【投稿論文】『露西亜思想の終焉 ~プーチン政権掌握力のアキレス腱~』(原典:The End of the Russian Idea ~What It Will Take to Break Putinism’s Grip~, Foreign Affairs 2023年September/October号)

著者/ 肩書:アンドレイ・コレスニコフ(ANDREI KOLESNIKOV)/ カーネギー ロシア・ユーラシアセンター上級研究員(*訳者補足:同センターは、米国の超党派シンクタンク、カーネギー平和財団の支局。嘗てのモスクワ拠点はウクライナ侵攻を踏まえ閉鎖し、今年4月にロシア・ユーラシアセンターとして新たにベルリンに開設された。尚、露西亜政府は国内に悪影響を与える分子を“海外エージェント”指定し監視する法を定めるが、著者自身が同指定を受けている。本稿は露西亜事情に精通する知識人による、母国に対する勇気ある渾身の告発である)

(論稿主旨)

 1923年6月17日、露西亜大統領ウラジミール・プーチンはセント・ペテルブルグの水辺開発地に於いて三つの国旗を記念する特別な祝賀会を企画した。即ち、露西亜連邦旗、又は別名ピョートル大帝三色旗として知られ、1693年に正式に掲揚されたもの(訳者注:現在の青、赤白の横縞旗の原型)、そして、1858年、露西亜皇帝アレクサンドル2世が導入した露西亜帝国旗(訳者注:黒、黄、白の三色横縞旗)、更に深紅の赤色旗、之はソヴィエト連邦の金槌と鎌を象る、100年前にソヴィエト国家が採用し、後にはヨシフ・スターリンが掲げたお馴染みの国旗だ。

国立フィルハーモニー交響楽団とセント・ペテルブルグ国立合唱団により国歌が奏でられる中、プーチンは祝典をヨットの船上から観覧したが、その曲も又、プーチン自身が2000年に施行した法に従い、スターリン時代に演奏されたと同じ調べに編曲されたものだった。

然も、この何とも不吉な儀式は、国内最高層建築で、且つ、プーチン体制下の露西亜でもう一つの重要な象徴、国営瓦斯(ガス)会社ガスプロム本社(推定資産価値17億ドル)の所在するラフタ・センター・タワービルの真ん前で挙行されたのだった。

 ある意味、これら国旗を選択した事は驚くに当たらない。2022年2月、ウクライナへ侵攻開始された特別軍事作戦以降、スターリン礼賛に基づく国家主義的帝国思想は、事実上プーチン体制の土台となっているからだ。歴史を遡れば、ピョートル1世は、1721年、大北方戦争の勝利により、自身を露西亜全土の初代皇帝を称した偉人。そして、アレクサンドル二世は、露西亜皇帝、ポーランド国王、及びフィンランド大公を兼任し、露西亜帝国主義の野望に密接に係わった人物だ。そして、今のプーチンは、ソヴィエト連邦を、殊(こと)、第二次世界大戦中、ナチスに勝利した点に於いて強調する人だ。その当時、スターリンはマルクス主義に優先し、国家主義を訴える事で、支持統合を図り、民衆を結集させ、露西亜帝国主義と云う宿命を、謂わば、別の名前の看板に掛け変えて、実現させた張本人だ。

無論、プーチンは、表立ってスターリンに言及せず、又、自身をスターリンの後継者と宣言した事もない。然し、クレムリン政府は、この方10年間以上、スターリンの統治に就いては、露西亜帝国伝統が重視され、国家価値が尊ばれた「偉大なる時代」と常に位置付けて来た。そして、最近次第に、プーチンの権力に関する言動や、反抗に対するその不寛容な態度を見るに付け、彼の姿が正にスターリンの末期、1940年代後半から50年代初期に酷似して来たように見えるのだ。

 然し、先の二人の皇帝及びスターリンには共通した見識が在った。つまり「“帝国”とは、彼らが近代国家と目する処へ到達する為の飽くまで“手段”である」と見做していた点だ。18世紀初頭、ピョートル大帝は、造船やその他、西欧の先端技術を取り入れたのみならず、政府運営に関する理念から服装に至る迄も借りて引っ張って来たのだった。百年後、更にアレクサンドルは農奴制を廃止し、更に欧州諸事例の影響を受け、法体系に於ける進歩的諸改革をも実現させた。スターリンに至っては、1930年代に西欧式産業化を加速させ、彼らに追い付けとばかりにその進展を督促しつつ、その挙句に彼は、“マルクス主義”と云う近代欧州を代表する思想を「マルクス-レーニン主義」へと変容させる事にも成功したのだ。尤も、それは、粛清による数えきれない程多数の人命の犠牲の上に実現したのだったが。

これらと対照的に、プーチンの対西欧門戸開放は短命だ。彼が政権取得し4年も経たず、大概2003年頃にそれは終わりを告げた。然も、その時点で彼は議会を完全掌握し、当局はミハイル・ ホドルコフスキー(Mikhail Khodorkovsky)逮捕に踏み切った(彼は、億万長者の投資家で、当時露西亜に於ける自由市場経済と独立的思考の象徴的存在だった。更に、告訴された罪は、実は捏造されたものだったのだ。)

 現在、プーチンは過去の指導者達と異なる道を追求している。つまり「近代化を伴わない帝国」を目指しているのだ。彼が抱く、謂わば、この「衝動」を我々は理解する必要がある。何故なら、露西亜がウクライナ介入を継続する理由、並びに、同介入は露西亜国民に対し今迄どのように説明されて来たかを、確(しか)と把握する為には、この理解が是非とも必要なのだ。

プーチンは2014年クリミア併合により「露西亜帝国思想」を復活させた。そして、更にその8年後、「特別軍事作戦」の発進により之を補強した。彼が賞賛するものは、一つは、露西亜正教会の抽象的で古めかしい教義であり、もう一つは「退廃した西欧は敵であり、この害悪ある影響に抗する為に露西亜は救世主としての宿命を負うのだ」との国家主義思想に基づく伝統的血統である。

当時の露西亜を代表する詩人、プーシキン(Pushkin)は嘗て曰く「もし、ピョートル1世が欧州への窓口を閉ざしていたなら、その300年後にクレムリンに座を占めた男は、その窓を盛大に開け広げる役回りを担う事になっただろう」と。然し、皮肉にも、現実は全くの逆に、現在の指導者はその窓を木板で覆ってしまったのだ。

 プーチンの如く露西亜国家の劇的方針転換を図った先例は存在する。少なくとも、19世紀初頭以降、露西亜は西欧へ接近しては離れる事を繰り返した。それは、国家権力に関する近代の西欧式諸概念に対し、露西亜の世界に於ける位置付けや、或いは同国の国家主義、又は保守的概念が揺れ動いた結果、生じたものだ。同国の姿勢が斯様に定まらぬのは、スターリニズムに対しても同様であった。即ち、過去70年の間に、同国は三度に亘り、スターリニズムの思想と教義を排除し同主義から離れては、その都度、結局同主義の金言を復活させたて来たのだ。実例を検証すれば、即ち、1950年代と60年代のソヴィエト連邦最高指導者ニキータ・フルシチョフ、1980年代の最高指導者ミカエル・ゴルバチョフ、そして1990年代の露西亜大統領ボリス・エリツィン達は皆、譬え、それらが暗黙の了解であったにしても、こうした行動を取ったのだった。

斯くして、前世紀の大半、露西亜政治思想は「自由主義と全体主義」、言い換えれば「スターリニズム脱却とスターリニズム再興」を巡る闘争によって形成されて来たと云えるのだ。

 然し、プーチンに見る特筆すべき露西亜体制の特徴は、スターリニズム再興を反近代的帝国主義と合体させた点に在る。つまり、彼は19世紀に「露西亜思想(Russian Idea)」と呼ばれた考えの中から、特に最も極端な部類を再興させたのだ。本来、同思想は同国をして他国と隔てる根拠であり、道徳的性質を賛美するものだ。然し、実施に当たってこれらは、武力を背景とした露骨な拡大主義を意味するに至り、プーチンは、ウクライナ戦争と彼の長期独裁政権構想を推進する為、それを(実際には有害な)思想的伝統として利用したのだ。

無論、プーチン体制にもいつかは終わりが訪れる。然し、反西欧発想に深く根差した同思想が、斯くも発展を遂げてしまった現状に鑑みれば、プーチンによる露西亜社会支配体制は、ウクライナ戦争の勝敗丈(だけ)を以ってしては、崩れない可能性を、我々は念頭に置く必要があるだろう。

神聖なる露西亜帝国、神聖ローマ帝国を引き継ぎし者? 

 露西亜史を通じ、露西亜国家にとって大きな二つの柱が、露西亜正教と軍事力だ。古昔、露西亜人の日常生活は教会の鐘の音で成り立ち、取り仕切られていた。そして、これら鐘声は、その後、近代化された初期の頃の欧州諸戦場に於ける、露西亜製大砲の砲声によって補完された。即ち、教会の鐘が国家秩序を司るとするならば、大砲は物理的圧力によりその秩序を補強する役目を担い―そして、時として大砲が秩序その物に取って代わったのだ。1962年に米国人歴史家ジェームスH.ビリントンは、露西亜文化に関し顕した著作、『聖像画(イコン)と手斧』に、17世紀後半及び18世紀後半の露西亜で、地方の町々の教会や修道院の鐘が、全て溶かされ、露西亜陸軍の大砲を鋳造した事蹟を伝える。そして今、プーチンは露西亜正教の強固なる価値を復活させ賞賛し、同国軍備の継続的拡大を計るに於いては、彼独自の「鐘と大砲に基づく教義」を恰(あたか)も鉄で鋳造するが如く形作ったのだった。

 露西亜が18世紀に強大な帝国として登場すると、これら権力を表わす象徴は、露西亜国家のより広範な構想により補完される事を通じ、一層その形態を整えて行く。尤(もっと)もその当初、露西亜が欧州や啓蒙主義へと揺れ動く矛盾には頓着しなかった。例えば、露西亜女帝エカテリーナ2世に至っては、農民の奴隷化政策を継続する一方、仏国の代表的啓蒙主義者、ヴォルテールと平然と文通する混濁ぶりを呈した。然し、1812年のナポレオン戦争に勝利した後、露西亜は、愛国心と一致団結という新しい国民感情の形成を見ると同時に、同国が当時として逆行的な専制体制であるにも拘わらず、欧州秩序の中で一定の地位を得るに至った。

1825年に発生した12月蜂起― (嘗てナポレオン戦争下に同軍を仏国迄追撃した経験を持つ)露西亜貴族将校達が専制体制廃絶を主張し、新皇帝ニコラス1世への忠誠を拒絶した反乱― は、政府に鎮圧されはしたものの、露西亜に対し「欧州流近代化が必要である」との一石を投じる出来事だった。然し、それに反し、保守的なニコラスは彼の在位中(1825年-55年)、改革ではなく、寧ろ、反動的体制を保持したのだった。露西亜思想家達が一つの包括的国家理念を形成するのは、正にこの時代に始まったと云える。

 1832年、当時の教育大臣セルゲイ・ウヴァーロフ伯爵は「正教会、専制体制、そして国民性」と彼自身が名付けた教義を導入した人物だ。或る意味、この教義は欧州的な面影を残していた。何故なら、他の露西亜貴族達と同様、ウヴァーロフは思考も著述もフランス語を使い、又、彼はドイツ語も操り、時の文豪ゲーテとも文通を続けていた。それにも拘わらず、彼は欧州理念が露西亜に脅威を与えるとの確信を抱いていた。其処で、彼は、近代化を求める衝動的欲求に就いては、それが如何なるものであっても入念に審査する事を励行し、皇帝権限、或いは彼が「皇帝専制主義」と呼ぶ処のものが脅かされる事のなきよう、取り計らったのだ。彼の構想とは「正教、即ち露西亜正教教会が、露西亜の特異にして欧州とを隔てる特徴的旗印として機能する一方、国家は皇帝と人民との絆を提供する役割を果たす」と云うものだった。然し、彼がこの教義を最終形に仕上げる以前の段階に於いて、既に彼は拡大主義者として明確な目標を定めていたのだ。それは、1832年の時点で彼がニコラスへ当てた書状中、次の一節が明白に示している。即ち、彼は文中に進言して曰く「専制権力を維持・推進して行く力量を保持する事こそが、皇帝の存続には欠くべからざる条件であると存じます」と。

 処で、この同じ期間、露西亜国家思想に関する第二の傾向が、スラブ主義運動に伴って出現した。つまり、1840年代初め、「欧州化主義者」と「スラブ主義者」との間に繰り広げられた論争が露西亜に於ける政治概念の中心問題となったのだ。欧州化主義者達の見立ては、皇帝国家は後退が不可避であり、強大な欧州との競合に堪えるには、欧州型近代化と立憲体制への転換が必要だと論じた。一方、スラブ主義者達も又、皇帝による絶対権力に対し不満を抱いたものの、彼らが信じた処は「露西亜はその同国固有の諸価値の上に創立された国家である故、欧州とは別物にして且つ道徳的により優越する」という点だった。

然し、この浪漫的構想は次第に別物へと変貌を遂げて行く。初期段階のスラブ主義者達は独裁制に反対したが、19世紀後半になると彼らの後継者達は同体制を防御する側に変じたのだ。その理由は、独裁を制限しようとする試みが、結局、世界に於いて在るべき露西亜の強大な立ち位置を弱めてしまうと判断したからだ。

  19世紀中盤、これら諸思想は新たな方向へ流れを変えるが、その切っ掛けを作ったのが露西亜人哲学者にして論理的指導者のニコライ・ダニレフスキーが著わした著書だ。大きな影響力を振るった、その書『露西亜と帝国』(1869年出版)に彼は論じて曰く「露西亜とスラブ諸国は、ある特別な範疇、又は異種の文化と歴史圏に属する」のだと。この考えは、当時広く議論され、汎スラブ主義運動が始まる素になったのだ。

又、彼がとりわけ主張したのが「全てのスラブ諸国は一致団結すべきであり、これらはコンスタンチノープル、或いは露西亜人による別称 ”Tsargrad(皇帝の住まう都市)” の元に統治されるべき」という点だ。

更に、ダニレフスキーは、欧州及びその近代的思想に対しては、強い疑念を抱いた。つまり「欧州は決して我々と同類ではないのみならず、常に我々に敵意を持っている」と。これらの論法は、時代を経て今もこだまの如く影響を残し、それはプーチンが独自に繰り出す詭弁である処の「“露西亜国家文明”の定義とは欧州に対抗する役回りを持つ事也(なり)」との主張に繋がるのだ。この点は、2022年10月開催されたヴァルダイ国際討論倶楽部の会合でのプーチン発言に如実に現れた。即ち、同会議は、露西亜が2004年以来毎年開催し、過去、著名な海外の学者や分析家達も招かれたものだが、昨年、プーチンはその席上、露骨にもダニレフスキーを引き合いに出し「何故に露西亜は欧州に対抗していく必要があるのか」を語っている。

 1856年、作家フョードル・ドストエフスキーは、露西亜に与えられた特別な宿命に関する、彼、独自の見解と、彼自身の露西亜思想とを融合させている。大の欧州通としてその事情に詳しいドストエフスキーは、他のスラブ主義者達と同様、西欧は衰退しつつあり、上昇を続ける露西亜がそれに取って代るものと信じたのだった。この慢心とも云える過大評価に関し、ドストエフスキー自身は、詩人アポロン・マイコフに当てた書状に詳述し、その中で「西欧が着手し乍ら果たせなかった事業を完結させる」力量を露西亜が有する旨を、この詩人が暗示した点を賞賛している。即ち、ドストエフスキーの解釈によれば、露西亜国家は、守護者の役割を担う存在として、国家として特別な道を進み、そして普遍的なキリスト教世界の道徳制度を復活させる使命を負う。同制度は嘗て啓蒙主義を牽引し、同主義が一旦は世界に君臨する迄に至ったにも拘わらず、欧州はその後、発展や自由、並びに個人の諸権利と云った思想に過度に囚われた結果、衰退を見た、と云うものだ。然し、ドストエフスキーが抱いたこの構想は、次第により過激な形態へと変化し始める。第一次大戦中、愛国主義的詩人達、自由主義者並びに保守主義者は一同、一つの波を形成するが如く、皆、その戦争を美化する考えを賞賛したのだ。即ち「露西亜はこの戦争を闘う事を通じ、自身を再活性化させ、国民は一致団結し、当時欧州に蔓延した頽廃的近代化を巻き返す事が出来る」との見解だ。斯くして、汎スラブ主義とスラブ人の帝国建設の夢とが合体し、これらの諸見解は、新たに国粋帝国主義を生み出して行った。

 更に、19世紀の国家思想の構成要素として、その後、露西亜国家に長く引き摺る陰を形成する事となる、もう一つの考えが「第三のローマ」論だ。1860年代、露西亜帝国思想家達は「露西亜は、地上のキリスト世界の中心としてのローマ及びコンスタンチノープルの後継者であり、ビザンチン帝国の正統なる後裔にして最後のキリスト教王国である。故に、救世主としての宿命を担う国なのだ」との16世紀の古びた理念を宣伝し始めた。実際に、多くの露西亜極右主義者達にとり、この考えが世界に対し同国独自の伝統的価値観と精神性を護持しそして拡散させる役割を果たす為の原動力となったのだ。この思想の流れは現代に脈々と続く。去る4月、露西亜正教の長にして、現実にはクレムリン政府を代弁する重鎮、キリル総主教は、同国が神から授かった救世主としての使命に関し、何と当ご時世に、殊更(ことさら)、1242年に露西亜が独逸(ドイツ)騎士団を破り、又、1380年にモンゴル勢に勝利した事蹟を遥々(はるばる)辿って言及した。即ち聴衆に対し呼び掛けて曰く、「皆さん、これこそが、聖アレクサンドル・ネフスキー王子が戦いの矛を手にされた目的です。そして、我々の偉大なる祖先達がクリコヴォ平原の戦いに命を懸けた理由でもあるのです」と。

欧州の悪魔勢力と戦う姿を演出するプーチン

 斯かる保守的伝統は、プーチンが23年前、権力の座に就いた際には、奇妙な事に、殆ど威力を振るう事はなかった。当時、ソヴィエト後のモスクワは西欧思想に満ち溢れていたのだ。1980年代のゴルバチョフ政権下、ソヴィエト政府は、社会主義支配を次第に放棄し、自由主義的思想へ道を開いて行った。そして、ソヴィエト連邦崩壊後、経済学者で首相代行を務めた、エゴール・ガイダルは、露西亜大統領ボリス・エリツィンを後ろ盾とし、70年間続いたマルクス主義帝国の枠組から、西欧式政治諸組織を備えた市場経済へと劇的な転換を図った。この大規模な制度再構築は論争を招いたものの、新しい露西亜概念を生み出したのだった。つまり、それはガイダルが唱えた処の「帝国主義の尺度を基に自由主義経済構築は不可能であり、従い、この改革を成功させる為には、同国を“国民国家”として再定義する必要が在る」と云う原則であった。

 当時、プーチン政権初期に於いては、市場経済に基いて推進される近代化に対し、彼が反対する事はなかった。然し、当初から彼は、ソヴィエト崩壊を公けに嘆く一方で、露西亜社会を再統治する為の新たな手段を模索していたのだ。其処で、同国の経済自由化と利益を齎(もたら)す天然資源に目を付けた彼は、これらを活用し、忠誠を誓う者達に惜しげもなく見返りを与える事により、同国政治と経済制度両面の支配力強化を実現した。ドミートリー・メドヴェージェフ政権が一期を終えた後、2012年に再び大統領に返り咲いたプーチンは、今度は彼自身とメドヴェージェフがそれ迄支援して来た自由主義的諸改革の解体に着手する。この時迄には、既に彼は、公然と独裁主義と弾圧を賞賛し、これらへの体制変換を正当化する為に保守的思想を利用し始めたのだった。

又、プーチンは次第に西欧に対し苛立ちを募らせて行った。彼は、米国とその同盟諸国が露西亜を対等な相手として扱わず、同国利益を考慮せず、国内反対勢力を助長し、市民社会を反政府的なものへと変じたと非難した。斯くして、彼は、政治的多様性や言論の自由は維持するに値せぬと考えるようになった。そして、今や、露西亜に於いて自由主義経済学者達はマクロ経済維持に徹する丈がその役割であるとクレムリン政府が見做するようになった結果、最早、彼らは単なる専門技術集団へと成り下がったのだった。

 2014年のクリミア併合は、これら一連の思想展開の結果と見るべきで、プーチン自身が権力の概念を変えたのでもなければ、露西亜政治体制が進化を遂げたものでもないのだ。当時、露西亜は欧州向け原油・ガス供給の大半を担い、西側の投資と技術を呼び込んでいたにも拘わらず、プーチンは自国を「帝国」として捉え、復古的でより精神的な思想への回帰を図ったのだった。彼は、2013年の段階で既に、露西亜正教教会こそが、1991年に失った歴史上の版図を含む露西亜国家として、その拠所なのだと発言し始めている。

即ち、「我々の露西亜国家、或いは中央集権的露西亜国家の中心に位置するものとは何か? それは、今日の露西亜、ウクライナ及びベラルーシが所在している広大な欧州領域の全てを総べる為に必要となる、共通した精神価値なのだ」と述べた後、明言して曰く「露西亜正教こそが我々が共有し精神的にして且つ徳義上、拠って立つべき空間である」と。

 そして、2022年迄には、プーチン及び多くの側近達は、露西亜国家主義兼帝国主義思想の最も極端な考えを積極的に起用し始める。プーチンを取り巻く連中の間では、「欧州は徳義上及び精神的に衰退過程にあり、勃興する露西亜が之に取って代る」と語るのが口癖となった。対ウクライナ「特別軍事作戦」開始以来、クレムリン政府は、欧州や米国との関係を途絶し、露西亜市民社会への抑圧を一段と強める行為を、これらの考えによって正当化して行ったのだった。そして、西欧を本拠とする在露人権諸団体を攻撃し、同性愛者や性同一障害者を標的とした法律の発布、及び「外国の手先」と特定された組織や個人に対し、広範な諸制限を新たに課した。

プーチンの信奉者達が現在主張するのは、「露西亜は、唯一同国が文明の擁護者として、その地位を保持する為に、保守的な正教会教義と帝国再活性化とを結合させる必要がある」と云う点だ。現に、超国家主義思想家で、“クレムリン政府内の哲学者”と自称するアレキサンドル・ドウーギンは「我々は平和の為に戦争を遂行している」と公言し憚らない。

 プーチンは失われた東ローマ帝国のイメージを、巧妙にウクライナに重ね合わせ、今日、右翼政権が施す説話中に、キーウが謂わば、嘗てのコンスタンチノープル(皇帝の住まう都市)の位置付けを負っているかの如くに仕向けた。即ち、クレムリンの宣伝は、「西欧は歴史的な露西亜領土と正教教会の権威ある領地とを侵食し続ける危険な存在であり、ウクライナ領土が、これらの邪悪な者達の手中に陥(おちい)ようとしている」と訴えたのだ。その好事例は、ドミートリー・メドヴェージェフが、“テレグラム”(露西亜国内の人々が利用するメッセージ・サービス)上、2022年11月に投稿した内容で、それは驚くべき事に、露西亜によるウクライナ戦争を神聖化し「モスクワ政府は、我々の敵対者全員を業火の地獄に送るだろう」と警告を発するものだった。

裸の王と化したプーチンと、忖度心から愚行を煽る家臣達

 プーチン体制が、斯(か)くも脅威に満ちたものになった一つの理由は、伝統的諸思想を極端に増幅させる彼の手口に拠る。歴史家アンドレイ・ゾーリンの見立てでは、19世紀初頭、考古学者カウント・ウヴアーロフの時代に「露西亜帝国は、自身にとり危険で不確実な将来に替え、過去を呼び戻そうと試みた」と考える。つまり、当時、ウヴアーロフは、露西亜独裁主義と露西亜正教会とが「欧州化に対抗し得る、唯一、最後の手段」と見解しのだった。然し、既に20世紀初頭以前の段階で、国家主義信奉者達は「露西亜のみが“例外である”」とする概念を、露骨な軍事主義を擁護する為に利用し始めていた。「露西亜の国家思想は信じがたい程に粗野なものとなった」と露西亜人哲学者ゲオルギー・フェドートフは、彼は露西亜から仏国へ逃れ、1929年に著わした著作に記し、更に云って曰く「スラブ主義を模倣する者達は、あからさまな軍事行動によって催眠術に掛かけられたかの如く、道徳観を見失って行ったのだった」と。

 処が、フェドートフが斯様な表現で著述する頃、ソヴィエト国家は既にそれらを実行に移していたのだ。スターリンは1929年を「大転換の年」と位置付け、強制的産業化により強制労働と集団農場化をも強行し、農民達のあらゆる生産諸資源を疲弊させた。翌年、ソヴィエト当局は強制労働収容所を設立、そして後に大抑圧の時代が訪れる。然し、フェドートフの先述の洞察は、実は、今日の状況に当て嵌めてこそ、正に一層その真価を発揮していると云える。

 即ち、ウクライナ戦争が継続するに連れ、クレムリン政府は露骨な武力行使に執着する傾向を益々如実化した。プーチンが抱く露西亜思想は、その構想が、所詮、単なる領土拡大と神聖化された国家防御を目的とし、国内反対勢力を抑圧する以外には発展し得なかった。そして、嘗ての準独裁主義から、今やスターリン主義の教義を基礎としつつも、その上に全体主義を混成し鋳込んだ体制へと変遷を遂げる過程に偶然重なるが如く、今般、プーチン政権が上記概念を積極的に取り入れていく際に、取った形式とは、極めて原始的な手段であったのだ。つまり、従来行って来た、市民社会や独立系メディアへの完全抑圧、並びに如何なる形態であれ、反対意見に対しての冷酷な弾圧に加え、遂には「露西亜国民その物」を、新たな政治的要求を強いる標的と定めるに至ったのである。その結果、人々が多くの局面で、過去数年来やって来た如く、プーチン体制に黙従する受け身的姿勢は、最早許されなくなったのだ。即ち、彼らは、同体制を大きく声を上げ支援しなければならぬ。斯くして、現在、露西亜小学校は「愛国教育」を強制、教科書はプーチンの諸行動を正当化する解釈を記述し、市民達は親プーチン集会へと屡々(しばしば)駆り出される。これら手法を通じ、プーチンは「物事が露西亜国民に対し如何に説明されるべきか―そして更に露西亜国民が彼ら自身に就いて如何なる考えを持つべきか」という課題に関し、これらを完全に自身の支配下に置く段取りを確保し、全体主義的体制を同国に課している状況なのだ。

 之を最も露骨に現すのが、旧ソヴィエト時代に為された政治弾圧の諸事実を消去及び書き換えようと、躍起になり政府が取った諸行動だ。2021年末、ウクライナ侵攻直前の段階で、露西亜政府は“メモリアル”と云う、スターリン時代の犯罪記憶の保存に従事していた同国内団体組織を閉鎖した。之は、結局、プーチン政権がスターリンの粛清行為を負の遺産と最早見做していない点を物語る。然し、この“メモリアル”封鎖は、より広範な消去作業のほんの一端に過ぎない。

実は、2020年の段階で既に、トヴェリ市当局によって、第二次世界大戦中にポーランド人捕虜の大量銃殺を記した現場から、銘板が撤去された。「カティンの虐殺」として知られる、この事件は1940年、当時スターリンの秘密警察であるNKVD(後のKGBの前身)の手による悪名高い大規模殺戮事例である(訳者補:4千3百名余が銃殺された)。以来、露西亜メディアと議会はカティン事蹟の書き換えに専心し、ナチスを非難し責任転嫁を図ると云う、偽りの露西亜物語を蒸し返して行ったのだ。

 この運動は過去数年来加速している。今年4月、露西亜ペルミ地方の住人は、1945年にポーランド人とリトアニア人達が、リトアニアから強制送還された一件を伝える記念碑が突如撤去されていた事に気付いた。その数週間後、今度は、1930年、当時露西亜東部イルクーツク市近郊でNKVDによって射殺されたリトアニア人達の集団墓地を銘した記念碑と十字架が破壊された。そして、7月にはセント・ペテルブルグ所在のレヴァショボ記念墓地―之はスターリンの圧政による犠牲者達を悼み1990年に創建されたもの―が撤去された。これら一連の諸行為の張本人は、どうやら地方当局者達であるらしい。即ち、ウクライナ紛争の只中で、彼らは露西亜国家の思想的変化を敏感に感じ取ったのだ。

要は、プーチンは過去の記憶に対し戦争を仕掛けているのだ。「これ迄、政治で粛清された犠牲者達は露西亜国家の敵であった故に排除された」とプーチン政権は解釈し、又、「今日の敵、即ち彼が現在敵対している諸勢力も、同様に葬られるべき存在である」との考えである。プーチンの報復行為を正当化する為には、同体制がスターリン時代の悪しき記録を封印する必要がある所以だ。

 国家主義、帝国主義、露骨な武力行使、そして西欧に対し増幅した敵対心に基く、スターリン独裁体制は、強制収容所で何百万人もの命を奪い、逮捕される恐怖の中に一般大衆の生活を強い、同国数十年間分の発展を停滞させた。そして、これら潮流に、露西亜救世主説的な反西欧的見解を更に加えた、プーチン独裁体制は、今や、ウクライナでの無意味な苦境に自ら陥り、その結果、大規模破壊と露西亜経済後退を伴い、その上、エリート層及び一般国民に対し反近代的意識を強制する事態に至った。換言すれば、クレムリン政府内に今日露西亜思想が復活を見たのは、過去2百年に亘る思想的腐敗の産物であり、この過程に於いて彼らが西欧に対し抱く恐怖心が再発し一層煽られた結果と云えるのだ。

 ジョージ・ケナンが1946年モスクワから米国国務長官へ打電した、かの名高い「長文電文」中に「露西亜の歴代統治者達は常に外国による侵略を恐れ、又彼らと西欧世界とが直接触れ合うのを怖れるには理由が在る。それは、もしも露西亜国民が国外世界の真実を知るか、或いは海外国民が露西亜国内の事を知った場合、一体如何なる事態が生じるかを懸念する為だ」と彼は喝破し述べて居る。そして、彼が結論付けたのは「斯くして、露西亜は安全保障の追求に関し極めて辛抱強く実行するばかりか、敵対勢力に対し一切の同意や妥協なく、完全破壊するまで死に物狂いで闘争する習性を身に付けた」と云う点だ。プーチン政権下の露西亜は、斯かる思考がウクライナでの「特別軍事作戦」―誰からも攻撃を受けていないにも拘わらず「祖国を欧州から防衛する為だ」と謳う何とも皮肉にして曲解的な思想に基くもの―へと駆り立てたに他ならない。そして、露西亜国民達は斯様な思想の為に、命を賭けるよう要求され、同国の青年達は消耗品に等しい兵士へと転身させられたのだ。

露西亜に対する陰謀説を流布するクレムリン政府

 前述の如く、思想的裏付けを不可避とした世界へ露西亜が踏み入る過程に於いて、クレムリン政府は、自らの手に余り制御不可能に成り得る勢力をも解き放って行った。世間を驚かせた、エフゲニー・プリゴジンの一件が好例だ。彼は、窃盗と詐欺で有罪判決っを受けた前科者だが、その後、起業家に転身を図り次から次へと商売を展開、遂にはクレムリンお抱えのケータリング事業を経営後、更には、クレムリンが支援するワグネル外人部隊を率いる地位を得た。2023年6月に彼が惹き起した反乱がプーチンに対する直接的挑戦とする認識は誤りである。プリゴジンこそは、大統領取り巻き連中の他の誰よりも、同体制から生み出された産物で、且つ同体制の特徴、「露骨な武力」の権化に他ならぬのだ。もし、彼がプーチンとの間に何らかの不和が仮に存在したとしても―存在したのは確かだが―それらは、反体制派作家のアンドレイ・シニャフスキーが、彼自身とソヴィエト体制との見解相違を譬えて云ったように、飽くまで「表現様式」の一種に過ぎないのだ。 

 一方、同時に、クレムリン政府が国庫から税収入を外注業者へばら撒くと云う、プーチン式国家資本主義により生み出された怪物がプリゴジンなのだ。つまり、斯かる事態こそが、プーチン体制下に露西亜が行き着いた成れの果てと云える。それは有る種、封建制度に相当し、其処では最高位に在る指導者が、財産の内から何某かの分け前を彼の家臣達に手渡す見返りに、これら家臣達に従属を誓わせ、彼らを管理するか、或いは彼らに役割を与えると云う仕組なのだ。

これら、謂わば、外注受託業者の一人として存在したプリゴジンに対し、国家は10億ドル―国民の税金―を支払い、彼に私的軍隊を創設させたが、同軍に対し国家の完全統制は及ばぬのだ。挙句の果て、彼は短期間の混乱を引き起こし、それでも彼が自身の馬鹿げた行動に対し最終的に罰せられる事はなかった。この様な異常な事態は、極端な人格のプーチン独裁制と、母国を西欧の攻撃から守りつつ、露西亜影響力をアフリカ等外地に増加させる必要性に駆られた、同国の特異性によってのみ説明可能なのだ。そして、プリゴジンは有用な部下だった。と云うのは、彼は消耗的兵士の供給源として機能していたからだ。然し、この関係性に於いて、彼は政府との契約が失われるかも知れぬと危惧し、斯くなる上は意を決し、自身の能力を見せつけようと試みたのだ。従って、彼は決して、プーチンに取って代るのを望んだ訳ではなく、大統領の対等なパートナーとして認められたかったに過ぎない。然し、彼は初手を打ち損じた上、更に身の程を越える挙に出た。プリゴジンが突然の実力行使を試みたものの、結局事は上手く運ばず、プーチンを驚かせたはしたものの、プーチン自身の権力の座を深刻に揺らがせる事態には至らなかったのだ。

 この一件が逆説的に証するのは、クレムリン政府は国内から更に生じる謀反の可能性に対しては、海外から来るべき危険に比べ、左程懸念を抱く様子がないと云う点だ。実際、同体制を支える思想的教訓は極めて単純なものだ。つまり「西欧がやって来て露西亜国家を破壊する」と云う想像上の脅威を、唯一繰り返し憂慮するのみだ。大統領府第一副長官に在り且つ、クレムリン内で最も情報操作に長けるセルゲイ・キリエンコは曰く、「露西亜を向こうに回し戦いを挑んで来る者達の目的は極めて明確で、それは露西亜の存在自体を消滅させる事なのだ」と。斯くして、露西亜高官達は、大袈裟に「文明に対する挑戦」或いは「生存の危機」としきりに言及し煽り立てるのだった。この単純な前提が、ウクライナに於ける「特別軍事作戦」継続の主要な根拠となった。一方、同作戦は、遂にプーチン始め高官達が「戦争」と呼び始めるに事態に至ったのだ(但し、一般人がそう呼ぶ場合には、尚も処罰対象となるが)。

 更に確かな事がある。2022年2月以前、露西亜人達は自身を犠牲にする道を歩んではいなかった。「祖国の為に英雄として死ぬ」発想を政府が高揚する動きは、所謂「特別軍事作戦」なる物が開始されて以降、突如登場して来たのだ。そして、今やプーチンは「戦場で命を落とす事は、その人生が無駄でなかった証である」としきりに主張する。2022年11月、息子を戦争で亡くした、母親遺族の会で彼は次のように演説した。「一部の者達は、ウオッカの過剰摂取やその他の理由で、無為に命を落とし、然も誰からも注目される事もない。それに引き換え、あなた方の御子息達は、確かに生きた証を残した。お分かり頂けますね。彼らは人生の目的を見事に果たしたのです」と。そして、斯かる思想が既に露西亜文化に浸透し始めている。その一例が、露西亜人流行歌手のシャーマンで、彼はクレムリン政府の宣伝工作に乗せられ、今や軍備拡大主義の伝道者へと仕立てられた。彼の最新の流行楽曲『さあ、立ち上がれ!』(Let’s rise)の歌詞は、「神と真実は我らに在り」と謳うに止まらず、露西亜国民に対し戦死者を賞賛するよう呼びかけ「彼らは我々の元にもういない、死んだ兵士達は天国へ召されたのだ」と続くのだった。  

 又、露西亜正教会も、好戦を狂信的に支持する風潮を更に助長するのに一役買い、プーチン体制下、重要な思想的支柱として宣伝マシンと化している。但し、その代償に同教会は本来のキリスト教のメッセージを喪失した体となったのだ。イオアン・ブルディン司祭の事例を見ればそれは明らかだ。彼は、モスクワ北東部コストラマ地方のとある村の牧師だが、平和主義の信奉者だった。教区民達がその事を密告すると、彼は説教の中に露西亜軍の名誉を汚した廉(かど)で罰金刑を受け、2022年3月には礼拝を司る資格を剝奪された。そして、露西亜教区裁判所は、彼の平和主義が露西亜正教教義に一致しない旨の判決を下した。現実は、ブルディンの主張が、現在の教会が仕える対象はキリストではなく、国家を主(あるじ)とする点を正しくも指摘したものだったのだが。

 一方、正教会教義よりも強力な影響力を振るう道具は、クレムリン政府による歴史改竄作業かも知れない。社会科学者レフ・グトコフの見立て通り、ウクライナ侵攻より遥か前に、政府は既に国定教科書の中に「露西亜は帝国版図拡大により出現した国家である」との思想を育み始めていた。この考えに立ち、「隣国領土の植民地化は、露西亜の国家的立場を優勢化し、国民利益と共に国家体制の利益をも拡大させる」と説く(モスクワでは“露西亜の国境線とは、同国が欲しいと望んだ位置だ”との冗句が流行る所以だ)。斯くして、スターリン時代に多くの教科書が、スターリン自身の個人関与に沿っておもねったと同様、今日の教科書も又、体制に忠実な高官や教育者達が、プーチンの国家主義的帝国主義者思想に合致するように歴史を曲げる、その度合いの甚だしさが露わになっているのだ。

 政府が新設した「非歴史分野の高等教育諸機関に対する、露西亜史指導概念を管轄担当する」組織は、昨年冬(2022-2023年)、二つの柱となる指針を示した。第一は、強力な中央集権の重要性を強調する事だ。即ち「同権威が国家として独立状態の維持に不可欠」と唱える。第二は、露西亜がウクライナに対し実力行使に至った、その背景事情の解釈だ。露西亜は「全ては、西欧が煽動し仕組んだ事だ」と飽く迄主張する。この見解は「露西亜周辺に“不安定地帯”を意図的に造り出そうとする策略」並びに「露西亜が自身の被る脅威の存在に関し、米国とNATO側へ協議を申し入れても、彼らが之を“拒否”した」点を含み、これらを裏付ける書類が存在すると伝える。同書類に拠れば「ウクライナ指導陣は、同国を“反露西亜”へと変貌させ、更にNATOから援助を受け、クリミアとドンバス地方をキーウ政府へ取り戻す準備を進めていた」のだと。そして、露西亜政権は「斯かる国家存亡の脅威こそが、2022年同国をして特別軍事作戦挙行を不可避的とした」と主張するのだった。

独裁制の後に来るもの

 露骨な武力行使により帝国復活を図るプーチンの試みは失敗しつつ在る。帝国主義的モデルは崩壊寸前であり、最早再生は出来ないだろう。其処で問題となるのは次の事項だ。「プーチン主義(プーチニズム)、露西亜救世主論、そして、武力行使正当化に就き、政府の主張する論拠は益々希薄化するのが蔽えない状況を、果たして、一般の露西亜国民は何時まで受け入れ続けるか?」である。

この見通しに就いては、現状国民には相反する二つの心情が併存する点が確認できる。即ち、独立調査組織、レヴァダ・センター世論調査に拠れば、プリゴジンの反乱はプーチン政権支持率に殆ど悪影響を与えていない。一般人の目には、プーチンがこの争いに勝利し、国家は依然比較的平穏と映っている。露西亜社会が依然総動員体制に在るとは云え、全市民が戦闘に巻き込まれている訳ではない。又、プーチンは、銃後の人々に対し、国家はまずまず許容可能な生活水準を維持可能な事を証して見せたのだ。この為、人々は決して政府に信頼を寄せるものではないが、同体制及び他を寄せ付けぬ絶大な権力を持つ指導者に対する支持を妨げる理由はなく、必要ならば、同体制へ忠誠を示す事すら辞さない、と云う訳だ。

 抑々(そもそも)一般露西亜国民は、彼ら自身の意見や考えを封印せざるを得ない環境に長きに亘り身を置いた結果、国家から与えられる見解に黙従し勝ちな傾向を持つ。この好事例として、特定の露西亜人個人を「海外代理人(エージェント)」であるとして指定する“海外エージェント法”(*訳者注)を思い起こして欲しい。斯く云う筆者自身が、同法指定を受けている身だ。政府は同法導入根拠を「西欧からの悪しき影響が我が国に及ぶのを制限する」為と主張する。同法適用拡大が実施されて間もない、2021年10月のレヴァダ・センター世論調査では、この政府見解を支持したのは、回答者の内36%に過ぎなかった。処が、「軍事特別作戦」挙行8ケ月後の2022年9月の同調査では、政府が特定露西亜人個人を「外国代理人」指定するのは尤もな理由が在ると57%が支持に回った。この意味する処は、要は「国民が“思想”による感化を受け、それは、政府が思想を至極単純な論点に落とし込み、繰り返し人々の頭に叩き込んだ、賜物」と云う事だ。

 一方、プリゴジンの乱の際に、プーチンを取り囲み抗議を叫ぶ者は誰一人として居なかった。この事実は、一般大衆がプーチン体制の諾否に就いて、両面相反する感情を抱いている、その度合いを露わとした。つまり、プーチンは「大衆の無関心さ」を幸いと頼(たの)みとし、また、彼らの無関心さに付け入り、国家を悲惨な軍事的冒険へ駆り立て、更にその状態を維持し、又、先般、プリゴジンの乱を迅速に収束させる事も出来たのだ。然し、同時に、この大衆の無関心さが、もし同体制が真の脅威に直面した際には命取りにもなり得る。即ち、物事に対し受け身的な傍観者となる事に、彼らは万事慣らされてしまった結果、露西亜国民は最早自国の大統領を、身を挺して守る体制にはない。之と同様、国民の多くは、動員逃れで国外脱出した人々を徳義上激しく非難はするものの、実は彼ら自身も国内で徴兵される事を酷く怖れているのだ。更には、政府が国民へ繰り返し吹聴して来た「欧州は邪悪であり、露西亜は救世主として宿命を負う」との古めかしい自惚(うぬぼれ)は、今や大衆自身が営んでいる、近代的で都会的欧州流生活様式との間には齟齬を来している点に、彼らは漸く気付いたのだった。

 プーチン体制が自身の軍事力と帝国を如何に賛美した処で、大半の露西亜国民は、矢張り日常の経済的生活の方をより重要と考える。現に2022年以前の段階で、大多数の露西亜人達が、国力を現わす尺度は、軍事力よりも経済力に在ると感じていると、社会学者達は認識していた。一方、政府もこの国民と国家との意識の溝をある程度埋めようと試み、軍隊に従事する市民への給与を引き上げたのだった。

現在、モスクワ政府が至る処に張り出したポスターの伝えるメッセージは次の通りだ。「来たれ軍隊へ!ウクライナで戦う事こそ“本物の男達”にとって“仕事の中の真の仕事”だ。タクシー運転手や警備員の仕事とは次元が違うのだ」と。もう一つの経済的インセンティブは、兵士の家族に支給される、戦死や傷痍に対する手当だ。6月には、プーチンは、露西亜実質所得が成長したと豪語したものの、民間部門は衰退している。つまり実態は、所得増加の理由が、社会費用支払い、乃至給与増加を通じ、特に治安軍諸隊、徴兵された国民、或いは傭兵に雇われた兵士に対し、国庫からの移転が一層増加した事によるものなのだ。即ち、この成長は、技術発展や生産性向上によるものではなく、破壊と死の賜物と云える。

 露西亜が全体主義国家への道を遥か深くに踏み入ってしまった事を如実に表すのは、政府見解を強制的に国民に課し支配する手法だ。プーチン時代、その初期には、露西亜社会も政治潮流や政治討論に関し大いに多様性を享受したものだった。自由な思想は多くの政治家達に賞賛され、様々な分野に於いて大きい影響力を持つに至る。斯くして、政治に関する諸議論や政府と異なる諸見解が見聞きされるようになった。然し、これら自由主義はプーチンにとり重大な敵と見做された。その結果、同主義を支援する一般大衆支援者達は現在刑務所に服役するか、さもなくば国外追放の憂き目に遭うかし、彼らの情報伝達網は壊滅した。今や、政府方針へ疑義を呈するのは禁止されて居るのみならず、国家法に反する行為と見做される事態なのだ。

 嘗て、全体主義体制が終焉すると、それ迄と反対へ進路逆転させるのが露西亜の伝統だ。それは、1861年のアレクサンダー2世による大改革、1985年のゴルバチョフによるペレストロイカ、1992年のエリツィンによる改革、等に見る通りだ。然し、ウクライナに対するロシアの行動が止んだとしても、それはプーチンにとって、政治上そして思想的影響上、彼の終わりを必ずしも意味しない。つまり、プーチンは現在の敗色を以ってしても、言葉を繕い、それを勝利と呼び変える事が可能だ。翻って、市民の立場からすれば、何れにせよ「露西亜思想」は、国家が国民の頭の上に打ち振るう大槌の役目を果たし続けたのだ。個人独裁政治に於いては、その独裁者が引退するか、或いは舞台から去った場合に限り、その振り子は反対側に運動する。プーチニズム(プーチン主義)はプーチン死後尚も生き残る可能性は否定できないものの、一方、露西亜史が示唆する処では、スターリンの事蹟を含め、独裁者が死んだ途端、新しい自由化時代が幕を開ける。但し、スターリン時代が終わった時、国民は自身で思考再開し、怯える事なしに呼吸する機会を得たが、それでも、同国政体は依然として共産主義に拠る点に変わりなかった。同様に、プーチン時代の終焉が“プーチン否定”の連鎖を引き起こすのは間違いないが、それでも国家の根底的構造は、当面その儘存続する公算が高い。

 同国体制内部から変化が生じる可能性も無論在り得る。少なくとも、歴史の語る処では、露西亜に於ける過去の政治改革は、全て上層部から発したものだ。従い、既存エリート層に存在する穏健派―彼らは自由主義者で現在でも政権内や政府職員に存在する―の中から、改革主義者の新しい集団が出現するかも知れない。然し、この新しい集団は、直ちに難問に直面するだろう。即ち「国家改革を、どの程度の急激さを以って推進すべきか」の問題だ。之が一筋縄でいかぬ理由は、もし彼らが、近代化と欧州への門戸開放策に舵を切れば、以前のプーチン派側近に対し、片や之に抗する、反エリート勢力 ―海外帰還者や刑務所から釈放された者達を含む― との間で、衝突が不可避となる為だ。

 エリートと反エリート層との間に、もし妥協が成立すれば、現実的或いは協調的路線が出現する可能性を尚も露西亜は残している。斯かるシナリオが、譬(たと)え、今現在は想像に難くとも、その可能性を完全に排除するのは誤りだ。然し、露西亜が救世主的使命感から脱し、より建設的国家に生まれ変わる為には、本稿に示した「露西亜思想」を捨てる事が大前提となる。

(了)

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