【投稿論文】改革は民間企業任せでは成就しない~企業責任とその限界~原典 The Revolution Will Not Be Privatized ~Corporate Responsibility and Its Limits~(Foreign Affairs, 2022年January /February号 P119-127) 著者: ダイアン・コイル(Diane Coyle)、ケンブリッジ大学公共政治学教授

(論稿主旨)

 1970年9月、経済学者のミルトン・フリードマンは『企業の社会的責任は利益追求にある』と題する独創的な論評を発表した。フリードマンの論点は、企業経営者達は、株主の為に専ら収益拡大に専心するのが役目で、環境、社会、並びにより広範囲な経済に対し彼らの事業が齎(もたら)す諸影響に就いて注意を払う必要はないと云うものだ。

 フリードマンのこの感覚は、当時極めて広く影響力を振るった一方、損失も与えた。つまり、母国そのもの、地域社会、及び労働者を犠牲にして迄も、諸企業は短期的利益追求を、その後50年間に亘り優先して来たのだ。米国上位企業350社の役員報酬は1978年以降40年間で940%上昇したのに対し、一般就労者の賃金はその間12%しか上昇しなかった。会社役員達に報酬を弾めば弾む程、彼らが最高の業績を挙げるという考え方が、この社会変容を加速させたと云える。処(ところ)が、企業最高幹部等にこれ丈(だけ)劇的な金銭的動機付けを与えたにも拘わらず、米国経済全体で見れば1970年代中盤以降とそれ以前を比較し、然(さ)したる大きいプラス効果を生んだとはとても信じ難い。その一方、この報酬引き上げの行為、それ自体は驚くには当たらない。つまり、もし貪欲が美徳とされれば、其処(そこ)では貪欲こそが新常識となるのが当然の成り行きなのだ。換言すれば、嘗(かつ)ては社会に諸規範が存在した事により、資本主義市場制度は大多数の人々にとり有益に機能維持されていたのだが、これら諸規範が、フリードマンが提唱した世界観によって結局葬り去られてしまった点こそが問題なのだ。

 先に引用した論文発表から50周年を過ぎ、フリードマン主義は凋落の一途を辿ったと云えよう。新型コロナウィルス蔓延及びここ数年来の気候激甚化と云う、人的且つ経済上の大問題の最中(さなか)に在って、金融市場に於いても考え方に変化が生じている。例えば、2020年12月、エンジンNo.1(Engine No.1)と云う環境保護提唱者によるヘッジファンドがエクソンモービル社役員会議席の3つを獲得したのは、同社株主達が、この石油資本の巨人が炭素排出量削減に一向に動き出さない点に強い反感を抱いた結果に他ならない。こうした状況下、英国銀行と欧州中央銀行は、金融諸機関に対し、気候に関する諸リスクに基づく異なる展開シナリオに対して耐久度分析検査を実施するよう要請した。又、実業界に於いても独自に、企業目的の再評価を行う動きが出て来ている。世界経済フォーラム会長のクラウス・シュワブは2020年の時点に、これら動静を予見、フォーリン・アフェアーズ誌に寄稿し以下に述べた。即ち、諸企業は「社会的及び環境上の諸目標に合致する為の諸策」を積極的に講じなければならず、もしそれらを実現できない場合には、逆に「従業員、顧客、そして有権者達が外部からそれら企業を力ずくで変容させる事態を招く危険がある」と。

 企業が自ら社会に与える影響を如何に計測し報告するかは、当該業界にとり重大な利害を及ぼす問題である。今や、益々多くの企業が、環境、社会、及び経営規律(所謂ESG-Enviroment, Social, and Governance)報告書の自主基準を設定すべく群れを為している状況だ。金融安定理事会(Financial Stability Board)のタスクフォースが設定した、気候関連財務情報開示(Climate-Related Financial Disclosures)の指標もその一つだ。つまり、既に上場企業はこれを義務付けられているのと同様に、今や多くの企業が、財務上の収益報告に加え、例えば、炭素排出量、プラスチック使用量、及び取締役会に占める有色人種の数、等を計測し開示しようと注力しているのだ。これらの社会的諸責任の評価値はその企業に関し欠くべからざる重要情報の一部を為し、潜在的投資家達を惹き付けもすれば敬遠もさせる事になるのだ。その結果、ESGに関する助言をコンサルタント企業やシンクタンクが提供するサービスは、一つの産業として急成長しており、間もなく、規制当局者達によって、これら様々な評価基準は必要とされる一つの標準型へ具体化する作業に着手されるだろう。

 ESG報告書に対する機運の高まりにより、気候変動や従業員処遇と云った重要な諸問題に焦点が当たり、これら議論に諸企業が自ら従事する姿勢を見せている点は歓迎すべき事だ。但し、これらの差し迫った諸問題が、ESG基準或いはその他手段が何であれ、諸企業の手で解決出来ると考えるのは大きな誤りだ。企業は良心を備えると自ら称していても、多くの会社は世界を良くする事に純粋な興味はなく、ある者達はESG評価、或いは他の持続可能性評定を自社の評判を浄める為に利用するのだ。世界にとって最も厄介な諸問題を修正して行くには、これら諸事業体が彼ら自身の行動を劇的に変化させる事が求められる中、抑々(そもそも)変化が必要な組織に対し、彼らが自身の手で体系的な変革を行い得ると信頼を置く根拠は殆(ほとん)どない。

 其処(そこ)で、他の誰かに行動を委ねねばならない。即ち政府の力である。国家は、諸事業者が生産性向上による成果の分配と、社会進歩を確実に実現するよう、市場経済に対し新しい諸規則を課して行く役目を負う。政治家達は、市場経済が順調に営まれ、且つ環境持続性、低所得者層の賃上げと云った社会の主流な見解を反映する諸価値を植え付ける役割を期待される。新規制行動主義の概念の中には、独占禁止法を有効に適用する事、又、世界規模の企業収益に対しては国内利益を重視した法整備を行い適用する事、そして、経済的成果物配分の均衡に就いては、老齢で裕福な世代層から、若く貧しい諸世代へと傾斜を移していく事も含まれるのだ。更に、それらは、排出量制限、化石燃料内燃式エンジン搭載車輛販売の強制的禁止、或いは、特定資材の使用禁止等、気候変動に取り組む為の諸規制であるべきだ。

 以上述べたのは、各国政府がESG基準や報告書の機運を挫くべき事を意味するものではない。政府高官達は、製造業者達に対し、例えば、彼らが排出する汚染量を公開し、且つ削減目標を設定するよう要求するのが当然だ。しかし、今世界が求める変革に於いては、その速度と規模を満たす必要がある。従って、民間諸企業に委ねる限り、彼ら自身では決して踏み出す事のない諸行動に関し、各国政府は強制的にこれらを実行に移させるべきなのだ。より公正にして持続可能な世界を造る作業は、民間部門に委託する訳にはいかないものだ。

数字に人々が騙されている現状

 一見すれば、ESG報告書の義務付けによって、社会的責任を諸企業に課す事が出来るようには見える。もし、各社が、社会的及び環境に与える自らの影響を公開するよう義務付けられれば、持続可能な方法を選好する諸企業や人々は、それぞれの会社を等しい基準で比較し、その判断に従って製品を購入する事が可能になる。又、報道記者達は、諸企業がどの程度周辺の社会組織、更にはより広範な領域へ影響を及ぼすかに就いて精査する事が、従来に比べ容易になろう。そして、これらによって、企業幹部達をして会社の悪しき旧弊を正していくよう動機付けが可能になる点は間違いない。

  しかし、そうかと云って、現在求められているESG報告書を専ら頼みとする考えに対しては幾つもの疑問符が付く。先ず、第一に時間との闘いの観点だ。即ち、世界の諸問題は差し迫るものの、一方、将来、企業に対する規制や経営規律の枠組がどのようなものとなるかに関して、その決着を見るにはまだ程遠い状況だ。法整備は世論を追いかける形でしか為されない。学会に於いては、フリードマンが嘗て提唱した単純な企業目的に比し、より広範囲に亘る定義を唱える知的な主張が進行してはいるものの、多くの政治家達及び法律家達(企業幹部等は云うに及ばず)はそれら内容にまだ納得していない。従い、法制並びに法執行に於ける変革には相当の時間を要するだろう。

 ESG報告書の義務付けに関する第二の問題点は、より根本的なものだ。つまり、同報告が計測によって求めようとする諸々の評価範囲は、極めて広大且つ複雑であるにも拘わらず、それを測る基準は窮屈な定義に従い、極めて特定的にならざるを得ないと云う矛盾だ。経済、社会、そして環境が相互に影響し合う、複雑な諸現象を、それら意味合いの解釈を全て包含しつつ、これらを簡便に算出できる計測法により捕捉しようとする試み自体が、抑々(そもそも)極めて困難なのだ。と云う事は、つまり、国家が速やかにESGの諸要求を実施に移せたとしても、それらがどれ程役に立つものとなるかは疑問なのだ。大半のESG報告書がその拠所(よりどころ)とする、国連の定めた、持続可能性に関する目標自体が、これらが如何に難題であるかを物語る好事例と云える。即ち、その目標は17項目から構成される。それらは、飢餓撲滅、受容可能でクリーンなエネルギー生産、責任ある製造と消費の実現、と云った項目を含み、何れも重要な目標だ。これらは196項目の目標に細分化され、更に232個の指標により評価されるのだ。それらの諸工程は、大半の場合に追跡調査が可能であるにせよ(幾つかのものを例外として)、問題はそれらの監視を続ける点に於いては不完全であり、且つ多くの諸目標が互いに二律背反の関係に在る点だ。そして、この事はESGの諸目標に就いても当て嵌まる。例えば、環境上の理由から新しい製造方法を導入する結果、費用増加を被り、不採算となる企業に於いては、同社並びに更に其処(そこ)から以降の下流供給網に携わる従業員達が賃金上昇を期待するのは望み薄となる、と云った問題だ。

 達成を期する諸目的が、譬(たと)え二律背反的関係になくとも、余りに単純化された計測方法が有害な結果を齎(もたら)し得る点は、政治科学者のジェームス・スコットが彼の優れた著書『国家の体裁を取り乍らも機能しない社会の実例(Seeing like a State)』に説明する通りだ。我々の社会は自然環境の中に埋め込まれ、それは否応なく混乱に満ち無秩序である為、それにも拘わらず識別化と計測によって敢えて秩序を課そうとすれば、多くの荒削りな現実を削り落としたり、或いはそのまま飲み込んだりする必要に迫られる。スコットはこれらが裏目に出る多くの事例を挙げる。例えば、森林管理の目標を追求した独逸(ドイツ)の事例だ。同国は、標準種から成る森林を更に一層標準化して育てようと試みる。管理が容易で且つより多くの材木供給が得られると云う狭義の目標に沿うには、如何なる形態の森林運営が成功を収めるかを分析した結果、この仕組みを導入し、そのお陰で、当初森林の生産性は高く、多くの利益を生み出した。処が、同手法は長期的には生態系の多様性を損う結果になり、結局は育った木々の大半が枯渇してしまうと云う顛末を迎えたのだ。

  同様に、70年間の永きに亘り、経済活動を図る指標として慣れ親しみ使われて来た国内総生産(GDP)その物も、実は、事業や政治決定の重要な成果を国家が見落とすと云う弊害を生んでいたのだ。抑々(そもそも)、GDPは自然界の物体ではない。寧ろ、それは知的に創造された代物である。具体体を挙げれば、家事等の賃金を伴わない家計内労働、及び自然界の蜂による受粉行為や森林による気候低温化効果、これらは経済外の活動として計算対象外と定められているのだ。何故なら市場価格を持たないからだ。この結果、世界の政治家と学者は、高い成長と真の生活水準を実現する為に本来必要である筈の、重要な諸法律や諸制度を次第に見失ってしまったのだ。つまり、国家がこの単一指標にのみ依存すると、国民に繁栄を齎(もたら)す筈の国家能力を損なう結果になるのだ。

 結局の処、GDP統計に代表されるような、諸指標が共通し最も良く指し示すものとは、それらが何を測ると称されているかと云う事柄ではなく、統計値そのものは客観性を欠いていると云う事実なのだ。これら統計は、世界の諸事実をありのままに捕捉する事は出来ないのだ。例えば、既存統計データから学習するAIプログラムは、屡々(しばしば)社会的弱者の階層に対し差別的に機能するのだ。実例として、多くの病院が実際に導入しているAIアルゴリズムは、黒人患者は白人患者に比べ、治療処置の必要性が低いと云う予想を常に弾き出し、提示していた事が判明した(*訳者後注1)。如何なる統計も、それには社会秩序が反映される。つまり、統計は社会秩序の産物と云える。従い偏向的社会の場合には、統計値にもその偏向が複製されるのだ。しかし、物事を定量化すると、恰(あたか)もそれは客観的であるかの印象を与え、その実は、二律背反的関係や、行動を変容する為の重要な意思決定は、曖昧な状態に捨て置かれた儘であるにも拘わらず、評価結果丈(だけ)はそれらしい数値にして見せる事が出来るのだ。

 これらの懸念は、ESGの評価基準に対しそのまま当て嵌(は)まる。例えば、ある企業が児童労働禁止を宣言する場合、問題が生じる。つまり、一企業として、世界のどの境界線迄責任が負えるのかという点だ。同社が営む直接の供給網を限りとするのか、或いは彼らが委託する製造業者達が取り仕切る諸供給網までもその範囲とするのか。とある一企業として、その供給に携わる全ての関係者達の活動を監視する義務に於いては、一体何処迄(どこまで)その権限と責任を負うべきだろうか? 又、ある多国籍企業が失業を減少させる事を約束する場合、同社本社が所在する国の雇用増加に対しより責任を負うのか、或いは、寧ろ低所得の国々で雇用創出する事を通じ、より多くの人々の生活向上に貢献する責任を負うか、その何れだろうか? 現在の雇用と将来の雇用、又は現在の年金受給者と将来の年金受給者と云った、これら二律背反的問題に於ける正しい裁断とは一体何であろうか? 実はこの種の事案に対し、適用可能な統一的な倫理原則などは一つも存在しない。それにも拘わらず、最近ESG基準に関する専門情報が急激に溢れる環境下、恰もそれが可能であるかの様な印象を屡々(しばしば)与えている。気候関連財務開示に関する作業チームが推奨事項として、報告に際しては多くの個別の評価基準に対する回答を羅列するのではなく、寧ろ、決定に至った諸経緯、危険管理、そして透明性こそが重要である旨(むね)を提案したのは、正にこの点を懸念したに他ならない。 

 これらの一筋縄ではいかぬ諸難題を解決するに際し、一部の企業は誠意ある判断を試みるかも知れない。しかし、その他の企業はそうしないだろうし、更に大きな問題として明らかになるのが定義上の困難さだ。つまり、諸企業は、自分達の利益吐き出しを招く諸決断を回避しつつ、その一方で、さも責任を全うしているかの如く見えるよう、評価を操作するか、或いは意図的に特定の目標丈(だけ)を選別する事も可能だ。例を挙げれば、持続可能性を評価する際に「プラスチックの使用削減量」と云う一つの尺度のみで行えば、企業がより一層環境を破壊する素材を代替し選定する行為を止める事が出来ない。即ち、ある業界が、リサイクル可能なプラスチックの包装ゴミを止め、替わりに大量の段ボール包装へ移行すると、実は後者の方が製造工程に費やされるエネルギーが大きい。結局、その都市として排出する炭素量の増加を余儀なくされ、ある業界が単体で環境負荷を削減した処で詮方なき事に帰すのだ。

 似非(えせ)環境保護―所謂“グリーンワッシング”と呼ばれる、企業の評判を浄化する、この手の行為は、想像上の懸念に止まらず実在し、枚挙に暇ない。印度で最大且つ最も権勢を振るうエネルギー企業の一つであるアダニ財閥は、同社が責任を以ってESGの諸理念に従い、そしてカーボン・ニュートラルへ向け実行宣言を行った。処が、一方同社は、世界最大規模に匹敵する複数の石炭火力発電所計画を、主力国際諸銀行から資金融通を得て推進しているのだ。又、スターバックスコーヒーは、プラスチック使用削減を銘打ち、ストロー不要な蓋の導入を発表したが、実は、その新型蓋の方が、従来蓋とストローを合わせたより多量のプラスチックを使う事が、間もなく明るみに出た(同社は、新型蓋の方がリサイクルは容易と弁明している)。そして、何と云ってもその不誠実極まりない策略が知れた事例は、エクソンモービル社幹部が正体を秘した取材記者に語った処によれば、同社が炭素税導入に賛同の意を表した理由とは、同税法案はどうせ議会承認が得られない事を承知していた為、それが実害なく会社の評判を向上させる手っ取り早い手段と知っていたからだ、と云うものだ。

資本蓄積された巨大民間企業の持つ力

 諸企業に対しESG評価を求める行為は、そもそも根幹的には、それら私的活動組織に対し、社会に与える帰結を制定するよう効率的に要求する事である。彼らの活動の中心に社会的目標設定を要請する事は、取りも直さず、少人数の重役達に対し、政治、経済、そして社会上のそれぞれ重要な役割を付与する事を意味する。しかし、実際の処、集団全体にとって重要な決定に就いては、企業の指導者達の為す儘に委ねてはならない。

 この問題は、例えば、フェイスブックの持つ小世界を見れば明白だ。マーク・ザッカーバーグはフェイスブック社を個人的に取り仕切り、従ってそれ故に、文化、社会規範、そして政治的諸結末迄も形成する力を多くの国々に於いて保持しているのだ。この結果、各陣営で物議を醸している。彼の会社がドナルド・トランプ大統領を同社サイトから締め出した際には、多くの進歩主義者達は喝采を送ったものだが、彼らはそれでもザッカーバーグ本人及び彼の事業が右翼派の人脈にIT基盤を提供している事に対し嫌悪を抱いている。一方、保守派の人々は、もし同社が前大統領をネットワークに復帰させれば、幸福の極致と感ずる事だろうが、それでも尚、彼らの多くは、ザッカーバーグが、その真偽は兎も角、彼らの見解を差別していると云われる点で、彼を毛嫌いする、と云った具体だ。しかし、フェイスブックとその最高経営責任者に向けられる怒りは、実は、より大きなある問題を象徴している。即ち、一民間企業、或いは一個人がこれ程迄に強大な力は決して持つべきではないと云う事だ。

 この問題に対処する為、諸国家は、競争政策の強化を通じ、巨大企業の力を弱める事が可能だ。その為には、先ず手始めに、独占禁止法適用の基準となる、現行「消費者厚生基準(CWS:consumer welfare standard)」の極端に過ぎる形式(*訳者後注2)が廃止されるべき事を意味するだろう。現在の基準は、諸企業の取る所作が、最終消費者に対し製品価格上昇を招かない限り、事業拡大に歯止めが利かない仕組になっているのだ。この教義が、経済と政治との両方の世界で特定企業による市場集中を生み出した。そして、極めて巨大な企業は、市場に於ける支配的地位を固め、その力を用い、彼らがどのように規制されるかに就いて迄も、ロビー活動を展開するに至ったのだ。漸く、同基準に対し、一部の独占禁止法の専門家達や、連邦取引委員会(FTC)リナ・カーン委員長を含む政府高官達、並びにその他、所謂、新ブランダイス主義(*訳者後注3)を信奉する人達(neo-Brandeisian thinkers)から強い異議が唱えられ始めている。又、英国、欧州連合、及び他地域に於いても、より介入主義的な対処策が検討され、特定の大企業に対し、合併は計画段階で報告する事を義務付け、或いは大手IT基盤の供給者に対し、自社製品を競合他社より優遇する事を禁ずる事等が議論されている。

 しかし、これら独占禁止法の厳格な適用は、政府が民間企業に課すべき、新しい政策の一端に過ぎない。金融関連諸企業は、適切な投資指南を提供する処か、ある特定種のデリバティブ商品を顧客に売り付け、最終的に顧客から金を絞り取る事によって彼らを貧困に貶めているのだ。食品製造業や製薬会社は、肥満体形を誘発せしめ、オピオイド薬害を蔓延させて顧客の健康を害している。IT関連企業は、公共の議論の場を啓蒙する替わりに、寧ろ汚染している始末だ。この様に、環境的破壊の多寡を考慮に入れる以前に、今日在る資本家本位の仕組みと云うものが、社会に寄与していないのだ。諸国家は、現在の民間部門の運営方法を容認すべきではないし、してはならない。即ち、食品の諸基準及び、財務上より積極的に踏み込んだ顧客保護等、具体的に諸介入を図って自国民を守る必要があるだろう。

 問題は、実業界が矢のような多くの批判を浴びているにも拘わらず、大多数の人々は、尚も民間諸企業の方が政府に比べれば、所定の目標達成を効率的に成し遂げる力を持つと信じて疑わない事だ。最新のエデルマン信頼度年次調査報告によれば、世界中の回答者達は、政府や政治家達より、実業界に信を置いている。実際に2021年の調査では、殊(こと)、感染症が拡大し始め経済生活に於ける政府の存在感は急激に増したにも拘わらず、実業界が倫理的且つ有能と思える唯一の機構であるとの結果が出た(非政府機関は倫理的ではあるが能力がなく、メディアと政治家はその両方に劣るとの結果)。従って、各企業に於いては、今後共、自社の目標をよくよく熟慮し、そして彼らが社会に与える影響を監視して行く事が重要になるだろう。

 更に、一部企業が公共社会に参画する姿勢を示し始めているのは歓迎すべき傾向だ。例えば、米国の実業界に於いては、LGBTQの権利受容への機運を推進、職場での同差別を先駆けて禁止したのは、その後、政府が行動を起こし、漸く政治家達に反トランスジェンダー法撤回の圧力を掛け始めたのより遥か前の出来事だ。もし、この様に、企業による諸行動が、環境や社会的な解決困難な諸課題に対しても同様の効果を挙げるとしたら、活動家達はこれらの手助けを受け入れるべきだ。何故なら、各業界は、殊(こと)、法制定に圧力を掛ける点に於いては強力な提唱者となる力を持ち、又、各業界の手によって諸変化を齎(もたら)すよう、その主導的役割を要請する声が挙がるのは、その背景に彼らの利益一辺倒の偏狭な目的意識は社会に役立たなかったのだと云う認識(ここに人々が目覚めた点は歓迎されるべき)が反映されているからだ。

 しかし、その一方、フリードマンでさえも、企業が公共的諸問題解決の取り組みに過度に関与するのは危険を孕む点を理解していた。企業の社会的責任に対し、彼が反論した理由の一つは、それが反民主主義的であるからだった。企業に於いては、利益追求以外の目的に金銭を使うのは、株主(或いは顧客や従業員達)に対し税金を課するのと同義であり、徴税と財政支出は専ら政府の仕事で、決して企業の仕事ではないと云う主張だ。彼は著述で「そして、企業家こそが―自薦であれ、直接又は間接的に株主から指名されたものであれ―立法者にして執行者、且つ裁判官なのだ」と云う。更に豪語し曰く「誰に、どれだけ、何の目的の為に課税するかを決めるのは企業家であり、彼こそが事業の成果報酬を支出する権利を持つのだ」と。

 無論、フリードマンが、企業は利益以外を考慮する責務がないと議論したのは、道を踏み外している。企業とは、人々が如何に働き、彼らが何を購買し、どれ程健康でいるか、そして彼らがどの様な地域社会で生活するか、これらを形作る重要な社会的機関である。従い、会社役員達は、彼らが選択決定を為すに際しては、それが如何なるものであれ、道徳的観点からの考慮を怠るべきではない。然し乍ら、企業の社会的責任とESG報告書に関連し提起された幾つかの問題点は、軽率にも策略的な諸選択肢に直結し、企業に悪用される可能性を残し、その為、先に引用せるフリードマンが嘯(うそぶ)いた、その主旨は今も尚、死してはいないのだ。

 ESG報告書導入を巡るこれら一連の動きは、政治的指導手腕に於いて、ある真空地帯が生じている事を反映するものだ。ゼロ炭素排出社会に至る道程に於いて、民間諸事業者が自主的に利益を切り詰める行為を採るなどと、国家は期待してはならない。諸政府は、民間諸企業に対し強制的に、新しい技術分野や応用手段に対する投資を増額せしめ、且つこの移行期間中には、より高い環境コストを支払わせる事が必要だ。顧客や従業員達にとって健全な市場を回復させる為には、支配的な諸企業の収益を国家が減じせしめる事も必要となるだろう。企業目的や責任を能天気に語らった処で、痛みを伴う困難な諸選択肢から気を散じる慰み事にすらなるまい。企業幹部等が彼らの持ち分を果たすのは大いに結構だが、その一方、政府指導者達と有権者達に於いては、しっかり目を開き各々がそれぞれの持ち分を果たさぬ事には話にならない。望むと、望まざるとに拘わらず、我々は一艘の同じ船に乗っているのだから。 (了)

【訳者後注】

*1)AIプログラムによる差別:

米国の病院ではAIアルゴリズムによる医療診断(追加治療の助言・示唆)導入が進み、対象となる患者は7千万人に及ぶ。これら病院では、黒人患者は白人に比べ、同症状であるにも拘わらず、治療の優先を要しない患者と判定され、追加医療処置等を受ける機会を逸する傾向にあるとの問題が指摘された(糖尿病や肝臓疾患者)。AIが読み込み学習した患者のデータの偏り(抑々、黒人の医療費支出額と治療機会が少ない)を医療関係者が見落としていたのが原因。(2019年10月25日「サイエンス」誌発表のカリフォルニア大学の研究による)

*2)消費者厚生基準:

企業による市場独占を防止する施策理念は複数存するが、当該企業結合等の独禁法抵触審査に際し、結果として商品市場価格が上昇する事で消費者の厚生が損なわれる点を重視する、「消費者厚生基準」を判断基礎とする考え方が1970年代以降、米国法曹界及び当局の潮流となった。

*3)新ブランダイス主義者(ネオ・ブランダイジアン):

過去に類例なき巨大IT企業の市場支配力に対し、昨今、新たな視点で独占禁止を訴える人々。米国で、当時の石油資本や鉄道産業の独占禁止に尽力した、ルイス・ブランダイス(最高裁判事在任期間1916-39年)の功績に準(なぞら)え造作された名称。

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