著者/肩書:マイケル・ベックリー(MICHAEL BECKLEY) / タフツ大学准教授(政治科学)、及び米シンクタンクの“アメリカン・エンタープライズ研究所”非常勤上級研究員。
(論稿主旨)
米中関係が此処(ここ)半世紀来、最悪な中、古くからの御伽噺(おとぎばなし)が再浮上している。つまり「米国が中国との対話を深め、彼らの成長に便宜を図ったならば、両国は互いに平和に暮らせる」とのお目出度い認識だ。話は更に展開し、十二分な首脳会談を重ねれば、ワシントン政府は北京政府のレッドラインをよく認識した上で、相互の危機ホットライン管理に加え文化交流も回復出来るのだと説く。そして、時間経過及び夥しい数の対面式交渉を重ねた末、換言すれば、両国関係を再構築する事によって、譬(たと)え相互競争関係下の共存であるとしても、二国は共に平和裏に落ち着く事が出来ると云う説だ。
一部の分析者達は中国と十分な協議を行うべきと主張し、更には、世界を代表するG-2の如くの存在となり、米中両国が、気候変動や世界的感染症等の国際的課題を解決すべく、安定して影響力を振える領域を打ち立てる為に相互取引の実行すら可能と説く。
極めて悲観的状態に在る現在の米中関係に関し、上記説明の採る解釈は「それは思想的に相反する二国間に於いて、互いの存続に係わる重大な利害が衝突して惹き起こされる類の、”回避不能の事態”な事態では決してない」と云う主張だ。つまり、そうではなく「中国の拡張に対抗し、米国が過剰反応をしてしまったのが原因で、謂わば、両当事者間の行き違いを、大袈裟に云い立ているに過ぎないのだ」と中国研究家で元米国務省国務次官補のスーザン・シャーク(Susan Shirk)は表現する。更に議論は続き、過去20年間、中国は大国が台頭の過程に取る常道的な行動を示したに過ぎないのだと。即ち、その権力を誇示し、国際社会に於いてより大きい発言力を要求する行為である。然し、現実を見れば、中国の行動の多くは台湾を威嚇する等、関係再修復の提唱者達を不安に陥れるものである。更に、我々が注意すべき点は、中国側が批判する対象は、米国そのものであり―加えて、米国が弛みなく自国の優勢を追求する状況下、その裏に存在している、自己都合を追求する人々自体へも直接向けられていると見るべき事だ。
このような暗い想像が広がる中、我々が置かれている状況はこうだ。即ち、票田目当てに派手に振舞う政治家達、強欲な防衛関連契約諸企業、世間を煽り立てる評論家達、聊(いささ)か行き過ぎ観のある人権擁護活動家達、そして、好戦的な政府官僚達が、皆一斉に己の利益を追求し、競合相手に対して炎を煽る結果、これら見解は反響室で大きな共鳴音を発するが如く、之と異なる諸見解は皆弾き出されてしまうのだ。
一部の個人達は、恐らく彼らが築いて来た名声を守る為に、繰り返しタカ派の議論を繰り返す。「その結果、ワシントン政府内は、今や中国に関し危険な集団的思考に屈している」と、ジャーナリストで著述家のファリード・ザカリア(Fareed Zakaria)は論じる。更に、曰く、大半の米国人が中国に対しタカ派的見解を抱く現実は、米国政策が如何(いか)に不合理で攻撃的になったかを物語っていると。更に、歴史家のマックス・ブート(Max Boot)は「今日の問題は、台頭する中国に対し、米国人の警戒が不十分な事ではない」と強く主張し、更に「真の問題は、彼らが過度な興奮状態と警戒主義の餌食となり、その結果、米国を不要な核戦争へと導く可能性が在る事だ」と警鐘を鳴らす。
一方、この敵対心が増長されるサイクルを解決する策として推奨される、対中関係再構築の策はと云えば、それは直接的にして且つ単純だ。即ち、先ず、様々な外交、貿易、人的交流を通じ緊張を和らげる。次に、新しく連絡協議会を設置し、両国高官達が定期的に会合し、諸合意に向け協議する、との筋書きだ。
歴史家アダム・トウーズ(Adam Tooze)によれば、個別具体的な多種交渉の立付(たてつけ)を通じて追求される、それらの基本的目的は一貫し同じなのだ。つまり「歴史的中国の台頭に対し和解する策」だ。「関係再構築」を推奨する一部の者にとっては、今年初、米財務大臣ジャネット・イエレンが提言したように、それは単に、対中貿易障壁を減じる策が必要である事を意味した。然し、他の観察者達はより大胆な譲歩の実行を提唱する。例えば、政治科学者グラハム・アリソン(Graham Allison)はその中でも「中国が伝統的に有した亜細亜の勢力圏を、米国は認めるべきだ」と主張する。然し、この場合には、以為(おもへらく)、次のような展開となるだろう。つまり、中国に南志那海でより自由度を与え、台湾への侵攻を許し、更には、同地域に於いて米国の権力放棄を余儀なくされるのだ。
一方、之はある種、蠱惑的なヴィジョンであるに違いない。即ち、もし、大国同士が安全保障を巡る競争に対決勢姿で向き合う替わり、外交を通じ問題解決が出来るならば、この世界は間違いなくより住み易くなるだろう。然し、大国間の争いや、殊(こと)米中関係のこれ迄の歴史が物語るのは、関係再構築へ大きく舵を切った処で、斯かる二国間関係が修復される可能性は少なく、寧ろ、性急に事を進めれば、事態は現実に武力を伴う紛争へ変じる危険が存在する点だ。
過去200年間に生じた、大国同士の競合関係に関し、二十以上の事例を回顧すれば、話し合いにより難を脱し解決に至った験(ため)しは唯(ただ)の一度たりとてない。それに代え、競合関係は、何れか片方が最早(もはや)戦い継続不能になるか、或いは、双方が共通の敵に対し結託する展開が起きぬ限り、ずっと持続したのだ。例えば、米国と中国は、先の冷戦後期に於いては、ソヴィエト連邦に対し連携して当たるべく、一旦競合関係を中止した。然しこの新たな関係も希薄な儘に続きはしたが、結局ソヴィエト連邦の崩壊により幕を閉じた。どんな場合にも、権力均衡に変化が生じる事が、持続可能な解決を図る為の前提条件となる。これら変化が生じる前段階として、通常、緊張緩和は、同盟勢力の再編成と次なる競合展開に備える準備期間と位置付けられるのだ。
その典型は、英国が独逸(ドイツ)との関係改善を指向した事例で、之は1911年から1914年の間と、再度1938年に生じたが、これら緊張緩和を求める動きは、結局、戦争へと突入する道筋を整える事となったのだ。
米国と中国も、この歴史的事例に背く事はないと判断される。理由は、互いに核心的利益が背反し、それらは互いの政治体制、地政学的環境、及び国家が経た諸体験に固く根差しているからだ。両国を結びつける多くの諸関係、例えば、巨額な相互貿易取引をも含み、これらは寧ろ両国を離反させる方向へ働いた。何故なら、これらは政治家達に対し「相手と戦う為の追加的理由と相手を突く為の弱点」を新たに与えた丈(だけ)だったからだ。
何れの側も、主要な譲歩を行うには、自らを曝け出す危険を冒さねばならず、それに踏み切る事が出来ない。斯くして、何十年も互いに対応を続ける内、双方政府は相手に対する不平リストの項目を大量に蓄積させて行き、相互に疑念を深く抱くに至った。
米国は1970年代から2010年代に掛け、繰り返し中国へ働き掛けを試みたが、中国最高指導者達は、一貫し米国のこれら活動を、特に、狡猾な封じ込め策― 中国共産党の支配力を弱める策略で、西側に対し中国を経済的には依存させ、政治的に従属させる事を意図― と見做し、中国を米国主導による自由主義の秩序に統合を図るのが米国の目論見だと読み解いた。この時期に於ける、米国の中国に対する歩み寄りは、今日米国政策立案者達が真剣に検討する諸策より、一層広範囲に亘る包括的なものであったのだ。それにも拘わらず、これら一連の予備交渉によっても、米国の意図に関し中国側の評価は根本的に変わる事はなく、又、東亜細亜及び以遠の支配を目指す中国共産党の諸活動を、米国が説得し止めさせる事も出来なかったのだ。
寧ろ、事実はこうと云える。即ち「米中対立は、双方権力均衡に重大な変化ない限りは今後も継続する」のだ。従い、この現実に基づいて、米国は政策選択を行うべきで、夢物語に捕われてはならない。然し、これは外交を断ち協議を完全に閉ざす策を意味しない。そうではなく、どのような関わりが実際に実行可能かを冷静に見極める事が必要なのだ。
中期的に中国勢力が軟化し大人しくなり、之により現実に外交上の突破口が開く展開を期待する根拠も幾つか存在する。然し、此処へ至る前段階に位置する我々は、当面策として、米国と同盟諸国は中国の攻勢を抑止し、長期的に望ましい諸傾向を阻害する虞の在る妥協は、固くこれらを回避する事が肝要だ。
互いに悪感情を抱く関係
米中両国は安全保障の競合に於いて、お互いを甚大な脅威を与える存在と認定し、政治科学者達が所謂“永遠の競争相手”と呼ぶ関係に陥った。過去数百年、国際社会の歴史に数多(あまた)ある国家間関係の中に、斯様な二国間関係の事例は全体の1%を占めるに過ぎないが、斯かる関係の内、その80%が戦争に発展している。二国間に幾度も衝突が繰り返された例は、印度とパキスタン、ギリシャとトルコ、日本と中国、及び仏国と英国との事例にみる通りだ。
競合者達が長きに亘り反目するのは、互いの誤解に基づくものでない。逆に双方が相手の事を余りにも知り尽くしているからだ。彼らは、大概、死活上の問題で且つ譲歩不可能な正真正銘の対立点を有し、それらが、通常、領土紛争を含み戦争突入の原因となる。そして、彼らの「レッドライン」と「勢力範囲」は互いに重複する。一方が、例えば、軍備の近代化で守りを固めようと試みれば、それは他方への本質的脅威になる。又、両国経済が相互に組み入れられると、我々が屡々(しばしば)目にする通り、一方は貿易を武器に振り翳し、戦略的諸財の生産を独占して他方に対し尊大に振舞おうとするのが常だ。実例として、第一次大戦前、英国と独逸は実弾による戦火を交える前に、実は激甚な商業戦争を繰り広げたのだった。
更に、競合者達は、相互に異なる思想を支持し、相手方が信奉する理念体系が認められ、拡散する事は、自分達の生活様式に対する破壊的脅威と見做す。事例を挙げれば、仏国革命政権は、欧州内競合諸国の征服を目指した丈(だけ)ではない。そうではなく、同国の革命事例を示す事により、欧州君主制度そのものに対し倒壊の脅威を与えたのだ。第二次世界大戦へ至る道程では、全体主義諸勢力が民主主義陣営と対峙し、冷戦時代には、米国とソヴィエト連邦とが世界を資本主義と共産主義の両圏に分断した。更に、競争者たちは互いに歴史に紡がれた憎しみの血統を共有する。侵略による過去の振る舞いと将来一層大きな厄災が来るとの恐怖が、相互の敵対心を更に煽る。この証(あかし)として、現在の中国人々に「日本」をどう思うかを訪ねてみれば一目了前だろう。
ライバル関係に一度(ひとたび)陥ると、これを終了させるのは著しく困難だ。政治科学者達マイケル・コラレシ、カレン・ラスラー、及びウィリアム・トンプソンが調査した統計によれば、1816年以降、大国間競合関係が27件生じた。これら諸闘争は平均50年間継続し、その結末には次の三つの何れかだ。私自身が分類した処(ところ)、19件は、之(これ)が最多事例だが、結局戦争へと至り、片方の相手を降参させた。他の6件は、二国の競合関係が、共通の敵に対し同盟を締結する事で終了。1900年代の初頭、英国は、仏国、露西亜、及び米国との間で、互いの相違点は棚上げし、集団結束を図り独逸に対抗した。この結果が第一次世界大戦である。そして、最後に冷戦が在った。ソヴィエト連邦が崩壊した時、それ迄の数十年間、モスクワ政府は中国とは国境を巡り小さな紛争を展開し、更に、米国とは世界の異なる諸地域で代理戦争を繰り広げてはいたものの、同国の米中に対する競合関係は此処で平和裏に終了した。
今日、多くの人々が米中間の新たな冷戦に対し危惧を抱く。然し、歴史的に見て、この手の緊迫した膠着状態が存在している事が、全面戦争を回避する観点からは、寧ろ取り得る諸策の中で最善と云えるのだ。
これら諸統計を前にしても、大いなる対中関係再構築を米国が行うべきと提唱する者達は尚、次のように反応するかも知れない。つまり、「今、直ちに米中競合関係に終止符を打つ事を目指すのではなく、両国関係に謂わばガードレールを敷設する機を得る為に冷却期間を設けるべく、単なる緊張緩和を求める丈(だけ)なのだ」と。然し、大国間の緊張緩和の歴史を顧みれば、それらが殆ど慰みにならない点は明らかだ。即ち、そのような期間は、譬(たとえ)それらが好ましい環境に在る時でさえも、結局、滅多に長続きはしないのだ。
その稀な中に最も成功した事例が、「欧州協調」で、―ナポレオン戦争後の1815年、自由主義革命の動きを潰す為、君主制諸国家が結成した同盟― この場合には、緊張緩和が長く持続する為の全ての要素を備えていたのだ。即ち、共通する理念、共通の敵、及び戦争を通じ構築された同盟関係である。然し、之とても1822年以降は各国の最高指導者達は会するのを止めてしまい、代わりに実質的権限を持たぬ特使を派遣するようになった。そして、1830年代迄には、同協調への加盟諸国は、革新的集団と保守的集団に分裂し、双方間に冷戦が生じたのだ。即ち、各国間協調は、加盟諸国の核心的利益が一致する場合に良好に機能するが、「欧州協調」の事例が物語る通り、保守的な合意に罅(ひび)が入ると、熱い戦争へと突入する(同事例では1853年のクリミアを巡る戦役)。
この失敗事例は、より包括的な教訓を示唆する。即ち、ガードレールとは、平和を維持する為の有効な道具ではなく、平和が得られたその結果として出来上がった場合の方が寧ろ多いのだ。ガードレールは平和時か、或いは危機の直後に敷設されるのがその典型で ―つまりは、実は最もそれらを必要としない時期に築かれ―、結局それらは、事態が悪化した時に脆くも破壊される運命に在る。
第一次大戦後には、戦争行為を違法と定めた、ケロッグ=ブリアン条約や、公式な集団安全保障組織としての国際連盟を含め、嘗て歴史にない程の最も入念に設計されたガードレールが導入された。然し、これらを以ってしても、第二次世界大戦の勃発を防ぐ事が出来なかったのだ。
中国により深く関わるべきだとワシントン政府に対し呼び掛ける人々は、緊張緩和の追求に危険が伴わないと見做す。即ち、「この路線が失敗する可能性は在るにしても、それにより失うものはないから、やってみる価値が在る」との主張だ。然し、現実に、競合国間で衝突する利害関係が甚大な場合には、緊張緩和へ誘導を図る過度な努力 は、却って均衡を損なう可能性があるのだ。実例を挙げれば、1911年から14年に掛けての英独緊張緩和は、独逸に対し、「英国は大陸での戦争に対し中立を維持する」との誤った期待を抱かせた点に於いて、第一次世界大戦の勃発を手助けした。又、1921-22年の間、世界最大の海軍力を誇る諸国が米国首都に会し、「ワシントン海軍会議」に於いて軍縮協議を行った。然し、この努力は結局裏目に出た。即ち、「米国は日本の軍拡には反対するものの、米国がそれを実力で阻止するに必要な程の海軍力を自らは建造する事は控える」とのメッセージを日本に与え、結局は亜細亜が第二次世界大戦開戦へと一歩近づく役割を果たした。
又、1938年のミュンヘン合意は、独逸によるチェコスロヴァキアの一部併合を承認するものだったが、之が翌年のナチスによるポーランド侵攻を可能にした。1972年、米ソは「平和的共存」を守る事を宣言し、軍縮と貿易協定に調印した。それにも拘わらず、緊張緩和は翌年に崩壊し始める。即ち、両超大国は互いに、ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)で異なる側に付いて対峙し、これに続き、1975年アンゴラに於いては代理紛争を展開し、1979年にはソヴィエトはアフガニスタンへ侵攻、更に1980年代初頭には、寸での処で核戦争に至る、身も凍るような恐ろしい危機が幾度も生じたのだった。
そして、この間、実に頻繁に起こり勝ちだったのが、「緊張緩和」は相互陣営にとって異なる意味を持つと云う事態である。即ち、米国側は、現状を凍結したつもりでいた。然し、一方、ソヴィエト側は革命を拡散させる権利をも含め、大国に付随するあらゆる特権を備える、超大国として認知されたのだと確信したのだ。一度(ひとたび)、諸事案に於いて斯様に利害の相反する解釈が露わになった時、米ソの競合は必ず熾烈に再燃したのだった。
結論として、大国間競合は、覚書締結を以って繕えるような代物ではない事丈は確かなのだ。無論外交努力は必要ものであるが、紛争を非暴力的な解決に向け強制する力は持たないのだ。持続可能な解決に処するには、安定的な権力均衡の存在が欠かせない。そして、斯かる均衡とは、お目出度い話し合いからではなく、一方の勢力が最早相手には適わないと悟った後にこそ、漸く出現するのだ。
(次章以下 順次掲載)
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