著者/肩書: ボリス・ボンダレフ(BORIS BONDAREV)/ 元ロシア外交官(2002-2022年勤務)ロシアのウクライナ侵攻に抗議し2022年5月退職。最終職歴、国連ジュネーブ事務局内ロシア政府代表部参事官。
[論稿紹介 :byブログ責任者]
ロシア政府内に根付く病巣を、元同国外交官が告発。それは周囲にイエスマンを配置し、独断で突き進む危うい指導者と機構末端まで染みついた完全服従体制だ。当稿は組織内に身を置いた者ならではの内実暴露と同時に彼自身の懺悔録でもある。戦争に抗議し職を辞し夫人共々国を去り、生命の危機をも辞さず、尚も世界に真実発信を試みる彼らの勇気に敬意を表したい。
(論稿主旨)
私がロシア外交官としてジュネーブに勤務した3年間は、毎朝同じように始まった。7:30起床、ニュースを確認後、ロシア政府代表部の在る国連事務所までの車通勤。このルーティーンは「簡単」にして「変化がない」という、正にロシア外交官の二つの特徴を余す所なく示すものだった。
ところが、2月24日の朝は違った。私が携帯電話を覗き込むと、驚くべき、そして恐ろしいニュースが目に飛び込んで来た。「ロシア空軍、ウクライナを爆撃す」。ハルキュー、キーウ、そしてオデッサが攻撃を受けていた。ロシア軍がクリミアから出撃し、へルソン南部の町へ進撃したのだ。ロシアのミサイルが街並みの建物を瓦礫と変じ、住民達が避難を余儀なくされていた。動画には、空襲警報が響く町に、数々の爆発が生じる中、人々が動転しながら逃げ惑う姿が映し出され、私はそれらを茫然と見つめた。
西欧の複数メディアは侵攻が間近であると報道してはいたが、ソヴィエト連邦時代の出生世代である私には、この攻撃が全く信じられなかった。つまり、ウクライナ人は私達の親しい友人で、嘗(かつ)て同じ国家の下で共にドイツと闘った歴史を含め、多くを共有する関係だ。思わず、私は、第二次世界大戦中に流行(はや)った有名な軍歌の一節を想起した。「時は6月22日(ふたじゅうに)、折しも明け方、午前4時、爆弾キエフに投下され、そして我らは告げられた、戦争は今、始まれり」という歌詞で、これは旧ソヴィエト連邦に所属した住民なら誰でも知っている曲だ。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ侵攻を「特別軍事作戦」と呼び、ロシア隣国の“ナチス化”を防ぐのが目的だと説明した。しかし、ウクライナにとっては、ナチスのお株を奪う挙に出たのはロシアだったのだ。
「これは終わりの始まりた」と私は妻に語り、職を去ることを決意した。妻にも異存なかった。
辞職すれば、ロシア外交官として積んだ20年のキャリアを棒に振るばかりか、それと共に築いた多くの交友関係をも失う覚悟を必要とした。私が入省した2002年は、ロシアが比較的に解放政策を標榜した時期で、私達は相手方諸国の外交官達と互いに誠意を以って仕事に当たることができた。それでも、ロシア外務省が根深い欠陥を抱えていたのは、私の入省間もない日々の中にも明白だった。つまり、当時に於いても、批判的な思考を挫こうとする気風が存在し、そして、私がキャリアを経るにつれ、それは次第に好戦的なものへと変貌した。それでも、私は職に留まり、 いつの日にか、自分の持てる力を発揮し、自国の国際的行動を穏健化させることに期待を賭けつつ、眼前の“認知的不協和”(己が切実に感じる組織内不協和)を乗り切るのに専念した。しかし、人間とは往々にして、諸事を経るに従い、嘗(かつ)ては決して受け入れなかったことすら容認するようになるものだ。
ウクライナ侵攻は、ロシアが如何(いか)に冷酷で抑圧的国家であるかを紛れもない事実とした。それは、隣国を征服し彼らの固有人種を滅ぼすことを画す、言語道断の行為だった。同時に、モスクワ政府は、国内のあらゆる反対勢力をも押し潰す理由付けを手に入れ、何千人規模の徴兵を繰り返して動員した兵士達を、ウクライナ人を殺害する為に戦地に送り出しているのだ。この戦争は、ロシアという国が、好戦的な専制国家に止まらず、最早(もはや)全体主義に染まったことを示すものだ。
しかし、今般の侵攻が物語る重要な教訓は、実は、私が今までの20年間に体験した、ある事実と深く関係していたことに思い当たった。それは「政府が自身の宣伝によって徐々に歪められていった挙句(あげく)には一体何が起きるのか?」という問題だ。当時の数年間、ロシア外交官達はワシントン政府と対峙することを余儀なくされ、海外諸国に対するロシア干渉問題に関し、嘘と矛盾に満ちた論理を駆使し防戦に当たっていた。そこで私達が教え込まれたのは、誇張に満ちた美辞麗句を尊び、クレムリンから指示された通りの台詞(せりふ)を一切批判することなく、鸚鵡(オウム)返しに他諸国へ伝えることだった。しかし、結局のところ、この宣伝工作は海外諸国だけを標的にしたものではなく、自国主導層をも狙うものだったのだ。すなわち、電信電文や報告書の作成に際し、私達外交官は、「偉大なるロシアを世界にアピール」するのに加え、「西欧陣営を論破した」とクレムリン政府に対して説明することを強制させられたのだった。また、大統領が抱く危険な諸計画に対しても、私達は一切の批判を控えなければならなかった。そして、このような振る舞いが外務省の最高幹部レベルにまで浸透していた。クレムリン政府に居た同僚達が私に幾度も語ったものだ。「プーチンはセルゲイ・ラブロフ外務大臣が大好きで、その理由は彼が常に大統領のイエスマンで、大統領が聞きたいと欲することを耳に入れるから、彼と仕事をするのが心地良くて堪(たま)らないのだ」と。このような環境に毒されていたとすれば、プーチンが「キーウを難なく陥落できる」と思い込んだとしても不思議はない。
即(すなわ)ち、反響室の中の如く、一定意見だけが増幅される状況下に行われる意思決定は如何(いか)に裏目に出るかを、今般の戦争が如実に表している。プーチンはウクライナ征服を宣言し、これに失敗した。しかし、この作戦行動は、もしプーチン政権内に率直な諸評価を提供する仕組みが設計されていたなら、彼が抑々(そもそも)実行不可能と否決した可能性があったのだ。当時、軍事を担当した同僚高官達の諸分析によれば、ロシア兵力は、決して西側陣営が懸念するほど強大でないのは明瞭であった。その一因は、2014年のロシアによるクリミア併合後、西欧が課した経済制裁は、政権指導者達が覚悟していたよりも実は、遥かに強力な効果を発揮したことに帰するのだ。
クレムリン政府による侵攻は、逆にNATOの結束を強める結果になった。同機構はロシアに屈辱を与える目的で設計され、同国経済が収縮する程に強烈な制裁をもたらした。しかし、全体主義国家に於いては、経済的便益の分配よりも、権力行使そのものによって、己の政権正当化を一層図ろうと試みるのが信条だ。そして、プーチンは余りにも攻撃的で且つ現実から隔絶していた為、最早(もはや)、景気後退を以ってしても彼を止めることはできなかった。プーチンは、自身の統治正当化の為には、彼が約束した通りの大勝利を必要とし、そして、彼はそれが可能だと思い込んだ。彼が停戦に合意するとすれば、それは戦闘継続に向け、部隊に一時的休息を与えるだけの目的だ。そして、もしプーチンがウクライナに勝利するようなことがあれば、恐らく彼は、更に今度はモルドバ等の旧ソヴィエト連邦諸国への攻撃に移る公算が大きいのは、モスクワ政府は既に同国から離脱した地域と手を組み始めたことからも読み取れる。
ここに於いて、ロシア独裁者を止める唯一の方法は、米国防省ロイド・オースティン長官がこの4月に示唆した通り、「ロシアがウクライナ侵攻で見せたような類(たぐ)いの行為を実行できない程までに、同国を弱らせる」ことである。これは極めて困難な注文に見えるかも知れない。しかし、ロシア軍事力は相当程度弱体化され、更に同国が誇る最良の兵士達の多くが既に失われた状態だ。NATOからの広汎な支援を以ってすれば、ウクライナは、北部で勝利したと同様、最終的にはロシア軍を東部と南部に於いても打ち破る力を持っている。
ロシアが敗退すると、プーチンは国内で危機に見舞われるだろう。彼は、エリート層や大衆に対し、期待を裏切ることになった申し開きを求められ、戦死した兵士の遺族達には、何ら目標を達することなく、何故(なぜ)、彼らは死なねばならなかったのか、説明を迫られる。更に、経済制裁効果により、ロシア国民生活が今日よりも一層困窮化が予想されるその時期に、プーチンはこれら難題を同時にこなさねばならない。彼は、方々から湧き上がる反動に直面し、この局面を乗り切れない可能性がある。延命の為に生贄(いけにえ)を仕立てようと画するのは定石だが、彼が追い出そうとして脅しを掛ける、その取り巻き連中や次官達によって逆にプーチン自身が放擲(ほうてき)される可能性もあるのだ。何(いづ)れのシナリヲにせよ、万一、プーチンが去る日が訪れれば、その時にこそ、ロシアは、これまでの妄想に満ちた威光を捨て去り、その再構築に当たる機会を得られるのだ。
私の半生~正義の外交は夢物語だった
1980年、私はソヴィエト知的階級に属する中流家庭に生まれた。私の父は海外貿易省に所属した経済学者で、母は国立モスクワ国際関係大学の英語教師だった。彼女の父は将軍で、第二次世界大戦中、ライフル部隊を指揮し「ソヴィエト連邦の英雄」と称えられた存在だった。
私達は、モスクワの大きなアパートメントに住んでいたが、これは私の祖父が大戦後に国から与えられたものだ。私の家族は大多数のソヴィエト人には得る事のできない、恵まれた境遇に在った。私の父は、ソヴィエトとスイスのある合弁事業に地位を得て、家族は1984年と1985年にスイスに居住した。この経験は、私の両親にとり変革的なものだった。彼らは豊かな国に住まうのがどんなことかを、そこで体験した。それは、マーケット店で商品に溢れる買い物カート、良質な歯科治療等、何れもソヴィエト連邦では手に入らない快適な生活だった。
経済学者だった私の父は、ソヴィエト連邦の構造的問題を既に認識していた。しかし、西欧に居住することで、私の両親はソヴィエト制度により深い疑念を抱いて行った。従い、1985年にミカエル・ゴルバチョフがペレストロイカを発足した時、彼らは小躍りし喜んだ。また、大半のソヴィエト在住者達も同様に興奮に包まれたのだった。ソヴィエト連邦の不便な生活を実感するには、わざわざ西欧の生活を体験するまでもなく、国内商品はどれも粗悪でサイズ品揃えが少なく、靴屋の店頭には履けば足が痛くなるような靴が並ぶ状態だったのだ。ソヴィエト内の人々は、「国家が“進歩的な人類”を導く」との政府スローガンは偽りである事を既に見抜いていたのだった。
多くのソヴィエト市民達は、同国が市場経済移行へ舵を切った際、西欧が手助けをしてくれるものと信じていた。しかし、この期待は所詮(しょせん)甘かったことが判明する。西側陣営がロシアに充分な支援を行う事はなかった。その対応規模は、ロシアが自国経済に於ける甚大な諸問題に取り組むには不十分だと、多くのロシア国民のみならず、著名な幾人かの米国人経済学者達も見解していた。十分な援助を行わず、それに代えて西欧陣営はクレムリン政府に対し早急な価格統制の撤廃と、急激な国営資本民営化促進の手助けをした。この過程を通じ、極(ごく)少数の集団が、公共資産を掠(かす)め取って極端な富を得たのだった。しかし、この所謂(いわゆる)ショック療法により、大多数のロシア人達が貧困へと貶(おとし)められた。ハイパーインフレーションが襲い、国民平均寿命は低下した。ロシアは「民主化」と云う期間を体験したものの、多くの大衆にとり「新しい自由」とは「極貧」を意味した。この結果、ロシアに於いて「西欧」の地位は著しく損なわれ、人気を失って行ったのだった。
この出来事は、1999年NATOによるセルビア空爆に次ぎ、ロシア人にとっての打撃だった。同爆撃作戦は、セルビア内のアルバニア人少数民族を保護する目的を謳いながら、ロシア人にとっては、圧倒的勢力を以って小さな犠牲者セルビア人を攻撃するように見えたのだった。その証として、在モスクワ米国大使館が暴徒に襲撃された数日後、私がその前を通り過ぎた際に目撃した、壁一面に広がるペンキで描かれた抗議の落書きは、今も鮮明に目に焼き付いている。
私の父は1991年に退官し、その後始めた小さな商売も軌道に乗っていた。こうして、私は中間層の両親の子供として育ち、当時の乱気流の如き10年間を間接的にしか体感せずに済んだ。私の10代は安定的であり、将来への道筋も極めて良好に見えた。私は、母が教鞭を取るその同じ大学に入学した。そして将来は父が関わったと同じ国際的な環境で働きたいとの考えを固めた。当時、ロシアに関して自由な論議がまだ開かれており、その時代に私が学べたのは幸いと云えた。私達を指導する教授陣は、嘗(かつ)ては閲読が禁止されていた書籍も含め、広い分野の書を読む事を推奨したのだった。私達は教室で自由に議論を戦わせた。そして、2000年の夏、インターンシップとして、私は外務省へ意気揚々と乗り込んだ。私は、そこで、国際社会に対し自分の目を開かせてくれる筈のキャリアをスタートさせる決意に満ち溢れていたのだ。
しかし、そこで私が体験したのは失望感に満ちた現実だった。ソヴィエト映画に出て来る、絵に描いたような、粋なスーツに身を包む優秀なエリート達と共に仕事をするものと夢見ていた私が直面したのは、政府上級高官のスピーチ主旨原稿を起こす類(たぐい)の、退屈な業務に倦(う)み果てた、中年上司達の集団に仕える現実だった。彼らは、大方の時間に全く働いていないようにすら見えた。彼らは日がな一日椅子に座り、煙草をふかし、新聞を読み、そして彼らの週末予定を語り合っていた。インターンシップ期間中、私がした仕事と云えば、彼らに新聞とスナック菓子を買って来ることだった。
それでも私は、兎も角、外務省へ入省する決断をした。私は、自分で給料を稼ぎたかったし、尚も、モスクワから遠く旅し他国事情を学びたい希望が強く在ったからだ。そして、2002年、在カンボジア、ロシア大使館の副理事官に任用された時、私は大変満足だった。自身のクメール語能力を生かして、東南アジア情勢を学ぶ機会が私に与えられたのだった。
当時、カンボジアはロシアの核心的利益の埒外(らちがい)に属した為、私がこなすべき業務は極(ごく)僅かだった。それでも海外生活は、モスクワの住環境より優れる。ロシア国外に駐在する外交官は国内勤務者より、かなりの高額収入を得ることが出来た。大使館の次席大使のヴィチェスラフ・ルキアノフは、自由闊達な議論を重んじ、私が自分の意見を述べるのを後押ししてくれた。そして、私達の西側陣営に対する態度は実に公正で友好的なものであった。外務省は常に反米に偏向していた ―ソヴィエト時代の前任から受け継がれた特性だった― が、この偏りは過剰な程ではなかった。同僚達や私はNATOに就いて余り深く考えなかったし、私達は同機構を寧ろ仲間として捉えていた。ある夜、私が同僚達と非合法経営のバーへ飲みに出掛けた時のことだ。そこで、一人の米国高官に出くわした際、彼は我々を招いて奢(おご)ってくれた。今日、この様な遭遇は、緊迫感と居住いの悪さを禁じ得ないだろうが、当時は友情を育む事も出来た、大らかな時代だったのだ。
それでも、ルキアノフが肯定しようとした開放指向と真反対に、あの頃、既にロシア政府内に、独立志向を挫こうとする文化が在ったのは確かだ。ある日、私は館内序列第3位の高官に呼び出された。彼は、ソヴィエト連邦時代に入省した、物静かな中年外交官だった。彼は、モスクワから打電された文章を私に手渡し、その内容を書類にしてカンボジア当局に提出するよう命じた。私は、その場で幾つかのタイプミスを見つけたので、それらを修正の上、書類作成する旨を彼に告げると、彼は透かさず「直す必要なない!」と反応し、更に続けてこう云った。「我々はモスクワからの文面をその通りに伝えるのが役目だ。彼らの知見が勝るのだ。譬(たと)え、誤字脱字があっても、我々に中央を正す権限はない。」これは外務省で如何(いか)なる傾向が主流であるかを象徴する出来事だった。つまり、指導者達への盲目的服従である。
イエスマン達が蔓延(はびこ)る政権
21世紀に入って最初の10年間、当初ロシアは期待に満ちていた。同国平均所得は、生活水準と共に増加を続けた。2000年の始まりから大統領に就任したプーチンは、1990年代の混迷に終止符を打つことを約したのだった。
しかし、それでも、多くのロシア人達は、2000年代になるとプーチン政権に嫌気が差してきた。大概の知識人達は、強権的な彼のイメージを好ましからぬ過去の遺物と見做し、一方、政府高官達の間には汚職が蔓延する状況だった。そして、プーチン政権に対し諸調査が及ぶ動きに対し、彼は言論の自由を潰す挙に出た。彼は最初の政権任期末までに、ロシア主要三大TV放送網を全て実効支配下に置いたのだ。
それでも、外務省内では、プーチンの初期行動は殆(ほとん)ど警戒を呼び起こさぬまま見過ごされた。彼は2004年にラブロフを外相に指名、私達はこの決断を評価した。と云うのは、ラブロフは外交分野で豊富な経験を有し、高い教養を持った人物で、当時、海外高官達との交流も広く維持していたからだ。プーチンもラブロフも、次第にNATOに対し共に敵対化していったのだが、表面に現れる行動変化は極(ごく)僅かであった為、多くの外交官達は私も含めてそれに気付かなかったのだ。
しかし、今振り返れば、モスクワ政府は、プーチン帝国構築の下準備を、特にウクライナに対し着手していたのは明らかだ。クレムリンが同国に対する執着を強めて行く切っ掛けとなったのが2004‐5年に発生したオレンジ革命だ。即(すなわ)ち、同国大統領選挙に関し、何十万の人々が、不正選挙であったと広く指摘を行った後、抗議行動を起こし、結局、親ロシア派候補者の大統領就任を阻止した事案だ。この確執が反映された結果、その後、ロシアが行う主要な政治表明は、重要課題として先ずウクライナに焦点が注がれ、同国政府要人達はロシア嫌いである旨が絶えず発信されたのだった。以来、ウクライナ侵攻に至るまでの16年間と云うもの、ロシア人はニュースキャスター達がウクライナを悪魔の国家と呼ぶのを聞かされ続けて来た。(また、プーチンの頭に諸国家が純粋に協力し合う発想はなく、ワシントン政府と密接な友好諸国が、NATOも含め、皆、米国の傀儡に過ぎぬと彼は見做した。)
一方、プーチンは国内の権力統合に向け引き続き尽力する。ロシア国憲法は大統領任期を連続2期に制限していたが、2008年にプーチンは自身の統制を温存する制度を造り上げた。即(すなわ)ち、もし、ドミートリー・メドヴェージェフがプーチンを首相に推す事を約束すれば、その見返りに、プーチンは同盟者としてメドヴェージェフを大統領立候補として支援する取極(とりき)めだ。双方がこの約束を実行し、メドヴェージェフ大統領政権下に執務開始された当初数週間、外務省内の私達は、一体どちらに対し報告書を挙げるべきか定かでなかった。と云うのは、メドヴェージェフは大統領として、憲法に法(のっと)り外交政策を推進するものの、その後ろではプーチンが糸を引くのが一致した見方だったからだ。
私達は、結局メドヴェージェフを報告対象者とした。この決定を含む幾つかの諸進捗の中で、私は、新大統領が単なる繋(つな)ぎ役として登板した存在以上に、頼むに値する人物かも知れないと思い始めた。メドヴェージェフはオバマ大統領と友好関係を構築し、米国実業界指導者達とも交流し、更に、ロシア利益と矛盾するように見える案件にも西側陣営との協力を図った。例えば、リビアで反乱者達がムマンマル・アル・カダフィー政権を崩壊させようとした際、同国上空に飛行禁止区域を設けようしたNATOに対し、ロシア軍部と外務省は反対を表明した。ロシア政府はカダフィーと歴史的好関係に在り、リビア石油部門の利権も保有した為、反乱勢力に手を貸すのを嫌ったのだ。しかし、フランス、レバノン、及び英国等は米国の支援を受け、国連安全保障理事会で飛行禁止区域承認に向け行動を起こした際、メドヴェージェフは外務省の私達に対し、拒否権は行使せずに自制するよう指示をしたのだった。(一方、プーチンはこの決定に異論があった可能性を示す証拠がある。)
しかし、2011年、プーチンは再度、大統領選に出馬する計画を表明した。そして、メドヴェージェフは ―不承不承ながらのように見えた― 降壇し首相の地位に甘んじた。急進派は激怒し、多くの者達はこれを拒絶すべきだと呼び掛け、或いは「ロシア国民が自身の手で投票を台無しにする行為だ」と非難した。この様な抗議行動はロシアの極(ごく)一部の人々によるものであったので、彼らの強い反対表明はプーチンの目論見に対して深刻な脅威にはならなかった。しかし、限定的とは云え、反発が示された事実に対し、モスクワ政府は懸念を抱いたようだった。こうしてプーチンは、2011年の議会選挙に於いて、争いの結果を合法的と見せる為に、投票者数の増強を図るよう号令を掛けた。これは、彼が初期に用いた手法で、彼のルールによって人々と一線を画し、政治空間を狭めようとする具体事例であった。クレムリンからは、私の勤務地に限らず全ての大使館に対し、海外在住ロシア人に必ず投票させるようにと業務指令が出されたのだった。
当時、私はモンゴルに勤務していた。選挙の際、私が非プーチン色の党に投票した理由は、もし、全く投票をしなければ、私の一票はプーチン率いる「統一ロシア党(United Russia)」に回される虞(おそれ)が在ったからだ。一方、同大使館主席課長として勤務していた私の妻は、棄権した。大使館従業員の内、投票しなかった者は僅か3名のみで、妻がその内の一人だった。
数日後、大使館上層部は、勤務職員の選挙投票名簿を検分し、棄権した者達を呼び出した。他の二人の職員は、投票しなければいけないとは知らなかったので、今度の大統領選挙には必ず投票する旨を約した。然し、私の妻は、投票しないのは憲法上認められた権利である点を主張しつつ、自分の意思で棄権したと説明した。これに対し、大使館次官は彼女への露骨なキャンペーンを展開した。彼は、それが原則破りの行為であると、妻を叫ぶように叱りつけ、“政治的背信者”のレッテルが彼女に貼られるだろうと告げた。彼は彼女を評し、著名な野党指導者アレクセイ・ナヴァリヌイ(Alexei Navalny)の“共犯者”と呼ばわったのだった(*訳者後注1)。そして、更に今度は、妻が大統領選挙でも投票を拒否するに及び、大使は1週間余りも彼女に話しかけず、彼の部下に至っては、妻と1ケ月以上、口を利く事がなかった。
道を踏み外したプーチン
私の次の配属先は、外務省内で核不拡散と軍縮を扱う部署だった。私は、大量殺戮兵器問題に加え、軍事と民間向け製品・技術の国際移転を統制する輸出管理規制を担った。この業務は、その頃、丁度(ちょうど)重要案件として議論され始めた事案であったと同時に、私にとってはロシア軍事力全容の知見を得る機会となった。
2014年3月、ロシアはクリミアを併合し、ドンバス地方での騒擾に肩入れを開始した。同併合の一報が報じられた時、私はドバイで国際輸出管理の会議に出席中だった。そこで旧ソヴィエト連邦から独立した国々の出席者達は、何が起こっているのか皆、私に聞きたがった。私は在りのまま事実を告げた。「君達の知る以外の事は、本当に何も分からないのだ」と。この様にモスクワ政府が外交官達を蚊帳(かや)の外に置いたまま、重大な海外政策転換を決定する事はその後、幾度(いくたび)も生じたのだった。
クリミア併合への反応は、私の同僚達の間では賛成派から複雑な心境を抱く者まで様々だった。ウクライナは西欧へと漂流し始めていたが、クリミア地方に就いては、プーチンの歴史観はその大半が捻じ曲げられ出鱈目(でたらめ)である中で、ある程度実際に根拠を有する数少ない場所の一つだ。即ち、クリミア半島は1954年にソヴィエト連邦内でロシアからウクライナに移管され、文化的にもキーウよりもモスクワに近いのだ(人口の75%は第一言語がロシア語)。同作戦行動は迅速にして且つ無血であったので、私達の間から抗議が上がることも殆(ほとん)どなく、寧ろ国内で強い支持を得た。ラブロフはこの時とばかりと、派手な宣伝を打ち出し、ロシアを擁護すると共に、ウクライナの“過激な国家主義者達”を非難した。私や多くの同僚達は、プーチンにとってクリミアを独立国とした方がより戦略的に優れ、且つより穏当な手段として推奨されるべきだったと考えたものだ。しかし、現実にはプーチンの選択肢にこの策はなかった。何故(なぜ)なら、“独立国クリミア”の場合には“伝統的なロシア国土の再構築”という栄誉をプーチンは得られないからだ。
一方、ウクライナ東部ドンバス地方に於いて、分離主義者達を造り上げ、同地を占領させる計画は、一層難題化した。この動きは主に2014年、初期の4ケ月間に生じたが、国内に於いて嘗(かつ)てクリミアを併合した時のような支持は得られず、更に国外から一段と激しい非難を招いた。多くの外務省職員達はロシアのこの行動により、極めて居住まいの悪い状況に置かれたが、誰一人としてその不満をクレムリンに伝達する者は居なかった。この事態を、結局、私は同僚達と共に次の様に結論付けた。即ち、プーチンがドンバス地方を獲得したのは、ウクライナの気を逸らし、ロシアに対する深刻な軍事的脅威が生じるのを防ぎ、且つウクライナがNATOとの協力を進めるのを喰い止める目的だったのだ、と。一方、「分離主義者達を焚き付けた結果、プーチン政権はキーウを窮地に追い込み、結局は同国をロシアに対する強大な敵へと変貌させた」点をプーチンに忠言する外交官は、譬(たと)え存在したとしても、それは極(ごく)少数だった。
クリミア併合及びドンバス地方作戦実施の後も、私の外交官としての仕事は欧州代表団に対し継続された。少なくとも、当面の間、それに変化はないように私には思えた。私達が軍縮協議に前向きに取り組んでいた事情もあり、当時私は、欧米側の出席者達とは尚も良好な関係を維持していた。ロシアは経済制裁を受けたが、当時は、まだ、同国経済への影響は限定的だったのだ。「経済制裁を発令するのは、相手が焦っている証拠に過ぎない、」ラブロフは2014年のある会見で強気にこう述べ、更にこう付け加えた。「それらは所詮(しょせん)、深刻な政治的打撃を与える道具とはならないのだ」と。
しかし、輸出入管理に携わっていた私は、西欧による経済制裁が、実はロシアへの痛烈な報復となったのを理解した。ロシア軍需産業は西欧製の半製品や部品に深く依存した。同業界がドローンエンジンやモーターを供給する際には西欧製部品を使用する。又、耐放射線機能を持つ電子部品製造も西側諸国に依存したが、これら部品は、ロシア高官達の情報収集や互いの交信に止まらず、精密攻撃の為に目標位置把握をする、衛星の生産に欠かせない技術だった。航空機が搭載する各種センサーの国内製造業者はフランスの企業と提携していた。観測気球を始め、航空機軽量化に用いられる特殊な布ですらも西欧側からの供給に頼っていた。経済制裁により、ロシアはこれら製品の入手経路を突然絶たれ、ロシア軍は実際には西欧側が考えるより弱体化を余儀なくされたのだった。斯(か)かる事態が如何(いか)にロシアの力を損なったかは、私達の課内では明白であったにも拘わらず、外務省が挙(こぞ)って実施した宣伝工作のお陰で、クレムリン自身が実情を把握するまでに、実際かなりの長時間を要したのだった。この状況を把握出来なかったツケは、現在のウクライナ戦争で顕著となる。即ち、ロシア側がこの侵攻に於いて極めて多くの難題に見舞われている理由の一つが経済制裁の効果なのだ。
ロシア軍事能力は低下していたにも拘わらず、外務省は尚も次第に好戦的姿勢を強めて行った。首脳会談や他国との会議の場で、ロシア外交官達が米国及びその同盟諸国を非難する場面が益々増えて行った。私の所属した輸出課も多くの国々と相対交渉を実施し、例えば、相手が日本の場合には、両国の相互協力余地を見出すことに焦点を当てつつ、機会を捉えては「原子爆弾を投下された恨みを忘れてはなりません」と欧米への敵意を焚き付けるのを忘れなかったのだ。
私は、少しでも実害を喰止めようと試みた。私の上司達が好戦的な表現や報告書を草稿した場合には、私は、語調を和らげ、そして交戦時紛(まが)いの過激表現や、何かにつけロシアが嘗(かつ)てナチスに勝利した事蹟を称えるのは避けるよう説得に努めたのだった。しかし、私達が起草した声明主旨は、結局、上司達が攻撃的な表現に手直しする結果、一層尊大なものと化して行った。これは、ソヴィエト時代の宣伝工作スタイルがロシア外交に完全復活を遂げた瞬間だった。
お手盛りの自画自賛に溢れる外務省
2018年3月4日、元ロシアの二重スパイのセルゲイ・スクリパリと娘のユリアが英国所在の自宅で毒を盛られ瀕死状態に至る事件が発生した(*訳者後注2)。そして10日も経たない内に、英国調査官達はロシアによる犯行と特定した。当初、私はこの発表を信じなかった。元ロシア側スパイのスクリパリは、国家秘密を英国に洩らした咎(とが)により母国で懲役10年超の有罪判決を受け服役中の所を、スパイ交換により自由となった身だった。私は、何故(なぜ)、彼が未だにロシア利害の対象になるのか理解に苦しんだ。と云うのも、もし、モスクワ政府が彼に死んでもらいたいなら、彼のロシア刑務所収監中に実行する機会がいくらでもあったからだ。
しかし、ある疑念は私の身近な所から生じた。私の所属部署は科学兵器に関する諸事管轄をする為、私達は、ある種の確信を以って、ロシアがこの毒殺未遂事件には関与していないと常日頃から随分と語り合ったものだった。しかし、外務省が躍起になり責任を否定すればする程、私自身、次第に確信が揺らぎ始めた。ロシア側はこの事件は、恐らく同国を毛嫌いする英国当局がロシアの輝かしい国際的威信を損なおうとする意図から行ったものだと主張した。英国には、勿論、セルゲイに死を望む理由が全くないが、他方、ロシア側主張は、本質を弁(わきま)えた議論と云うより、意識をロシアから逸らし、西側陣営へ責任転嫁を狙ったでっちあげの様相を否めず、それはクレムリンが使う常套手段のように見えた。そして、最終的に私は真実を受け入れざるを得なくなった。つまり、毒殺未遂は、案の定ロシア当局による犯行だったのだ。
それでも、多くのロシア人達は、ロシア政府による犯行とは認めていない。復讐の為に人を殺す犯罪者達が国を運営している実態を、国民が納得するのは容易でないのは想像に難くない。しかし、ロシアの嘘は他諸国には通用しない。化学兵器禁止機関(OPCW)会議の場で、多国間で構成される著名機関による調査を阻害しようと画したロシア側提案は、結局、殆(ほとん)どの参加諸国により却下された。ロシア支持に廻ったのは、アルジェリア、アゼルバイジャン、中国、イラン、そしてスーダンのみだった。同調査は十分な確証を以って、スクリパリ親子が服毒したのはノビチョクであったと結論付けた。それは、ロシアが開発した神経剤であった。
ロシア代表団はこの負けを正直に上層部へ伝達することも出来た筈だったが、彼らは技巧を凝らし全く正反対の挙に出のだった。即ち、モスクワに戻って、私が目にした、ロシアOPCW会議代表団からの長文の電信は、彼らが如何(いか)にして西欧諸国によって仕掛けられた、数多くの「反ロシア的で」、「馬鹿げた」、そして「根拠のなき」諸行動を打ち負かしたかを誇示する内容に終始した。肝心のロシア側の提案が却下された事実は、目立たぬよう、僅か単なる一文に圧縮し報告されたのだった。
この報告書を読んだ時、当初私は目を丸くした。しかし、彼らはじきに皆、外務省の重要な地位に起用されて行った。つまり、このような出鱈目(でたらめ)な報告書を上げる外交官達が上司の歓心を買い、省内で出世を得るのだった。モスクワ政府は、何が本当に起きているかより、そうあって欲しいと望むことが耳に入るのを切望する体質へと堕していたのだ。世界中のロシア外交官達がこの手法を心得て、我先勝ちにと競い合い、度を過ごして歯が浮くような電文を発する作業に狂奔して行った。
そして、2020年8月、再び、神経剤ノビチョクが使われ、今度は、ナヴァリヌイ毒殺未遂事件が発生すると、以降、ロシアの自己宣伝行為は愈々(いよいよ)突飛で異様な様相を呈し始めた。当時の電信内容は私を呆れさせた。ある電文は、西欧諸国の外交官達を「仕留められた猛獣」呼ばわりし、また別の電文は「ロシア側論調は重大にして何人(なんぴと)たりとて抗し得ない」と褒めちぎりるかと思えば、更に他のものは、ロシア外交官達が「西欧諸国が声を上げようと試みる、取るに足らない様々な抵抗の芽を、如何(いか)に容易(たやす)く、事前に摘み取って防御を果たしたか」を自画自賛するものだった。
この様な振る舞いは、外交官の資質に悖(もと)るに止まらず、極めて危険なものだ。本来、健全な外務省とは、世界情勢に関し、飾り気ない率直な見解を提供し、指導者達が十分な情報に基づいた決断を下せるよう設計されるべきものだ。これに反し、ロシア外交官達は、不都合な事実を彼らの報告書に記載する場合にも、彼らの上司がその遺漏に気が付かぬよう、それら小さな貴重な情報を、敢えて山のような美辞麗句によって埋没させるのだった。例えば、2021年時点で、ある電信には「ウクライナ軍は2014年当時に比べて強化されている」との報告が含まれていたかも知れない。しかし、その場合でも、この様な本来認めたくない情報は、必ず、無敵のロシア軍を称える長文の賛辞のその後に、極(ごく)申し訳程度に軽く添えられるだけなのだ。
現実からの乖離は益々激しさを増して行った。それは2022年の1月、モスクワ政府の働き掛けによりNATO見直しに関する条約を協議する為に、米国とロシアの外交官達がジュネーブの米国大使館に於いて会談した時の事だ。ロシア外務省が、次第に西側安全保障地域に於ける危険拡大に焦点を当てる中、ロシア軍はウクライナ国境周辺に結集し始めていた。この会議で、私はジュネーブ出先駐在の支援官として参画し、ロシア代表団の現地業務遂行に必要な手助けを、要請があれば提供する役目だった。そういう訳で、私にもロシア側提案の写しが手渡された。その内容は、実に驚愕すべきものだった。それは、西欧側にとっては、決して受諾出来ない諸条件が羅列され、例えば、NATOに対し1997年以降に加盟した諸国から軍隊と武器撤退を求め、対象にはブルガリア、チェコ共和国、ポーランド、及びバルト諸国が含まれた。私は、この条件を起案した人間は、既に戦争を念頭に準備を進めているか、または、これまで米国と欧州が成し遂げて来た経緯を全く理解していないか、或いはその両方かと考えざるを得なかった。休憩時間に、私はロシア側代表者達と会話したが、彼らも当惑していた。私はこのことを上司へ質問したが、彼自身も驚きを禁じ得なかったのだった。これら無茶な諸条件の中でも、とりわけ「NATOは今後、新しい加入国を一切認めてはならない」などと言う提案を携え、一体、どんな顔を下げて米国側に会いに行けばいいのか、誰にも分らなかった。そして、そうこうする内、遂にこの書類の出処(でどころ)が判明した。それはクレムリンからの直接指令だった。従い、その内容に対し誰も疑問を差し挟む余地はないのだ。
私は、同僚達が自分達の行っていることに混乱するばかりでなく、個人的な懸念を表明してくれることを期待した。しかし、多くの者達は、クレムリンが繰り出す数々の嘘にも完全に満足していると私に語った。しかし、ある意味、彼らは、ロシアが取った行動の責任から逃れようとしているに過ぎなかった。即ち、彼らの行動に関し「自分達は上からの命令に従っているだけなのだ」と自他共に対し言い訳をしているのだ。私はそのように理解した。それよりも、重大な問題は、多くの者達が、次第に好戦化して行く自国に対し誇りすら持ち始めた点だ。私は、彼らの言動は摩擦を引き起こし、ロシアを救うには逆効果になると、幾度も忠告したが、彼らはロシアの保有する核戦力を寧ろ誇示した。ある者は「ロシアは偉大な国だ」と私に云い、更にこう続けた。「他の国々は、我々の言うことに従わなければならないのだ」と。
狂った列車の行き着く先は?
先述した1月の米ロ会談の後にも、私はプーチンが全面戦争を仕掛けるとは思いも寄らなかった。2022年時点のウクライナは2014年に比べ、国内はより団結し且つ西側陣営寄りになっていた。誰も花束を抱いてロシア軍を迎える者などいない。潜在的なロシア侵攻に対し、西側が発する戦闘的発言から見て、米国及び欧州が強硬に対応するのは明白だった。軍備と輸出の仕事に係っていたお陰で、私は、ロシアの軍事力は欧州最大の隣国を転覆させるには十分でなく、ベラルーシを例外とすれば、その他外部の国々から効果的支援を得るのは困難と判っていた。私は、プーチンが、彼を現実から蓋(おお)うイエスマン達に囲まれてるとは云え、この事実を知っているに違いないと認識していたのだ。
あの侵攻が、徳義上、私が退職を決断した直接の原因だ。それでも、ロシアから如何(いか)に脱出するか、その経路が問題だった。戦争勃発の際、妻は私が駐在するジュネーブを訪れていた。彼女はモスクワ所在の産業協会を最近退社していた。しかし、私が退職を正式に表明した場合、私も妻もロシア国内で身に安全の保証はない。従い、私が辞表を出す前に、彼女は 飼い猫を連れ出す為に一旦モスクワへ戻る事にした。しかし、その作業はとても複雑で、手続きには3ケ月を要すると判明した。その猫は家に迷い込んで来た子猫だったが、スイスに連れて行くには不妊処置と予防接種が必要だった。間もなくして、EUはロシア航空機の乗り入れも禁止した。この為、モスクワを出て再びジュネーブに戻る為に、妻は飛行機を3便乗り継ぎ、2回タクシーに乗り、リトアニアとの国境を徒歩によって2回渡る必要があったのだった。
一方、この間、私は同僚達がプーチン支援へと陥落して行く様を目の当たりした。戦争開始初期には、まだ大概の者達が得意満面の表情だった。ある者はこう叫んだ。「遂にこの時が来た! アメリカ野郎どもに目にもの云わせてやる、世界で一体誰がリーダーかって事をな!」そして数週間後にキーウ攻略電撃作戦の失敗が明白になった時には、大陸弾道弾に関する権威でもあった、ある高官ですらも、驚くべき事に「ロシアはワシントン郊外へ核弾頭を打ち込むべきだ」と私に語り始め、更に加えて云い放った。「そうすれば、奴ら恐怖で小便洩らして、慌てて俺たちの所にすっ飛んで来て和平を懇願するだろうよ」と。彼の言葉は半分冗談とも解釈できた。しかし、ロシア人は一般的に、米国人は軟弱に過ぎ、何に対しても自らの命を危険に晒すことはないと考える傾向がある。その証拠に、私が核攻撃を仕掛ければ壊滅的な報復攻撃を被る点を指摘しても、彼は「いや、そんなことが起こる訳がない」と嘲笑するのだった。
恐らく、何十人もの外交官達が静かに職を去った筈だ。(今の所は、モスクワ政府と公式に正面切って離縁したのは私だけだ)。しかし、大半の同僚達は、皆、良識を備え、有能と私が一目を置く人材だったが、結局は職に留まった。ある者は「一体、俺たちに何が出来るのだ、所詮(しょせん)権力に使われる駒じゃないか」と反論し、更に言い訳のように付け加えた。「君もモスクワに勤務していたなら、もっと実態が判るよ」と。他の者達は、私との私的会話に限り、状況は狂気の沙汰である認識を共有出来た。しかし、それら見解が、彼らの日常業務に反映されることはなかった。彼らは、引き続き、ウクライナ侵攻に関する嘘を巻き散らして行った。現実には在りもしない、ウクライナ保有化学兵器に関する報告書を、私は連日のように目にしたものだった。私が省内を歩くと、その廊下はとても長く、それに沿って外務官各位の個人事務室が効率的に配置されていたが、その時、私の有能な同僚達でさえ、その幾人かは日がな一日中、部屋のTVでロシア宣伝を流しっ放しにしている姿を目撃した。それは、恰(あたか)も、彼ら自身で自分を洗脳するよう努めているかのような異様な光景だった。
私達の仕事の全ての性格は不可避的に変化した。先ず、西欧諸国の外交官達との関係が崩壊した。私達は、彼らと殆(ほとん)ど全ての打ち合わせを停止した。欧州から参加していた幾人かの私の交渉相手は、国連ジュネーブ事務所施設内で顔を合わせても、挨拶を交わさなくなった。その代わり、私達は中国に接近することに集中した。同国はロシア安全保障問題に「理解」を示した為だ。しかし、彼らとて戦争に言及するのは注意深く回避していたのだった。私達は、また、より多くの時間を集団安全保障条約の他メンバー(アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギスタン、及びタジキスタン)との協議に費やした。私の上司は、同条約をロシア自身のNATOとして得々として引き合いに出すのを好んだが、加盟諸国の実態は決して一枚岩ではなかった。侵攻後、私のチームはこれら諸国と幾度も協議を実施したが、私たちは敢えて戦争に就いて触れるのを避け、専ら科学兵器と核兵器に関する話題に集中させた。ウクライナに所在するとされる化学兵器研究所に関し、私が中央アジアの外交官と会話した際、彼は馬鹿げた考えだとしてこれを却下し、私も彼の意見に賛同したのだった。
それから数週間後、私は辞表を出した。こうして、隣国を征服する権利すら天から与えられていると信じて疑わない組織に加担する立場から、私は遂に足を洗った。
今後ロシアが直面する衝撃と恐怖に備える
戦争が進行するに連れ、現実に西欧の指導者達はロシア軍の様々な失敗を目にするようになった。しかし、軍事同様、ロシア外交政策も崩壊してしまった点を彼らは見落としている。多くの欧州高官達が、ウクライナ戦争を交渉により終結させる必要性に就いて説き始めており、彼ら自身の国々がキーウ政府を支援する結果として被る、エネルギー価格や経済的コストの負担による疲弊が増大した際には、交渉妥結に向けウクライナに圧力を掛ける誘惑に駆られる事態すら、今後は十分に生じ得るだろう。特に、もしプーチンが核兵器使用を以って好戦的な脅しに出た場合には、西側諸国が、ウクライナに対し平和交渉を呼びかけるよう仕向ける傾向に一斉に靡(なび)く公算が高い。
しかし、プーチンが権力の座にある限り、ウクライナにとって実のある交渉を行う相手はモスクワ政府内に存在しない。外務省は信頼に足る仲介者たり得ず、その他のロシア政府組織にも期待は出来ない。これらは全てプーチンと彼の目指す帝国構想の延長線上であるに過ぎない。如何(いか)なる停戦であっても、それは所詮(しょせん)、ロシア側が攻勢に出る為に、再軍備の機会を与えるだけなのだ。
プーチンを止める可能性は唯(ただ)一つだ。それは、全面的な完敗を喫する場合だけだ。クレムリン政府はロシア国民に対し、好きな様に嘘をつくことが出来、外交官達に対し、他国へ嘘をまき散らすよう指令を出すことも可能だ。しかし、ウクライナ兵士達は、ロシア国営放送を全く歯牙にも掛けない。更に、局地のロシア敗退は最早(もはや)ロシア国民の目から隠せないことは、ウクライナ軍が数日の内に、ハルキウ地方大半を奪還する一連の過程に見た通りだ。これに対し、ロシア国営放送のパネリスト達は損失を嘆くことしかできなかった。ネット上には、タカ派のロシア評論家達が大統領を名指しで非難した。また、ロシア軍が大敗を喫した折、プーチン大統領が、モスクワ市内に完成した大観覧車の開所式に出席した事を揶揄(やゆ)し、ある者は広く流布するオンラインポストへ次のように書き込んだ。「この非常時に、巨額のルーブルが注ぎ込まれた、大観覧車の完成式典を主宰するとは、一体、あなたに何が起こったのだ?」(*訳者後注3)
これら損失及び彼への批判に対し、プーチンは大量の人々を軍隊に徴兵する策で応じた(モスクワ政府は、30万人の動員を発表したが、現実の数字はそれ以上と云われる)。然し、徴兵強化によっても長期的な課題は解決出来ない。ロシア軍は、戦意が低く装備も粗悪な事情を抱え、これら諸問題は動員発令では克服不可能なのだ。西側陣営からの大規模な軍事援助を得ることにより、ウクライナ軍は、一層深刻な損害をロシア軍に与え、同軍を他地域からも撤退させることが可能だろう。即ち、ウクライナが最終的には、ロシア兵を2014年以来紛争が続いたドンバスの複数領域から駆逐するのも夢ではないのだ。
万一、斯(か)かる状態が出現すると、プーチンは自身が窮地に追い込まれたと知る。彼は、戦争敗退に対し核兵器で対抗する手段も持つ。しかし、自身の贅沢な生活を愛するロシア大統領は、核を使用すれば、戦争はエスカレートし彼自身の生命が危険に及ぶ事を承知しているに違いないのだ(万一、彼が理解していなくとも、彼の側近達が承知する為、彼らはそのような自殺行為の命令に従うのを回避するだろう)。プーチンが、全面的総動員令 ―大半のロシアの若者達を徴兵する挙に出ること― も可能だが、これは一時凌ぎに過ぎず、戦闘でより大勢のロシア人が戦死すれば、国内での不満は一層高じるだろう。ロシアは結局、兵を引く可能性もあり、その場合、ロシア広報宣伝家達の手によって、恥ずべきその敗退の責めはプーチンではなく、その側近達へ負わせて彼らを失脚させると云う、ハルキウ陥落の際に取ったと同様の手段を用いるかも知れない。しかし、それは、プーチンが自身の側近達を追い出すことを意味する為、この場合、最も近しい仲間達でもプーチン支援を続けるのは危険だと感じ始める。その結末は、ニキータ・フルシチョフ政権が1964年に崩壊して以来、モスクワ政権内の所謂“宮廷クーデター”の再来となる可能性がある。(*訳者後注4)
もし、プーチンが政権から追われると、ロシア将来は深い混迷に陥るだろう。彼の後任者が戦争継続に固執する可能性も、特にプーチン取り巻きの主要顧問達が皆、保安庁(旧KGB)出身者である事実に照らせば、大いに在り得る。しかし、誰一人としてプーチンに匹敵する力を持たぬ為、同国は政治的乱気流の期間に入る公算が高い。混沌とした状況に沈む可能性もある。
局外者である、分析者諸氏はロシアが国内の重大危機に遭遇する様子を嬉々として眺めるかも知れない。しかし、ロシア国家が突然跡かたもなく崩壊するのを心待ちにする前に、よく考えた方がよい。それは、ロシアが大量に保有する核兵器が流出する危険だけに止まらない。多くのロシア人は、今や微妙で複雑な精神空間の中に陥っているのだ。この空間とは、即ち、貧困とこれまで注入され続けた大量のプロパガンダ ―これらは憎しみと恐怖と同時に、また優越意識と絶望感を人々に植え付けた― によって造り出されたものだ。もし、国家が崩壊し、或いは経済的且つ政治的大変動に見舞われた場合、そのような精神的不安定な環境の中で、同国が益々窮地へ追いやられる事態となる。そうなれば、ロシア国民はプーチンよりも一層好戦的な指導者の下に結束し、内戦を惹き起こし、海外に対しより攻勢を掛け、或いはその双方を実行する可能性をも秘めるのだ。
もしも、ウクライナが勝利し、プーチン政権が崩落した場合、西側諸国が取り得る最善策とは、侮辱を与える事では決してない。寧ろ、その反対であるべきだ。即ち、支援を施すのだ。この策は、一見すれば直感に反し、寧ろ逆効果を及ぼすように見えるかも知れぬが、いずれにせよ如何(いか)なる援助を提供する場合にも、それはロシア側で政治改革が実施される点を必ず条件に付す必要はあるだろう。しかし、ロシアが敗戦した後には、財政的支援を必要とし、一方、米国や欧州は相当程度な資金援助の実施によって、プーチン後の権力闘争に於いて強い影響力を確保出来るのだ。例えば、彼らが、ロシアの権威ある経済・行政官僚の一人を支援し暫定期間の指導者とし、そして、国内民主的勢力が力を蓄えるのを支援できる。また、西欧諸国が援助を実施する事も重要だ。1990年代、米国に欺かれたとロシア国民達は感じたが、その二の舞を回避する目的に加え、これは同国民が彼らの帝国が消失する事態を最終的に受け入れる手助けとなるだろう。こうして、ロシアに於いては、真に実力を備えた外交官の一団により、新しい外務政策が展開されると期待できる。その時初めて、現世代の外交官達では成し得なかった ―ロシアを責任感ある誠実な国際的な共同作業者へと変じる― 責務を、彼らによって果たすことが可能になるのだ。
(了)
【*訳者後注】
*1)アレクセイ・ナヴァリヌイ(Aleksei Navalny):
1976年生、ロシア人。弁護士、ロシア反体制政治活動家。当稿に記述ある、2011年のロシア下院議員選挙と翌2012年の大統領選挙に関連し抗議活動に参画。前者では選挙不正行為を訴える反政府デモに参加、後者ではプーチン就任後に反政府デモと集会を主導、何れも当局に拘束された(後に釈放)。2014年「進歩党」結成し、党首として活動。数々の反政府運動を呼び掛ける(2017年3月、メドヴェージェフ首相の不正蓄財を動画で糾弾、並びにモスクワの大規模反政府デモ実施、等)。2018年8月、ロシア当局による毒殺未遂事件に罹災。2021年1月、ロシアの命令に従い帰国後、彼は拘束され同国刑務所に収監、現在も服役中。尚、彼の拘束後間もなく、関連団体によって、プーチンが個人所有する「豪華宮殿」の実態が暴露され、世界に動画拡散した出来事は記憶に新しい。(彼が党首だった進歩党は2021年4月解散されている)
当稿後段にも触れられる神経剤による殺人未遂事件は、機内で異常を訴える彼の動画拡散も手伝い当時、世界に衝撃が走った。事件概要は次の通り。2020年8月20日、シベリアからモスクワへ向かう機中に服毒され重体に陥り、機がシベリア内緊急着陸後、結局、身柄はドイツの病院へ確保され一命を取り留める。検査の結果、使用された毒物はロシアが兵器用に開発した神経剤ノビチョクであると判明した。犯人に就いては、その後ナヴァリヌイ氏がドイツに療養滞在中、英国報道機関「べリングキャット」と協力し執念の調査を通じ、ロシア情報機関の連邦保安局の職員を特定(ある職員がナヴァリヌイ氏自身からの囮電話に引っ掛かり、会話中自白)したが、ロシア政府は全面否定。
*2)セルゲイ・スクリパリ(Sergei Skripal):
1951年生、ロシア人。同国情報機関員。2006年、英国二重スパイ活動の罪を受け、ロシアで禁固13年の刑に服役中、スパイ交換により2010年に釈放、後に英国へ亡命。2018年英国で、娘ユリアと共に暗殺事件罹災。猛毒である神経剤ノビチョクが用いられたが、両名命は取りとめた。ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)局員の犯行と裏付ける証拠が挙がり、犯人はインターポールにより現在も国際指名手配中。
*3)大観覧車の記念式典:
2022年9月10日(土)、プーチンはモスクワの大観覧車のお披露目式に出席、欧州にこの規模に匹敵するものは存在しないと激賞した。折しもウクライナ軍は9月6日以降、ハルキウでの攻勢を開始し、ロシア軍が敗退を余儀なくされる中での行事で、国内から一部反発がでた。尚、祝典翌営業日に同観覧車は故障し、乗客大勢が一時、宙に取り残される失態が発生するオチも付いて海外メディアからも揶揄された。
*4)宮廷革命(1964年):
ニキータ・フルシチョフ(1894‐1971年)はソヴィエト連邦政治家。スターリンが死去した1953年から1964年、自身が失脚する(所謂、宮廷クーデター)までの10年余、同連邦最高指導者として君臨。当該事件は、フルシチョフが国内権力を一手に握る(第一書記長と首相兼任)弊害が内外に対する粗野な暴政として現れ、これを危惧したソヴィエト政権内部より彼の排除計画が隠密に画され実行に移されたもの。1964年10月、国内リゾートで静養中のフルシチョフは、突如、緊急と称し「臨時中央員会」にモスクワへ招集されるが、これは彼を追放する為のクーデター計画で、同会議席上、最高指導者からの退任を余儀なくされた。後任にブレジネフが第一書記長就任。以降、フルシチョフはモスクワ郊外別荘地で質軟禁状態に置かれた。
(参考) ソヴィエト連邦成立以降、過去百年のロシア最高指導者推移一覧:
任期 人名 役職名 退任理由・形態
1922-24年 ウラジミール・レーニン 人民委員会議議長 死去
1924-53年 ヨシフ・スターリン 共産党書記長 死去
1953-64年 ニキータ・フルシチョフ 共産党第一書記 政変(宮廷クーデター)
1964-82年 レオニード・ブレジネフ 共産党書記長 死去
1982-84年 ユーリ・アンドロポフ ―同― 死去
1984-85年 コンスタンティン・チェルネンコ ―同― 死去
1985-91年 ミハイル・ゴルバチョフ ―同― ソヴィエト連邦崩壊
1991-99年 ボリス・エリツィン 大統領 禅譲、後継者指名
2000-08年 ウラジミール・プーチン 大統領 密約による
2008-2012 ドミートリー・メドヴェージェフ 大統領 プーチンの横車による
2012- 現在 ウラジミール・プーチン 大統領 ?
= End of the documents =
コメント