2008年金融危機直後、世界各国政府は3兆ドルを上回る資金を金融システムに注入した。金融市場を再度活性化させ、世界経済が再び回り出すようにする為だ。ところが、これらの支援は、実際に物やサービスを生み出す実態経済ではなく、その大半が金融分野に費やされてしまった。各国政府は、本来危機を招来した張本人であるところの大手投資銀行を救済し、そして経済が復活した暁に、その回復の果実を手にした者達は又、これらの同じ大手銀行だったのだ。一方、納税者達の立場はと云うと、以前と変わらぬ、破綻し、不平等で、そして炭素エネルギーに依存したグローバル化経済の最中に、只、取り残される事となった。「危機は、反面、改善の元となる好機として活用せよ」(“Never let a good crisis go to waste”)との(ウィンストン・チャーチルが嘗て遺した)金言は、ここに額面通り「危機は儲ける良い機会だ、しゃぶり尽くせ」との衆俗的政策立案の処世訓と化したのだった。情けない話だが、これが実際に起きた事なのだ。
扨(さ)て、現在、各国がコロナウィルス感染拡大と、これに伴う都市封鎖によって動揺する中、諸政府は同じ過ちを犯してはなるまい。ウィルスが初めて表面化してから数ヵ月の後、政府は、経済と健康の双方同時危機に対処すべく踏み出した。即ち、雇用維持すべく景気刺激諸策の発動、病疫拡大を抑えるべく政令等の発布、そして、治療と免疫薬の研究開発分野への投資等である。無論、これら救済措置は必要なものである。しかし、市場破綻や危機到来時に於ける政府の役割は、最後の砦たる資金の出し手として単純に介入を行う丈では不十分だ。政府は、万人に利する成果を長期的に齎(もたら)す市場を、積極的に形成して行く事が求められる。
去る2008年、世界は本来あるべき施策を上述の通り失したが、今、再びその機会が運命により到来したと考えたい。世界諸国は現状の危機から徐々に脱して行くに連れ、経済成長を加速させる以外の施策も講じることが可能となろう。つまり、政府は、経済がより望ましい方向へ構築されるよう、その成長方向の舵取りをも行うべきなのだ。即ち、無条件に縛りのない支援を諸企業に手渡すのではなく、政府が企業救済を実施する際には、公共の利益が保護され、又、社会問題解決に資する諸策を、その見返りとして条件付ける事が出来る。例えば、コロナウィルスのワクチン開発に関しては、製薬会社が公的支援を受ける為の条件として、製品化の暁には万人に広く届ける事を要求出来よう。又、炭素排出削減に取り組まない企業、或いは、国外無税地帯への利益隠しを改めようとしない企業に対しては、政府は救済を拒絶する事が出来よう。
政府は、これ迄、危険は公共の負担とする一方、成果は専(もっぱ)ら民間へ還元する事を、余りにも長きに亘り続けた来た。即ち、しくじりを尻ぬぐいする費用が公的負担で賄われる一方、その処理の結果生じた便益は、大部分が当該企業や同企業の投資家へ蓄積されて来た。困った時には、多くの企業が政府による助けを素早く要求するものの、景気が順調な時は、彼らは政府が関与しないよう求めるのだ。コロナウィルス感染拡大危機は、上述の不釣り合いを修正する好機を我々に提供していると考えられる。つまり、新しく交渉取引型の方式を導入することで、公的救済を受けた諸企業が、より公共の利益に沿って活動し、且つ、従来伝統的に民間企業分野にのみ振り込まれて来た利益を、納税者達へも分配するよう義務付けを行う良い機会なのだ。ところが、もし政府が其処(そこ)迄踏み込む事なく、例えるなら仕合規則の見直しを伴わず、目先の苦痛を乗り切る事丈に注力した場合には、危機の後に経済成長が得られたとしても、それは非包括的で且つ持続性を欠くものとなるだろう。そして、斯様な回復によっては、長期的な成長機会を目指そうとする諸企業の経営に貢献する事も叶わないのだ。即ち、この場合、政府介入は無駄に帰し、更に、改革の機会を逸した事は、将来新たな危機を一層増長させてしまうだろう。
システムに生じた多くの腐食
先進諸国は、コロナウィルスに襲われる遥か以前から、既に構造的に大きな諸欠陥を内包して来た。一例を挙げれば、国が借金融通の為の借金を重ね、長期的成長に備えるべき資金を侵食している。金融部門の収益の大半は、銀行、保険業界、及び不動産業等の金融業界へと再投資され還流し、インフラ設備や新機軸の研究等の生産的な使い道へと回らない。例えば、英国では全銀行貸出金額の内、僅か10%が非金融業向けで、残りは不動産や金融資産へ流れている。1970年代には先進諸国に於ける、全銀行貸付残高の内、不動産向けに占める比率は凡そ35%であった。それが2007年迄には約60%へ上昇した。この様に、現在の金融構造は、債務によって活動が維持・推進される仕組みと投機的バブルとの双方を増長させるものと云え、もしこれらが破裂した場合、諸銀行やその他関係者達が挙(こぞ)って政府による救済を求め陳情に殺到する事は必定である。
もう一つの問題は、多くの大手企業が短期的利益を選好し、長期的視野に立った投資を軽視する傾向にある事だ。四半期決算毎の配当と株価に余りにも心を奪われる経営者や役員達は、自社株買付けを実行する事によって株主から報酬を報われ、自社株買いは残りの株式価値を増加せしめ、それ故に、大概の役員報酬取極め条件の中で最も構成比重が高いストックオプションの価値自体も又、膨張して行く。過去10年間でフォーチュン誌番付500社により実施された自社株購入は時価3兆ドルを上回る。これら自社株買戻しに投じた資金は、社員への賃金支払、社内研修やトレーニング、並びに研究開発費を犠牲にして捻出された事を忘れてはならない。
そして、更に、政府の対応能力が発揮されず空洞化する問題も生じている。即ち、政府は得てして市場失敗が誰の目にも明らかな時点になり、初めて、やおら介入に乗り出すのだが、推し進めようとする諸政策は余りに小規模で且つ遅きに失しているのが常だ。又、そこでは、州政府が価値創造を共に追求する共同経営者として認識される事は決してなく、唯の斡旋屋の位置付に甘んじ、公費から融通される投資財源はやがて不足を来す。その結果、社会諸政策、教育部門、及び健康保険分野等、全てに於いて本来の活動を行う為の資金が欠乏する、と云う状況が起こるのだ。
これら種々のしくじりが集積すると、結局は甚大な危機へ繋がって行く。しかもそれらは経済上のみに止まらず地球環境上の危機に迄及ぶのだ。金融危機は、大半の部分が過剰な信用創出が不動産や金融諸部門へ流れ込み、資産バブルと家計部門の負債が膨張し惹き起こされたと総括出来る。即ち、これら資金が、本来為されるべき実態経済支援や持続可能な成長を促すに為に資される事はなかったのだ。こうして、再生可能エネルギーに対し長期的投資を怠った事は、地球温暖化を加速させ、国連気候変動に関する政府間パネルをして「世界が後戻り不可能な状況に陥るのを避け、形勢挽回する為に、残された時間は10年」との警告を発せしめる迄に事態を悪化さたのだ。更に、事この後に及んで尚、米国政府は、化石燃料諸企業に対し毎年200億ドルもの巨額な補助を、主に課税免除の優遇税制を通じ実施している。又、EUに於いても同様の補助額は年間約650億ドルに上る。斯様な環境下に拘わらず、政治家達が気候変動問題の取組みに試みる策と云えば、炭素諸税導入や、再生エネルギー投資に公的認定される対象一覧の発表等、云わば、誘因型施策を検討するのが精々な状況だ。即ち、2030年迄に悲劇を回避する為に求められるべき、強制的規制等に就いては、何ら発効に至らず停滞しているのだ。
更に、コロナウィル感染拡大危機は、上述した全ての諸問題を一層悪化させる作用を果たした。つまり、当面、世界の注目が目前の健康危機を生き抜くことに注がれ、迫り来る気候変動危機や金融危機の再来に注意が払われなくなった。各所の都市封鎖は、今やギガエコノミーと呼ばれる、非正規・臨時雇いが主流の極めて危険に満ちた経済環境に働く人々に壊滅的打撃を与えた。即ち、彼らの多くは、斯かる危機を乗り切る為に本来必要となる筈の、貯蓄も無ければ社会保障や傷病有給休暇と云った雇用者向け福利厚生も適用されない人々なのだ。そして、前回金融危機発生の主要因となった、企業債務に就いては、各社が巷に流行りつつある経営破綻を何とか回避せんが為に、負担の大きい新規借入れを背負いこんで行くに連れ、債務金額は膨張の一途を辿っている。更に、多くの企業は、株主の短期的利益を満足させることに捕われる余り、結果として、危機の中に於いてこそあるべき長期的戦略を立案する事が出来ない。
加え、疫病感染蔓延が、公共と民間部門との関係が如何に均衡を欠いた事態に陥っているかを露呈した。米国ではNIH(国立衛生研究所:National Institutes of Health)が医療研究の為、年間400億ドルを投資し、今回コロナウィル向け治療とワクチンの研究開発に関しても、その設立者として中心的役割を果たしたのであった。ところが、民間の製薬諸企業は、何と驚くことに、そもそも彼らへ回された補助金の元である税金の納入負担を支える米国々民に対し、最終製品が行き渡るよう製造する義務は有さないと云わんばかりの態度だ。つまり、カリフォルニア州所在のギリアド社は、抗コロナウィルワクチン・レムデビシルを7千50万ドルの連邦政府補助金を得て開発したにも拘わらず、2020年6月時点で同社が明らかにした、米国民向けワクチン価格は、何と、お一人様一式3,120ドルと途方もない高額であったのだ。
これが、巨大製薬会社の典型的やり口なのだ。ある調査によれば、2010年から2016年の間にFDA(米国食品衛生局:U.S. Food and Drug Administration)によって認可された210種の医薬品は、そのいずれも全てがNIHによる補助金の恩恵を受けて誕生したものだ。この事実があるにも拘わらず、米国製薬価格は世界一高額だ。又、製薬諸企業は、特許諸手続きを乱用し、公共の利益に反した行動をとる。同業者間の競争を回避すべく、極めて広範に亘る領域の特許を押さえ、意図的に、他社による権利使用を殆ど不可能としてしまうのだ。例えば、その特許は、開発段階に於いて遥か上工程に位置するものなので、当該特許保有企業がその研究の成果物のみならず、それを生み出す為に不可欠な装置までも独り占めするという始末だ。
これに負けず劣らず悪しき取極めが巨大ハイテク企業とも結ばてれている。シリコンバレーは、実は非常に多くの面で、失敗する危険が極めて大きい高度技術分野に対し、米国政府がこれ迄投資を集積して来た、その実績が生んだ産物と云えるのだ。例えば、グーグルを有名にした“検索アルゴリズム”は、その背後にある技術の開発は全米科学財団(The National Science Foundation)の投じた資金で為されたものだ。ウーバーサービスが依存するGPSの位置情報検索技術も、同様に米国海軍が開発した技術を使っている。又、アイフォンに使用される様々な技術、即ちインターネット、接触式画面、及びSiriからその他に至る重要要素は、全て米国防総省の下部機関である、国防高等研究計画局(the Defense Advanced Research Projects Agency)によって開発されたものだ。これら技術研究に税金が投じられる際、国民がその危険を負担した一方で、これら恩恵を受ける側のハイテク諸企業は、その多くが応分の税金を負担してるとは云い難い状況だ。その上、これら諸企業は厚顔にも、公衆の私的権利を保護する諸規制に対しては反対し異を唱えるのだ。又、人工知能やその他諸技術はシリコンバレーによって開発されたとして、その底力が多くの人々によって指摘、賞賛されているものの、よくよく調べれば、これらの諸技術すらもやはり、失敗確率が高い投資として公共資金を投じ研究開発着手されたものなのだ。斯様な背景があるにも拘わらず、政府による介入がない限り、公共投資から生まれた利益はその殆どが民間企業の手に還流してしまう。公共資金により開発された技術は、場合によっては国有化も含め、公共投資から生じた利益が公共の利益として留まるよう、国家の手によって適切に統治されるべきだ。又、コロナウィル感染拡大下、方々で学校閉鎖が発生すると、一部の生徒達だけが自宅でオンライン受講する技術を利用出来るという事実が明るみに出た。この様な不均等は今後一層の不平等を拡大させるものと懸念される。一体、インターネットへの接続は特権でなく、当然、国民の権利であるべきなのだ。
再考されるべき価値
前述した全ての事象は、公共部門と民間部門との関係が崩れている事を示唆する。これを正して行くには、先ず、経済に横たわる、ある本質的問題と向き合う必要がある。即ち、経済分野に於いて価値という概念が誤って捉えられている問題だ。近代経済学者達は、価値とは価格に交換可能なものと理解する。しかし、この見解は、フランソワ・ケネー、アダム・スミス、及びカール・マルクスと云った、各生産財は生産時に於ける動態的環境に関連した固有的価値を持つので、必ずしもそれらの価格には連動しないと見做した、先人理論家達にとっては忌み嫌うべきものであったろう。
価値に関する近代概念は、経済がどのように構成されているのかに就き実に多くを示唆するものである。それは、諸組織がどのように運営され、様々な行動に如何なる説明が付いて、諸分野に於ける優先順位が如何に決められ、政府は如何に評価されるか、そして国家の富はどうやって測るべきかと云った諸事に影響を与えるのだ。国の義務教育を一つの例に取ろう。同教育は無償な為、その国のGDPに加算されない。然し、教師達に支払われる給与はGDPに含まれる。それ故、非常に多くの人々は、公的“投資”には左程な注意を払わず、寧ろ公的“支出”に就いて多くを語るのは無理なからぬ事となる。更には、現代の価値理論は次のような事にも理由付けが可能だ。即ち、2009年にゴールドマンサックスの当時CEOであったロイド・ブランクファインが、同社が政府から100億ドルもの公的資金救済を受けてまだ僅か1年経つか経たぬその時期に、事もあろうか厚顔にも、「我が社々員は世界一生産性が高かったのだ」と豪語出来たのは何故だろうか? それは結局、もし価値の概念イコール価格と置くならば、同社々員平均所得が世界一高額であれば、即ち同社員の労働生産性も世界一優れるという仮説も成り立つ訳だ。しかし、これらの概念がそのまま見過ごされても良いものだろうか? いや、そうではなく、明らかに再考を要するのだ。
現状打破には、「価値とは何ぞや」の問いに対し、新たな回答を見出す作業が必要だ。そして、その為に決して欠く事が出来ない、本質的に重要な事柄は、次の二つをよくよく認識する事だ。即ち、一つは諸投資、そしてもう一つは、事業者に限らず、そこに働く従業員や、公的組織と云った、経済の中に広範に配置された様々な参加者達によって生み出される所の創造性に就いてである。人々は、余りにも長きに亘り、民間部門こそが革新や価値創造を推進する第一等の担い手であり、それが故、その結果生じる利益も同部門に当然帰属すべきであるが如くに振舞って来た。然し乍ら、これは全く以って真実ではない。考えて頂きたいのは、医薬品、インターネット、ナノ技術、原子力、再生可能エネルギー等、これらは全てが、政府による巨額投資と危険負担によって開発されたもので、更には無数の労働者達による支えと、公的インフラと公的諸機関無くしては、決して成し遂げ得ぬものだったという点だ。これらの、云わば、集団的な尽力が齎(もたら)す所の貢献を評価して行く事により、如何なる努力に対しても報酬が正当に支払われ、技術革新による経済的報酬がより公平に配分される状況が確保出来るだろう。先ずは、この様に価値は集団的に創造されるという点を認識する事が、公共部門と民間諸組織とがより共生関係を築いて行く道程の出発点になる。
悪しき救済とは
価値に関する再考を乗り越えたら、次は更に、社会として、株主の短期的利益を優先するのではなく、利害関係者達の利益こそを長期的観点に鑑みて優先して行く必要がある。現状危機に照らした具体例で云うと、それは、地上の全ての人々に行き渡る「市民の為のワクチン」開発に注力する事を意味する。医薬品開発過程に関し、研究開発段階と実際のワクチン頒布段階の双方に於いて、各国間での協力と共同利益が促進されるよう管理運営されるべきである。従い、特許は、大学、政府系研究所、及び民間企業の間で共有保持し、それらの知識や、データ、及び技術が世界中に自由に流布されるべきなのだ。この様な段取りなくしては、コロナウィルワクチンは独占企業が取り捌く高価な商品と化し、裕福な国や金満家達だけに手が届く贅沢品となる危険があるのだ。
更に一般的に云えば、国家は公的投資の組成に際し、ばら撒き方式に流れる事なく、社会的便宜に貢献可能な市場が形成されるよう尽力すべきで、その為には、政府補助に対し紐付けを行う事が必要だろう。これら拘束条件の付与は世界的疫病蔓延下には、特に以下の三つの目標達成に向けて進められるべきだ。即ち、第一に雇用維持。これにより実業界の生産性と家計の所得保全との双方が確保される。そして第二に、労働環境改善。安全への十分な配慮、妥当な賃金水準、十分な医療費支払い、並びに、経営意思決定への発言権拡大、等が対象だ。更に第三には長期的目標の実行。例えば、炭素排出量の削減、交通から健康まで公共サービスへのデジタル化推進、等だ。
米国のコロナウィルへの主力対策である、CARES法(対コロナウィル支援と救済並びに経済保全法:the Coronavirus Aid, Relief, and Economic Security Act)は2020年3月に議会通過したものの、これらは前述した、望まれる諸点とは逆方向である事が露呈された。即ち、他の殆どの国々は、雇用者への支払賃金が有効に支援される策を採用したのに対し、米国の場合は、失業者に対し一時的に支払われる手当を増加させたのだ。この策が選択されると、3千万人以上の労働者が一時解雇される事態を招じ、米国は先進諸国中、コロナウィル関連による高失業率筆頭国の仲間入りをした。詰まる所、政府は大企業に対し、然(さ)したる効果的な縛りのある条件も付さぬ儘(まま)に、直接及び間接的支援に何兆ドルもの資金を投じた挙句、多くの大手企業は、従業員の有給傷病休暇取得を拒み、将又(はたまた)、安全が確保されない職場環境で活動を継続させる等、勝手気儘(きまま)に振る舞い、これら一連の行動によってコロナウィルス感染拡大は一層危惧される事態に至ったのだ。
Cares法の下に賃金保護政策(PPP: The Paycheck Protection Program)も創設され、これにより事業者達は、雇用者に賃金を支払う限りは返済が免除される借入れを政府から受ける事が出来た。ところが、この借入金の使い道は、雇用を救済する為の有効な方途に資される事なく、各社財務部にとって都合の良い巨額援助として利用されたに過ぎなかった。この借入れは既に、切実に支援を必要とする場合に限定されず、又どんな中小企業ですら利用可能であるにも拘わらず、議会は更に、返済免除の条件としていた、当該企業支払賃金高に関し、拙速にも設定基準を緩和したのだった。この結果、失業抑制を本来目的とした筈の同政策は、肝心の失業率を、哀れな程、僅かしか減少させる事は出来なかったのだ。マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究班によれば、この賃金保護政策により政府は5千億ドルの貸出しを実施したものの、その間約6ヶ月に救済された失業数は僅か230万件に止まると結論付けた。貸出残高の殆どが返済免除されるであろう事を考慮すれば、年間費用換算した場合、この政策には仕事一件を守る為に凡そ50万ドルが費やされた訳で、その非効率ぶりは明白である。その上、夏場を過ぎ、上述した賃金保護政策も拡大された失業手当制度も、共に資金枯渇する一方、米国失業率は依然10%を超えているのが現実なのだ。
議会は感染蔓延に対し、これ迄3兆ドル以上の予算を承認し、更に連邦準備銀行は追加で凡そ4兆ドルを経済に注ぎ込んだ為、これらの合計額は米国GDPの30%以上に上る。しかし、これら巨額出費は、気候変動から不平等格差に至る迄、緊急且つ長期的問題に就いて何ら解決を為し得ていない。民主党エリザベス・ウオーレン上院議員(マサチューセッツ州)が提案した、企業救済に際し条件付けられるべき、賃金改善、労働者達による決定権限の拡大、配当、自社株買い及び役員報酬に対する制限等の諸案は、十分な得票を集める事が出来ず不発に終わった。
政府介入の要諦は、労働市場の崩壊を防ぎ、且つ諸企業を生産的組織として維持する事、更に本質を煮詰めれば、大惨事に至る危険を担保する保険者として行動する事に他ならない。然し乍ら、この手法は資金に事欠く政府には出来ぬ相談だし、又、一方で政府資金が有害な事業戦略に対し融通される事は避けなければならない。そこで、もし、企業が財務破綻を来した際には、丁度、2008年に米国財務省がゼネラルモーターズや他の問題諸企業の株式を取得したと同様、政府が救済対象とする会社株式に出資を要望する事が考慮されて良いだろう。そして、事業救済に際しては、あらゆる種の悪行を禁ずる条項を政府が課すべきだ。即ち、不適切な時期に実施される役員報酬、過剰配当、自社株買い、不要な債務増加、国外無税地帯への利益逃避、違法含みの政治口利き活動への従事、等を禁止するのだ。また、特にコロナウィルの治療とワクチンに関しては、政府は企業によるぼったくり価格を阻止すべきだ。
それでは、危機下の正しい対応は如何なるものかと云うと、以下他諸国の手本が示す通りである。例えば、デンマークでは世界的疫病感染拡大の初期、企業に対し賃金費用の75%補助を提供する際、その替わり、企業は経済上の理由で従業員を一時解雇してはならない事を条件とした。更にデンマーク政府は、国外無税地帯に登録のある企業は救済対象から除外し、更に救済資金使途に関し、配当と自社株買いに資されるのを禁じた。又、オーストリア及び仏国では、政府が航空会社救済の見返り条件として各社による二酸化炭素排出量の削減を義務付けた。
一方、これと反対の事例は英国政府だ。同政府は、航空会社イージージェット(easyJet)社に対し、去る4月に7億5千万ドル以上に上る信用供与枠を許可したのだが、それは同社が何とその僅か一ヵ月前、株主に対し約2億3千万ドルの配当を実施したにも拘わらず為されたのだ。民間企業に金の使い道を説法するは政府の役割に非ず、との考えに立つ、所謂「市場中立性」の金看板を盾に、英国政府はイージージェット社を始め、他の資金難に陥った諸企業に対し見返り条項は課さなかった。然し乍ら、企業救済という行為自体、一体どこが中立だと云うか。同語の定義する所は、ある企業救済を行う事は、政府がその一社を悲劇から掬(すく)い上げる替わり、他の一社を掬わないと云う選択行為を伴うのだ。従って、付帯条件なしで政府支援が行われる場合には、環境上持続不可能な事業から国外無税地帯への利益逃避に至るまで様々な悪しき事業慣習が助成・補助される危険を孕むのだ。又、英国の一時解雇制度に就いて云えば、これは一時解雇された従業員に対し最大賃金の80%迄を政府が肩代わりし補助するものだが、この場合、政府は当然、「同制度が打ち切られた途端に従業員を解雇することは禁ずる」旨の一項を企業に対し最低限でも課すべきであったのだ。ところが、同条項の縛りが為される事はなかった。
資本投資家的発想が求められる
国家は闇雲に投資を行う訳にはいかぬ。適切な取引実行が求められる。その為には、「事業家的視野を有した国家」と私が呼ぶ所の発想を、政府は持つ必要がある。即ち、投資を行う際、その損失下方限度を負担する事に止まらず、成功した場合には上昇する報酬配分の確保を予め聢(しか)と取極めておくと云う事だ。これを可能にする一法が、取引実行に際し見返りに株式を取得する事なのだ。
太陽光パネル製造業のソリンドラ(Solyndra)社の場合を思い起こして頂きたい。同社が2011年に破綻する前に、政府エネルギー省から5億3千5百万ドルもの保証付融資を受けていた事は、結局政府は成功する企業を寄り抜く鑑定眼がないと云う典型的見本となってしまったのだった。又、これと略(ほぼ)同時期、エネルギー省はテスラ社向けにも同じく政府保証付融資4億6千5百万ドルを供与、この場合、同社はその後、爆発的成長を遂げるに至った。ところが、納税者達はソリンドラ破綻の付けを払わされた一方で、テスラ成功の報酬に与(あずか)る事は決してないのだ。凡そ、資本投資家と名の付く者達ならば、誰一人として斯様な仕組みの投資を組む訳がない。更に悪い事に、エネルギー省は融資組成に際し、もしテスラが債務返済不能に陥った際は、政府が同社株3百万株を取得する条件を織り込み、破綻した場合にも納税者達が手ぶらではそこから立ち去ることが出来ぬ設計としたのだ。然し乍ら、一体全体、破綻してしまった企業の株式を政府が欲しがるというのはどう云う了見だろうか。そうではなく、賢明な戦略は正にその真逆で、テスラが債務を返済出来た暁には、同社から300万株を政府に提供させるべきだろう。もしも政府がこの取極めを結んでいたのなら、テスラ株は融資返済を進める内に高騰したので、結果として政府は何百億ドルという資金を稼ぎ得たであろうし、そしてこの金はソリンドラ破綻に投じられた費用を補って尚余りあり、次の投資機会に積み立てる事が出来たのだ。
しかし、公的投資から得る金銭報酬丈が憂慮すべき問題ではない点が重要である。即ち、政府が救済する対象企業が公共の利益に貢献するよう、救済実施の見返りに強い付帯条件を課すべきなのだ。例えば、医薬品の場合、政府支援によって開発された商品は、その公的投資を勘案し価格設定が為されるべきだ。更に、政府が発効する特許はその対象範囲を狭く限定し、その権利使用を広く容易にする事で、開発を一層促進し、起業家精神を高揚して、先行企業の独占による超過利潤追求の動きを挫くべきだ。
又、政府は上記に留まらず、公共投資から得られる収益に関しては、株主の短期的利益を優先させずに、より均等な所得分配を促すような使い道を検討すべきだ。これは何も社会主義を標榜するものではなく、利益が資本から産み出される場合、その源泉が何であるかに関し、どう理解するかの問題と云える。現在の危機下で、「一律基本所得補償」(a universal basic income)、即ち、如何なる職業かを問わず、全ての市民が政府から均等に継続的な給付を受け取る制度に就いて、新たに議論がなされている。同政策案に関し、その背景に根差す理念は確かに結構なものかも知れないものの、この話は甚だ問題含みと云わざるを得ない。何故なれば、一律基本所得補償給付案は、“ばら撒き”政策と認識される性格のもので、特に問題なのは、経済上の富を語るに際し、実際に民間部門が公的部門と共同して価値創造が為される真実を顧みる事なく、「民間部門こそが唯一無二の価値創造者」であり、それ故に、公共部門とは単なる料金徴収人で、集めた収益をピンハネし、残りを慈善の心で市民に分配するのが仕事だ、との誤った観念を永続させてしまう点だ。
これより有効な代替手段は、市民に配当を実施する方法だ。この政策は、政府投資によって生み出された財産からある一定割合を積み立て、そして、その成果を市民で分け合う仕組みだ。同案は、市民が創出した財産を配分し、彼らに直接報いる事が出来る。既存事例として、アラスカでは1982年に永久基金(Permanent Fund)が設立され、以来、住民達はそこから原油収入を年間配当の形で分配されている。ノルウェーでも類似の策が、政府年金基金(Government Pension Fund)によって運営されている。カリフォルニア州でも、世界一金持ちの企業群を擁する地域と云われる点を利し、何かしら同様の手を打つべく考慮の余地があろう。カリフォルニア州クパチーノ市に本社を構えるアップル社が、法人税免除の特典を有するネバダ州リノ市に子会社を設立した際、カリフォルニア州は巨額の税収を失う事になった。このような税金逃れのからくりは塞がれるべきは云うまでもないが、カリフォルニア州は、州立投資基金を設立し反撃を試みるべきなのだ。そうする事によって、既存税制度に加えて、公的支援を含んだ技術とそれを使う諸企業によって生み出された価値を分配する為の手段を、州が直接捕捉する道が開かれるのだ。
市民の配当方式は、共同作業によって造り出された財産の成果が、より広く社会に分配される為のもので、その富の原資に就いては、公共資材である所の天然資源であれ、公的投資による医薬品製造の過程であれ、集団的な尽力が注ぎ込まれたデジタル技術であれ、その対象とする事が出来る。但し、同政策は現状徴税制度を正しく機能させる為の代替的手段として利用されるべき筋ではないし、更に、同基金制度が完備されていない事を以って、現状、主要な公共財に十分な資金が投じられていない理由として、政府は言い訳すべきではない。そうではなく、この公共基金方式とは、財産創造に於いて公共部門が為した貢献という側面―即ち、これは様々な力関係の中に於いて政治的権力の急所とも云える鍵の部分なのだが―を明確に見直すことによって、従来解釈を変じる事が出来る点こそが重要なのだ。
経済は目標本位で誘導されるべきもの
公的機関と民間部門が共通の任務の追求に向け協力すれば、際立った成果が達成される。その例が、1969年米国が月面着陸しそして帰還に成功した事例である。8年間に亘り、宇宙船、繊維、及び電子機器等の様々な分野の民間企業とNASAがアポロ計画の為に協力し、共同で投資と開発を行った。そして、果敢な行動と多くの実験を通し、遂に彼らは、ジョン・F・ケネディー大統領が「これ迄に人類が乗り出した、最も難関にして危険、そして最も偉大なる冒険」と呼んだ所行を為し得たのだった。重要なのは、特定技術を商業化や、ましてや経済成長を加速させることではない。協力してやり遂げる、その事こそが大切なのだ。
50年以上の歳月を経て、世界的感染症拡大の最中、世界は今、月面着陸よりも野心的な挑戦を試みる機会に恵まれた。より良い経済制度の創造である。その経済とはより包括的で且つ持続可能なものである。其処(そこ)は、炭素排出が削減され、不平等は改善され、近代的公共移動機関が完備され、全ての人々にデジタル接続が行き渡り、遍(あまね)く国民皆保険が提供される世界である。短期的視野で云えば、其処には対コロナウィルのワクチンが全員に行き渡る。このような形の経済を創造していく為には、ここ数十年間見ることのなかった、嘗ての官民協力体制に類した政策が求めれる。
一定の人々は、世界的感染症拡大からの回復に就いて語るに、「常態への復帰」との目標を挙げ、これは心に訴えるものがある。しかし、それは誤った目標設定だ。何故なら、「常態」となっていた環境は既に破綻を来した類のものなのだ。従って、正しい目標とは、多くの人が既に掲げる通り、「より良い復興を行う事」であるべきだ。12年前の金融危機は、資本主義を変革するに稀な好機を提供したのだが、我々はそれを無駄にしてしまった。ところが、今回、新たな危機によって、もう一度、これらを刷新する機会が訪れたのだ。今度こそ、世界はこれを無駄にしてはなるまい。 (了)
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