執筆者/肩書:
ステファン・G.ブルックス / ダートマス大学、政治学教授、及びストックホルム大学客員教授。
ウィリアム・C.ウォルフォース / ダートマス大学、政治学教授。
(論稿主旨)
1990年代から今世紀初めに掛けて、世界に於ける米国の優勢に関し疑問の余地はなかった。権力の基準を何で計ろうとも、米国があらゆる分野を劇的に支配していた。軍事、経済、及び技術の世界で、これら全てに他国より遥か先進した事例は、近代国家制度が誕生した17世紀以降、米国を置いて他に存在しない。又、世界の最も豊かな国々の大半が米国と同盟関係を結び、且つ彼らは、ワシントン政府がその創設に主要な役割を果たした、一連の国際諸機関に所属する。そして、米国は自身の外交政策を、外部制約を殆ど受けることなく展開可能であった点も、近代史に例のない事である。斯くして、権力拡大の野望を抱く、中国、露西亜(ロシア)、及び他諸国は、米国本位の制度に於ける彼らの地位に対し大いに不満を抱き乍ら、同制度を転覆するのは不可能だと諦観するのみだった。
それが当時の状況だ。然し、今や米国の力は大きく減退したかに見える。この間、20年の内に米国が体験したのは、アフガニスタンとイラクに対する費用が嵩んだ上に失敗した軍事介入、破壊的な金融不安、深刻化した分断、そしてトランプ政権下に於いては、孤立主義的衝動に駆られた大統領による4年間の治世である。一方、この間、中国は顕著な経済成長を持続させつつ、従来よりも遥かに攻撃的姿勢を強めた。そして、恐らく、2022、年露西亜によるウクライナ侵攻は多くの人々には、米国優位性の終わりを告げる弔鐘の鳴るが如く聞こえ、米国は最早、修正主義者達の圧力を押し戻すにも、又、自らがこれ迄に築き上げた国際秩序を維持するにも力が及ばないと感じた。
多くの識者達が、米国一極時代は完全に終わったと云う。多くの分析者達は、中国の大なる経済規模を以って、二極化の時代であると明言する。然し、此処(ここ)に止まらず、大勢は更に「世界は多極軸化への移行局面」に在ると云い、ある者によれば「其処(そこ)に既に行き着いた」と云う。現実には、中国、イラン、及び露西亜の国々が、一様に同見解を支持し、これら反米修正主義を主導する国々は「遂に、我々は自分達で自在に国際制度を造る権力を手にしたのだ」と云う。印度(インド)やその他、多くのグローバル・サウス諸国も同一の結論に達し「超大国支配による数十年間を経て、漸く、自分達の道を歩む自由を手にしたのだ」と嘗ての一強時代を難じる。そして、米国人の多くも、世界は今や多極軸時代に入ったと認める。現に、米国家情報会議(NIC)からは同見解を大いに支持する報告書が相次いで出されたのみならず、従来、穏当な米国外交政策を選好した左派や右派の人物達も同様の主張展開をする状況なのだ。ともあれ、「今日の世界は、最早一極ではない」と云う意見が、真実として最も広く受け入れられているのは事実だ。
然し、この見解は誤りだ。世界は一極でもなければ、多極でもなく、更にその何れにも向かっていない。確かに、米国はこの20年間に支配力を弱めはしたが、尚も、世界権力階層の頂点に位置し、中国を優に凌ぎ、その他の如何なる国をも、遥か、遥かに引き離す状況なのだ。この現実を確認する為に、如何なる統計を引っ張って来ても大丈夫と迄は最早云えぬものの、適切な尺度を用いさえすれば、それは明白な事実なのだ。それは、近代国家体制黎明期から先の冷戦期を通し存在していた、多極軸や二極軸時代に限って諸大国の政治を形成する、「ある力」が今の世界には著しく失われている点に思いを馳せたならば、現在も「一極一強」体制が根強く継続する事実が一層明白だ。即ち、その失われた力とは権力の「均衡」なのだ。つまり、現状に於いては、他諸国が様々な同盟に参画し、或いは自国軍事力を増強する事によっても、米国の有する権力に単純に伍して均衡を得るのは不可能なのだ。
「米国は尚も地球上に大きな影響力を与えるとは云え、嘗てよりその力が衰えた」と人々は口を揃える。然し、この議論は飽くまで知覚で捉えた度合いに過ぎない。即ち、此処で話題となるのは「一極軸の性質」の問題に過ぎず、「一強一軸が存在するや否や」を問うものではない。
冷戦期に於ける最も重要な点は、米国とソヴィエト連邦間の対立によって特徴付けられ、世界は二極軸であったのが紛う事なき事実だ。同連邦崩壊後、米国は明らかに唯一頂点に立ち、世界が一極化した。多極軸化を唱える多数の者達は、権力をある種の影響力、即ち、他国をして我が意の思う儘にさせる能力と考える向きがある。米国はアフガニスタンやイラクを平定できなかったばかりか、多くの地球規模の問題を解決出来なかった、そして議論は「故に、これは世界が多極化している証だ」と展開する。然し、権力とは、影響力のような曖昧なものではなく、計測可能を前提とし、別な観点からの力を重視すべきだ。即ち、それは諸資源に関する議論で、特に軍事力の優位性とか経済に占める位置である。つまり、今日に於ける、大半の「多極軸」議論の根源として、学術上に同概念を広めた人々が念頭に置くのが、正にこの考えだ。即ち「国際政治の展開次第は、最上位に位置する諸大国の間で、重要な諸資源が如何に分配されるかによって様々に異なって来る」との見解だ。
然し乍ら、多極化体制と云うからには、同体制の展開には、少なくとも頂点を巡り、三大国、或いはそれ以上の互いに伍する国家が必要となる。米国と中国が2大大国である点に間違いないが、多極化を凡そ構成するグループに、少なくともあともう一カ国が属さなければならない。この条件が、正に「多極化の時代」論の主張が崩壊する所以なのだ。実質上、第三位へ位置付け可能な、仏国、独逸、印度、日本、露西亜、或いは英国、その何れをとっても、米中と互角に競争できる力を有しない。
如何なる基準に当て嵌めてみても、米中二強は揺るがない。勢力の極性分布を測る尺度は、20世紀中盤以降に主に利用された手法、軍事支出と経済産出力が今も使用される。之に従い、いとも簡素な一表が事実を裏付ける(訳者注:米、中、英、仏、独、露、日、印8ケ国の年間DGPと軍事支出額の比較表、何れも米と中が、他国に水を空け一位と二位の様が挿入。原文P80参照)。つまり、米国か中国の何れかが突如崩壊しない限りは、米中の優位性はこれら他の7ケ国、或いはそれ以外の等外諸国との差は簡単に埋まらないのだ。印度を除き、それ以外の国は何れも同じ勢力に列するには人口が少なく、一方、印度は貧しすぎる難がある。同国が十分成長するには、今世紀のかなり末迄待たざるを得ないだろう。
これら物質的力量に圧倒的な差異が存在する事実に加え、“多極化”なる概念を適切に理解したならば、「多極化時代の再来」を主張する如何なる議論に対しても、その錯誤を指摘し反駁可能だ。即ち、先述の物質的尺度に於ける破格の違いと同様、今日の国際政治体制と、百年前、現実に多極時代が展開した環境とを比較すれば、これ又、両者際立つ違いが存在するのだ。1945年以前の世界に於いては、寧ろ多極化こそが規範だ。つまり、当時は互いに権力が略(ほぼ)拮抗する諸大国間に、諸同盟関係は国際政治情勢に応じ目まぐるしく流動化した。同盟戦略は、主として諸大国間のグルーピングにより実行され、大国同士や弱小国はその対象としなかった。連携した際、何が手に入るかの皮算用こそが、外交を導く道しるべなのだ。即ち、同盟力学の変更により、一夜にして権力均衡を転覆させる事が可能で、ある大国が同盟関係に応じ獲得、或いは喪失する権力の甚大さに比すれば、特定国家が国内に自分一国でコツコツ積み上げる権力増強など特に短期的には高が知れているのだ。例えば、露西亜皇帝パーヴェル1世は、1801年の時点で、ナポレオンに敵対する代わり、寧ろ彼と同盟締結の可能性を真剣に検討した。これにより、英国にとっては、仏国による欧州覇権成立の虞が高じた。同年生じた宮廷内でのパーヴェル皇帝暗殺クーデターの裏には、この不安を抱いた英国が、一枚嚙んでいたとの説を唱える歴史家も一部存在する所以だ。
今日、世界の同盟諸関係は、安全保障を実質的に提供する殆ど全ての場合、米国よりも勢力の弱い諸国家に対し条約に従事させるもので、この同盟制度の拡大方向に向け、常に力学が作用する。その理由は、米国が尚も最大の物質的権勢並びに同盟諸国の規模を保持する為、仮に米国が自身の全ての同盟関係をすっかり破棄でもしない限りは、譬(たと)え、何処かの国が誰を盟友関係に選んだ処で、この米国一強国際体制の運命に然(さ)したる影響はないからだ。
過去、多極化時代に於いて「相対的に均等な権力配分」が意味したものは、諸国家が屡々(しばしば)、お互いにその権勢を凌ぎ合う状況であり、多くの国々が第一位の座を主張し争う中、権力移行に要する期間は長期化し、事実、誰がその名に相応しいかは定かではなかった。即ち、第一次大戦前夜の段階では、英国は世界展開する海軍力と巨大な植民地保有の観点で世界最高を誇り乍ら、一方、その経済力と陸軍規模では独逸に劣り、一方、その独逸も陸軍に関しては露西亜よりも劣り、更に、これら三ヶ国の経済規模は、何れも米国の後塵を拝していた。
又、簡単に複製可能な類の技術の場合、ある大国が、自分より優勢に立つ競合者の利点を真似て、その差を詰める事が可能だ。斯くして、20世紀初頭、独逸は、英国海軍対し技術上匹敵する競争力を有する艦隊を急造りするのに然(さ)したる困難はなく、斯くして、独逸指導者達は英国の鼻柱をへし折る策を追求したのだった。
今日の環境は、之と大きく異なる。先ず云えるのは、一つの明らかな強国と、一つの明らかな野望を抱く国とが存在する。もう一つの観点は、軍事技術の特性と、世界経済の構造とは共に、先頭ランナーに追こうとする野望実現を遅滞させる。即ち、今日に於ける、最も強力な武器は極めて複雑であり、これら製造に要する諸技術は、米国とその同盟諸国によって管理されているのだ。
多極化した世界は、過去に見る通り醜悪なものだ。1500年から1945年の間に、大国間戦争が10年に一度より高い頻度で継続的に勃発した。驚くべき規則性を以って、全ての最強諸国或いはその大半が、恐ろしく且つ完全な消耗戦を代わる代わる戦ったのだった。30年戦争、ルイ14世による侵略諸戦争、7年戦争、ナポレオン戦争、第一次世界大戦、そして第二次世界大戦、これらが皆それに該当する。斯かる状況下では、総じて帰結的な権力推移と、決定的に不確かな「多極化時代に於ける同盟体制」の双方が、それら衝突を誘因した。そして、同体制下に頻繁な権力交代が発生し、主導的立場の国家がその地位を保持するのは束の間だ。これに比べれば、現在の国際環境は険悪ではあるものの、寧ろ1990年代の幸福な絶頂期に比肩し得るものなのだ。つまり問題は、現況に於いては、先述した衝突を誘発する諸要因を欠き、従い「多極化時代」に見られた妥当な類似点は存在していないと云う点だ。
(次章以下続く)
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