著者/肩書:タチアナ・スタノファーヤ(TATIANA STANOVAYA)/ カーネギー平和財団、ロシア・ユーラシアセンター 上級研究員。及び「R.Politik」社(政治分析企業)創設者兼CEO。
(論稿主旨)
2022年2月、露西亜大統領ウラジミール・プーチンがウクライナ侵攻して以来、露西亜人エリート達は、恰(たか)も戦争が現実には母国の生活に何ら変化を及ぼさぬが如くに振舞って来た。同軍事行動が不首尾と化し、西欧諸国が対露西亜経済へ制裁強化したにも拘わらず、モスクワ政府内の権力者達は一向普段と変わらぬ様子だった。
然し、去年の秋から事態が徐々に複雑化する。2022年9月、ウクライナ軍はハルキウ地区での反撃に成功し、世界を驚かせた一方、露西亜軍体制の脆弱性が露わとなった。これに苛立ったクレムリン政府は軍事総動員令を発し、短期間とは云え、国内に大きな社会不安を与えた。
そして、10月、ウクライナ側はクリミア大橋を攻撃、同地と露西亜本土を結ぶ幹線橋は炎と煙に包まれた。更に、この一件は、クレムリン政府の「レッドライン」が定らず不安定に揺れる現実を露呈した。即ち、僅か数ケ月前に「決して、寛容されぬ」と見做された攻撃に対してさえ、国家が最終的に明確な対応を取る事が出来ず、従い、エリート達は、露西亜による戦争が自身の領土へと跳ね返って来るとの心情を次第に強めたのだった。
これら圧力は、その後の数ケ月間に、更に一段階、増加する事となった。つまり、ウクライナ前線に関し、ウクライナ側の都市バフムトを5月に制圧したのを例外とし、クレムリン政府にとり朗報が届く事は殆どなかった。一方、国内に新たな局面が生じた。正体不明の ―恐らくはウクライナの安全保障局の関与による― ドローン機がモスクワを攻撃したのだ。又、民兵組織が、露西亜のベルゴロド地方の国境を越え急襲した。そして、最も衝撃的な出来事は、民間軍事会社ワグネルの指導者、エフゲニー・プリゴジンの率いる軍事勢力が6月に公然と反乱を起こし、ロストフ・ナ・ドヌー市の大半を制圧し、モスクワを目指して一軍を縦列で進軍させ、更にその過程に多くの露西亜空軍機を撃墜し十数人以上の露西亜人パイロットを死傷させた事だ。
プリゴジンの乱は世界の耳目を集め ―そしてモスクワ政府内エリート達を痛く悩ませた。当件は迅速な解決を見たものの(ベラルーシ大統領アレクサンダー・ルカシェンコの橋渡しに負った面もあるが)、モスクワの多くの人々は、プーチンの危機管理手腕に就いて理解に苦しんだ。露西亜大統領は、プリゴジンを公衆の面前で“裏切り者”と容赦ない非難を浴びせながら、その一方、この傭兵軍の指揮官に対し国内での自由な移動を認めるばかりか、6月末には交渉の為、本人をクレムリンに招いて見せたのだ。
これら一連の出来事は、近代露西亜に於いて類する事例がない。それでも、然し、市民はこの状況によっても、掻き乱されたようには見えない。つまり、彼らは、恰(あたか)も何事もなかったの如く、日常生活を営んでいる。今や、将軍達は軍の最高幹部への不平を依然より大っぴらに発言できるようになったのは確かだ。然し、総じて軍隊内の状況は安定を保ち、今日迄、露西亜政府と軍隊とに於ける刷新人事はなく、軍人の逮捕者も出ていない。
然し、勘違いは禁物だ。悪いニュースに対して、耐久性を表面上保っている状況、並びに、現在進行する事態に対する国民の無関心に就いては注意が必要である。つまり、クレムリン政府は次第に、歓迎せざる事態を絨毯の下に覆い隠す所作が、依然に比べ次第にやりづらくなったのは事実なのだ。ウクライナ戦争が露西亜を変え始め、国内の深層部で変動が恐らく生じ始めている。それは、プーチン体制内に於いてはエリート達のプーチンに対する認識の変化であり、公衆に於いては戦争に対する彼らの態度の変化だ。実に、露西亜の日常生活が軍国化され、エリート達の中で超国家主義の強硬主義者が勢力を得る一方、勢力が衰えつつある思想主義の旧擁護者に対しては、彼らが戦争の実態にそぐわなくなって来たと一般大衆が考え始めたのだ。
プーチン体制の弱体化が世間に認識された事が、更に同体制の根深い欺瞞を露わにした。即ち、当局に染みついていた傾向として、国内政治の諸リスクを軽視し、寧ろ、目前の問題に忙殺される余り長期案件を疎かにし、今般の戦争に関連する領土に於いて頻発する諸事件に対してすら、有ろう事か、責任を拒否する態度が暴(あば)かれたのだ。
プリゴジンの乱は、事態を一層過激化し、今後、同国が、急進的且つタカ派的で、更に冷酷な国家へと進んで行く為の先導を果たしたと云える。然し、先般のワグネルによる反乱の如く、クレムリン政府に対する脅威や、政府の非力が露わになるような事態ですらも、必ずしも大衆に対し、プーチンに反旗を翻し、同体制を倒す行動に駆り立てるような影響力を与える事はないだろう。
そうではなく、これらの事態は露西亜をより一層求心力に欠ける集団へと変じ、内に様々な矛盾と摩擦が蔓延し、今後の局面は更に激変し易く予想の付きにくいものとなって行く。極めて大きな圧力が今や国内へ方向を転じ圧(の)し掛かる結果、現在進行中のウクライナ戦争に関しても国内に議論の余地が、直ちに公然の反対とはならぬ迄も、今後生まれて来る可能性はある。然し、それにも拘わらず、露西亜国内に於いて、プーチンが打ち立てた秩序は一層無秩序化の道を辿り、その結果、世界は以前に増して危険で予測し難い露西亜に対処する事を余儀なくされる、との覚悟を我々は予め持って置く必要がある。
(他章は順次掲載予定)
コメント