも、大統領よりはちょっぴり偉い丈かね?」皮肉を込め、私にこう話しかけてきた人物は、正にバーマンが批判の対象とする費用対便益分析を用いて、ある重要政策を担当していた学者だ。これが政府高官と経済学者との力関係の現実なのだ。
バーマンは経済学の分析が政策決定に従属するのは良い傾向だと認識するかも知れない。然し、経済学者が政策論争で屡々(しばしば)敗北を喫するのは、彼女自身も正に賛同する諸主張(規制強化を含む)を、彼らが追求しようとした結果でもあるのだ。その具体例を挙げよう。2014年、私の率いる大統領経済諮問委員会にて、CO2排出規制案(クリーンパワープランClean Power Plan:政府が主導する炭素排出量削減策)による、発電所の排出制限を検討した時の事だ。我々の分析では、より厳しい規制導入を実施すれば、限界利益は、限界費用を遥かに大きく上回る事が判明したので、環境保護庁(EPA)が提案する諸規制は余りに弱すぎると指摘した。然し、同庁は、我々が提唱する野心的諸目標を拒否したのだ。同庁担当者が反対した理由は、万一訴訟による裁判となった場合、我々の提案が脆弱性を露呈する可能性の方をより憂慮した為だった。我々はこの事情を汲み、結局、同庁の決定を全面的に受け入れざるを得なかったのだ。
より広く云えば、気候変動は、経済学者達が力を持ち過ぎる事が問題となる分野ではない。寧ろ、彼らが十分権力を持つ状況に程遠い点こそが問題になる領域と云えるのだ。例を挙げよう。2019年、経済学者達は、私が知る限り史上最大規模の公開状を発状した。政治各界を縦断し最終的に3,500人の署名を集めたその手紙は、ウオール・ストリート・ジャーナル紙に文面掲載された通り、米国が炭素税と同制度による配当の導入が必要である旨を論じるものであった(*訳者後注1)。そして、同提案が実現していれば、これに伴う排出量削減効果は、昨年、米国議会で米国復興計画(BBB: Build Back Better Plan)の一部として考慮された案に比較し、実質的により大きい筈であった(*訳者後注2)。一方、翻って、同復興計画に総花的に織り込まれた、一連の気候変動対策諸案は、これらこそ、その多くは、正にバーマンの否定した「経済学による理由説明」に属する分析を欠く儘の状態で、創出された代物である点は注目すべきだろう。
勿論(もちろん)、バーマン自身は、その他、多くの諸政策の左傾化支持と合わせ、気候問題では積極的排出削減を切望する立場だ。然し、これら諸変化は、政府が詳らかな計量分析やトレードオフの手法に専ら耽る過程を経て到達されるべきものでない、と彼女は主張する。つまり、これに代えて飽くまで、基本的人権と普遍性(万人を対象とする)を基礎とし、これらが重視される過程を通して達成されるべきだ、との見解を展開するのだ。従って、気候変動政策に関し、彼女が提唱する処は結局、強権的な指揮と支配による規制を支持する立場を取る事となる。即ち「嘗て1970年代の民主党政権下であれば提案され得たかも知れない、単純明快な、政府に対し排出の安全水準を決定するよう指示し、諸企業に対してはその遵守を要求する戦略」である。そして、彼女は、この種の規制がオバマ政権時代には「議論すらされる事がなかった」点を嘆くのだ。
「基本的権利の重視」は恰好の政治スローガンであり、事実、これら諸権利が屡々(しばしば)当時勝利を収めはした。然し、一方、人間の生活をより向上させる経済政策を設計する場合、これは不十分な手法とも云えるのだ。環境汚染の問題を例に取ろう。バーマンは「環境汚染は道徳上の誤りで、故に罰せられるべしとの暗黙の了解」に根差した規範を好意的に記述する。この概念は確かに魅力的ではあるが、然し、公共政策に於いて基礎とは成り得ない。何故なら、世界が即座に炭素排出を全て止める事は出来ず、もしこれを試みる場合には、全く異種の新たなる諸原則の組み合わせと衝突するのが不可避だからだ。即ち、低・中所得労働者層の職を破壊し、彼らの購入する全ての財の価格の上昇を招くような選択は、道徳上誤った道と判断せざるを得ない。其処(そこ)で、適切に炭素排出を削減して行く為には、諸国家は、何らか費用対効果及び所得再分配の分析手法を用いる必要があるのだ。換言すれば、これらの問題解決には経済学の分析が必要になる。
経済学的な分析は、社会福祉支出等、他の政策策定分野に於いても不可欠なものだ。一例を挙げよう。多くの活動家達が、地域社会の住人に対し、貧富の区別なく万人を対象とする「全世帯一律給付金(universal payment)」を支持する理由は、倫理上のものに加えて、同策導入が政治諸策の持続性増加と安定に寄与するものと確信する為だ。然し、実はこの何れの根拠にも欠陥があるのだ。具体的に説明しよう。同じ額の予算を行使する場合でも、米国政府は、全家計の1/4を占める、下位所得層各世帯に1万ドル支給するか、或いは全家計一律に2千5百ドル支給するか、その何れも同額予算を以って実施する事は出来る。然し、現実には、前者の策がより一層貧困を減少する効果を持つ上に、政治的にも安泰策と云えるだ。つまり、一般的常識とは逆に、より対象を絞った諸計画(この場合の前者)は、苟も時間経過に従い全体普遍的な政策に比し、より環境に耐え持続する事が証されているのだ。即ち、所得税還付制度、メディケイド制度(対貧困層医療保険)、及び栄養補助の諸策等、これら低所得者層向け対策は、民主党、共和党、何れの政権下であるかを問わず、規模は数倍へ拡大して行った。その一方、失業保険制度と云った全体政策の実績は伸び悩んだ。更に、政府年金制度(Social Security)とメディケア(65歳以上高齢者医療保険) ―米国の全体的福祉2大策と云われた程の代表事例― ですら案の定、実際には予算削減に直面したのだった。
公明正大に
バーマンの主張に拠れば、経済学的思考は同理論の諸発展や実証によって進化を遂げる事がない。それを司るのは飽くまで権力者達の利害だ、と云うのが彼女の社会学者としての信念だ。彼女が経済政策に対し懐疑的な考えを持つ理由の一つは其処(そこ)に由来する。経済学者達が、汚染削減、貧困解消、或いは巨大企業が齎(もたら)す諸帰結の評価等の諸問題を考察する際「果たして、彼らは如何なる進化を遂げたか?」を論じる段に於いて、バーマンが依然として強く焦点を当てるのは、飽くまで、これら目標諸理念を発達、増進させて来た諸機関と、これら諸機関が提供する利害とに限定される。この手法の好事例が、彼女が、シカゴ大学で実習経験したある弁護士を引き合いに出す件(くだり)だ。同大学が、独占禁止法関連諸問題に関し、裁判官達を指導する為のある夏季講習プログラム主催に向け資金集めを行った際の逸話である。同業務を手伝ったその弁護士の言葉として以下が引用される。「大企業を突如、鉄砲水が襲うが如きの独禁法の大厄災から救って呉れるのは、シカゴ大学の経済学派しかない点を、これら実業界の人々は熟知してるのさ、」その証拠に「僕が寄付要請を大企業11社に対し出状すると、数週間以内に、その内10社から各1万ドルの小切手が届き、それから数週間後には最後の一社からも1万ドル届いたよ。」
経済学は科学としての主要な制約を受け乍らも、その諸原則に対しこれ迄に為された、数々の諸変更は、正に研究から得た改善諸点を反映した賜物だ。例を挙げれば、反トラスト規制に関し、初期導入された諸対策は、その多くが純粋に諸理念の進展から実を結んだ事例だ。競争政策に関し、経済学に基づく初期の対処手法は、1930年代に発展を遂げる。つまり、規制者達は、特定産業に於ける企業数に着眼し(これを所与の固定された条件と見做した)、此処(ここ)から価格と消費者に与える影響を適切に推断したのだ。そして、経済学者達は、企業統合が明らかに市場価格の高騰を招くとの結論に至り、これを規範とする一連の思考によって、反トラストに向け強力な法的取締まりの実施を鼓舞して行った。
然し、1960年代に入ると、拡大化した学会組織は、先の理論の誤りに気付く。ある場合には、企業統合はより効率的で競争力のある会社を創出し、その結果、消費者に対してもより安い費用の財が提供され得るのだ。これにより、過剰な反トラスト法適用は、時には価格上昇を招く事が明らかになる。(悪名高い事例が1967年に生じた。この年、最高裁は、国営パン製造業者に対し、ユタ州に於いて安価な冷凍パイの販売を禁じたが、その理由は同州に所在する大手パイ製造会社の価格を破壊した為だった。)多くの証拠事例が現れるに連れ、経済学者達は、所謂「ブランダイス主義的対処策」を捨てる。同主義は、法哲学者ルイス・ブランダイス(*訳者後注3)の名に因み、巨大企業は本質的に問題含みであると見做し、反トラスト政策の目標には、中小企業と民主主義との保護が広汎に含まれるとの考え方であった。然し、彼らはこれに代え、より寛大な哲学の方が消費者達をより利すると考え、それを賞賛するに至った。連邦政府や法曹界も右に倣えをし、これにより企業統合や買収の実現速度が新たに加速された。
そして、現在、規制と裁判所判断は過剰に修正され、反トラストの法執行は余りに緩くなり、その結果、果ては病院統合(これにより医療費用が増大)から技術統合(却って技術革新を阻害)に対して迄も、過度に許容的な対応が取られる傾向へ導かれたのだった。然し、これら諸事例に於ける問題は、経済学が齎(もたら)したのではない。寧ろ、政治家達が経済学と十分真剣に向き合わなかった事こそが問題なのだ。本来、経済分析とは微妙なもだ。これら諸分析の結果では、消費者を不利益から守る為には「既存支配勢力との競合を招く、新企業による市場参入の脅威」に着目する丈では十分ではないとの諸事例が常に多く示されて来たのだ。それにも拘わらず、巨大な利権は、これらの経済分析を極度に単純化し、そして、略(ほぼ)一世代にも亘り、裁判官達を極端に偏狭なる、市場自由主義的手法で訓練しようと試みて来たのだ。然し、より最近の経済分析では、企業統合から得られる効率化には限界がある事すら明らかにされ、垂直統合(一つの企業が一続きのサプライチェーンの多段階を支配下に置く)は消費者の費用を増加させ、競争が十分でなければ品質と新規開発が減じられる点が示された。これらは、政治家達が留意すべき全て重要な発見として、進歩主義者達を応援する手段となるだろう。そして、これら諸事が示唆するのは、不味い競争政策を経済学者達の非として難ずるのでなく、自由主義者達は、寧ろ経済学者達と共に一丸となるべきだと云う事だ。
実際、経済学的接近法に対する批判家達が、真実を知れば、如何にこの分野が進歩的であり得るかに驚かされる筈だ。経済学自体は極めて強い急進的伝統を有し、この点はバーマンも同書で正しく記述している。一方、彼女が抱く懸案材料に関しては、それは誤りだ。つまり、彼女が「懲りもせず、功利主義且つ帰結主義に基づいた」理論的諸根底、と評し抱く懸念だ。私が思うに、功利主義と帰結主義の諸哲学は、それらの核心に於いて「最善の社会的帰結が、全ての人が平等である事を土台とし」(但し、社会平等を達成する過程で、より劣悪な環境に陥る人々を生まない限りに於いて)、 そして、この土台こそが「自由主義を増進する理由として必須である」との理念を支持するものだ。斯くして、これら学派の諸思想は経済学者アダム・スミスをして奴隷制に異議を唱え、労働組合結成を支持せしめ、政治理論家ジョン・スチュワート・ミル(*訳者後注4)をして女性の権利尊重を投票権獲得迄へと高らしめ、哲学者ジェレミー・ベンサム(*訳者後注5)を1785年の時点にしてLGBTQの草分け的強力な支持者たらしめたのである。又、最高累進税率70%を95%に増加させる事を裏書きした、主要経済諸誌(*訳者後注6)に於いては、功利主義的帰結主義こそが掲載記事査読の基礎となり続けて来た歴史上の事実に就いても、納得が行くというものだ。従って、彼女の心配は杞憂と云えよう。
一方、帰結主義は、又、時として政策の深刻な副作用を人々に強いる。その事例は、気候変動規制が炭素排出量のみならず、消費者に対する価格転嫁に影響し、或いは、普遍的一律政策と対象者限定型政策とでは貧困層に対し与える影響が異なる、等の問題に見た通りである。帰結主義者が、副作用に就いてどう考えるかを示す、最も典型的な例は、多分、経済学者達が人命の統計的価値をも憚(はばか)り無く弾(はじ)き出す事だろう(米国の規制評価分析によれば、現在それは凡そ一人当たり1千万ドルである)。この事実は、バーマンを含む非経済学者達には、忌まわしいものとして衝撃を与える。然し、もし、政府に於いて人命費用への考察が及ばなければ、生か死かの選択を迫られる場合に、彼らが最大限の人命を救う決定を為す根拠を持たない。数字は冷酷で残酷に見える。然し、帰結主義者はこう考える。つまり、それらは二律背反的選択が回避出来ない事態に際しては、優れた道具なのだ。又、もし、政治家が、これらのトレードオフとそれぞれの場合の費用に関し明確でなければ、国民の生命、或いは財政に於いて高価に過ぎる選択を犯す可能性がある、と。
現実的対応とは
然し、バーマンの批判が全て根拠を欠く訳ではない。巨大な利益団体が時として経済政策を人質に取るのは、反トラスト法に対し過剰な修正が為された点に見る通りだ。大原則として、経済学は偏向なき分析 ―気まぐれや力関係でない― を反映する事によって、公共政策に対し影響を与えると云う責務をより有効に果たさねばならない。又、経済学者達は、50年前の教科書にある処方箋に頼るのではなく、常に彼らの助言を現代に則すよう活性化する事も必要だ。具体的には、高齢者への経済支援奨励に代え、児童に対する投資にこそ、無条件現金給付拡充策も含めて、重きを置く事を提唱すべきだ。これら投資から大きな見返りが得られる事は、最新の実証可能な証拠が大量に示している。例えば、児童の健康増進対策への支出は、期初の予算費用を補って十分余りある経済成長を齎(もたら)すのは、試算により明らかなのだ。
経済学に於いては、諸政策を評価、推進する際、各政策の現実性を吟味する力量向上も又求められよう。最善策は、屡々(しばしば)単純にその実現が不可能なものだ。従って、経済学者達は規制者達や政治家に対し、力強い全体的概念を呈示した上で、更に政治的な反発にも耐え得る、効果的諸政策を発明すべく尽力すべきなのだ。恰(あたか)も、現実的な妥協に甘んじるよりは名誉ある敗北を好む、進歩的純粋主義者達の如く、余りにも多くの経済学者達は、不完全な諸理念に対しては異を唱える傾向を持ち、政治的に到達可能な次善策を構築する労を自ら取ろうとしない。例えば、気候変動政策に於いて、炭素税は、排出量の削減策としては最善である事は明白なのだ。然し、一方、同策は米国に於いては現状、政治的に達成不可能な策であり、就いては、米国経済学者達は現実に法制化が可能な修正諸提案に焦点を当てる必要があろう。
法制化に関する政治力学を理解するには、経済学者達は社会学者から学ぶべき事がある。経済学は結果重視であるのに対し、社会学に於いては、人々や社会が政策の諸変更を如何に受け止め、理解するかを判断する際、それらの過程を極めて重要視する。従い、経済学者達は、人間が各々の事情や辿って来た歴史に深い思を巡らすと云う事をよくよく認識する必要があるだろう。そして、政策諸決定を人々に伝達するに当たっては、彼らが皆、自分達の価値が尊重され、意見が聞き届けられ、配慮の対象になっていると感ぜられる事が、その決定された政策自体と同様に重要であると云う点に就いても、しかと学ぶ必要がある。又、経済学者達がより視野広く理解しなければならない点もある。即ち、この学問分野で世界を考察するに当たり、それは一つの手段に過ぎない事を、皆肝に銘じるべきだ。例えば、私が学生達に差別に関する講義を行う場合、敢えて無感情な専門用語である“好き嫌いによる差別”(taste-based discrimination:個人的選好から生じる偏向)や“統計的差別”(statistical discrimination:特定集団に対し、統計に基づき人々が下した推断から生じる偏向)と云った表現を使用する。しかし、その一方で、私は彼らに、これら諸問題の研究には、歴史、政治科学、文学、芸術、更には無論、心理学等の観点からも分析を行うよう助言している。これら学問の諸領域は何れも重大な気付きや洞察を提供するもので、私自身や同僚達もこれを真剣に考慮に加えなければならないのだ。
かと云って、上述の事柄は、世界が経済学分析を必要としないと示唆する訳ではない。経済学が依然として重要なのは論を待たない。経済学者はバーマンのような批判者の誤りに対しては、経済学者が権力者達の道具として利用されるに過ぎない、或いは同学者自身が極めて強大な権力を握ってるとの誤った諸前提を含めて、指摘し衆目を集めるべきだ。然し、更に加え、経済学者達は、他と協力して作業する事を宗とし、そして反対者達に弾薬を与え火に油を注ぐような振る舞いを慎んでこそ、真の価値提供が可能となる。何故なら経済学による分析丈(だけ)で物事は成就し得ない。正しい政策を生む事は云うに及ばず、況(ま)してやそれら諸策を実行に移す段には、諸方面との協力が不可欠なのだ。
(了)
【訳者後注】
*1)炭素税導入を提言する経済学者による公開出状:
<出状概要>
2019年1月16日付WSJ紙の意見欄に掲載、「炭素税に関する経済学者達の見解 ~気候変動への取り組みに対する経済学者の総意として~」(Economist’s Statement on Carbon Dividends ~Bipartisan agreement on how to combat climate change~) と題し、以下5項目を以って簡潔にその主旨を訴えた。
I:炭素税が炭素排出削減には規模と速度で最大の費用効率を発揮する最善策。
II: 炭素税率は目標達成まで毎年課税率を増大させ、脱炭素燃料社会への技術開発促進。同税収は完全配当還元により、政府税収に中立的。
Ⅲ:炭素税を十分適切且つ活発な規模で漸次税率増加させる事で、その他の非効率な炭素排出抑制諸策への置き換えになる。
Ⅳ:国境(輸出入管理)に於ける、海外諸国との炭素税調整制度確立が重要。これにより自国競争力維持と世界諸国での炭素税導入参画を期待。
Ⅴ:同税は米国市民への直接配当による完全還元方式とし、低所得層を含む大多数の家計にはエネルギー関連増加支出を上回る配当額支給を講じる事が可能。
同出状は、歴代連邦準備理事会(FRB)議長、当書評者ファーマンを始め歴代大統領経済諮問委員長、及び多勢のノーベル賞受賞者を含む、錚々(そうそう)たる経済学者達が署名。これら45名による連署で紙面公表の後、順次賛同者を加え、総計3500人の署名に至る。
<炭素ガス削減効果について(参考)>
炭素税導入による具体的定量効果に関し、本稿書評中にファーマンから情報提供はない。従い、同方式が、米国復興計画(Build Back Better Plan)に盛られた環境対策に比較し、より優れるとした、当該文章の含意も、両者の削減目標数量自体の比較と云うよりは、前者が新規制度の導入という、より大きな枠組みの変革による実態を伴う策であり、且つ、その秘められた劇的影響力が経済学的にも試算可能な点を強調するものと解される。
具体的な炭素ガス排出量に関し、イメージを掴む為の大まかな数字は以下の通り。基準点とされる2005年時点の米国炭素ガス(CO2)排出実績は、凡そ年間60億トン(メトリックトン)。これを2030年までに半減、即ち年間約30億トンに減少させるのがバイデン政権の当初目標である。因みに、現状の排出実績はだいたい年間50億トン程度(2020年はコロナの影響もあり一旦47億トンに減ったが、2021年は再び50億トンへ戻っている)。
炭素税導入による排出量削減は、複数機関が研究、試算を発表している。同制度の特徴は、 炭素排出量に対しトン当たり課税着手して以降、目標達成されるまで毎年税率を上乗せする点にある。従い、課税初年度の税率とその後の増加率の設定次第で幾多のシュミレーションが可能。研究機関から発表された試算例の大まかな数字を参考に示せば以下の通り。
・カーボン・タックス・センター(Carbon Tax Center)による試算(2017年9月公表)
開始/税率 :2018年より、トン当たり$12.5課税
年間増加率:以降、毎年トン当たり +$10.5上乗せ
削減予想 :2030年の排出量30億トン(2005年対比50%減)
・クライミト・リーダーシップ(Climate Leadership)による試算(2019年9月公表)
開始/税率 :2020年より、トン当たり$40.0課税
年間増加率: 以降、毎年同税率を +5%増加。(インフレ分は別途上乗せ)
削減予想 :2035年の排出量30億トン(2005年対比50%減)
(備考)
上記二つの研究機関は何れもNGOで、設立はそれぞれ2007年と2017年。因みに、後者が件の経済学者による共同公開提言の調整に係っている。
*2)米国復興計画(Build Back Better Plan)と環境対策:
バイデン大統領が主導した同計画は、三本柱で構成され(米国救済策、米国雇用対策、米国家計支援策)総額1兆7千億ドル。然し法案は議会で難航。コロナ対策を主とした救済策は昨年3月施行されるも、残りの二つは、各内容の法案分離、統合の曲折後、最終的に今年8月16日に「インフレ抑制法案」と変名し、気候変動対策と家計支援諸策が成立。元の雇用対策の中には、インフラ投資と気候変動対策が含まれ、前者は昨年11月に分離し先行施行済、後者に就いて上述法案に変名の末、漸く今般法制化実現したもの。この「インフレ抑制法案」の歳出総額は4,330億ドルで、内3,690億ドルが気候変動対策予算である(当初の米国復興計画で目論まれた環境対策予算5,500億ドルからは約30%の縮小)。
成立した同案に織り込まれた環境諸対策とは、電力、輸送、自動車、家電等に於けるクリーンエネルギー化への、投資減税、補助金・融資強化等が主体。単に分野毎に予算を積み上げた印象が免れない。期待効果としては、2030年までに2005年対比で炭素排出40%削減を民主党は見込む(2030年の排出量36億トン)。尚、審議を経て当該予算縮小の結果、同復興計画に於ける当初の同政府炭素削減目標「2030年までに2005年対比で50-52%削減」からは既に後退余儀なくされる体となった。
*3) ルイス・ブランダイス:
米国人法律家(1856-1941年)。連邦最高裁判所判事在任中(1916-39年在職)、当時の石油資本や鉄道産業による独占支配禁止に尽力した功績から、巨大企業独占に反対を唱える派を、彼の名に準(なぞら)え、一般的にブランダイス主義と呼ぶ。
*4)ジョン・スチュアート・ミル:
英国人政治哲学者、経済思想家(1806-1873年)。当時を代表する自由主義者。著書『自由論』、『功利主義』等。後者の一節からの意訳「肥えた豚より痩せたソクラテスたれ」を、1964年東京大学卒業式祝辞に当時同大総長(大河内一男)が引用し有名。(当ブログ2022年8月12日付「英国は悪魔の帝国だったのか?」の訳者後注を再掲)
*5)ジェレミ・ベンサム:
英国人哲学者、経済学者、法学者(1748-1832年)。功利主義(Utilitarianism)の創始者。他人に実害を与えず、当事者間に快楽を齎(もたら)す同性愛を、功利主義観点から肯定している。
*6)米国の所得税最高税率:
嘗て米国の所得税制は、累進課税の下に70%の最高税率が1964年から1981年迄維持された。この間、同税率を95%に引き上げる提案や議論を、当時の主導的な経済専門諸誌が取上げ掲載、支持した事実をファーマンが指摘しているもの(詳細不詳)。因みに、その後、米国所得税制は1982年のレーガン改革を皮切りに、最高税率が50%に引き下げられ、以降、時々微細な曲折はあれ、現在37%迄逓減した。又、日本の最高所得税率も1983年迄75%であったが、世界的潮流に倣い、現在同率が45%なる事は周知の通り。(上記税率、日米共地方税を除く)
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