著者/肩書: ケネス・ロゴフ(KENETH S. ROGOFF)、ハーバード大学教授(経済学)、外交問題評議会(Council on Foreign Relations)上席研究員。元IMF主席エコノミスト(在任期間2001-2003年)
[論稿紹介 :byブログ責任者]
日本の中央銀行、日銀は12月20日、市場圧力に屈する形で長期金利上方修正余儀なきに追い込まれた。相も変わらず頑迷にして無責任極まりない日銀総裁及び政策委員達による運営は、英知と柔軟性からかけ離れ、政府と結託し財政と国民生活を破綻と窮乏の危うきに陥れるものだ。この儘放置すれば、日本は財政破綻の坂を転げ落ち、早晩挽回不能となる一線を越える瞬間は眼前に迫る危機的状況だ。一人でも多くの日本国民がこの状況に覚醒し、狂気と云える政府・日銀の現行異常緩和策継続の誤りに対し、根拠を以って異を唱え行動を起こすに必要な知識を整理するに、恰好の基礎的論文を、著名経済学者が此処に提供する。
(論稿主旨)
世界経済が感染症拡大による景気後退の影響から脱する途上に於いて、過去2年間に生じたインフレーション危機は、多くの世界を驚かせた。世界先進諸国の物価が過去30年間に亘り、緩やかな上昇を遂げた後、突如として、英国、米国及びユーロ圏諸国では二桁近い、或いはそれ以上のインフレーションに直面したのだ。更に、多くの新興市場や発展途上経済圏に於いて物価は更に急激に高騰し、その上昇を率は、例えば土耳古(トルコ)では80%を超え、アルゼンチンでは100%近くに迫る勢いだ。
確かに、2020年代に世界に拡大したインフレーションは、それでも過去数十年に於ける最悪期の状況には遥か比べるべくもない。1970年代、米国は10年間に亘り年間物価上昇率が6%以上に高止まりし、1980年には年率14%に達した。日本や英国ではインフレーションの最高率は20%以上に及んだのだった。1990年初頭、低・中所得諸国では、状況は更に悪化した。即ち、それら40以上の国々で40%を超えるインフレーションが発生し、中には1000%乃至それ以上の上昇事例も発出した。それでも、2021年及び2022年に入ると、各国政府や政治家達はウクライナ戦争や、その他の巨大な様々な衝撃に見舞われる内に、急激な物価上昇に直面している事に、遅蒔き乍ら漸く気付いたのだった。
有権者達はインフレーションと不景気を嫌う。2022年8月の世論調査に拠れば、米国人の4人に3人 ―実に77%― が投票を決する最大の懸案は経済だと回答した。米国物価が一段落した9月の時点で行われたマリスト大学世論調査でも、有権者にとってインフレーションが、人工中絶と健康医療問題を押さえ、引き続き最大の関心事だった。2022年中間選挙の行方は、最終的には、これ迄の多くの選挙同様、経済以外の諸問題に比重が懸かる可能性が在るとは云え、経済情勢は投票者達の選好を占う極めて重要な先行的指標であり、政治家達はそれを心得ている。
新しく到来したインフレーションに関し、これ迄、実に多くの議論は政治と国際的出来事に焦点を当てて来た。然し、それらに劣らず重要な要因として、中央銀行が実施する諸政策と、それらを形成する力関係を忘れてはならぬ。此処(ここ)長年に亘り、「独立性を確保した中央銀行」の登場によって、最早インフレーションは永久に制御され得るのだと多くの経済学者達は考えて来た。事実、1990年代初頭、多くの国々で中央銀行がインフレーションの水準に対し目標を設定した。斯様に2012年時点で、米国に於いても物価上昇率2%の目標が連邦準備銀行の掲げる明確な政策の一部になった。更に、経済が新型コロナウィルス感染症拡大へ突入する中、殆(ほとん)どの者達は、最早1970年代のような高インフレーションの再来は有り得ないと考えた。こうして、政府並びに中央銀行は、感染症拡大により惹き起こされる景気後退を恐れる余り、一足飛びの景気回復策を打つ事に心を捉われて行った。即ち、大規模財政支出諸策と超低金利持続との合算によって出現する可能性がある、インフレーションリスクを彼らは軽視したのだ。何兆ドルをも市場経済に注ぎ込む、巨大経済刺激諸政策一式はトランプ大統領が2020年12月に署名後、更にジョー・バイデン大統領によって2021年3月承認されたが、当時その危険性を指摘した経済学者は極稀(ごくまれ)だ。加えて、同学者達は、世界的感染症拡大の後に、供給網停滞問題が解決される迄にどれ程の時間を要するか、或いは、露西亜のウクライナ侵攻の如き、地政学的衝撃が生じた場合、世界経済は如何に持続的な高インフレーションに見舞われ得るかと云う諸課題を予測する事が出来なかった。斯くして、利上げ実施を余りにも長く躊躇する間に、インフレーションが最早止められぬ趨勢として根付いてしまった挙句、今頃になって各国の中央銀行は、自国経済を転覆させぬよう、又世界経済を底の深い不景気に陥らせぬよう、慌てて手を打つべく右往左往する状況なのだ。
諸国の中央銀行は、経済に対し己の考察が近視眼的であった事の報いを受けたに止まらず、更に又、経済と政治上の劇的な諸変化に激しく翻弄される事となった。今般2020年代の中央銀行は、その舵取が困難な点は1970年代にも匹敵する。当時、世界経済はアラブ諸国の石油禁輸措置、並びに戦後のブレトンウッズ体制下の固定為替レート制崩壊と云う大事件に直面していた。然し、今日に於いては、戦争、感染症蔓延、及び旱魃(かんばつ)等、世界を揺るがす大規模な衝撃が次から次へと、或いは、同時にやって来る。一方、過去20年間大半の期間、長期的な経済成長を支えて来た国際化の諸力は、今や、中国人口の急速な老齢化と、中国と米国との地政学上の摩擦との双方要因によって、逆風に変じた。これら諸変化は何れも生産性と成長に逆効果であるのみならず、全てが現在の高インフレーションを招いた要因と云え、更に将来に於いても継続し同様に悪作用を及ぼすだろう。
中央銀行にとっては、その特性上、供給不足による衝撃と云う問題は、抑々(そもそも)対処するには難度が高い。単純な過剰需要 ―例えば過度な経済刺激が起因― による経済的衝撃の場合、中央銀行は金利操作により成長率とインフレーション率、双方の安定化を図る事が可能だ。これに比し、供給不足を原因とする経済衝撃に対しては、中央銀行は片やインフレーションの鎮静化と、もう一方、景気減速と労働者の失業率上昇との間に、二律背反し選択困難な意思決定を迫られる。更に、譬えもし中央銀行がインフレーションと闘うべく、十分な利上げ実施の用意が在ったとしても、20年前に比較し、彼らの自由度(独立性)は今日著しく縮小しているのだ。即ち、2008年金融危機に際し、中央銀行諸政策は、「万人の便益に資するべし」と云う通念を最終的に放擲してしまったのだ。この結果、中央銀行の政治的正当性は損なわれた。即ち、大恐慌以来最悪と云えるあの不景気の最中、人々が職を失い、家を失ったのだ。その結果、今日の中央銀行は、需要を何処迄(どこまで)抑制して行くかと云う問題に関しては「更にもう一段深い景気後退に陥る危険をも冒すか否か」を慎重に考慮する事から免れ得ない状況になった。景気後退期に在って、もし政府の社会保障が十分でない場合には、中央銀行は斯かる問題を果たして考慮しなくても良いものだろうか? この手の懸念が通貨政策とは無縁の外部問題だとして切り捨てる者が、もし居たとしたら、それは過去数十年の中央銀行責任者の表明諸演説に目を通さぬ故の不見識が為せる業と云え。即ち、最早、それらの問題に就いての考慮が欠かせないのだ。
今後、在り得る情景として、一連の衝撃的供給不足が未だ冷めやらぬ最中、各国中央銀行は、政治家達も金融市場も未だ思慮の及んだ験しのない、長期的な変遷期との闘いを余儀なくされるかも知れない。無論、2021年、2022年の異常な上昇率を惹き起こした直接的諸要因の多くはやがては収束するにせよ、嘗ての如く超低インフレーションが半永久的に続く時代は、最早早々には戻って来ないだろう。それに代え、現実は、国際化に逆行する趨勢、政治的諸圧力増加、及びグリーン・エネルギー転換に伴い生じる種々衝撃等、様々な複合的要因により、世界は今や長いトンネルへ入りつつあると認識すべきだ。其処では、上昇基調で動きが荒いインフレーションが、二桁とは云わぬ迄も、明らかに2%を超えて持続する公算が高いのだ。中央銀行に従事する大半の者達は、高インフレーション率を長く放置する結果、長期インフレーション期待が顕著な迄に膨らみ始める事が最大の悪手であると信奉する。又、ウオールストリートの経済学者達の大多数も、この議論に賛同すると見て先ず差し支えない。然し乍ら、彼らは、今後10年、益々苦渋に満ちた選択を余儀なくされるばかりか、斯かる事態は間違いなく、近い将来に直ぐにもやって来ると覚悟する事が必要だ。中央銀行が誘発する深刻な景気後退 ―然も、それは2008年と2020年の二つの大不況以来、初めての到来となる― によって現われる社会的及び政治的諸影響は、極めて顕著にして且つ重大である点を心得る必要が在るのだ。
「通貨を回す」積極的金融政策
2021年春、米国インフレーション率が毎月急上昇始めて以来、ワシントン政府内は、その責めをバイデン政権の過剰な経済刺激財政出動に帰す派と、片や、主原因は政権能力を越える世界的諸要因とする派とに二分された。然し、何れの議論も著しく説得性を欠く。先ず経済刺激策を主因とする議論は明らかに行き過ぎ、当を得ていない。と云うのは、今日、世界中の国々は、各国がそれぞれ大きく異なる規模で刺激策を実施するに拘わらず、一様に高いインフレーション率に見舞われているからだ。例えば、英国やユーロ圏諸国では、経済刺激諸策はかなり小規模であったが、米国より高いインフレーションに見舞われ、一方、豪州、カナダ、及びニュージーランドでは米国より若干低い程度のものだった。又、一部の者達は、バイデン政権が化石燃料パイプラインや開発計画に突如制約を掛けたのがインフレーションに貢献したと指摘したが、寧ろ生産や産出量に対する主な影響は将来に生ずるものだ。
然し、インフレーションの責めを、露西亜大統領プーチンによるウクライナ戦争や、中国習近平主席による新型コロナウィルスとの戦い、或いは、感染症拡大後の供給網破断に帰するのも、又、誤りだ。一つの事実として、米国では、プーチンがウクライナ侵攻開始する遥か以前の2021年の時点で、既に物価は上昇し始めていた。そして、インフレーションは、当初、それぞれの国々で非常に異なる有様で明白に現れた。世界の多くの国々では、食糧とエネルギー価格高騰がインフレーション増進の主要因だったが、米国に於いて最も顕著な価格上昇は、賃貸料、自動車価格、衣料及びリクリエーション分野で生じた。この時点で、第二、第三の波が経済に影響を及ぼし始め、物価上昇は多くの分野でより広範に拡大して行ったのだ。
多くの経済学者達は、連邦準備銀行こそを真の張本人と考える。その理由は、同行が利子率の上昇を2022年3月まで行う事がなかったが、この時点に於いて、インフレーション率は既に1年間に亘り急上昇していた為だ。彼らはこの遅れこそが重大な誤りであると指摘し、聊(いささ)か、後知恵で物言うのは容易(たやす)い面があるものの、もしも早く手を打っていたら、世界的感染症拡大による最悪の諸効果は早急に管理可能になっていた筈だ、と主張する。それでも、この過ちの起源は、連邦準備銀行と同幹部達丈に限られず、経済学者達の間に広く認められたある合意事項に存在する点を見落としてはならない。即ち、大概の場合には、マクロ経済の刺激策は「大きな財政赤字と低金利を伴い、寧ろ過大に実施する方が、足らないよりは好ましい」とする見解が、これ迄経済学者達に深く根差し、支持されて来たのだった。
感染症が拡大した初期段階で、大規模な財政支出計画が世界中で実行された際には、殆ど誰一人として之に異を唱える者はいなかった。政府をして財政力を温存させる意義は、正に、甚大な景気後退や大惨事に直面した際に、弱い立場の人々を守るべく、大規模な行動を起こす丈の諸原資を保持している必要がある事に尽きる。然し、問題は、何時それを止めるかと云う事だ。刺激諸策の財政出動は不可避的に政治的問題であり、巨大規模の救済法案を推進する者達は、平時では議会承認が不可能な、社会保障制度拡大をこの機会に実現を図る事に強い動機を抱く。之こそが、一度(ひとたび)危機が去った後に、刺激諸策を減じる話が出る事が滅多にない理由の一つでもあるのだ。
大統領選挙の際、バイデンは当選の暁には政府支出を拡大する旨を約束したが、之は新型コロナウィルスからの経済回復を軌道に乗せる事も然(さ)り乍(なが)ら、その主目的は、経済成長の成果をより平等に分配する事と気候変動への国家対応に、際立って多くの資源を投じる事に在った。レームダック状態になったトランプ大統領は、選挙に勝利した敵対者の野望を挫く目的から、彼独自に9千億ドルの新型コロナウィルス救済法案を2020年12月に成立させたが、この時、米国経済は既に力強い回復軌道に乗っていたのだ。その僅か3ケ月後、経済は尚も回復途上に在ったが、バイデン政権下の民主党は、新たな1.9兆ドルの経済刺激策を議会通過させ、ニューヨークタイムスのコラムニストにしてノーベル賞受賞者のポール・クルーグマンを始め、多くの著名経済学者達も、同策推進を支援した。つまり、クルーグマンや他の者達は、同刺激策は景気回復を促進し、感染症拡大の次の波に対する備えを提供し、それでもインフレーション勃発に火を付ける危険は最小限であろうと論じたのだった。一方、2021年初頭時点に於いて、バイデン刺激諸策を妥当とする支配的見解に対し、既に疑問を呈する向きもあった。その代表例として、ハーバード大学経済学者、元米国財務省長官のローレンス・サマーズは、慎重に検討した結果、同法案はインフレーションを惹き起こす可能性がある旨、警告を発し始めていた。此処(ここ)数十年間、深刻なインフレーションは発生していなかったが、サマーズは単純にして説得力ある洞察力を持っていた。つまり、何兆ドルと云う大量通貨を、厳しい供給制約の下、若干の需要不足に置かれた丈の経済に投じれば、之はインフレーションを惹き起こさずには済まないのだ。それは、余りに大勢の人々が一斉に自動車購入に走れば、自動車価格が上昇するのと同じ仕組みと云う訳だ。
サマーズの議論の主要点は、刺激策によって煽られた過度な消費行動は、中国を含む海外に所在する供給者達によっても賄う事が出来ない事だ。通常ならば、米国消費者達が消費三昧に走った場合、貿易赤字は拡大するが、之により少なくとも部分的には、国内物価の上昇圧力を減じる効果を持つ。即ち、もし米国の需要が国内供給を越えた場合、米国人達は尚も海外から製品を買う事が来るのだ。然し、2021年春、米国経済が感染症拡大から最も早く回復する一方、世界供給網は米国々内供給網に比べ、遥かに無秩序で混沌とした状況に在り、海外製品輸入は限定的に止まっていた。経済学者達の見立ては細部で多少異るが、新型コロナウィルス禍発生直後以降の累積物価上昇率は、少なくともその半分が超過需要を要因とする見解は至当と云えるのだ。
需要と供給能力の巨大な不釣り合いに直面し、本来であれば、連邦準備銀行が踏み込んだ行動を取る事も可能であった。無論、同行の職権では、政府経済刺激諸策の予算割り当てを変じたり、それらから生じる非効率性を排除するのは不可能だ。然し、同行は、高率インフレーションを惹き起こす元凶の過剰需要を防止する為の強力な手段を有する。即ち、彼らが有効に管理を効かせる短期金利レートだ。同行が金利を引き上げる事により、資金借り入れ費用を増加させ、之によって、株式から高級絵画に至る迄、全ての長期資産の価格は下落する。これら現象の中でも、最も重要な事例が住宅市場であり、米国人個人資産の中で圧倒的に大きな比重を占めている。住宅購入に際し、借入金利が上昇すると、手当資金は高額化し、結果として需要が縮小し住宅価値は下落する。財産価値が減少すれば、所有者の消費抑制へと波及する。より一般的に云えば、金利上昇によって、借り入れが減少する一方、貯蓄が選好される為、消費者需要が冷やされるのだ。又、高金利は、企業に於いては長期の投資諸計画が見直され、その結果、彼らが雇用する従業員需要水準も直接及び間接的に引き下げられる。
然し、これ迄、同行が一連の金利引き上げを決定する際には、高率インフレーションが真に深刻な危機であると先ず自身で確信する事を必要とした。サマーズ程に群を抜く知名度を以ってしても、彼の見解は少数意見であった為、彼は疎んじられる事となった。彼の警鐘に対し、元IMF主席エコノミスト、オリヴィエ・ブランチャードを含む、幾人かの有力経済学者達は彼の諸警告に賛同したものの、ウオール街の経済人や大半の経済学者達はこれらを軽視した。結局の処、過去数十年間、インフレーションは4%を越える事が無かった為、バイデン政権の経済チームで主導権を握っていた急進派の多くの者達は、彼らの繰り出す刺激策によるインフレ効果も軽微なものに止まると確信していた。一般の人々を救済する事を約し登場した時の政権が既に承認した政策で、更に著名な経済学者達もその推進を支援する場合、連邦準備銀行はそれに反対し押し戻す権限を持ち合わせていない。もし仮に、同行が2021年の春の時点で利上げを実施し、そして、例えば、新型コロナウィルス下に更なる景気悪化等、それが如何なる理由であったにせよ、その後に景気後退が発生した場合には、同行は猛烈な批判に晒されただろう。その結果、将来、何等か諸制約が同行に及ぶのは間違いなく、同制度の独立性自体が損なわれる虞が在ったのだ。これら諸状況を勘案すれば、連邦準備銀行が利上げ行動を躊躇したのは想像に難くない。
然し、インフレーションが高じている事が明らかになった後も、連邦準備銀行は取るべき行動を遅延させた。バイデン政権発足後6ケ月経過した、2021年秋口迄には、経済が急速に過熱したにも拘わらず、同行は金利問題を放置した。と云うのは、ジェローム・パウエルはFRB議長任期失効を同年年末に控えたが、彼の再任を、この時点でバイデンは未だ明らかにしていなかったのだ。もしも、パウエルが金利上昇循環へと舵を切る選択を採っていたとしたら、実に恐らくバイデンは彼を交代させ、多分、後任にラエル・ブレイナードを任命した事態が大いに有り得たのだ。大変著名な経済学者でもあり、オバマ政権下に有能な元財務次官であった彼女は、金融業界の評判ではハト派的金利政策論者として知られ、経済成長維持の為にはインフレーションのリスクを取る事も辞さないと目された人物だ。然し、現実には、連邦準備銀行は利上げを差し控え、そして、バイデンは結局パウエルを再任した。パウエルが新しい任期に入り落ち着いた頃合いの2022年4月になり、同行は遅れ馳せ乍らも遂に、利上げを実施したのだ。もしあの時、バイデン政権が連邦準備銀行に対し利上げをもっと早く望んで居れば(後に一部の者達が論じるには、同政権は実際それを望んでいた)、取られるべき正しい行動は、2021年夏の時点でパウエルをFRB議長に再任し、彼にFedが見立てた通りの政策を実施すべき責務を明確化させる事であったろう。
魔術的通貨政策の考え方
連邦準備銀行は、ワシントン政府から圧力を受ける一方、マクロ経済刺激政策の積極活用を重視するケインズ主義経済理論が次第に支配的地位を占める中、その影響下にも在った。つまり、世界的感染症が拡大する遥か以前より、多くの経済学者達が、金利上昇も無く、そしてインフレーションも伴わず、顕著な政府支出を拡大(或いは税金の減免)が可能だと結論付けていたのだ。そして、凡そ10年に及ぶ超低利子率と低インフレーションの時代を経て後、ある者は、譬(たと)え、支出増加の全てが“紙幣の印刷によって融通された場合”―即ち、中央銀行に政府債券を買い入れさせて市場経済に通貨を注入する手法― を用いた場合でも、価格上昇圧力は回避可能であろうと考えた。この思考法の変種の一つとして、所謂 “現代通貨理論”が近年恐らく最も有名になったが、今や之よりは穏当な諸変形論に主流が移った状況に在る。
又、高水準な政府支出と超低金利政策を以って、経済を“熱っした”運営とする事が、不平等是正の為に有効な手段になり得る、との際立った見解も登場した。その仕組みは、低賃金就労者達が労働力として投入される事を通じ、新たな技術力を身に付け、それによって生涯獲得賃金の向上が得られると云うものだ。斯様に、強い一時的な刺激によって永続的な収穫、或いは極めて多くの利益が期待し得るとした。この接近手法の支持者は、左翼寄りの政治家達に限らず、右派のトランプ経済諮問団も、強力な減税により浮揚された経済が低賃金就労層と少数派の人々の所得に与える好影響に就いて屡々(しばしば)言及したのだった。
2019年、連邦準備銀行は基本的通貨策の枠組みを検証する一貫とし、主導的諸学会から政策見通しを収集した。この頃迄には、多くの経済学者達は、利子率をゼロ%に下げた後にも尚、インフレーションへの誘導と通貨供給による刺激策に対し頑迷な迄に反応しない経済を、如何にすれば活性化出来るかと云う課題研究に集中していた。経済学界では“ローフレーション(lowflation)”―年率2%より遥かに低いインフレーション― に陥る懸念が次第に拡大し、之に対する虞が、実は2年後に連邦準備銀行をして講ずべき対策を逡巡させる原因となるのだった。「急激な物価上昇は最早重大な懸念とは為り得ない」と、学術界の多くの経済学者達のみならず、連邦準備銀行迄もが結論付けた。その理由は、金利を上げれば常に物価を鎮静化出来るとの考えに基づくものだ。然し、現実には、利上げ策は打つ間合いが極めて難く、更に実施後に直面する政治的諸難題の存在を顧みれば、之は無責任な判断と云えた。そして、2020年8月、連邦準備銀行が表明した同行政策評価の諸結果として、「労働市場は引き締まって来たものの、インフレーションが現実に根付いたとの明確な兆候を経済が示す迄は、インフレーションと戦う為の予防的措置な取らない」方針を明白に示したのだった。
斯くして、ローフレーションに懸念を抱いていたにも拘わらず、連邦準備銀行は、それに続いて生じる危機に際し役立ったかも知れない、ある発明を取り入れる事が出来なかった。それは、マイナス金利政策だ。即ち、沈滞する経済下にインフレーション期待と長期金利とを押し上げる為に、連邦準備銀行は、超短期金利がゼロより低い水準へ移行するのを容認する機会も存在したのだ。斯様な手段がインフレーションに対しても適切に機能するのは、常識に反するように見えるかも知れない。然し、2021年時点で、もし連邦準備銀行が、元財務長官ハンク・ポールソンの言を借りれば、“バズーカ砲”級の武器を行使していたら、事前に金利上昇を講じる事が可能で、もしそれが行き過ぎた場合にも、所謂“ゼロの限界点”に衝突し利下げ余地を失う懸念もなく、必要な丈利子率を削減する事は出来ると判っていたのだ。
然し、マイナス金利政策が有効性を完全に発揮するには、確かに法的、制度的、及び税制上に多くの諸変更を必要とし、連邦準備銀行は財務省や議会との協調実施が不可欠になるのも事実だ。此処で、唯一の大問題が、相当程度のマイナス金利 ―例えばマイナス2%或いはそれ以下― になった場合、投資家達がマイナス金利の銀行預金や国債(財務証券)から、ゼロ金利の紙幣(現金)へと選好を移動させる行動を、如何にすれば防止可能か、と云う事だ。現在の処、日本や欧州と雖(いえど)も、マイナス金利へと踏み込む事は慎重に避ける事で、この難題を回避している。然し、金利裁定により需要が紙幣に向かう流れを防ぐ策が、理論上二つ在る。一つ目は、マイナス金利の世界に於いて、さもなければ、紙幣が有利に見える分を丁度相殺するに足る丈、時の経過に従い価値が減耗するように、紙幣と中央銀行預金(同預金はデジタル上の勘定で現物ではない)との間の交換比率を創設する仕組みだ。もう一つは、これは効果覿面(てきめん)な策として、そっくり紙幣を廃止し、その代わり基本的な銀行の諸サービスが全ての人に無料で提供される状況を確保する事だ。それは、具体的には、中央銀行がデジタル通貨を導入するか、市中銀行は零細個人に対し基礎口座を無料で提供(例えば、日本で行われている如く)するかによって可能だ。一方、これら二つの策の中間に位置する策として、至極単純に高額銀行紙幣(100ドルや50ドル札)を段階的に廃止し、更に、他の規制的諸策の順次導入により、何十億ドルに及ぶ巨大な規模で通貨退蔵を惹き起こせば、これら諸制度の実現性は兎も角として、例えば、マイナス3%にも及ぶ大きな負の金利の運用すら可能になるだろう。
先述、2019年の連邦準備銀行政策評価に際しては、結局、マイナス金利適用政策は、政治的な反発を恐れ意図的に選択肢から除外された。然し、もし同策が有効に行使されれば、厳しい不況から経済が脱する為の力を与える事が出来たのだ(実際、短期金利が及ぼす刺激は、高い成長と高いインフレーション期待によって、現実に長期金利を押し上げたであろう)。この為、有識者達は、次回、連邦準備銀行が政策枠組みの見直しを実施する際には、斯かるマイナス金利を政策手段として実用する為に必要な法制と制度上の諸変更が検討される事を期待するものだ。
結論を云えば、連邦準備銀行が、2021年にインフレーションへの対応を誤った出来事は、中央銀行の独立性が、政治と学術的な潮流により、如何に頻繁に大きな影響を受けるか ―選挙の時期、或いは時の政権が大衆主義の圧力に屈する場合は特に― を示す好事例であった。更に、それに加え、今日の環境下、もし連邦準備銀行が、経済過熱した際にインフレーションと戦う手段を強化したいと望むならば、激甚な景気後退局面に経済を刺激する為の政策手法を拡大する必要がある事を示したのだ。
目標インフレーション率を固持する策
2021-22年のインフレーションに関し、繰り返し問われる疑問の一つが、果たして現在の軌道が1970年代の大インフレーションに類似するか否かと云う問題だ。それは一体何処迄(どこまで)悪化する可能性があるだろうか。1970年代始め、連邦準備委員会議長アーサー・バーンズは無節操に通貨供給を拡大させたが、当時、それはリチャード・ニクソン大統領の再選を支援する為の行為だと広く見做されていた。そして1978年、今度はG.ウイリアム・ミラーがバーンズの後任に就任すると、彼は、短期金利を低く抑える為の通貨増発政策に集中する余り、高まるインフレーション期待を背景に、貸し手が通貨価値を下落させるインフレーションに追い付こうと、より多くの返済額を求めるに連れ、長期金利が一層上昇して行く現象を把握する事が出来なかったのだ。斯くして、ミラーの任期中に、米国インフレーションは2桁台に迄拡大した。
そして、それから1年半後にミラーの後任者に、ポール・ボルカーが指名され、此処で初めて連邦準備銀行がこの問題の解決に乗り出したのだ。ボルカー議長は、FRB短期政策金利を年率19%以上に引き上げた人物として記憶される事となったが、1980年には最大値の年率14%に至ったインフレーションを結果的に鎮静化させた。然し、ボルカー議長時代の連邦準備銀行ですら、景気後退の発生は1980年大統領選挙に影響を及ぼすとして、当初は対処行動を控えざるを得なかった事実は、余り広く知られていない。即ち、同行は初期のインフレーション上昇を意図的に容認し、多分これにより、後に到来する景気後退はより大きな規模となったのだった。1982年迄には、ボルカー率いる中央銀行は、年率インフレーション率を、3%から4.5%の範囲内に低下させた。そして、この状態が1987年に、アラン・グリーンスパンが連邦準備委員会議長を引き継ぐ頃まで続く。とりわけ、グリーンスパンは、インフレーションを逓減させ乍らも、巧みな経済の舵取りを行う事に定評があったが、それでも、中央銀行がインフレーション率を2%に抑え込むのには、かなりの時間を要したのだ。グリーンスパンの任期中、最初の数年間は、消費者物価指数上昇率は年5%以上に達し、それは1990年代中盤、決定的に下落する迄継続した。高いインフレーション期待が市場に根深く織り込まれていた当時に於いては、金融政策運営が極めて困難な作業であったのは異論ない事実だ。これに比べ、現状危機は、これ迄の処、インフレーション期待の上昇が相対的穏当な範囲に収まっている。それでも、中央銀行はこれらが更に拡大し兼ねない事を懸念するのだ。
大インフレーション時代には、各国中央銀行も又、極めて困難な挑戦に直面する。1970年代初頭のブレトンウッズ固定相場制の崩壊により、それ迄の通貨と金との関係が断ち切られた。それにも拘わらず、当時の米国は、「物価安定維持を重要な責務」と考える中央銀行が存在した数少ない国々の一つだった。時の経過に伴い、この責務こそが、利子率を低く抑えようとする政治的圧力に抗する為に、必要不可欠である事が証された。そして、この圧力が、中央銀行が今日再び戦う相手だ。つまり、政治家達は中央銀行に対し、利上げを求めるのではなく、代わりに金利を上昇させる行動には慎重を期すよう圧力を掛けるのが常で、特に選挙前の年にはそれが顕著なのだ。
現在のインフレーション危機は、過去のものと幾つか顕著な類似点を持つ。つまり、何れの時代でも、斯かる危機は、新種の供給不足による衝撃で惹き起こされるのだ。OPECによる1973-74年の原油禁輸措置は、第二次世界大戦以来、世界経済が経験した最大の供給上の衝撃だった。同様に露西亜によるウクライナ侵攻は、世界経済の仕組みを、当時、既に世界的感染症拡大によって疲弊していた世界供給網に対し一層痛烈な打撃を与え、根底から揺るがすものだった。そして、この二つの出来事では共に、ケインズ主義に根差す経済刺激諸策が経済学界の識者達の間で脚光を浴びる一方、供給サイド経済学は忘れ去られて顧みられる事がなかったのだ。
今日、中央銀行が「高インフレーションを年率2%の軌道に戻す術を知っている」と語る際には自信に満ちているが、「インフレーションが目標率に収束する迄、その手を緩めるつもりはない」と固執する姿に同様の説得力なない。それは、利上げが招く深い景気低迷の危険性を彼らが熟知するからに他ならない。更に、彼らは激甚な不景気が、特に若者達や、歴史的に処遇に恵まれない労働者等、低所得者層の人々を手痛く襲う事を知っている。加えて、これら集団は、中央銀行が新しい政策枠組みの中で、特にその救済を強調する対象でもあるのだ。近来インフレーションが再発する諸事象の観点に照せば、本来、中央銀行は同集団救済を強調する策は見直しを迫られる処だが、現実には弱者集団に救いの手を差し伸べる事が依然、優先課題であり続けるのだ。
一部経済学者達は、中央銀行が抑々(そもそも)2%程度のインフレーション目標の合意形成を為(な)すのは誤りだと論じ、寧ろ3%、或いは更に4%の目標の方が望ましいと見解する。この考えは、より高いインフレーション率の期待が利子率に織り込まれれば、危機に際し、中央銀行にとっては金利引き下げ余地が増加する事を目論むものだ。これは実は、微妙に異なる多くの諸見解を包含する複雑な議論だ。本質的には、目標インフレーション率引き上げは、マイナス金利政策に代替する策と云える。然し、中央銀行にとって斯かる行動の欠点は、長期的インフレーション目標率2%を固持する旨を断言した場合、もしこれに変更が生じると ―特に同行の立場の弱さを起因とした場合― 中央銀行自体の信頼性は損なわれ、将来、目標レートが更に引き上げられ得ると示唆する事になるのだ。斯かる背景から、もし経済が7、8年に亘り高いインフレーション率に留まった場合、中央銀行は次の様に表明するだろう。つまり、「当面の間は、穏当な程度に高目のインフレーション率は容認可能であるものの、将来的には2%の上昇率に復帰する事を目指し、長引く経済停滞を招く事なく同目標を順調に達成するに適切な手法を見出したい所存である」と。然し、恒常的な高インフレーションは、又、別の欠点も齎(もたら)す。即ち、結局、賃金や諸物価がより頻繁な頻度で調整される為、金融政策の有効性が阻害され、万一激甚な景気後退に直面した場合にも、最早十分な利下げを行う余地は残っていないのだ。
物価安定への道
人々が唯でさえ、高インフレーションに対し不平を述べ立てる状況下に、もしも、更に大型不景気が襲って来た場合、有権者達には一体如何なる備えが在るだろうか、と心配するのは無理なからぬ事だ。正に、連邦準備銀行はこの様な状況の出現に危惧を抱く。もう一つのリスクは、長期実質金利の動向だ。同金利は、物価上昇率を調整したものだが、之は2008年の金融危機の後に一度暴落した。然し、同金利の超長期的趨勢を取ると100年間を通じ僅か1.6%の低下に止まっており、長い目で見れば、今後もこのような傾向値へと持続的に収束して行く公算が高い。即ち、金融危機後、僅か数年間に3%近くも長期実質金利が下落した事態こそが異常なのであり、今後、同等な現象再来を期するのは誤りだ。従い、斯かる趨勢下に在っては、政府借入金の費用が増加する為、政権は中央銀行に対し金利を低く抑えるよう一層圧力を掛け、政府債務残高の価値を、インフレーションを通じて減じようと試みるようになるだろう。実に、政治と経済との情景がこれ程迄にも大きく変じてしまった結果、連邦準備銀行がインフレーションを新型コロナ感染症拡大以前の水準迄押し下げ、其処で定着させる道を選択する可能性は、少なくともここ当分の間、先ず在りえない事は明白なのだ。
通貨政策は政治に大きな影響を与える。経済景気循環が選挙結果を占う有力材料であるのは、世界の殆どの地域に共通な事実だ。然し、今般の危機が明らかにした通り、その一方で、逆に政治が通貨政策へも影響を及ぼすのが真実だ。欧州中央銀行は、特に伊太利亜を中心とし「欧州周辺諸国の債券を、何故(なぜ)巨額に買い続けなければならないのか」、その理由を曲芸の宙返りを打つが如く目まぐるしく変じて来た。同行は抑々(そもそも)、之をデフレーションに抗する為の必要策と位置付けたものの、今や同計画はその看板を掛け変え、インフレーションと闘う為だとして、金利を上昇させている。処(ところ)が、同政策が採られる真の理由とは、「南部ユーロ圏諸国政府が抱える債務は、北部ユーロ圏諸国によって支える」事を約した、この極めて重要な政策目標が推進されるのを誇示する為のものなのだ。一方、英国では、2022年9月に首相就任したリズ・トラスは、折しも長期的インフレーション基調に対し、同首相の採る財政諸策が更に上昇圧力を加える情勢下に在るにも拘わらず、中央銀行に対し制御を加える方針を自ら公言し憚らなかったのだ。
経済学者ミルトン・フリードマンは嘗て云った、「インフレーションとは常に何処でも通貨上の現象に過ぎないのだ」と。無論、これは反対派との論争上に発せられた、過剰な表現として割り引く必要はある。然し、現に世界中の人々が目撃したのは、インフレーションとは、政府の経済刺激財政支出策や世界的供給停滞諸危機を含む、実に様々な要因の影響を受けると云う現実だ。中央銀行がもしも十分に辛抱強く、そして十分な独立性を維持可能である場合には、長期的にインフレーション率を思いの儘に抑える事が出来ると云うのは事実だ。然し、もしも世界経済が今後も変化の激しい諸衝撃に引き続き見舞われるとしたら、各国中央銀行の対応が何処迄(どこまで)効力を発揮できるかは不透明であると云わざるを得ないのだ。それでも、この高インフレーション定着の物語の中に、せめてもの救いと云える事がある。それは、政治家達に対し、先ずは「低率で安定的インフレーションが当たり前と云う考えは再度改めざるを得ない」点、そして、更に「中央銀行には独立性が与えられ、且つ同行はその核心的責務を果たすべく諸事に集中しなければならない」点を、強制的に認識させる力が、斯かる世界に於いて次第に強く働く可能性が在る事だ。一方、中央銀行の責任者達は、彼らの本分として、激甚な不景気を制圧するには、無制限のマイナス金利政策を含む、新しい道具立てを使用する事をも辞さない融通無碍な姿勢が求められよう。これら手法は、加熱した経済下に在って尚も、金利を低水準に維持しようとする政治的圧力に抗する為に重要な助けとなり得るのだ。連邦準備銀行が、現在直面する諸危機の中に“軟着陸”する手法を編み出せるか否か予断を許さぬものの、その結果如何に拘わらず、今後10年間に同行が遭遇するであろう様々な挑戦は、嘗てコロナ感染症拡大以前の世界が体験したものより、明らかに遥かに難易度が高いものとなるとの覚悟が必要だ。
(了)
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