著者:フランシス・フクヤマ(スタンフォード大学 上席研究員)、バラック・リッチマン(デューク法律大学教授)、アシシュ・ゴーエル(スタンフォード大学教授) 尚、この3人は、スタンフォード大学に於ける「民主主義とインターネット」に関する取組に於ける、「巨大な基盤企業」研究グループの所属員である。(3名の肩書詳細は一部翻訳省略)
米国経済に於いて嘗て生じた多くの変革の中で、巨大なインターネット基盤の成長に匹敵する程に重要なものはない。アマゾン、アップル、フェイスブック、グーグル、及びツイッター各社は、コロナウィルス感染拡大以前から既に強大であったが、今日我々の生活の多くが一層オンラインに移行する中、彼らはより力を強めている。彼らの技術が便利で重宝であればある程、斯かる独占企業の台頭に対する警鐘が打ち鳴らされるべきである。それは、彼らが経済的に巨大な権力を持つと云う面のみならず、政治的な通信・交流に於いても甚大な支配を振るう為である。これら巨大で強大な諸企業は、今や情報の拡散及び政治的動員の調整をも独占するのだ。そして、この事は、健全に機能すべき民主主義に対し、他に例を見ない脅威を提示している。
EUが、これら基盤諸企業に対し独占禁止法を適用する道を追求して来たのに対し、米国のこれ迄の対応は遥かに手ぬるい物と云えた。しかし、これは変化しつつある。過去2年間を通じ、連邦取引委員会と州司法長官らとの連立グループは、これら基盤諸企業に対し、その独占支配力の潜在的な乱用に関し調査開始し、去る10月にグーグルに対し独占禁止法に基づく訴訟を提起した。今や、巨体ハイテク企業を批判する人々は、一方では国内外の過激派によって操作がなされるのを恐れる民主党員と、そして他方では大手基盤企業には反保守的な偏向があると考える共和党員と、その双方が含まれるのだ。又、知的活動も広まりつつあり、影響力を持つ法学派の同人会により基盤企業の独占に対する独占禁止法の再解釈の研究が進んでいる。
大手技術革新企業が民主主義に与える脅威に就き、ある見解の一致が出現しつつあるものの、それにどう対応するかに関しては、まだ殆ど意見が纏まっていない状況だ。ある者は、政府によってフェイスブック社やグーグル社は会社分割されるべきと論じて来た。他の者達は、これら企業がデータを利用することを制限する為の、より厳しい規制導入を要求して来た。斯くして、多くの批判者達は、確たる明確な将来進路を持たぬ儘に基盤企業に対しては、自己を律するよう圧力を掛け、危険な内容の情報を削除し、そして各社サイト上で運営する情報選別をより適切に管理するよう奨励する、と云った事が習いとなっているのだ。ところが、基盤企業によって齎(もたら)される政治的害易の方が、経済的害易よりも深刻である事を知る者は少数だ。そして、この問題に関しこの先にどんな現実的な道があるか考慮している者となると一層少数だ。実はその道とは、基盤企業から情報内容の門番の役割を奪い去るという案だ。この方法に拠れば、競争的な「中間媒体」企業と云う新しい一群を招聘することで、情報がどのように提示されるかを顧客自身が選択する事が可能になる。そして、それはこれら企業を分割するという非現実的な尽力を為すより、もっと有効だと思われる。
インターネット基盤が持つ力
現代米国独占禁止法の起源は自由主義を信奉する経済学者と法曹界が台頭した1970年代に遡る。1970年代に訴務長官を務めたロバート・ボークは、消費者の福祉を極大化させることを唯一無二の目的とする議論を繰り広げ、巨大に聳え立つ学派として名を馳せた。彼曰く、何社かの企業が著しく成長出来たのは、彼らが競争相手より効率的であった証であり、これら企業を分割するが如き如何なる試みも、それは単に彼らの成功に対し制裁を以って報いるに過ぎぬ、と。同学派の陣営は、経済規制に対し懐疑的見解を持ち、二名のノーベル賞受賞者、ミルトン・フリードマン及びジョージ・スティグラーに率いられた、シカゴ学派と云われる経済学者達によって動員された「経済放任主義」によって特徴付けられる。即ち、シカゴ学派は、もし経済上の福祉を極大化する為に独占禁止法が構成されるとするならば、その適用は大いに抑制されるべきと論じた。結果的には、どの基準に照らしても同学会の思想は驚くべき成功を収め、何世代にも亘り裁判官達や弁護士達に影響を与え続け、最高裁判所をも占有するに至ったのだ。レーガン大統領政権下の司法省に於いては、これを推奨しシカゴ学派の多くの教義は成文化されるに至り、以来、米国独占禁止法は嘗てない程の手ぬるい取締まり形態に、その大半が落ち着く羽目となった。
そして数十年に亘るシカゴ学派による占有が終わると、経済学者達は、同学派の手法が齎(もたら)した効果に関し、検証を行うに実に豊富なる機会を得たのだった。即ち、彼らが目の当たりにしたのは、米国経済が全般的に、継続的な集中を促すように成長し―それらの代表格が航空会社、製薬会社、病院、報道企業、そして云うに及ばずハイテク企業群だが-そして、その結果割を喰ったのが消費者だったのだ。トーマス・フィリポンは、欧州に比較し米国物価が高いのは独占禁止法施行が不十分であるのが原因だと両者を明白に関連付けた。
今や勢力を得た「シカゴ後学派」は独占禁止法がより強力に適用されるべきと論じる。野放しの市場は、非競争的な独占諸企業の台頭とその固守を止めることができないと彼らは信じ、独占禁止法の執行が必要だと説く。又、シカゴ学派の独占禁止に対する複数の欠点は、独禁法に於ける所謂「新ブランダイジアン派」を登場させる事となった。同学派は、米国初期の反独占連邦制定法であるシャーマン法は、経済上の価値のみならず、発言の自由や経済的平等等の政治的価値をも守ることを意味するのだと論じる一派である。デジタル諸基盤は経済的な力を振うのみならず、更に通信手段の急所を支配する観点から、同学派陣営にとり、これら企業が批判の的となるのは当然の成り行きであった。
デジタル市場なるものは、確かに通常の市場とは異なる、ある特徴を持つ点が否めない。例えば、その世界に於いて、通貨に相当するものは情報である。アマゾンやグーグルと云った会社が、一度(ひとたび)何億と云う顧客情報を蓄積すれば、その企業は、全く新たな、様々な市場へと移行可能のみならず、一方では斯かる知識蓄積を持たない既存企業を撃破することが出来るのだ。更にもう一つ、これら諸企業は、所謂「情報網効果」と呼ばれるものによって多大な恩恵を得る。即ち、情報網が大きくなればなる程、これらを駆使する側により多くの便宜を齎(もたら)すと云う、所謂、情報帰還の循環が積極的に働くようになり、これによって、たったの1社が市場を独占するに至るのだ。又、伝統的諸企業と異なる点として、デジタル空間に活動する企業は、市場占有率を競わない。そうではなく、彼らは市場そのものを争うのだ。つまり、初期参入者こそが、自分達を恰も塹壕構築する如くに堅守し、他社による競合促進を不可能にすることが出来る。又、彼らは潜在的な競合者を丸吞みするのも可能で、例えば、フェイスブックがインスタグラム社やホワッツアップ社を買収したのは記憶に新しい。
斯様な状況にも拘わらず、巨大ハイテク企業が消費者の福祉を損なっているか否かの問いに関し、結論が未だ出ていない。即ち、ハイテク諸企業は、検索エンジン、Eメール、ソーシャルネットワークサービス等の豊かなる資産を提供し、そして消費者側はこれら諸商品の価値を大変高く評価するので、彼らは私生活情報を犠牲にし、広告業者から自分達が付け狙われることすら容認している、との見方がある。それに止まらず、これら基盤諸企業が犯したとされる乱用の数々に関し、それでもその大半は同時に経済上の効率性の観点から擁護することも可能なのだ。例えば、アマゾンは零細経営の商店を閉鎖せしめ目抜き通りを空っぽにしたのみならず、大規模小売店へも打撃を与えた。しかし、その一方、この会社は、多くの消費者がとても価値あると見做すサービス提供を為すのも事実だ。(例えば、伝染病蔓延下に於いて、依然として対面式の店に消費者が依存し続けなければならないと仮定したら、それはとても耐えられまい。)又、競争の芽を摘まんが為、基盤企業が新興企業買収を行うとの説に関し、その当否の判断は難しい所だ。と云うのは、その誕生間もない会社が、もし独立したままだったら果たして、次なるアップルやグーグルに成り得たのか、或いは、買収を意図した企業の資本と経営知識の注入が結局は実現しない結果、その会社は事業に失敗し潰れてしまったのか、それらのシナリオ予測は大変困難を極める。又、インスタグラム社が、仮にもし独立したまま存在し、フェイスブックに対し代替可能な選択肢となれば、恐らく消費者にとり、それはより好ましい環境であったかも知れないものの、万一、同社自体が結局は破綻の憂き目に逢ったならば、消費者にとり環境はより悪化するだろう。
このように、巨大ハイテク企業を御すことは、経済上の事例に関して云うと、極めて複雑な様相を呈するのだ。しかし一方、政治上に関して云えば、問題は極めて説得力を持つ。つまり、インターネット基盤企業は、彼らが惹き起こす経済上の問題よりも、遥かに警戒を要する、政治的な被害を齎(もたら)すという点だ。本当の危機とは、市場が歪められることではなく、彼らによって民主主義が脅かされる事なのだ。
情報独占企業
2016年以来、米国は、情報を形作る上でハイテク企業の強大なる力に目を覚まさせられた。これら基盤諸企業は、でっち上げ屋達が偽報道を広め、過激派達が陰謀諸説を繰り広げるのを許容してしまう。これにより、所謂「濾過の泡」(filter bubbles:ユーザーが恰も泡に覆われる如く自分の見たい情報のみに埋没する)現象が惹き起こされ、斯くして顧客は、アルゴリズムの操作する所に拠り、彼らの既存信念を追確認出来る情報のみに晒される環境に置かれる。そして、基盤諸企業は、特定の意見を増幅したり、或いは埋没させたりすることが出来るので、そうして民主的な政治討論に対し妨害的な影響力を持つ事になる。これら基盤企業が、意図的であろうと、知らず知らずの内であろうと、選挙結果を揺るがす程に強大な力を蓄積してしまったという事こそ、究極的に恐れるべき事態なのだ。
このような懸念に直面し、批評家達は、基盤諸企業に対して彼らが報じる内容にはより大きな責任を持つべきであると要求し反応して来た。即ち、彼らはツイッター社に対し、トランプ大統領の誤解を生じるツイートに就いて圧力を掛けるか、或いは事実確認を行うように求めた。又、一方、彼らはフェイスブックに対し、その政治的内容が中道的でないと意見し酷評したのだった。斯様に、多くの人々はインターネット基盤企業が、報道諸機関が行うと同様に、政治的内容を選別し且つ政府高官達の透明性を維持してくれるものと考え勝ちであったのだ。
しかし乍ら、巨大基盤企業に対し、彼らが公共の利益を念頭に置き行動するであろうとの期待に基づき、前述した機能を履行させるべく圧力を掛けると云う策は、長期的な解決とならない。この方法は、彼らが根底に持つ隠された力という本質的問題を棚上げにするものに他ならず、真の解決策とは、この力その物を制限する事でなければならぬ。又、今日、インターネット基盤企業には政治的偏向ありと苦情を述べるのは、主として保守層だ。彼らは、今日基盤企業を運営する人々、即ちアマゾンのジェフ・ベゾス、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、グーグルのサンダー・ピチャイ、そしてツイッターのジャック・ドーシーと云った面々が、例え、本質的には商業的な自己利益に突き動かされているにせよ、社会的には進歩主義の傾向があるのだと、ある程度の証拠を以って考えている。
しかし、斯かる想定が長期的に維持されるとは限らない。考えてみて欲しいのは、これら巨大企業の一つが、ある保守派の億万長者によって買収される場合だ。ルパート・マードックによるフォックスニュース並びにウオールストリート紙の支配は、既に彼の手に広範に及ぶ政治的な影響力を齎(もたら)している。しかし、この場合、少なくとも、彼による支配力が影響を及ぼしていることは誰の目にも明らかに映るものだ。即ち、ウオールストリート紙の社説を読んだりフォックスニュースを視聴すれば、それを知る事ができる。しかし、もしマードックがフェイスブックやグーグルを支配するとした場合、顧客が何を視聴し何を読むかの順位付けや検索のアルゴリズムを、彼が微妙に変化させることにより、顧客に気づかれず、或いは同意ないままに、彼らの政治的見解へ潜在的影響力を与えることが出来るのだ。そしてこの場合、基盤企業の独占的地位は、彼らの影響力からは殆ど逃れることが出来ない力を発揮する。もし、あなたが進歩主義者なら、フォックスの代わりに単純にMSNBCを選んで視聴する事が出来る。ところがマードックの支配下にあるフェイスブックでは、報道記事の共有や、政治的活動を友人達と調整しようとしても、そう簡単には行かなくなるだろう。
これら基盤企業に就いて考えてみてほしい。特にアマゾン、フェイスブック、そしてグーグル、これらは、嘗ての独占企業は決して得ることがなかった個人生活に係る情報を保有しているのだ。個々人に関し、その友人や家族が誰であるか、所得額や資産に就いて、更に最も私的な部類に属する彼らの生活の詳細な情報を彼らは全て知っている。もし、ある基盤企業の会社役員が悪意を以って、世間を騒がせるような情報を利用し政府高官に便宜提供を要求しようとしたらどうなるだろうか? 或いは、別の事例として、政府権力との関係に於いて個人情報が悪用される可能性はどうだろう。例えば、フェイスブックが政治色を帯びた司法省と結託するような場合だ。
このように、デジタル基盤企業の集中が進んだ経済に政治権力が結び付けば、それは恰も、目の前のテーブルに実弾を込めた拳銃が横たわっているに等しい。いつ何時、テーブルを挟み対峙する者が、それを手に取り、こちらに向け引き金を引くかも知れないのだ。そこで米国民主主義にとり問題となるのは、悪意を持つ何者かがやって来て、それを手にする可能性があるような場所に、そのまま拳銃を放置して置くことが安全か否かという点だ。如何なる自由民主主義であれ、集中した政治的権力を、人々の善意に期待し、個々人の自由に委ねて良しとするのは出来ぬ相談だ。それが故に、米国は権力に対しては、常に確認と均衡を課して来たのではなかったか。
独占を取り締まる方法
既述した独占力を取り締まる為に、最も分かりやすい方法は政府による規制だ。これは欧州で行われている手法で、例えば独逸では偽情報の伝播を犯罪とする法律が成立しつつある。社会的な合意がかなり強い度合いで存在する幾つかの民主国家に於いては、これは可能かも知れないが、米国のように分極化している国に於いて機能するとは考え難い。嘗て、米国のテレビ放送全盛期、連邦通信委員会の定めた公正原則とは、各局に対し、政治問題は“均整の取れた”報道を維持するよう求める事だった。共和党員はこの原則に関し、各報道局が保守派に対し偏向のある反対報道を行っているとして攻撃を続けた結果、同委員会は1987年に同原則を撤回した経緯がある。事程左様に、今日、大統領のツイートを閉鎖すべきか堂か判断検討を行う公的な規制者を想像して貰いたい。どちらの判断を下すにせよ、大きな論争が巻き起こるのは避けられない。
インターネット基盤の独占力を抑える別の解決法は、同業者間の競争を奨励することだ。もしも、複数の基盤が存在すれば、今日フェイスブックやグーグルが享受する独占は維持出来ない。しかし、問題は、米国であれ欧州であれ、スタンダードオイルやAT&Tを嘗て企業分割したようには、フェイスブックやグーグルを分割するのは殆ど困難であるという事だ。今日のハイテク諸企業は、斯様な試みには激しく抵抗し、仮に彼らが結果的には敗れるにしても、それは数十年とは云わぬ迄も、その完了には優に数年間を要するであろう。更には、恐らく、より重要な点は、例えばフェイスブックを分割したとしても根本的な問題解決にはならない事だ。同社を分割したとしても、恐らくあり得るのは、分割によって新たなフェイスブックの子供版が生まれ、それは急速に成長し嘗ての親に取って代わるという事だ。AT&Tの場合ですら、1980年の分割後に再び支配的な力を回復した。ソーシャルメディアが持つ急速な成長能力に鑑みれば、類似の事態は一層速く進む事だろう。
多くの観察者は、分割の見込みが暗いと知ると、今度は、基盤市場に競争を齎(もたら)す為に、“データ移動”方式に鞍替えしている。つまり、顧客が通信契約を変更する場合、政府が電話会社に対して個人がそのまま電話番号を持って移動する事を容認させるのと同様に、個人がそれまで提供した一切のデータを、あちらからこちらへとそっくり移動できる権利を確保し履行させる事は可能だろう。欧州に於いては、一般情報保護法(GDPR)という強力なEU個人情報保護法が2018年に発効したのが、正に同様の趣旨に基づくもので、個人情報が移転出来るよう、標準化され、機械読み取り可能な様式が必須である事が取り決められている。
ところが、このデータ移転には多くの障害がある。その中でも、特に大きな課題は、多種多彩に亘るデータを移転することの難しさだ。個人の名前、住所、クレジットカード番号、Eメールアドレス等の基本情報の移動は問題ないものの、顧客の所謂“メタデータ”と呼ばれる全ての情報を移すことは極めて困難なのだ。メタデータには、嗜好、アクセス、注文、及び検索履歴等々様々なものが含まれる。正にこれらのデータこそが、狙いを定めた宣伝アプローチに必要となる情報なのだ。それのみに止まらず、これら情報の所有権が明確でない点も問題だ。又、これらの情報自体が、様々な異種のもので、基盤によって固有の性質を持つことも厄介だ。例えば、グーグルの検索者が、新しくフェイスブックのような基盤に移動した場合、果たしてどれだけこれ迄の履歴を持って行く事が出来るだろうか。
基盤支配力を弱める為の別の手段は、個人情報保護法に頼る道がある。この手法は、規制によってハイテク企業が、ある分野で発せられた一つの顧客情報を、他の分野に於いて同社が優位になるように利用する度合いを制限し、個人情報と公正な競争との双方を保護するものだ。例えば、先述のGDPRは、その利用者が明確な許諾を与えない限り、消費者情報は本来の目的で入手されたものだけに利用が許されると云った具合だ。これらの規制は、基盤が持つ力の中で最も強力な根源の一つに焦点を当て設計されている。即ち、基盤がより多くの情報を収集すればする程、その基盤はより多くの収益と一層の情報集積を得ることができるという鉄則だ。
一方、巨大基盤を有する企業が新規市場に参入するのを個人情報保護法に頼り喰い止めようとすると、今度はそれ自体に問題を生じる。データの移転で問題が生じたのと同様、GDPRが対象とする情報と云うのは、その基盤に消費者が自発的に提供したものに限定するのか、或いはメタデータをも対象とするのかが明確でない。更に、例え、これが上手く機能したとしても、個人情報保護促進では、各個人にとり情報が自分向けに変化していくことが減ぜられるのが精々で、肝心の基盤企業による編集力の独占的集中を減じる事には繋がらない。更に、広く云えば、このような規制は、恰も馬が納屋を飛び出し長らくしてから扉の鍵を閉める対応の如く、遅きに失しているのだ。巨大ハイテク産業は既に多くの顧客データを蓄積した。司法省の新しい法廷事案に既に示される通り、グーグルは異なる様々な自社商品-即ち、Gメール、グーグルクローム、グーグルマップ、及びグーグル検索エンジン等-が齎(もたら)すデータ集積に依存した商売形態で、これら情報を統合することにより各個人に関し先例のない巨大情報を詳らかに現わす事が出来るのだ。フェイスブックに至っては、一説によれば、顧客達が他のサイトに接続した際にも何らかの情報を取得することで、大量の情報収集をしていると云われる。そこで、もし、個人情報保護法が新規参入者に対し、斯かる同様の情報一式を収集し使用することを禁ずれば、それでは彼らにとっては、先駆者達のみが有利となる環境に身を置くリスクが生じるのだ。
中間媒体業者導入による解決提案
もしも、会社分割、データ移動、及び個人情報保護法が全て機能しない場合、基盤独占力に対抗する如何なる手段が残されているだろうか。最も有望な解決策の一つが、実はまだ殆ど着目されていない。即ち、中間媒体である。中間媒体とは、一般的に、既存する基盤の上に乗るソフトウェアと定義され、基盤内のデータの提示を修正する機能を持つ。即ち、現在の大手ハイテク企業の基盤サービスに加え、中間媒体は、顧客が彼らにとり情報がどのように選別され濾過されるか選択することを可能とする。顧客は政治的記述の重要度や信憑性の判断を実行する中間媒体サービスを選び、そうして選ばれた媒体が基盤サービスから顧客がどの情報を閲覧するかを選別するのだ。言い換えれば、現在は独占的でそのアルゴリズムが不透明なハイテク企業の基盤が担っている、編集取捨選択を司る入り口での機能を、明確なアルゴリズムを備えた新会社群の競争的な階層が取って代わる仕組みだ。
中間媒体の商品は様々な手法によって提供が可能だ。特に有効な手段となるのがアップルやツイッターと云った技術基盤を経由し顧客が中間媒体にアクセスするものだ。顧客が目にする、報道記事一覧或いは政界著名人達によるツイートの例を取ろう。この場合、アップルやツイッターの背後で、中間媒体サービスが「誤解を招く」、「立証されていない」、「背景不足」といったラベルを張り付けることができる。顧客がアップルやツイッターに接続した場合、彼らは報道記事やツイートにこれらの注意表示を見ることが出来るのだ。更に、より干渉主義的な中間媒体の場合には、特定の提供物に関する閲覧順位に対し影響を振るうことが出来る。即ち、アマゾンの製品リスト、フェイスブックの広告、グーグル検索結果、或いはユーチューブビデオの推奨動画等が対象だ。具体的には、顧客はアマゾンの検索結果に関し、中間媒体を用いて様々な優先付け、例えば、国内での製造品限定、自然環境負荷の少ない順、価格の安い順、等を行える。更に中間媒体を使い、顧客に対し、特定内容の視聴回避や、指定した情報源又は生産業者を遮断することも出来るのだ。
ここに於いては、顧客は十分な情報に基づいて選択決定を出来る点が重要であり、この為中間媒体を提供する各社に対し、その提供物と技術内容に関して透明性が求められる。そこで、中間媒体者には、次の二種が含まれるだろう。即ち、情報に対しその品質向上を追求する諸団体と、地元地域の価値を高めることを目的とする非営利団体とである。例えば、報道人養成学校の一つが、より質の高い報道を追求し証拠の裏付けなき情報を抑制するような中間媒体を提供出来るかも知れないし、地域問題を取り上げるには、ある群立学校の教育委員会が中間媒体を提供する場合もあるだろう。このように、顧客と基盤との間の関係を適切に導く事により、中間媒体は顧客の個人的選好に沿うよう寄与すると共に、独占基盤企業による一方的なる所行に対し顕著な牽制を与える事が出来るのだ。
詳細に就いてはまだ多くの詰めるべき点がある。先ず、これら中間媒体新企業に対し、如何程の選別権限が委譲されるべきかという点だ。極端な例では、中間媒体企業が、基盤企業が顧客に提供する諸情報に就いて完全なる編集権限を有する場合で、ここでは基盤企業は単なる中立的な情報の繋ぎ役に過ぎなくなる。即ち、この仮定では、中間媒体会社のみが、アマゾンやグーグル検索の情報に関し、その中身や優先順位を決定する為、基盤企業は単に顧客に対し自社サーバーへの接続を提供するだけの役割となるのだ。これと正反対の極論は、基盤企業各社が従来通り、無制限に自社アルゴリズムを駆使して情報内容の選別や優先付けを継続する中、中間媒体各社は単に追加的な濾過機能の役に甘んじるというものだ。この場合、例えば、フェイスブックやツイッターの介在度は今と殆ど変化がない事となろう。つまり、中間媒体企業が為すのは単なる事実確認かラベル表示に止まり、内容の重要性有無識別や洗練された諸推薦を行う事は出来ない。
最善策は、恐らく先述二案の何処か中間点に存在する。中間媒体企業へ過大な権限を与えれば、ハイテク基盤企業は顧客に対し彼らとの直接的な繋がりを失う事となる。もし、こうして彼らの商売形態が破壊されれば、今度はハイテク企業が反撃を企てるだろう。一方、中間媒体企業への支配力移譲が余りに少ないと、基盤企業の情報選別や拡散を牽制することが出来ない。しかし、重要なことは、如何なる地点に線引きが為されようとも、政府による一定の介入が必ず不可欠だと云う点だ。議会は、適応プログラム接続口(所謂APIS=application programming interfaces)が開かれたものであり、且つ統一性を持つ事を要求し、中間媒体企業が異なるハイテク基盤企業間を切れ目なく活動できるよう後押しをする法案を通過させる必要があろう。又、議会は中間媒体を提供する諸企業自体に対しても、信頼度、透明性及び統一性に関し最低限の基準が満されるよう、注意深く規制を行う必要がある。
二つ目の問題は、新会社が登場できるように、競争的な企業層に刺激を与えるような商売形態を見出すことに関連する。最も理論的な方法は、独占支配的なハイテク基盤企業と中間媒体提供を行う第三者との間で収益配分の契約を交わす事だ。ある人がグーグル検索をしたり、フェイスブックのページを訪れた場合、これに係る広告収入が基盤企業と中間媒体提供企業との間で分配される仕組みだ。これには、やはり政府の監督が必要となる。というのは、支配的基盤企業は情報内容を濾過する作業負荷こそはその手分けを望むにせよ、広告収入の分配には当然抵抗を示すと予想されるからだ。
更に、中間媒体の商品としての多様化を促進すべく、何かしら技術に関しての枠組みに就き、今後詳細な詰めが必要となろう。この技術的枠組みは、出来るだけ多くの中間媒体企業が参入可能なように、極力単純であると同時に、大手基盤企業が持つ独自の特別設計にも適応可能な程に洗練されている必要がある。加えて、それらは中間媒体をして異なる次の三つの分野の内容に接続することを可能ならしめねばならぬ。これらの分野とは、広く利用可能な公共的情報(例えば、報道記事、新聞発表、及び公的機関からのツイート等)、顧客側から発せられる情報(例えば、ユーチューブの動画や私的個人からのツイート等)、そして私的情報(ホワッツアップの個人メッセージやフェイスブックの個人ポスト等)である。
懐疑的な人々は、中間媒体導入の方策は、インターネットを脆弱化し、そして今度は中間媒体業者による濾過泡が発生し顧客を包んでしまう危惧を議論するかも知れない。大学側は学生に対し、信頼に足る情報源を選好する中間媒体商品を使うよう推奨する一方で、陰謀諸説を拡散したい諸団体は、それと反対の行動を取るだろう。顧客要望に沿うべく働くアルゴリズムは、人々が、自分の考えが共鳴出来、既に信じるところを確認できるようなネットの声を一層見出すように嗾(けしか)けて、米国の社会の分裂化を加速させ、政治家達は一層不安を募らせることになるかも知れない。
恐らくは、これら諸問題の内幾つかは、中間媒体に最低限備えるべき条件規制を施すことにより解決されよう。しかし、重要なのは、上述したような分裂化は既に発生しており、将来、技術を以ってこれを防止することは最早不可能だという点である。極右による精巧な陰謀説の投稿「Qアノン」(QAnon)が、世界規模の小児性愛者達の秘密結社の存在を事実であるかのように推断したのに対し、同サイトのフォロワー達が辿った行動を思い起こして頂きたい。これらの投稿内容がフェイスブックやツイッターによって制限されると、そのフォロワー達は大手基盤企業を見放し、今度はより制限の緩い伝言版基盤の「4chan」へと移動したのだ。そして、4chanの管理組織が、不適切な書き込みの制限に乗り出すと、そのフォロワー達は更に、別の基盤「8chan」(今や8kunと呼ばれる)へ移って行った。又、そもそも、これら陰謀諸説は、通常のEメールや暗号化された諸チャネル(Signal、Telegram、WhatsApp等)を通じて通信が可能だ。このような言論は、確かに問題を含むものではあるが、憲法修正第一条によりその自由は擁護されているのだ。
又、過激派集団が民主主義に与える脅威とは、彼らがインターネットの外縁を去り、寧ろその本流に乗り出してきた時にこそ深刻になる。斯様な脅威は、彼らの意見が報道で取り上げられるか、或いは、あるデジタル基盤を通じ増幅された場合に生じる。8chanとは異なり、支配的基盤は広範に及ぶ人口に影響力を持ち、しかも人々がそれと知る事のない内に、或いは人々の意思に反してでもその影響は及ぶのだ。もっと広く云えば、百歩譲り、例え中間媒体が社会分裂化を促進するにしても、その危険度合は、独占集中化された基盤企業の権力によって提示されるものに比較すれば、軽度に済むのである。つまり、長期的に見て民主主義に対する最大の脅威とは、意見の分裂そのこと自体でなく、巨大ハイテク諸企業によって行使される不透明な権力その物なのである。
統制力を回復する
我々は、インターネット基盤の独占企業の著しい成長と強大な力に対し警鐘を発するべきであり、政府がその対策として独占禁止法を拠り所とするのは理解できる。しかし、同法は私企業による経済的且つ政治的支配力の集中に関する問題に対抗する諸策の内の、一つの策に過ぎない。
巨大ハイテク基盤企業に対し、現在、米国並びに欧州政府は独占禁止法による摘発に着手しているものの、これらの結審を見る迄には今後数年間の法廷闘争を要しよう。そうであれば、民主主義に対する重大な脅威に対し、これは必ずしも最善の策とは云えぬのではないか。憲法修正第一条は、規制によらず競争によって公共の場の言論が守られる事を理想としたのだ。しかし、巨大基盤諸企業が、政治的見解をも増幅し、抑圧し、狙い撃ちできるような世界に於いては、この公共の場が崩壊しつつあるのだ。
中間媒体こそがこの問題に当たることが出来る。何故なら、この方法ならば、巨大ハイテク基盤企業から権限を取り去り、政府内の一介の監督部署にその力を委ねるのではなく、新しく生まれる、競争力ある企業群に対しその力を与え、彼らによって顧客ネット情報環境整備が可能になるからだ。既述の通り、これによっても尚、ヘイトスピーチや陰謀諸説が世の中に巡回する事自体を防ぐのは出来ぬにせよ、それらを憲法修正第一条が定める所に沿った枠内に収めることが出来るのだ。今日、大手基盤企業が提供する情報内容は人口知能のプログラミングから発せられる不透明なアルゴリズムによって決定されている。中間媒体の存在によって、基盤を利用する顧客達は支配力を回復できる。即ち、顧客達自身が、目に見えない人口知能プログラムではなく、自ら何を見るかを決めることが出来るのだ。
(了)
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