筆者/肩書:ウィリアム・マカスキル(WILLIAM MSCASKILL)/ オクスフォード大学客員教授(哲学)
(論稿主旨)
我々は今、新たな歴史の始まりに立ち会っている。今日、生きている人々は、その誰しもが、それ以前の過去を辿れば、10人の先祖達が生まれ、そして死んでいった事を知るだろう。そして、もし、人類が哺乳動物種の平均的期間を生き延びるとするなら、今日、生きている人々の後にも、それぞれ、更に1,000人の人類が未来に誕生し生きていく計算になる。即ち、この観点から、我々も祖先の立場なのだ。更に人類と云う種の栄枯盛衰を、一人の人間の標準的一生の尺度に準(なぞら)えば、今日の人類は、まだ漸くよちよち歩きをし始めたばかりの段階に位置するに過ぎぬ。
我々の「種」としての将来は今後も末永く続くかも知れないし、或いは、逆に瞬く間に消滅するかも知れない。100年前の当誌創刊以来、数多(あまた)生じた発展の内、最も重大なものは、人類が己の手で自らを絶滅させる能力と云える。気候変動から核戦争、将又(はたまた)、創り出された世界的感染症、制御の効かない人口知能(AI)、更に加え、未だ予見されていないその他多くの破壊的な諸技術と、数えきれない程多く撒かれた心配の種によって、人類は滅亡の危機に立たされているのだ。
丁度30数年前、冷戦終焉に際し、複数の思想家達は、その後の将来は遥かに穏やかな展開になると予想した。冷戦下に極めて現実味を帯びて連想された「世界終末」の脅威は後退した。一時隆盛した全体主義が第二次大戦中に敗退し、その後、数十年を経て、今度は共産主義の終焉を以って、主要な基本思想を巡り展開されて来た諸論争は、此処に決着したかに見えた。そして、資本主義と民主化の拡散は止めようのない動きとなる筈だった。政治理論学者フランシス・フクヤマは、世界を「歴史後の」社会と「既に歴史になった」社会とに分類した。つまり、戦争は、世界の何処かの場所では、例えば、民族や宗派抗争の形態を通し尚も継続可能性があるものの、大規模戦争は最早過去の遺物となった、と主張した。何故ならば、既に歴史となった世界の反対側に属する、仏国、日本、及び米国側へと益々多くの国々が参加して来たからだ。斯くして、政治形態に関する将来の見通しは「比較的平和で、繁栄に満ち、そして一層の個々人の自由拡大が約される」と云う、特定の狭い範囲内に収束すると見られた。
然し、現実は之に反し、永遠かと思われた上述未来図は、最早、全く先の見通せない状況へと暗転した。即ち、政治思想は、地政学上の「断層線」(fault line)として尚、厳然と存在し、市場の国際化は危うく、大国間の衝突が次第に現実味を増して来ている。然し、これらより一層大きな脅威は「人類種の絶滅」の危機である。人類がこの完全壊滅の潜在的危機に直面するに及んだ結果、政治及び政策討議は、今後数年間に亘り、ここ10年間に見られなかった程に幅広く行われよう。そして、根底となる政策思想の大論争は収斂する処か、寧ろ激しさを増すだろう。我々が見渡す水平線は、縮小する事なく、拡大して行くに違いない。
これら諸挑戦の中でも重要なのが、人類が如何に自身の天分が招く危機を管理出来るかと云う問題だ。兵器、生物学、及びコンピューター進歩は、故意の悪用か、或いは大規模な事故により人類を滅亡させ得る。つまり、諸社会は、如何なる共同歩調をも無力化する程の甚大な諸危険に現在直面しているのだ。斯かる逆境下に在っても、今日尚も、各国政府には、技術進歩による便益を損なう事なく、人類の種を存続させる為の、有意義な諸段階を講じて行く手段が、まだ残されており、それ故、必ずそれらを為し遂げる必要がある。現に、世界は、既に我々が直面する多くの甚大なる諸危険を克服する為に、更なる技術進歩を必要としているのだ。それら技術とは、例えば、クリーン・エネルギーの創出と貯蔵、新型疾病を拡大前に封じ込める為の探知諸策、そして核戦力による“相互確証破壊”なる危うい均衡に頼らない大国間に於ける平和維持への道だ。
技術進歩とは、本来、我々が安全に憩える場所を提供し恩恵を与えるものである。しかし、現実は之に大きく反する結果、技術進歩と諸制度の現状は極めて危うい窮地に陥っている為、人類にとっては、寧ろ其処から如何に脱け出すかを企てる事が重要なのだ。この脱出を成功させる為の下準備を整えるには、政府が自身の直面する諸危険を認識し、それらを封じる為に壮健な制度に基づき諸機構を発展させる事が不可欠になる。この為には、適切な政治の決定領域に常に最悪の場合の諸シナリヲを織り込み、そして「技術発展の優先順位付け」として知られる発想、つまり、兵器に転用される虞のある生物学研究等、潜在的に危険な帰結を招き兼ねない事業を抑制する一方、病原菌探知の為の下水監視等、諸危険を減じる諸技術に対しては、資金提供と計画加速を行う、と云う考えを受け入れて推奨して行く必要がある。
如何なる大転換が必然として生じるのか、その見解に就いては識者の眺望次第だ。フクヤマが将来を見渡し、想像した風景とは、多少、物悲しく、灰色をした、とても劇的とは云えぬ雰囲気に満ちた、高級官僚達に則した景色だった。1989年に彼は書して曰く「歴史の終わりの世界とはとても悲しい時代なのだ」と。即ち「大胆さ、勇気、想像力、及び理想主義と云ったものは、経済的損得計算、際限ない解決策が求められる技術上の諸問題、懸念される環境問題、及び洗練された消費者から寄せられる飽く事なき欲求満足の諸要望、等に取って代わられるのだ」と。然し、我々は今、新たな歴史の始まりと位置付けられるこの瞬間、正に人類史に於いて決定的に重要な交差点に立っているのだ。此処では、勇気を以って危険に臨み、前途に待ち受ける様々な困難に対処する覚悟が必要となる。フクヤマが予想したのとは真反対に、我々が歩む政治的な地平線は、現時点で何も二流の相場に小ぢんまり落ち着いてしまったと云う話では決してない。即ち、経済的、社会的、そして政治的諸変革は尚も実現可能であり、又、それは是非共必要なのだ。もしも、我々が賢明な行動を為せば、来る百年は、我々が未来に対し背負った責任を果たした世紀として定義され、孫のその孫達が我々の事を感謝と誇りを以って思い返すだろう。然し、一方、もし我々が、之への対応を過(あやま)てば、子孫達は日の目を見る事すらないかも知れぬのだ。
今後訪れる新たなる危機群
化石調査によれば、動物の平均種の生存期間は凡そ数百万年だ。この基準に照らせば、人類の寿命は、まだこの先、約70万年残されている計算だ。この間に、人類が仮に、現在の世界人口の僅か1/10に減少した儘、底に張り付いたと仮定しても、それでも将来尚、10兆人内外の人類誕生を見る事になる。
更に、我々の種の力は、平均水準を上回る為、他の関連種族を凌駕しより長い生存期間を確保する事も可能かも知れない。もし、我々人類が、太陽が膨張し地球を焼き尽くす時まで生存すれば、数億年を生き延びた事になる。その頃の人類が現代を思い返す場合には、現在、我々が初期の恐竜時代を振り返るよりも、尚遥かな時代の隔たりが其処には有るのだ。そして、更に、いつの日か、我々が宇宙に移住すれば(数千年後には、十分実現性がある話である)、地球を祖国とする知的生命体は、10兆年の後に、最後の星が燃え尽きる時まで生存するだろう。
これらの思考は、決して、遥か彼方の無稽な数字を弄する無意味な作業ではない。そうではなく、一体何が危機に晒されているのかを理解する為には、人類の潜在的な将来規模を正しく評価する事が欠かせないのだ。即ち、今日の我々の行動とは、何兆人という子孫達が生きるか死ぬか、或いはどのような暮らしをするのか ― 貧乏か裕福か、戦争か平和か、隷属か自由か、― 等を決する、途轍もない責任をその背に負う事を意味するのだ。斯かる認識を新たに持つ事によって、顕著な成果が得られた事例を紹介しよう。それは岩手県の矢巾(やはば)町で行われた、驚くべき実験だ。同町の諸政策に関する討議を開始するに当たり、先ず、参加者の半数は、祭りの半被(ハッピ)を纏った上で、彼らが、現在の町人の孫達の利害を代表し、未来からやってきた人々であるとの役回りを授かる。こうして、「現代人」と想定上の「未来人」とに分かれて諸討論を実施、それらを観察した結果、討議の姿勢及び課題の優先順位に於いて、両グループの間には際立った違いが視られた。そして、更に特筆すべきは「未来人達」は「将来世代に対する配慮」が顕著であり、現に、討議を経て合意に至った対処諸策の半数以上が、「未来人達」からの提案だったのだ。(*訳者後注1)
この様に、長期的視野に立つ事に拠って、社会は尚も多くを成し遂げる可能性を持つ。ほんの、500年前の時点に於いては、数世代毎に所得が倍増して行き、大半の人々が自身の孫達の成長を見る迄長生きし、世界を主導する諸大国は、非宗教的な指導者が自由選挙で選ばれると云った日々が訪れる事を、人々は信じられなかっただろう。一方、現在、市民の誰もが皆、永続すると考える国家が、あと数百年は続かないかも知れないのだ。世界中のあらゆる種類の社会組織の中に於いて、歴史上、未だ完成型は存在しない。日々、月々、或いは数年間の単位の中での短期的な集中が、根底に潜む長期的変革の種に対し常に働き掛けている事を知るべきだ。
人の一生に喩えれば、人類は現在、まだほんの幼少期に過ぎない。この事実は、もし不適切に早死にしてしまった場合には、その悲劇性を一層際立出せる事となる。本来、まだ沢山生きるべき命が残されているにも拘わらず、人生の若い内は注意力が散漫で、次から次へと目移りし、自分達の取る諸行動の幾つかにより自身が深刻な危険に陥る事を悟らずに見過ごしてしまうのだ。我々の力量が日々増して行く速度に対し、自己省察や知恵が追い付いて行かぬのだ。この儘では、人類の歴史が、それがまだ本当に始まる前に終わりを遂げるかも知れぬ事を、我々は十分肝に銘じる必要があるのだ。
歴史が終わる時
フクヤマが試みた「歴史の終わり」の解釈とは対照的に、その字義通りの意に解する事に徹した、他の観察者達も存在する。即ち、人類が一斉滅亡する可能性である。これら諸見解は、殊(こと)、原子科学者達の一兆足的進歩により、人類破滅の潜在性が現実味を帯びた直後、冷戦時代幕開け時に普及した。1946年、英国の政治家ウィンストン・チャーチルは、その独特の精力的な演説で次の様に述べた。「科学の翼の一瞬の煌めき(原爆の閃光)によって、世界は再び石器時代に逆戻りするかも知れない。そして、今や人類に計り知れぬ程の物質的恩恵を施している知恵が、人間界を完全撲滅に至らしめる虞があるのだ」(*訳者後注2)。この数年後、米国大統領ドワイト・アイゼンハワーが同懸念を最初の大統領就任演説の中に述べ警鐘を発した。つまり「科学の力は、この地上から人類を消し去る力を、どうやら我々自身に授けたようだ」と。
人類の歴史は、黒死病の恐怖から奴隷制度や植民地主義に至るまで、多くの災難に満ち溢れて来た。然し、滅多に生じる事のない、火山の大爆発や地球への惑星衝突等の幾つかの自然災害を除けば、人類全体を滅ぼすに妥当な仕組みは見出し難い。オクスフォード大学の哲学者トビー・オードは著書「断崖の危機(The Precipice)」の中に述べて曰く「ありとあらゆる悲観的な諸想定を全て織り込んだとして、自然界が絶滅を齎(もたら)す危険性のみを考慮する場合、人類はまだ後(あと)、少なくとも10万年の寿命を保持する」と。
オードが「生存を左右する大災害」として深刻に憂慮し、「人類の潜在性に対する永続的破壊」行為」であると定義した諸事は、主として20世紀後半に、技術進歩と足並みを揃えて出現したものだ。2003年時点に於いて、元王立学会会長のマーティン・リース卿は、人類が今世紀を生き延びる確率は「精々良くても五分五分だ」と記述した。又、先述のオードは、今後百年の内に、人類が自らを滅ぼすか、或いは文明化の道を永遠に踏み外し、脱線を続ける確からしさは、1/6だと予測する。もしも、上記の何れかが正しいならば、今日、米国に生まれた者が若死にする原因は、文明に止めを刺すような大厄災に巻き込まれる場合である可能性が極めて高いのだ。
核兵器が提示した多くの重要な諸特性は、将来、その他の技術的脅威によっても又同様に保持しされ得るものだ。これらは、20世紀中盤の発明を以って、突如、破壊能力を劇的に飛躍させたのだった。即ち、原子爆弾はそれ以前の爆弾類に比べ数千倍の威力を有し、更に、水素爆弾の発明は、其処から再度、数千倍の爆発力を生み出した。原子力時代以前に於ける、破壊力の進化速度に照らして計れば、僅か数十年の内に、それ迄の1万年分に相当する進歩が生じた計算になるのだ。
これら諸発展を事前に見通す事は極めて困難だ。高名な物理学者アーネスト・ラザフォードは、1933年の時点に於いてすら、原子力エネルギーの発想を「たわけた考えだ」として否定していた。然し、僅かその翌年には、もう一人の著名な物理学者レオ・ジラードが核分裂炉構想の特許を取得する。そして、一度(ひとたび)、原子爆弾が世に出るや、意図的な破壊作戦迄もが鎖から解き放たれ、1958年の台湾海峡危機に際しては、複数の米国軍将軍達が中国に対し先制核攻撃を提唱する事態が出現した。それに止まらず、更には意図せぬ事故による暴発危険の存在が明らかとなる。即ち、米国の早期警戒システムが誤発動されていた事を証する、恐るべき追跡記録が露見したのだ。皮肉なのは、先方からの意図的攻撃を本来防御する筈の諸手段が、時としてその意図に反し、事故から核戦争による世界終末を招く危険性が増加するという対価を支払う事だ。同懸念は多く存在し、最たる諸例が、米軍の核搭載爆撃機常備飛行配備態勢、同警報即発射戦略、或いはソ連の所謂「死の手(Dead Hand)」と呼ばれた、もしモスクワ政府側が核攻撃を受けた場合、自動的に全面核報復発射攻撃を保したシステム、等だ。冷戦が終結しても、この手の「死の計算」は根本的に変わる事なく、核保有諸大国に於いては、自国の安全と戦力保持との均衡が依然として戦略の中心なのだ。将来の技術革新は、この「抑止による安全確保」と「保有核攻撃能力増強」との一層危険なトレードオフを彼らに課して行く虞がある。
世界終末が、間もなくやって来るのか?
但し、我々が直面する危機は、核兵器のみに止まらない。将来の技術進歩は、相当数の諸分野に於いて、同兵器よりも破壊的にして、より広範な役者達が入手可能で、且つ善悪両用の用途的懸念が一層強く、或いは、従来に比べ、ほんの小さな過失ですら人類絶滅への引き金に成り兼ねない代物であるが故に、これらの管理統制は至難である。米国国家情報会議(U.S. NIC: National Intelligence Council)による最近の報告書は、これら諸危険を特定し次のように述べる。つまり、核戦争に加え、人類生存に対する危険諸要因に、人口知能の暴走、遺伝子操作と感染症ウィルス創出、及びナノ技術を使用する諸兵器を挙げ、更に曰く「これらは地球規模で人命を損なう脅威であり、同脅威の及ぼす潜在的図式とその規模に関し、我々があらゆる想定をした上で、完全に理解する能力を持つ事が可能か否かを、問われているのだ」と。
遺伝子操作による感染症爆発の例を見よう。生物科学は急激に進歩し、主要な研究費用の構成要素として重要な「遺伝子解析」が急速に安価になった。斯かる分野の更なる諸進展によって、これ迄不治とされた諸疾病に対し遺伝子療法等、数多くの便益が期待される。然し、その一方、善悪両用への懸念は不気味に拡大する状況だ。医療研究に於いて使用される幾つかの手法は、原則として、本来自然界には存在しない、より高い感染力と致命性を備えた病原体を特定し、或いは創出する事を目的とする。そして、これら工程は、科学的一大事業の一環として公開される。科学者達は往々にして、その疫病を撲滅する方法を見出すべく、諸病原菌を変異させるのは常であり、或いは、これに反し秘密裡に崇高とは言い難い意図を抱くテロリストや国家が生物兵器開発計画を推進する過程で変異が生じ得るのだ。(これら諸計画は未だ過去の話ではない。2021年の米国務省報告書は北朝鮮と露西亜の両国が攻撃用生物兵器開発を維持している旨結論付けている)。又、譬え、社会公共性に良かれとの思想から公表された研究報告は、悪党達により、恐らく当の創設者達が思いもよらない手口に悪用される可能性もある。
バクテリアやウイルスは自己増殖する点、核兵器よりも怖ろしい。そして、新規病原菌がたった一人でも人類に感染してしまえば最後、その魔人を元(もと)の瓶に戻す術(すべ)がないのは、新型コロナウイルスが遺憾にも証した通りだ。更に核兵器の場合、保有国は9ケ国に過ぎず、全核弾頭の9割以上を米国と露西亜が管理するのに対し、細菌研究所は世界に何千と存在する。その上、更にその内、5ケ国の領内には「世界で最も危険な病原諸体」の実験認可を得た数十の研究施設が広範に点在しているのだ。
そして悪い事に、生物学研究記録に関し、その安全保全の為の追跡調査は、核兵器よりも尚一層困難で望み薄なのだ。2007年には、口蹄疫が家畜に広がり、何十億ドルもの経済損失を惹起した。原因は、英国研究機関からの流出によるもので、政府が事態介入を図ったにも拘わらず、僅か数週間の内に一度のみならず、二度も発生した。更に、研究所からの細菌漏出が人命を奪う事例も既に出現した。例えば、ソヴィエト連邦生物兵器開発計画が展開される中、1979年、スヴェルドロフスク州では兵器化された炭疽菌が実験所から流出した事に関連し数十人が死亡した。然し、恐らく、最も憂慮されるべき事案は、1977年の「露西亜風邪」感染爆発が、実は1950年代に猛威を振るったインフルエンザの変種を使用した人体実験が起源であった可能性が指摘されている例である。この感染により70万人が亡くなったのだ。
米国内の研究所に話を限っても、感染発生事故が何百件単位で生じており、それは研究所作業者250人当たり、年間一人の発症率に相当する。世界に目を転じれば、所謂、厳重保安実験所が何十カ所も所在し、各所に科学者並びに他従事者が多分数百人単位で配置される為、上記発生率の何倍もの割合で、毎年感染事故が生じる危険性に我々は晒されている。各社会は同比率を如実に削減する必要がある。これら諸施設が、もし人類途絶を招く程の病原菌の研究に手を染め始めれば、人間の種の終焉時期が繰り上げられるのは、最早、時間の問題になるからだ。
終末世界に於いて、あるべき統治とは
斯様に危険水準が上昇する一方で、人類が我が身を守る為に必要な諸手段を講じ得たかと云えば、それが全く保障の限りでない状況なのだ。現実に、危険を十分軽減する為には障害諸要因が、数多く存在する。
その中でも、最も根本的問題は、近年、我々が身を以って苦々しい体験をした、気候変動を巡る外交闘争に象徴される。つまり、化石燃料を燃やす場合、特定諸国が便益の大半を享受する一方、それ以外の国々、並びに将来世代は費用の大半を負担する事になる。同様に、危険を伴う生物学研究に従事する行為は、特許薬開発の可能性を秘め、成功の暁に当時国が経済効果と栄誉とを増進し得る一方、万が一にも、その病原菌が事故で当国から洩れ出した場合には、ウイルスは国境を物ともしないのだ。経済学者の言語に従えば、危険を次世代へ課すのは「外部不経済」(外部に対する負の押し付け“a negative externality”)」であり、他方、新型の諸疾病に対し早期警戒体制を創設する等、危険逓減策の提供は「地球規模の公共利益」(”a global public good”)である。(考えてみても頂きたい、もし、新型コロナウイルスを、2002年から2004年に掛け発生したSARS並みに、少数の国々の範囲内に封じ込め、そして絶滅させていれば、世界は如何程の恩恵に浴したかを!)。然し、之は最早、正(まさ)しくある種、「善」を前提にした世界なのだ。何故なら、現実は、各国が、他国の為した貢献に隙さえ有ればタダ乗りを目論む中、市場原理や国際関係の体系に従う限り、何らかの諸決定なくしては、決して提供する事が不可能な物だからだ。
然し、人類は尚も、この構造的とも云える悲劇から免れる為に多くの道筋を有している。社会の中で、安全追求の試みが後退して行く懸念を緩和する策としては、例えば、各国が、特に生物兵器のような危険な技術開発の禁止に関し集団的な合意に至る事が可能だろう。或いは、別法として、各国が有志連合として共同歩調を取り、ノーベル賞受賞経済学者、ウィリアム・ノードハウスが「倶楽部」と称した組織を結成する事も可能だ。その倶楽部の会員達は、結成主旨である「世界的な公共の善」の提供に一致協力するのだ。同時に、会員諸国は相互間の便宜供与を約し(例えば、経済成長や平和に就いて)、一方、非会員諸国に対しては費用を課し(諸関税等の操作等を通じて)、之によって非会員の加入参加を促す効果を期する。例えば、同倶楽部が、人口知能諸システムや危険な生物科学研究に関する安全基準を設ける事も可能だろう。
近来、大国間競争が復活した環境下に於いては、これら国際協力の芸当発揮は困難との疑念が一般に出始めている点は遺憾である。更に、悪い事に、地政学上の緊張が高じる中に在っては、特定諸国が自身の安全保障上の利益が増すと見るや、譬え、危険を冒してもそれに賭ける価値があると知覚する結果、自分自身のみならず、世界がより危険な水準に直面する事すら、彼らが容認する事態に追い込まれて行く。(過去の好事例として、米国が爆撃編隊を8年間に亘り、常時飛行し攻撃可能な緊急体制下に維持する中、核爆弾搭載機の墜落事故が5件発生している。)そして、もし、ある国家の生物兵器開発の実験が、多分、究極の抑止力を手に入れたいとの無謀な探求に駆られてか、人類を絶滅させる威力を持つ程の細菌であった場合、実験室でこの次に万一事故が生じた際には、新型コロナウイルスを遥かに凌ぐ世界的大感染が突如発生し得るのだ。
加えて、諸大国は世界覇権を賭し、最悪の場合は明白(あからさま)に戦争手段に訴え得るのだ。この見立ては、第二次世界大戦後に育った世代にとっては、信じ難いかも知れぬ。心理学者のスティーヴン・ピンカー(Steven Pinker)は「国家間の争いを含み、暴力とはこれ迄長い期間を経て衰退して来た」と主張し、同見解が世間にはこれ迄受け入れられて来たのだ。然し、これに続いて、政治科学者ベア・ブロウマラー(Bear Braumoeller)や他の者達によって為された分析によれば、将来見通しは、寧ろ根底から複雑化した。即ち、これら研究者達が主張するのは、国家間闘争が激甚化すると、所謂「冪乗則(べきじょうそく)」(power of law)(*訳者後注3)に従う傾向にあり、従って、比較的平和な期間が続いた後、戦争が以前にも増す死傷者の規模を以って再来する可能性が大いにあるのだ。コンピューター学者のアーロン・クロゼットによる計算が示す処によれば、第二次世界大戦後から続く「永い平和」が、本当に戦争の危機が長期的に減少している事実を顕著に示す為には、もう後(あと)百年の平穏が続く必要があると云う。又、ブロウマラーは「我々の存命中にも、過去二つの大戦の死傷者を上回る戦争が再度勃発する可能性は否定できない」と主張する。そして、著書の結論部に記して云うには、実は「我々は全員死滅する」と云う語句すら記載し、そのまま残すべきかとも一瞬は考慮した程だった、と本件の深刻度に関し彼は明かしている。(*訳者後注4)
国際的な運営規律に関して、過去例を見ない程の発展を実現しつつ、同時に第三次世界大戦勃発の危険を回避する事は、極めてハードルの高い作業だ。然し、好むと好まざるとに拘わらず、これこそが我々の直面する難題なのだ。
生き残る為の工夫
斯様に立ちはだかる困難に対し、我々の取り得る一つの策は「後退」の選択だ。もし、勃興する技術諸革新の安全なる制御が極めて困難ならば、抑々(そもそも)革新する行為自体を単純に控えれば良いのだ、とある者達は主張する。「成長反対」運動の面々達が、正にこの立場を取る。即ち、経済成長と技術革新の双方こそが、敵対化を伴う分断、環境破壊、及びこの種の全ての害悪の裏に在る、主なる下手人してとして非難する論だ。具体的には、2019年、150ケ国以上から11,000人の科学者達が連署した、その公開書状で次の様に訴えた。「世界人口は、安定化させ、そして望むらくは次第に減少させるべきであり」更に「各国は“GDP成長”から目標の優先度を他へ転じるべきである」と。
同主張は、直感的には共感を得る内容に見えるものの、対策として非現実的のみならず、とても危険なものだ。先ず、国際関係に於ける諸国家間相互依存の係りを全く考慮しない点、非現実的だ。百歩譲り、仮に、一時的に世界が一斉に技術開発を取りやめたとて、遅かれ早かれ、誰かが技術進歩追求を再開するのは世の常なのだ。
上述の反駁は兎も角として、元来、技術進歩の停滞自体が決して望ましい方向ではないのだ。理由は簡単で、新しい技術は、危険を悪化させもすれば、又それを減じる、双方向の効果を合わせ持つからだ。もしも、一度(ひとたび)、核兵器の如く、新規の危険技術が導入された場合、各国政府はその危険制御の為に、新たな追加的諸技術を必要とする。具体的には、人類の種の生存に対し、核兵器が齎(もたら)す脅威に就いても、之を大きく逓減する事も可能だ。即ち、地球が死の灰に覆われ、太陽が遮蔽され「核による冬」が到来する中での、日光に頼らない農産物育成技術、或いは、核弾頭の早期警戒情報に関しては、大陸弾道弾と科学実験用の小ロケットとの識別をより正確に探知する技術、等である。これに反し、もし社会が技術開発を一斉に中止してしまえば、防御面に於いてそれに見合う発展を欠くが為に、新たな技術から生み出される脅威を封じ込めるのが不可能となるのだ。例えば、人々が新型病原菌に対し早期探知とその撲滅に関し有効な技術進展を未だ確立し得ない内に、世界中の至る所で、様々な役者達が、前例のない危険極まりない病原体を創出する能力を今にも身に付けるかも知れぬ状況にみすみす陥って仕舞う訳だ。
換言すれば、現状、我々は既に潜在的な大惨事と直ぐ背中合わせに居るのだ。それが故に、防御諸手段無くしては、人間の種と雖(いえど)も、多くの他種と同様、結局は自然界からの脅威により絶滅の運命を辿る可能性がある。従い、人類が潜在的な生存可能期間を最大限生き延びる為には、小惑星の軌道をも逸らして地球への衝突を回避し、新型病原菌の世界的蔓延を早期に鎮火するような芸当を発揮する術を学ぶ必要がある。翼を失い墜落死した、神話イカロスの運命の二の舞を、人類は避けねばならぬ。つまり、飛び続ける事が肝要なのだ(*訳者後注5)。
この問題の難儀さは、技術革新が齎(もたら)す負の局面からは人類を守りつつ、一方、技術進歩による成果は引き続き収穫する点に在る。この手法は、幾人かの専門家が「技術開発優先順の操作」“differential technological development”(*訳者後注6) と言及するものだ。即ち、人々が抑々(そもそも)破壊的な技術発明や事故発生を防止できないのならば、順序として、これら防御に便益あるよう、先見性と慎重な計画を以って、防衛的な技術の開発にこそ、先ず優先して注力すべきとの発想だ。
実は、我々は皆、所謂「テクノロジーによるロシアンルーレット」(“technology roulette”)のゲームに気付かぬ内に、既に全員参加している状況なのだ。同用語は、元米国海軍次官リチャード・ダンツィグが発案したものだ(*訳者後注7)。今の処は、引き金を引いても、まだ弾丸発射に至っていないが、このロシアンルーレットのゲーム自体、危うい事、極まりない点に変わりない。つまり、バレル(弾倉)に弾丸が込められた拳銃の引き金を引く順番が、将来に於いては、尚一層、次から次へと廻って来るだろう。我々人類がこのゲームを変革しない限り、最悪の事故、そして恐らくは致命的な事態の発出が避けられないのだ。
我々が負う未来への責任とは
ゲームのルールを打破する者達は現在の処、未だ殆ど出現していない。多くの危険に取り囲まれた儘の状態に於いては、社会は情けなくも自らの将来を守れず、寿命を早々に切り上げる事態に陥り兼ねない。その一例が「生物兵器禁止条約(“BWC”:Biological Weapons Convention)」だ。これは、生物兵器の開発、貯蔵、及び売買を禁じる取極めである。然し、国家安全保障の専門家、ダニエル・ゲルシュタインが「21世紀で最も重要な兵器制限条約」と称したにも拘わらず、同条約には検証の仕組みが欠如し、又、予算規模が小さい(ファンションフェスティバルの“メット・ガラ(Met Gala)”程にも及ばない)。その上、更に滑稽ですらあるのは、BWCはその僅かばかりの供出金を各国から期限内に取り立てる事にすら四苦八苦する状況にある事だ。2018年々次報告書に「BWCの財務状況が危機に在り一層状況悪化、これは複数の会員諸国からの拠出割り当て金が長らく滞納している為だ」と同条約責任者が嘆く有様だ。
生物科学以外の分野に於いても、事態は同様に心許ない。人口知能の暴走を制御する為の研究は不十分で、人口知能研究開発に係る全予算の内、非常に小さい割合しか資金が割かれていない。一方、軍事面では自立型殺傷兵器が戦場で使用され乍ら、同兵器制限の努力は国連に於いて、ここ数年停滞している。又、米国内に目を転じても、状況は捗々(かかばか)しくない。米国防費の内、生物兵器防御に投ぜられるのは予算の1%以下で、然も、その大半は炭疽菌等の化学兵器攻撃回避の為だ。更に、新型コロナウイルスによって全世界で500人の内一人が死亡し、その経済的打撃は米国内丈で16兆ドルに上ったにも拘わらず、議会では感染症事前対策推進費として150億ドル程の予算にも合意が成立しない状況だ。
この手の危険回避諸策が余りにも顧みられない状況下、逆にプラス効果を発揮する諸機会も又、数多く存在する。人類生存の危機を軽減した一つの成功例が、NASAによる宇宙防衛計画だ。同計画は1998年開始から2010年迄、僅か年間5百万ドルの低予算下、科学者達は絶滅危機を招来する虞が有る惑星群の内90%以上を追跡調査、その予想精度を向上させる過程の中で、ある惑星が地球と衝突するリスクを計算予測した結果、それらを従来の1/10以下に低減させた。もう一つの事例は、新型コロナウイルス蔓延下、米国政府が180億ドルを投じ実施した「ワクチン開発促進計画」(“Operation Wrap Speed”)だ。同計画の結果、安全且つ有効なワクチンが開発され、数十兆ドルに上ると試算される社会全体の便益に対し、その僅かな歩合を対価とし、米国及び他諸国の人々が入手する事を可能とした。経済学者のロバート・バローに拠れば、2021年9月から2022年2月に掛け、これらのワクチンが米国人一人の命を救う為の限界費用は、5万5千ドルから20万ドルの間と試算され、同費は通常の人命救済策を講じる際に費用対効果の観点から境界とされる値の1/20以下と遥かに有効性に優れるものであった。
世界の俊英達が協力し、各国政府や民間部門が資金提供すれば、我々はより一層効果的な成功を為す事も可能だろう。例えば、尚も主要な技術課題を突破する必要があるとは云え、下水のサンプルからメタゲノム解析を行う手法が普及すれば、新型の病原体を早期の段階で探知し、封じ込めと撲滅が可能となる。現在、この研究はマサチューセッツ工科大学の核酸研究所で行われている。一方、公共、民間の双方分野は個人を防御する設備の開発にも注力すべきで、例えば、遠紫外線(Far UV-c)のような電離放射線過程を利用した殺菌技術研究を、更に進める事によって、これが成功した暁には、諸病原菌に対し略(ほぼ)万能な防御が提供可能な上、同設備は如何なる建物にも設置が可能だろう。又、人口知能に就いては、同システム構築の安全と信頼性確保の研究に於いて、従来に10倍する規模拡大が求められるべき処だ。これら諸手段に共通する特徴は、戦略的な防御を強化しつつ、それ自身からは新たな危険の創出や加速を生じない点だ。
これら以外の領域でも進展が可能だ。「巨大リスク」に関し、既知の消息諸筋に対する情報収集と分析が一層重要になる。そして、完全な確実性を得る事は出来ぬにせよ、(天文学者カール・セーガンによる皮肉交じりの言葉通り「世界の終わりに纏わる理論は、一筋縄では行かず、実証困難だ。少なくとも、二度試す訳には行かぬ」故に)、水平線の向こうから何がやって来るのかを入念に調べて予測する事が、新しい脅威を特定するのに役立つ。この脈絡から、国家情報評議会による「世界の潮流」最新報告書が人類の生存危険の概念に関する議論を掲載し、「生き残りの為の靭性に富んだ諸戦略の構築」を呼び掛けた事は望ましい傾向である。
より多くの各国政府、諸機関、そして諸企業がこれらの考えを真剣に捉える必要がある。規制の改革も又、重要だ。元ホワイトハウス規制局長キャス・サンスティーンは著書「大災害を回避する方法(Averting Catastrophe)」の中で、現在政府が重視する、費用対便益の分析手段によっては、潜在的な大厄災の諸危険を十分に説明できない点を強調する。彼が論じるのは、「マクシミン原理(maximin principle)」と彼自身が呼ぶ手法だ。即ち、極めて極端な諸危険―人類滅亡に類するような危機― への直面を想定する場合には、政府は、最も最悪の結果を回避する事に集中すべきであるとする(*訳者後注8)。丁度、時同じくして、ホワイトハウスに於いても、規制見直しの為の基本構想近代化修正が現在行われている。従って、21世紀に於いて、発生リスクは低いものの極度の被害を生じる諸事例に如何に対処すべきか、つまり、サンスティーンのマクシミン原理か、或いは世界規模の災害リスクを真剣に捉える何かしら類似の策か、政府が同対策を立案する好機に在ると云えるのだ。
フクヤマは「歴史の終わりには退屈な幾世紀が続く」と予言した。現実は之とは大違いだ。現行政治諸体制は、強大にして破壊的な諸技術から、これ迄の歴史に前例を見ない挑戦を突きつけられているのだ。人口知能の発達が、国家と個人との間に存在した均衡力を葬る可能性がある。即ち、もし、労働力全体が自動化されてしまえば、政府の立場からは、最早市民達を厚遇する理由を失うかも知れないのだ。独裁者は、人口知能による軍隊と警察力を有すれば、騒擾やクーデターを予防出来る。政府は、大三次世界大戦の発生可能性を理由とし、国家を拡大させ、更に国家安全保護の観点から言論の自由等、個人の諸権利を弾圧するかも知れない。生物兵器の入手が容易になれば、それを以って、政府が国際的な諜報調査活動を正当化する可能性もある、と云った具合だ。
我々は、人類の将来を心に描きつつ、上述の諸圧力に抗して行かねばならぬ。つまり、自分達には未来が在り、且つそしてその未来が十分価値のあるものである事を証明する為に、我々は闘うのだ。過去300年に亘る、自由主義に向けた文明推移の中で、人道上の進歩を牽引する推進力が創出されたのだ。そして謂わば、このエンジンによって民主主義が拡散し、奴隷制度が廃止され、女性や有色人種の諸権利が拡大されて行った。このエンジンを止めてはならない。我々は、苟も、人道主義、政治の多様性と実験を一層推し進めて行く必要があるのだ。現代人が、今から千年前を振り返れば、奴隷保有、余興として公開された残虐行為、及び強大な家父長制等のローマ時代の習わしを野蛮だと感じる。恐らく、遥か将来世代の人々も、我々が現在行う多くの諸習慣を同様に思う事だろう。
従って、我々は極めて危うい綱渡りのような道程を歩まねばならぬ。即ち、我々は、世界規模での協力によって、地球規模の厄災発生の諸危険をゼロ近くまで減じる事が可能である点を確認しつつ、自由と多様化した思想、及び、我々の孫の又その孫達から感謝されるような将来を築く為の社会構造を維持する事が必要だ。政治改革を巨大な規模で行う為に黙思熟考する作業は、大きな難題であるに相違ない。然し、過去に我々が為した、国連組織の創出やEU統合等の統治に於ける諸改革の成功事例は、将来に於いても期待を抱き得る根拠となろう。
歴史開闢第一世代として、自分自身を祖の一人と見做す事に、我々は不慣れだ。何故なら、常に過去から何を受継いだかを意識し、将来に何を遺贈出来るかに就いて考える事が滅多にないからだ。然し、これは間違いだ。現在、我々の眼前に立ちはだかる難作業に取り組むには、人類の遠い未来まで完全網羅する系統図へ思いを馳せる意識が欠かせない。之に反し、今日、我々が為せる所業とは、自分達と我が子達の生命に止まらず、将来に生まれ来るべき全ての人類の生存その物を、無鉄砲に危険に晒す行為なのだ。斯かる無責任極まりない行動は、いい加減、我々の世代の内に終止符を打たねばなるまい。
(了)
【訳者後注】
*1)岩手県矢巾町の実験:
2015年、同町が2060年長期ヴィジョン策定に際し、自治体で初めて取り入れた“フューチャー・デザイン(FD:Future Design)方式”という討議手法を指す(高知工科大学、西条辰義特任教授の提唱による)。同検討ワークショップに於いては、「現代世代」と「仮想将来人」にグループ分けし、討議に際し「将来人」はパッピを纏うと云う外見の服装のみならず、2060年以前の出来事は全て「過去形で語る」等、将来世代になりきって思考・発言を行う。これにより当論稿に言及ある通り、成果が観測された。手応えを得た同町(高橋昌造町長)は、2018年に「フューチャー・デザイン(FD)タウン」を宣言し、未来戦略室を設置し実際の行政に導入実施。自治体に於ける同様の長期思考重視の計画設計手法は、京都宇治市にも広がりを見せていると云う。
*2)チャーチル元首相の演説:
ソ連共産圏と西側との対立を「鉄のカーテンが下ろされた」と表現し、西欧諸国の結束を訴えた有名な演説。トルーマン大統領の招きに応じ、チャーチル元首相が訪米し、ミズリー州フルトンにて1946年3月5日に行われたもの。同フレーズは後段に述べられ、一方、当論稿に引用されている箇所は演説の前段部である。尚、同引用文はその末尾が、筆者により我田引水的にアレンジされており、正確を期す為、原文及び訳文を参考に示せば以下の通り。
「暗黒の時代が再び訪れるかも知れない。科学の翼の一瞬の煌めき(原爆の閃光)によって、世界は石器時代に逆戻りする虞があるのだ。そして、現在、我々人類が浴する、計り知れない程の物質的恩恵が長続きする保障はない。手を拱(こまね)いて、事態が手遅れになる迄、漂流するに針路を任せるような事は、断じてあってはならぬ。」(The dark ages may return, the Stone Age may return on the gleaming wings of science, and what might now shower immeasurable material blessings upon mankind, may be short. Do not let us take the course of allowing events to drift along until it is too late.)
*3)冪(べき)乗則(power of law):
「発生確率は極めて低いが経験のない大戦争が生じる可能がある」との論稿主張の裏付けとして、冪乗則に基いた「冪(べき)分布」を示唆している。同則の平易な理解(此処では冪乗は累乗に等しい)事例として、地震震度の大きさ(縦軸)とその発生確率(横軸)の分布を図に描くと、震度1の発生確率が、仮に1/100とすると、2倍の震度2の発生確率は2乗(1/100×1/100)、3倍の震度3の場合の確立は3乗(1/100x1/100×1/100)…以下同様とすると震度10の超巨大地震の発生確率は1/100の10乗になり、極小極まりないが、ゼロではない(発生可能性が存在する)。この時の分布曲線は、恰も蛭かアメーバが縦、横軸に張付いた如く、それぞれ軸にそって急峻な形状になる。つまり、地震震度の巨大化に連れ、発生確率は急速に減少(縦軸に対し急峻化)する一方、例えば、震度0.5や0.1の微震、超微震になるに連れ、発生確率は急激に上昇する(横軸に対し急峻化)。
*4)ベア・ブロウマラー(Bear Braumoeller)の主張:
オハイオ大学の同教授(政治科学)は、尚も大戦勃発の可能性を示唆し、警鐘を発し喩えて曰く「我々は大地震の生じる地殻の上に住まいながら、全く備えを持たない状況だ」と。自著「戦争による死と隣り合わせにある私達 ~現代にも止む事なき戦争~」(Only The Death ~The Persistence of War in The Modern Age~ ケンブリッジ大学出版 2019年発刊)を以って、“戦争の時代が終わった”と見解するピンカー教授達への反論とした。
*5)イカロスの運命(the fate of Icarus):
イカロスは鳥の羽を加工して作った翼で、空を駆け巡ったが、忠告に背き太陽に接近し過ぎて、蝋細工が溶け、転落死したと云う著名なギリシャ神話。科学に対する過信を戒める意で屡々引用ある。
*6)技術開発優先順の操作(differential technological development):
技術開発の順番(sequence)を意図的に操作し、新興技術による危険制御を画す戦略。人口知能の危険に関し、2002年、スウェーデン人哲学者ニック・ボストロム(オックスフォード大学教授)が著書「超人口知能(Superintelligence)」で発案。更に2020年には、当論稿序盤に言及あった、トビー・オードの著書「断崖の危機」の中で、“危険技術開発自体の停止が困難な環境下には、防御技術開発加速に注力すべき”を推奨し訴えた。
*7)テクノロジーによるロシアンルーレット(technology roulette):
元米国海軍次官リチャード・ダンツィグ(Richard Dazing、現ジョンホプキンス大学上級研究員)は、2018年6月に発表した論稿「技術と国家安全 ~軍事技術優位性追求に於ける制御不能状態を管理する方法~」の中に、テクノロジー・ルーレットの問題を以下に述べる。元祖ロシアン・ルーレットでは、拳銃の6つの弾倉に一発の銃弾が込められているという危険状態を皆認知する。一方、テクノロジー・ルーレットの場合は、弾倉が何発式でしかも何発の弾が込められているのか、又、一体拳銃自体が何丁あるのかすら判別できぬまま、全員がゲームに参加し毎日引き金を引いている。更に、悪い事には、技術進歩を通じ、日々、銃と弾丸の数自体が増殖している為、ある日、多くの参加者達が、或いは全員が、突然斃れる時が訪れ得る、と。(同論稿原題:Technology & National Security ~managing loss of control as many militaries pursue technological superiority~)
*8)マクシミン原理(maximin principle):
最悪の場合を想定し、その際の利益を最大化する(最悪時に、最低の結果丈はその回避を狙う)“悲観的選択手法”。具体例で云えば、ある籤引きで、当たれば100万円獲得、外れれば500円返金と、当たれば50万円獲得、外れれば1000円返金の2種類の選択がある場合、マクシミン原理による戦略判断は、大きく儲けるアップサイドの機会を捨て、最悪の場合にも最低の結果を避ける判断から、後者を選ぶ。
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