著者/肩書:カーター・マルカシアン(CARTER MALKASIAN)/米海軍大学院の防衛研究部門長。
米国統合参謀本部議長に対する戦略特別補佐官(任期2015-2019年)。『朝鮮戦争、1950-1953年』の著者(The Korean War, 1950-1953)。
(論稿主旨)
1952年8月中旬、中国周恩来首相は、ソヴィエト連邦独裁者、ヨシフ・スターリンに面会すべく、凡そ4千マイルの道程を旅した。周は中国指導者、毛沢東の特使として権限を与えられていた。当時、両共産主義国家は同盟を結んでいたものの、それは対等な協力関係ではない。即ち、ソヴィエト連邦は超大国であり、片や中国は経済支援や軍事設備の分野で同国に強く依存した。その2年前、毛とスターリンとはある種の共同事業に乗り出していた。つまり、彼らは、北朝鮮指導者、金日成が韓国侵攻した際に、共に祝意を送ったのだった。彼らの期待は極めて大きく膨らんだ。即ち、スターリンが、侵攻後、金に宛てて発した電報に曰く「譬え、米国が韓国支援に即座に駆けつけたとて、斯様な介入主義者達は速やかに朝鮮半島から駆逐され屈辱に塗れるのがオチだろう」と。
然し、物事は絵に描いた通りには進まぬものだ。1950年秋、米国ダグラス・マッカーサー将軍率いる諸軍が北朝鮮で陣地奪還し、これに対し中国は直接介入実施。1951年中盤には、38度線に沿って、流血の果てに膠着状態が出現、この線は侵攻前に北朝鮮と韓国とを隔てる境界であった。同年7月、相(あい)敵対する両者間で交渉開始された。これらの目的は、休戦実現に加えて、韓国の将来に関し協議の場を設ける事に在った。然し、交渉は、戦争捕虜交換の諸条件を巡り行き詰る。
1952年夏、周恩来がモスクワ訪問した時点で、状況は共産主義者達にとり暗澹たるものだった。空爆で北朝鮮内の産業設備は破壊され、あらゆる都市が見る影もなく荒廃した。食糧不足が襲った。2月の時点で、金は「最早戦争継続の意思がない」旨を毛へ伝えた。それから約5ケ月後、金はスターリンに対し「一刻も早い休戦決断」を嘆願する。然し、スターリンは一切動かなかった。スターリン同様、毛も米国からの諸要求に対し一歩も引かぬ覚悟を決めており、更に、彼は戦場に関し、金が抱く程の懸念を持たなかった。それでも、金と同様、毛は自分の国が消耗している点を自覚していた。
冷戦時代を通じ、周恩来は当時有能な外交官との評判を既に勝ち得ていたものだった。それでも、良くない知らせを届ける役目を担いモスクワに到着した彼は、流石に落ち着かなかった。彼の使命は、真実を説明した際、スターリンは何処迄(どこまで)率直な態度に出るかを探り出す事だった。常に戦場後方に在り、実情に疎いスターリンにとって、戦争休止の話が持ち出されれば、不愉快極まりなかろう事は、容易に想像出来た。
両者会談は8月20日行われた。スターリンが知りたかったのは、中国と北朝鮮が尚も米国に対し一層強い圧力を掛け得るのか、と云う点だ。周は自信に満ちて「双方陣営は兵力に於いて略(ほぼ)互角」と表明しつつ、一方では「中国軍による総攻撃は実施困難である」旨付言した。換言すれば、米国軍を抑圧可能とする軍事上の妙案はない、との指摘だ。それでも、周は弱腰と見られぬよう、自信を滲ませ付け加えた。「毛沢東主席は、戦争継続する事は、米国をして次なる世界戦争の準備に取り掛かるのを阻止し、従い、我々を利する、と確信しておられます」と。
「毛沢東の見解は正しい」とスターリンは肯定した旨が、露西亜公文記録に確認できる。即ち、彼は続けて「米国にとり、この戦争が厄介なものになりつつある… 米国人達は、同戦争にメリットがなく、終わりにすべきだと、考えているのだ…就いては、此処で忍耐と辛抱を以って踏ん張る事が大切だ」と。これに対し、周は先ず「同志スターリンの認識は的を射る」点を賞賛した上で、再度、肝心な話題の切り出しを試みた。つまり「北朝鮮はある意味、現在揺れ動いている」と。続けて「彼らは、若干不安定な国家だ。北朝鮮が揮(ふる)う指導力に関し、特定の諸要因の中には、其処(そこ)に国家的な混乱を示唆する事態さえも伺い知れる状況なのだ」と云った。之にはスターリンがうんざりした様子を見せ、彼は「それらの情報は既に耳に入っている」とのみ答えた。周は此処(ここ)で引き下がった。
その一月後、周恩来はスターリンと会談し再度、難題を切り出す。即ち、休戦を受け入れる一方、物議を醸すのが必至の捕虜交換の詳細に関しては、之を先延ばしする案を打診したのだ。然し、スターリンは「数多(あまた)ある中の一つのシナリオには相違ないが、第一、米国がこれに同意する訳がない」と却下した。中国と北朝鮮に対し「妥協する事なく断固たる戦争継続を望む」スターリンの姿勢が明らかに見て取れた。他に選択肢はないと悟った周恩来は、已む無く「大変有用なご指示を賜った」とスターリンを賞賛し、彼の助言を受け入れたのだった。
休戦の基となる諸条件は、周恩来とスターリンが協議した内容より若干不利なものだったが、両陣営が協定合意に至る迄には、更に10ケ月間の月日を要し、その間、戦闘による破壊行為の継続が予想された。案の定、そうする間、何万人の命が奪われ、何万人もの負傷者の発生が続いたのだった。結局、この戦役で米国は戦死者36,574人と負傷者103,284人を出した。又、中国軍側戦死者は推定百万人、之に加え、4百万人の朝鮮人が戦没(同半島の居住人口の一割にも相当)した。
この休戦は流血を止め、非武装地帯が設けられ、停戦の監督や協定違反に対する調停の仕組みが設置された。然し、朝鮮戦争は正式には終了していない。主要な政治的諸課題の解決を見る事なく、尚も、小競り合い、砲撃、更に時として局地的戦闘が発生した。それでも、それらが全面戦争へとエスカレートする事はなかった。この休戦は当時を持ち堪え―そして70年後の今日、尚機能しているのだ。
朝鮮半島は、今日、地政学上高い緊張の中に在る。独裁者が北朝鮮を統治し、内に国民を残酷に抑圧し、外には核兵器を以って定期的に周辺諸国を威嚇している。それでも、大量殺戮を伴った朝鮮戦争は今や人々の遠い記憶となり、当時休戦協定が齎(もたら)した平和のお陰で、韓国は経済発展を加速化させ、遂には安定した自由民主主義国へ変貌した。あの休戦協定自体は多くの欠点を含んだものの、同協定は成功したのだ。
ウクライナを破壊し尽くす今日の戦争は、先の朝鮮戦争と顕著な類似点が在る。そして、如何にしてこの戦争は終わるのかと心を痛める人々にとっては誰でも、朝鮮戦争休戦協定の耐久性―そして、停戦合意の遅れにより更に増加する高価な人的代償とを、具(つぶさ)に検討考慮する価値が十二分に在るだろう。両戦争の共通点は明らかだ。70年前の朝鮮戦争と同様、ウクライナ戦争に於いても、膠着した前線、並びに双方の政治信条間に克服不可能な隔たりが在る状況下、難題に満ちた政治諸課題は、何れの日か後日へ先送りしつつ、先ずは暴力行為停止を呼び掛ける余地が在るのだ。朝鮮休戦協定により「韓国は、米国の安全保障と庇護の下に経済発展を遂げるのが可能となった」と歴史家ステファン・コトキン(*訳者後注1)は指摘する。更に曰く「もしも、同様の休戦協定がウクライナに成立し―或いは、その協定の対象地域が同国領土の80%に止まった場合でも―之により韓国並みの繁栄を得られたならば、それは戦争に於ける勝利と呼べる」と。
朝鮮戦争の休戦協定交渉は、熾烈な戦闘が継続される中に、難航且つ長期化した。それは、何れかの陣営に対し「妥協を受け入れるのが得策である」と納得させるに十分な程、戦争続行の代償が甚大である点が明白になる迄の、時間経過を必要とした為だ。これは、今日そっくりウクライナ戦争に当て嵌まる。朝鮮戦争の事例から見ても、露西亜大統領ウラジミール・プーチンは ―その頑固さが嘗てのスターリンに類似し― 如何なる妥協も拒絶する可能性があり、特に休戦協定への障害になり得る。更に加えて、米国の国内政治情勢や、ワシントンとキーウ両政府間の正当ではあっても互いに異なる利害から、休戦協議は挫折する可能性は残るのだ。
嘗てワシントン政府内の議論は「交渉に着くよう、ウクライナを説得開始するにはどの時期が適切か?」との問題に焦点は屡々(しばしば)集中し、これに対し、関係者間で同意されていたのが、一般的に「今はまだ、その時期ではない」と云う見解だった。然し、朝鮮戦争の事例を思い起こすべきだ。即ち、戦線膠着した状況下では、戦争継続により、それにより生じる代償の方が便益を上回る事を、双方共が明確に納得する迄に、結局、極めて長い年月を必要とするのだ。そして、彼らが漸くそれを悟った時には、双方共、何ら意味ある優位性を得られぬ儘に、更に大量の戦死者と破壊とが累積している事だろう。
其処(そこ)で、米国、NATO、及び他支援諸組織が休戦に向けて行動を開始すると決意するのであれば、朝鮮戦争終結の際に得た三つの実践的教訓が有用だ。第一に、戦闘続行と協議は同時に推進すべし。戦場での圧力は、交渉テーブルで諸要求を通すに利する為だ。第二に、全ての交渉に国連を介在させるべし。中立の仲介者の存在は極めて重要だ。最後に、キーウ政府が一定の妥協を前向きに受け入れる前提で、米国を始め上述関係者達は、ウクライナに対し将来安全保障提供、並びに戦後復興の支援を条件付けるべし。
「ウクライナと西欧諸国側の完全勝利と、敵側の全面撤退」が、同戦争で歓迎すべき結末なのは、丁度、朝鮮戦争に於いても、出来得るならば同様な形の終焉が望まれたのと同義だ。そして、朝鮮の場合、斯かる期待は、戦争が寧ろエスカレートする大きな危険によって、結局、潰えたのだった。この教訓を踏まえれば、キーウ政府、ワシントン政府、及び露西亜侵攻に反対する彼らの同盟諸国は、譬え重要な全ての諸問題の解決には至らずとも、ウクライナと露西亜双方が受諾可能な休戦協定に漕ぎ着ければ、それは彼らにとり「勝利」と心得るべきだ。
手詰まり状態の中で
ワシントン政府と同盟諸国が、交渉によるウクライナ戦争終結の策を重視する考えならば、朝鮮戦争に於いて停戦協定に漕ぎ付けるのが遅延する間、甚大な死傷者数が追加発生した事に思いを馳せ、それを肝に銘じなければならぬ。即ち、結局、休戦協定により、本質的には現状に沿った領土情勢が承認される結果を得たが、その協定交渉が開始された当時に於いては、核戦争へエスカレートする脅威の中に両当事者は置かれていたばかりか、それから後、更なる2年間の激甚な交戦が繰り広げられる危険をも孕んでいたのだった。そして、案の定、これら追加的戦闘により、結果的には、米国、韓国及び同盟諸国軍に15万人以上の死傷者と、中国と北朝鮮側に25万人以上の死傷者を出す事になった。
休戦合意が斯くも遅れた最大の理由は、恐らく、共産主義者達が戦争の真の代償を把握する迄に時間が掛かり過ぎた点に在る。同時に彼らが米国を凌駕し、より長く持ち堪えるのは不可能と悟る迄に、単純に時間を要したのだった。1950年、ヤールー川(鴨緑江)の戦いに完敗し、トルーマン大統領や他西欧諸国指導者達は、交渉による終結模索方針が得策と納得したが、毛とスターリンは、反対に同戦闘の勢いを以って、彼らがこの戦争で明白な勝利を収める事が出来ると確信した。
歴史家の沈志華と雅峰夏が著書に云う通り、毛は本来「地域的戦争」を起こし、単に中国を防衛するのが目的だった。然し、米軍率いる第八陸軍の敗走を目撃した毛は、彼の野心を膨らませ、中国軍により米軍を朝鮮半島から駆逐し、台湾に対する米国支援を断ち切り、更には、国連への中国加盟を確実にする事が出来ると考えた。結局、斯かる野望が非現実的だったと毛が悟るには、更に6ケ月間の時を必要とし、その間、共産主義陣営で凡そ15万人の兵士が殺され、負傷し、或いは捕虜となると云う、甚大な損耗が発生した。その後、毛は、戦前状態に基づく休戦協定を模索し始める。そして、1951年6月中旬迄には、スターリンも同じ見解に至ったのだった。
処が、この時点に於いても、毛とスターリン共々、停戦同意の前に、交渉に於いて有利な条件を引き出す為の梃として、軍事行動は継続させる意向だった。つまり、中国の誇る巨大な動員力を以ってすれば、消耗戦に於いて米国軍は決して中国を打ち負かす事は出来ないと計算していたのだ。毛は、自陣の交渉人達の一人にこう語っている。「相手の力によって打ち負かされない位置を我々が確保してこそ、初めて、我々が相手を屈服さる丈の、主導力と権力を握る事が出来るのだ」と。更に付して曰く「就いては、この目標達成の為に、君達は、後(あと)、7~8ケ月交渉を進める間にも、敵陣に対し我々の威力を示す為の攻撃実施準備を怠ってはならない」と。
然し、共産主義陣営は、斯かる威力を結局発揮する事が出来なかった。先ずは、米国、英国、及び豪州軍による一連の猛攻を受け、1952年の秋、毛は両陣営が現状対峙する線を停戦境界線とする事を承諾せざるを得なかった。その後、毛とスターリンが捕虜交換に関する妥協案に反対した事態に対し、クラークは、1952年、共産軍を集中的空爆に晒し、平城市内の諸目標に加え、北朝鮮及び中国北東部大半への電力供を担っていた複数の水力発電所を攻撃した。
歴史家シュグアン・チャン(Shu Guang Zhang)によれば、1952年後半の時点で、中国は国家収入の凡そ半分を同戦争遂行に継ぎ込んでいた。毛は、それ迄に国民に増税を課し、ソヴィエト連邦へ借入も要請した(既に中国はソ連に対し過大債務に陥っていた)。8月になると、毛は、ある中国共産党会議の場で「中国経済は戦争支出を半減させぬ限り破綻する」と高官達へ伝えた。国家財政が戦費に流出する事態は、中国が社会主義経済に完全移行する足を引っ張る中、毛と共産党幹部達は国内から異論が出始めないかと気を揉んでいた。
当時、毛は金日成程には心配していなかったが、それでも経済と政治両面に於ける諸懸念と停戦とを天秤に掛け、検討せざるを得ない状況に置かれていたのだ。彼は、中国が崩壊するのを決して望まぬものの、一方、中国共産党は、僅か3年前に国内内戦を制し権力統合を図ったばかりの状況に在り、同党が弱体であるとの印象を与えるのは避けたかった。謂わば、毛は進退窮まる中で、冒頭触れたように1952年8月、周をモスクワに派遣したのだった。
一方、スターリンは、膠着状態に陥った毛を手助けする気は全くなかった。彼の目論みは、飽くまで、ソ連の軍事能力を温存し、中国と北朝鮮を利用して、米国の軍事力と経済力を棄損させる事で、寧ろ早計な妥協は何としても回避したかった。彼からすれば、北朝鮮と中国の死傷者数は十分許容範囲だったのだ。斯くして、1953年にスターリンが死去した後に漸く、ソ連の態度は軟化する。スターリンの後継者、ゲオルギー・マレンコフと他のソ連長老指導者達(ニキータ・フルシチョフを含み)は米国との「平和的共存」―つまり、互いに競争継続するが、緊張を緩和し直接交戦の危険を減じる策― を模索開始した。彼らが、朝鮮戦争を継続する費用が最早許容を越えると判断したのだった。
然し、スターリンばかりに長々と責めを帰そうとすると、同戦争がもっと早い段階で終わらなかった、もう一つの理由を見落とす虞がある。即ち、停戦交渉が18ケ月間にも亘り足止め状態に陥ったのは、米国にも責任があるのだ。即ち、「戦争捕虜が本国に送還されるか否かは、捕虜自身が選択の権利を持つ」と米国は強く主張した。この要求は、共産主義が民主主義より魅力が劣る事実を如実に示さんが為の、思想的欲求に駆られたもので、強い米国を期待する国内世論に後押された背景が在った。トルーマン大統領は、自主選択による本国送還は、決して譲る事の出来ない人権上の問題との立場を取った。そして、1952年5月「強制的な本国送還は“我々が信奉する最も重要な徳義原則と基本的人権”に対する忌まわしき冒涜である」と彼は宣言した。当時の米国政治が、尖鋭的な反共産主義風潮に満ちる中、この方針は非常に盛んな超党派支援を受けた。
この問題により交渉が行き詰まった際にも、その年に大統領選挙を控えたトルーマンは、共産主義に対し弱腰だと非難される事を恐れ、最早、後戻り出来る状況ではなかった。後日、大統領に選出されたアイゼンハワーも、自派共和党内の右派が本件に弱腰になって動揺する事を虞れた。抑々(そもそも)、トルーマンが捕虜解放の一件を要求しなければ、共産主義者達は、もっと早い段階で、場合によってスターリンが死去する以前にも、停戦に合意した可能性があったのだ。歯に衣着せず云えば、二人の米国大統領達は自国の政治的反動を避けんが為、何千人もの米国兵士達を死ぬ目に逢わせたのだ。彼らの命は、特定の領土奪還や、或いは戦術的有利を勝取る作戦とは、全く無縁な目的に捧げられた。
韓国も又、休戦協定締結の遅延に加担したのだった。休戦の全体合意は、李承晩による予告なしに北鮮人捕虜全員を韓国国内に釈放すると云う仕打ちにより、殆ど完全崩壊した。背景は、李の利害が米国側と背反し始めていた事に在る。自分の政権下に朝鮮半島統一を渇望して来た彼は、1951年の諸交渉を嫌々乍らしぶしぶ承知したのだった。又、李は米国に対し相互安全保障条約の締結を望んだ。彼は之により、共産主義者が将来自国の軍隊を圧倒しようとする試みを牽制しようと考えたのだ。然し、当初ワシントン政府はこの条約に難色を示した。と云うのは彼らにとり、同地域防衛の最重要拠点は日本だったからだ。其処で、李は受け身的に停戦を受け入れるよりは、寧ろそれを葬り去る道を選んだのだ。中国軍撤退の後も、ワシントン政府は、李に対し韓国軍の増強と、長期的経済支援を与える事を約し、漸く彼の協力を取り付ける始末で、更に、嘗て一旦は拒否した、相互安全保障条約も結局は締結したのだった。それでも、李が最後迄、休戦協定に署名する事はなかった。ワシントン政府は「同条約を遵守する」との彼の口約束を信じ受け入れざるを得なかったのだ。
虎穴に入らずんば、虎子を得ずの譬(たと)え
ウクライナ戦争に於ける休戦協定実現には、余りに多くの障害がある為、一部論者には、丁度、2014年、露西亜がウクライナ東部侵攻後に同地での局地戦闘が辿ったように「紛争が凍結に至る迄その時期を待つのが、より現実的な選択肢である」との主張も在るだろう。前線に於いての膠着状態が収束し、そして暴力行為が許容可能な範囲内に逓減し、安定的な状態に沈静化する可能性も確かにある。然し、其処で問題なのは、紛争が凍結状態になった場合、それは露西亜側に時間を稼ぐ機会を与え、結局、彼らは最終的に全面戦争を再度仕掛けて来る事態を招くと云う点だ。つまり、プーチンにとっては、彼の立場が改善する迄耐え忍んだ後、機が整えば、新たに攻撃を再開する丈の話なのだ。これらを考え併せれば、矢張り、休戦協定こそが、しかも、双方が合意署名し、国際機関による仲介の下、休戦境界線が双方で確認され、状況監視の仕組みと諸条件を双方遵守せしめる為の諸策が整った環境に於いて、実現するのが、少なくとも、最も被害が少ない選択肢なのだ。
停戦交渉を成功させる確率を向上させる為には、ワシントン政府と同盟諸国とで、打つべき多くの手段が在る。先ず、外交部門に於いて、彼らの交渉術発揮の為には、軍事力行使と密接な連携を図る事が重要だ。この策が意味するのは「露西亜の“善意”を当てにせず、交渉と戦闘の同時進行」である。ウクライナ戦争停戦交渉の成否は、露西亜に対し、軍事上及び経済的にどれ丈の圧力を西側が掛け続けられるか次第なのだ。米国及びNATOが停戦申し入れをする際は、戦場のみならず、経済制裁等の他分野に於いても圧力を掛け続けて、クレムリン政府の歩み寄りを迫るべきだ。この手法は、朝鮮戦争に於いて1950年末期から51年初に掛け、共産主義者達の頑強な抵抗に直面した際、トルーマンが採用したと同様の策だ。
もしも、露西亜が交渉拒否する態度を取り続けたらどうするか? その場合、ワシントン政府とNATOはウクライナに対する武器供与の拡大(ATSCM-陸軍戦術ミサイルシステム、戦車、戦闘機、更には防空システム等)と、特別作戦部隊(戦場戦闘任務とは異なる役割を負う)派遣により、プーチンが時間稼ぎをした場合に彼の被る代償をしっかと認識させる事だ。一度(ひとたび)交渉が開始されたならば、ウクライナによる攻撃度合いは抑制的とし、交渉の場での要望事項と連動させる事が必要だ。それと同時に、ウクライナに対する安全保障と経済支援も増加させるべきだろう。2022年に於ける、対ウクライナ支援貢献実績額は、米国が約770億ドル、そして米国以外のNATO諸国が630億ドルだった。停戦実現するまでは、米国とNATO共に上記の支援金額を最低限度とし毎年実施する覚悟が必要だ。
停戦交渉の設定と協議に就いては、米国とNATOは国連を巻き込むべきだ。一方、今日、ワシントン政府内では「国連は非効率な外交手段」との認識が一般常識とされている。1953年、ダレス国務長官も又、この誤った認識の持ち主だったが、実際は、朝鮮戦争休戦協定では国連による仲介が決定的に重要な役割を果たしたのだった。今日、露西亜にとっては、妥協案が中立国や国連内の友好国から提示された場合には、それが米国、NATO、或いはウクライナから出されるよりも、受け入れ易いだろう。現に印度(インド)を含む重要加盟諸国には、同戦争に関し距離を置いて来た経緯があり、彼らの存在は、停戦協定の諸設定に於いて、国連組織が実施する監視や監査の信頼性の増進にも寄与するのだ。
ゼレンスキー大統領から譲歩を引き出して停戦合意に向かわせる為には、ワシントン政府と欧州諸国は、交渉枠組みの設定に関し、彼と緊密な連絡をとりつつ、更に、如何なる協議に就いても、彼の意を受けた代表団が中心的役割を担う点を明確にする必要が在る。然し、米国と欧米諸国にとってより重要な点は、ウクライナが停戦協定に調印する事を前提として、戦後の紛争安全保障と経済復興支援に関する諸条件を設定する事だ。キーウ政府としては、停戦協定締結の見返り条件として安全保障提供を求めるのは間違いない。その際、ウクライナのNATO加盟が早々に実現する見通しは少ないものの、米国とNATOは賢明な外交諸策を以って、先ずは他の手法による安全保障追求、例えば、ウクライナ軍に対する助言と訓練を長期に確約する等、を提案して行く事が可能だろう。
然し、厄介なのは、この交渉に於ける、唯一、最大の障害に対し、我々が打てる対策に、極(ごく)僅かな選択肢しかない点だ。即ち、プーチン問題である。彼の頑強さは克服困難にも見える。もしも、プーチンが戦争の代償に心底無頓着な場合、米国もNATOも、一体どのレバーを引けば効果を発するのか見当がつかない。無論、露西亜エリート層に対する制裁や同国反対勢力への支援実施は表面上効果が期待出来る。然し、ワシントン政府も同盟諸国も露西亜への連絡経路は余りにも少なく、同国政治力学に関し極めて貧弱な理解しか持ち合わせぬ故に、成功に賭するに必要とされる情報量は遥かに不十分と云う実情なのだ。更に、「プーチンがやがて権力の座から追われる」と期待するのは、尚一層有りえない展開だ。此処に朝鮮戦争の教訓が在る。スターリンの頑迷さが交渉の障害から外れたのは、彼が死去した時だった。従って、プーチンが、多分追放される事もなければ、恐らく直ぐに死ぬ可能性もないと思われる状況下に、交渉を追求する策は、矢張り、一つの賭けなのだ。何故なら、軍事上と経済的な圧力に対し、彼が何処かの時点で屈する可能性もあるが、そうならない場合もあるからだ。
この様に、話し合いが実現するか、或いは休戦合意に至るかは、何れもその保証はない。露西亜は既に「米国とNATOより譬え一日でも長く生き残る」方針を固く決しているかも知れない。又、米国にとっては「ウクライナの利害は、韓国に対するより同等未満な点」を冷徹に認識する事が必要だ。即ち、幾ら何でも、米国大統領が誰であれ、朝鮮戦争の事例の如く、米軍に対しウクライナ軍と共に戦闘参加を指令する可能性は先ずない。或いは、嘗て米国が北朝鮮に見舞ったような、ダム破壊、電力発電所への攻撃、及び首都爆撃に類する攻撃を、ウクライナが露西亜に対し実施するのをワシントン政府は決して承認しないだろう。従い、朝鮮戦争で休戦交渉が成功した事例が在っても、歴史にそれが繰り返えされるとは限らぬのだ。
然し、停戦交渉の模索が、譬え賭けだとしても、それは小さい危険で大きな見返りを得る潜在的機会を提供する。又、万一、失敗した場合でも、それは何も行動を取らなかった場合と同じ結果が生じるに過ぎない。それに引き換え、もし交渉が成功した暁には、ウクライナ国家を温存させ、民主主義に対し蔓延した危機感を和らげ、露西亜が将来抱く野望を抑止し、戦争拡大の懸念を沈静化する事が可能となる。従って、朝鮮戦休戦合意が生んだ、安定的な平和継続に類似した環境が確保されたならば、それはウクライナと同国を支援する諸国のみならず、世界全体にとっても勝利と呼べるのだ。
(その他の章、後日掲載)
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