【投稿論文】『イスラエル“一国制度”が現実化しつつある ~“二国制度”に替わる策が必要な事態~)』(Israel’s One-State Reality ~It’s Time to Give Up on the Two-State Solution~原典:Foreign Affairs, 2023年May/June号, P120-135)

執筆者/肩書:

マイケル・バーネット/ ジョージワシントン大学(同大学エリオット国際問題大学院、国際政治学)教授。

ネイサン・J.ブラウン/ ジョージワシント大学教授(国際政治学)、及びシンクタンク、カーネギー国際平和基金の非常勤上級研究員。

マーク・リンチ/ ジョージワシントン大学教授(国際政治学)

シブリー・テルハミ/  メリーランド大学教授、及びブルッキングス研究所非常勤上級研究員。

以上4名による共著。尚、彼らは最新著作『イスラエル一国制度の現実~イスラエル/パレスチナ問題の本質~』 (The One State Reality: What Is Israel/Palestine?)を共同執筆した。

(論稿主旨)

 ベンジャミン・ネタニヤフ首相がイスラエル政府の権力中枢へ、その狭義な極右連立政権と共に復帰した出来事は「一国二制度による解決策」の夢をも打ち砕いた。彼の新政権閣僚達は、イスラエル自身の国家形態に加え、彼らが実効支配する地域に於いてすらも其処(そこ)が如何(いか)に在るべきかを臆面なく主張した。即ち、「大イスラエル」構想とは、単にユダヤ人による国家を意味するに止まらず「ユダヤ人に対し、同地に尚も在住するパレスチナ人に勝る優位性を法律で定める国家を意味するのだ」と。従い、「一国一制度」の現実に対しては、之に抗(あらが)い抵抗しようと試みる勢力と挙動が、今後増大するのは最早避けて通れないと見て間違いない。

 イスラエル急進派政権が「この現実を造り出した」と云うのは当たらない。「その事実を否定し難いものに変じた」との解釈が正しい。つまり、嘗(かつ)て、当該パレスチナ領土は暫定的に「占領」された状況だった。然し、今や、特定グループにより統治される一国家が、他のもう一つのグループの人々を支配する状況を永続化してしまったのだ。将来に於ける代替案として「二国家が併存する解決策を追求する約束」が現実味を帯びた時期も過去には確かに存在した。それは、1993年オスロ合意が為された前後数年間で、当時はイスラエルとパレスチナ双方の側に、同解決策を支持する団体が存在し、更に、束の間とは云え、仮想的なパレスチナ国家の組織設立に向け進捗が在ったのなら、双方が合意に至り得る妥協策は実在していたのだ。然し、斯様(かよう)な時節は疾(と)うに昔話と化し、今日、将来を語るに、今更乍(いまさらなが)ら当時の夢想的構想を持ち出す事によって、既に深く根を下ろしてしまったイスラエルのお膳立てを却(かえ)って曖昧(あいまい)にするのは、益なき所作だ。

 「一国制度」が実現した場合、それは一体何を意味するかに就いて、政策、政治、及び研究分野の当事者達が、答えを求め取り組んだのは過去の話だ。事態は変じ、最早パレスチナは国家成就を心待ち出来る立場になく、イスラエルも、パレスチナ領土を偶発的に占領した嘗ての民主国家の面影はない。ヨルダン川西岸の全領土は長年に亘りイスラエル統治に基づく一国の一部を構成し、同地に於いては土地も人民も著しく異なる法体系に従属し、パレスチナ人は永久に低級階層として扱われているのだ。この一国制度の現実を、政治家や分析者達が無視すれば、それは不適切で何ら成果が得られないのみならず、寧ろ、侵略行為が行われている現状の意図的隠蔽に加担するに同義なのだ。

 この「一国制度」の現実が意味する処の幾つかは明白である。例えば、世界がパレスチナ人の権利に対する憂慮を払拭する事は決してない。之は、如何に大勢のイスラエル支援者(及びアラブ諸国側統治者達)が、同問題が世界から忘却されるよう熱心に望んだ処で、そうはならないのは確かだ。昨年来、寧ろ、暴力、強制立ち退き、及び人権侵害が急増する中、パレスチナ人達が、イスラエルによる侵食及び法律に裏付けられた抑圧を一層助長する体制下に封じ込められている状況に在っては、大規模な暴力的闘争が発生する危険性は、日々高まっているのだ。これに対し、一方、極めて見通し不明瞭で心許ないのが、世界の名だたる重要人物達は、「一国主義の現実」が“公然の秘密”から“否定し難い事実”へと変遷を遂げる過程に於いて―苟も彼らが介在を試みるのならば―如何なる調整を行い得るだろうかという点だ。

 米国ジョー・バイデン大統領は、現状維持策に専念するよう見受けられ、本件問題に就いては口先で不快感を表明するに留め、「当面の危機管理事案」と整理を付け、それ以上には深く検討した形跡すら無い。ワシントン政府内は、過度な楽観的感覚に満ち、多くの米政府高官達は、常軌を逸したネタニヤフ政府が何れ政権離脱した暁には、「一国二制度」へと交渉復帰する機会が尚も生まれ得るのだ、と自らを騙(だま)し云い聞かせているかのようだ。然し、厳然たる「新しい現実」を無視し続ける態度は、策として最早これ以上長く通用しまい。今や、イスラエルとパレスチナを巡り不穏な気運が集積しつつある。そして、ユダヤ人優勢を護持する“一国制度”の出現に向け、抑々(そもそも)最も力を貸したのは他ならぬ米国なのだ。事態が緊迫化する中、その米国から緊急に何らかの反応を発して呉れるよう、パレスチナは強く求めている。斯かる状況下、中東が甚大な不安定化に見舞われる事態と共に、米国が同国のより広範な国際政策目標に対する逆風をも回避したいと望むのであれば、米国自身が主導するのを願って止まない“自由な国際秩序の規範と枠組み”の中で、イスラエル丈(だけ)を例外扱いするのはいい加減止めとすべきだろう。

云うも憚(はばから)れた事が、やがて否定し難い事実になった典型

 一国制度の設置は将来に来る可能性ではない。誰が何と思おうと、それは現にもう存在している。何故なら、地中海とヨルダン川との中間領域に於いては、正に一つの国家が人民と商品の出入りを統治し、安全を監督し、更に其処に居住する人民に対し彼らの同意なしに、諸事決定、法律、及び諸政策を課しているからだ。

 「一つの国家」構想が実現する場合、原則的には、それが民主的規範と平等な市民権に基づく事も可能である。然し、斯様な条件が提案される気配は現状全くない。つまり、イスラエルと云う国家は、片やイスラエルのユダヤなる出自象徴と、一方、自由民主制度との二者択一に直面する結果、前者を選び取ったのだ。同国は、非ユダヤ人を構造的に差別、乃至排除する階級制度下に、ユダヤ人優越制度を固定化した。即ち、非ユダヤ人に与えられる権利は、ユダヤ人の持てるそれと類似はするが、等しくなく、その結果、激しい差別と分離、及び支配を受ける生活を、彼らの大半は余儀なくされている。

 20世紀最後の数年間に実施された平和工作は、従来とは一味異なった進展を期待させられるものが確かに在った。然し、2000年のキャンプデービッド首脳会談に於いて、米国が主導した交渉は結局、案の定「二国制度」の合意には至らず、以降「平和協議」と云う言葉は、現場の諸現実から注意を逸らす事に寄与するのみならず、更にはその実態すら認識せぬ人々に言い訳を提供する役目を担ったに過ぎない。キャンプデービッド会談で期待の成果が得られなかった直後、第二次イティーファーダ(イスラエル占領支配へのアラブ民衆反乱:Intifada)が勃発する。それに続きイスラエルがウエストバンクへの侵入を繰り返した結果、パレスチナ側当局は最早、イスラエルの下で治安維持を請け負う業者と差して変わらぬ立場に甘んじる事態となる。又、イスラエルは自国政界を右傾化へと標榜させ、イスラエル市民のウエストバンク入植による人口移動を惹き起こし、更にパレスチナ人社会の地政学的脆弱性を加速させた。これら諸変化が蓄積する、その結果として、2021年には東イスラエルのパレスチナ人居住の適法性を巡り度々危機が発生し、イスラエル人入植者とパレスチナ人とに止まらず、イスラエル国内のイスラエルとパレスチナ両市民迄もが、互いに各都市や近隣周辺を分かつ衝突の渦中へと投げ込まれたのだった。

 ネタニヤフが、右翼宗教諸派と過激国粋主義者達との連立により構成した新政権は、正にその典型的傾向を現わすものだ。つまり、同政権閣僚達は、自分達の思い描く「新しいイスラエル」を創設するのが使命だと豪語する。即ち、従来に比し自由は制限を受け、一層宗教への傾倒を深め、非ユダヤ人に対する差別をより積極的に実施する構想だ。ネタニヤフ自身が書して曰くは、目指す処は「イスラエルは万人の為の国ではなく」、「ユダヤ人本位で、唯一ユダヤ人の為の国家」なのだと。更に、彼によって国家安全保障大臣を拝命した、イタマル・ベン-グヴィル至っては、あろう事か、次なる宣言をし、衆目を驚かせたのだった。「ガザ地区は我々に属する土地であり、」更に「パレスチナ人達には、イラクだろうがイランだろうが、他に行くべき処があるではないか」と。この極端な構想は、少なくともイスラエルの少数派の間には遥か以前から存在し、シオニストの発想と行動に強く根差すものである。斯かる見解は、イスラエルが1967年の戦争によりパレスチナ領土を占領して以降間もなく、急速に支持者を集め始めたのだった。そして、これは、まだ覇権的見解として成立してはおらぬものの、イスラエル社会の多数の要望を代弁し得るもので、最早、非主流派の部類として整理されるべきではない。

 一国制度の現実とは、イスラエルと同国支配地に居住する人々や、最早留まる事を知らぬ同地の変容ぶりに対し注視を怠らなかった者達にとっては誰でも、既に長きに亘り、紛(まが)いようのない事実だった。処が、過去数年間で明らかに変わった事がある。極(ごく)最近迄は、一国制度の現実が世界の重要人物達に認識されるのは稀で、誰かがその事実を公言でもしようものなら、無視されるか或いはその行為に対ししっぺ返しを喰らうのがオチだった。然し、状況は恐ろしく早い速度で変化し、嘗て「云うに憚(はばから)れた」事態は、今や殆(ほとん)ど「一般常識」と化してしまったのである。

一部の人々丈の為に利する民主主義

 多くの観察者達が「一国家制度」の現実を新に理解する為には、新しい観点から事態を眺める必要がある。これらの人々は、嘗ては「占領支配する土地」と「イスラエル本来固有の領土」との区別を弁えていた筈だ。イスラエル領地とは1967年に同国がウエストバンクとガザ地区を占領するより以前に、存在していた国家領土だ。従い、イスラエルの主権が及ぶのは1967年以前に支配されていた領地に限定されると考えられる。然し乍ら、国家と主権とは等しくない。国家はその支配領域と定義される一方、主権とは、他諸国が当該支配の法的有効性を認めるか否かに依存する。

 其処(そこ)で、我々が提唱する新しい視点を用いて、国家、主権、国並びに市民権と云った諸概念を分離して考察する事により「一国家制度」の現実は初めて直視可能となる。即ち、今やイスラエルはその全領土を、差別的にして且つ圧倒的な支配力に裏付けられた統治下に置き、イスラエル人と非イスラエル人との区別に従い、その優越と劣後とを関係付ける制度を推進している、と云う真実だ。先ず、イスラエルを一介の「国家」の観点から考察すれば、次の事が明らかだ。同国は、ヨルダン川から地中海へ延伸する領地を支配し、略(ほぼ)独占的権力行使により、ガザ地区に対する過酷な閉鎖措置を維持し、更にウエストバンクに於いては検問所設置を始め、諸政策や絶え間ない入植者拡大を後押しする制度を用い、同地域をも支配する。イスラエルが2005年にガザ地区から兵を退いた後も、同国政府は同領土内各拠点で入出管理の統括を継続している。ウエストバンク内特定地区の如く、ガザ地区はある程度の自治権を手にし、2007年の短期のパレスチナ内戦以来、イスラム組織のハマスにより同領土内陸は統治され、ハマスは斯かる事態に対する異議を許容しない姿勢を貫いている。然し一方、ハマスは領地の海岸線、空域、或いは諸境界線の支配に至っていない。換言すれば、如何なる合理的な理由を付けようが、イスラエル国家はヨルダンから地中海迄に及ぶ境界の全ての領土を包含している。

 この現実が、意外に今迄見落とされ勝ちな理由は、イスラエルがこれら領地の全てに対し、主権を主張してこなかった点に在る。即ち、同国は、東エルサレムやゴラン高原を含み、彼らの占領地の一部分を併合した。しかし、その一方、彼らが実効支配するその他地域に就いて未だ主権を主張していない。但し、仮にイスラエルがそれらを主張した処で、それを承認する国家は僅かだろう。

 結局、イスラエルのやり口とは、主権宣言を敢えて行わぬ儘に、領地を統治し制度的支配を強化する事によって「一つの国家」を彼らの欲する条件で現実化を目論む手法だ。つまり、彼らは大半のパレスチナ人に対して負うべき責任(及び与えるべき諸権利)を放擲する格好の言い訳を得ている訳だ。何故なら、これらパレスチナ人は領地内の居住民ではあるものの、国家に属する市民ではないからだ。一方、皮肉な事には、イスラエルは自身が「二国制度」の可能性をも完全には否定しきらない現在の諸状況に基づいて、自らの差別政策を正当化している面がある。その理由は、イスラエルにとって、主権が正式に認定されなくとも、自国イスラエル市民に対し民主的行動を取る事は出来るが、同国が擁する何百万人の居住民に対してそれを提供する事は出来ないからだ。それにも拘わらず、上述の統治手法を以って、海外のイスラエル支援者達の多くは「これら一連の措置が一時的なもので、イスラエルは飽くまで民主国家であり、何れ、パレスチナ人は自主決定の権利を実行する日が訪れる」との見せ掛けの見解を述べ続ける事を可能ならしめていると云えるのだ。

 然し、市民権の観点からすると、1967年以前の国境線内に限って見ても、イスラエルの民主主義が限定的であるのは明白だ。イスラエル国のユダヤ人と云う出自と一国制度の現実に基づて、一連の複雑な法的範疇が創出され、之によって権利、責任、及び保護に於ける、差別待遇が生み出されているのだ。即ち、2018年の「国民国家法」可決により、イスラエルは「ユダヤ人の国家」であり、更に「イスラエル国に於ける国家の自主決定権の行使は唯一ユダヤ人民に占有的に属する」と謳う。即ち、同法律は非ユダヤ人民に対しては、民主主義にも平等にも言及がない。

 斯様に国民資格が階級に従って定められる中、イスラエルのユダヤ人(少なくとも、ユダヤ人である旨がユダヤ教の基準で合致する人々)に対しては、完全な市民権が付与される。言い換えれば、彼らは何ら制限を受けない市民だ。一方、イスラエル市民権を持ち1967年以前から同国在住するパレスチナ人は、参政権と市民権を持つものの、それ以外の諸権利、諸責任、及び諸保護に関し、法的並びに法律以外の双方で様々な制限に阻まれるのだ。エルサレムに在住のパレスチナ人は、理論的にはイスラエル人国籍を取得すると云う選択肢を持つが、大半の人々はそれが背信行為であると見做し拒否している。それ以外の各領地に居住するパレスチナ人は、最も低い階層に在る人々だ。彼らの人権と責任は彼らの住む地域によって多少する。例えば、ガザ地区に住む人々は最下層で、彼らの地位はハマスによる支配開始以降、急速に劣悪化した。試しに、其処に在住のパレスチナ人へ、彼ら(或いは彼女ら)の法律的地位を質問したのならば、彼らがその状況を語るのに優に10分間を要するだろうが、それでもその内容は曖昧模糊として聞く者はその実態を理解出来ないと云った具合なのだ。

 パレスチナ人の権利が何れ認知されるだろうとの期待を担い「二国制度による解決」の目が残されている限りは、1967年時点の国境線内に於けるイスラエルの状況を、「ある一定市民に対し、法的には正当な、事実上の差別政策」と見做す事が可能だ。つまり、斯かる事態は、謂わば「不幸には違いないものの、世界では他所にもあり勝ちな現実なのだ」との諦観だ。然し、一度(ひとたび)「一国制度」の現実が衆目によって理解されたならば、実際には予想を超えた、より悪質な現実が露呈される。と云うのは、この一国制度下に於いて、一部市民の人権は著しく損なわれている。即ち、彼らは日常の行動、旅行、市民の権限、経済活動、所有権、及び公共サービス利用に対し制限を受けるのだ。斯くして、同国領地に古くより幾世代にも亘る深い縁を持ち、彼ら自身も永住を決する、相当数の住民達が国家に属さない状態に陥る。そして、彼らを疎外化する為のあらゆる範疇と階層が法律で細かに定められ、更に政治制度と安全保障上の諸手段による制約下に在る。しかもこれら諸策は、人口の極(ごく)一部の利害のみを代表する国家有力者達によって課されているのだ。

 この現実を評し、命名する行為は、政治的に極めて多くの議論を呼ぶものとなる。それは、譬え、その言葉が定義する持続的で過酷な不平等自体に就いて、既に一定の合意が形成されている場合にも免れる事は出来ない。現に、「アパルトヘイト」との呼び名は、イスラエルとパレスチナ間の協議の中で、謂わば、片隅で使用されていたものが、俄(にわか)に疾風のようにイスラエルと国際NGO諸組織からこれら不平等に就いての多くの報告書が登場した事によって、その名称が正に中心へと押しだされたものだ。元来、アパルトヘイトとは、南アフリカに於いて少数派白人政権が白人至上主義推進の為に1948年から1990年代迄起用した制度を意味する。爾来(じらい)、「アパルトヘイト」は国際法の下、国際刑事裁判所により「法的根拠に基づいて人種差別と偏見を支持する制度」と定義され、人権に対する犯罪と見做されるようになった。ヒューマン・ライツ・ウオッチ(米国本拠の人権団体)やアムネスティ・インターナショナル(英国本拠の人権団体)を含む主要NGOが、この用語をイスラエルに対しても用いたのだった。この趨勢が今や多くの学術界に於いて主流だ。三つの主要学術協会に所属する、中東専門学者達を対象とし、昨2022年3月に実施された調査によれば、回答者の6割が、イスラエルとパレスチナ領土の状況を「アパルヘイトに類似した不平等を伴う一国制度が具現している」と回答した。

 この用語の譬えは必ずしも実情に一致しないかも知れない。と云うのは、イスラエルの差別構造は、実は如何なる非民主的な諸国家に存在するものに比しても、更に一層苛烈なものなのだ。嘗ての南アフリカに於けるアパルトヘイトは、その差別が人種に基づくもので、且つ国際法の定義により処罰対象となった。転じ、イスラエルの差別策とは民族、国籍、並び宗教に基づくもの、と云う違いがある。こうした定義上の差異は、イスラエルに対し法的訴訟を準備する専門家達には多分有用である。但し、これらは政治の世界では重要でなく、事態の本質的分析を行う際には、寧ろ殆(ほとんど)ど意味をなさない。政治に於いて留意すべきは、一度(ひとたび)、ある禁じ手が導入され、それが、次第に支配的地位を占め、やがて現実を測る際の常識的規範となる事なのだ。つまり、世間に警鐘を発する役を担う、我々分析者が問題とすべきは、「アパルトヘイト」と云う用語こそが、現場に在る諸事実を正確に表現するに相応しく、その現実改善への道程を思索する、最初の一歩となり得るという点なのだ。無論、「アパルヘイト」という言葉を無暗に振りかざした処で、悲惨な現実を好転させる魔法の力が発揮される訳ではない。然し、少なくとも、同語が国際政治の主流に紹介されれば、「イスラエル制度は全支配地に於いて同国人の優位性の確立を目論むものだ」との認識を広く世界に露わにする事が出来る。詰まる処、同制度は、専門用語上「アパルヘイト」と呼ぶに語弊があっても、実態としてそれに同期する類似制度なのだ。

無礼千万な行いに走るイスラエル

 一国制度の現実は、本質的には、イスラエル人とパレスチナ人とが取り組むべき問題だ。然し、この現実は、イスラエルと他の世界諸国との関係を複雑化させるものだ。半世紀に亘った平和工作は、当該占領地問題は双方の交渉により決着するだろうとの、好ましい将来像を期待させる事により、西欧民主主義諸国がイスラエルの占領実態を見落とす結果になった。更に加えて、イスラエルの民主主義(実際は欠陥を帯びてそう呼ぶに相応しくない)及び、イスラエル固有領土と占領されたパレスチナ諸領地との表面上に敷かれた区別によって、外部の者達は視線を逸らされてしまったのだった。然し、これらの気を逸らす諸事象は今や消失している。即ち、一国制度の現実は、既に長きに亘って、イスラエル国の法制度、政治体制、そして社会に根深く浸透して来ており、今になってそれらが広く認識されるに至ったに過ぎない。この状況に対し、遺憾乍ら直ちに対抗可能な代替策は存在しない。然し、現実には何十年間にも亘って、有意義な政治工作を以って代替策を生み出す機会が存在していたにも拘わらず、それを有効化する事が出来なかった点を、先ず猛省すべきだろう。

 無論、今更、上述の事実を悔いた処で詮方ない。又、これ以外にも世界的諸問題の多くが未解決の儘に横たわっているのが実情だ。更に、我々の住む世は、ポピュリスト達が溢れ、今や民主主義と人権は危険に晒されている。イスラエル指導者達は頻りと「アブラハム合意」に言及する。同合意は、パレスチナ問題の解決を当該アラブ諸国が要求する事なく、イスラエルがバハレーン、モロッコ、スーダン及びアラブ首長国連邦(UAE)との国交正常化を図ったものだ。この間、目を転じ西欧諸国指導者達はどうかと云えば、現実には米国に在住する多くの親イスラエル団体が支援を倍加させる現実に目を逸らし、単純に「イスラエルは同国の自由と民主主義の価値観を西欧と共有している」かのように表面上振舞っているかに見えた。米国在住のリベラル派ユダヤ人達は、アパルトヘイト的特徴を多く持つ母国イスラエルの弁護を試み四苦八苦の状態となるのが予想されるが、現実には彼らが如何なる反論を訴えもそれは実効性を欠くものとなろう。

 それでも、イスラエルが、希望的憶測に満ちた二国制度を脱し、一国制度の実現へと移行する道程は多難であろう。同国策が悪名高い「アパルトヘイト」と比喩されるのが主流になれば、これを非難するボイコット運動、投資引き揚げ、及び制裁行動強化を来し、更にこの動きにイスラエルが対抗し甚大な反動が生じる事態が想定されるが、一方同時に、之は政治的地勢が既に変容した事の現われなのだ。つまり、イスラエルは以前にも増し、より強固な安全保障と地域外交の認知度を得る事によって、ウエストバンク内の同国活動に対する国際社会及び現地からの諸制約を減じるのは可能かも知れない。但し、支配を一層強化すれば、無慈悲な権力行使をより一層必要とする。更にそれは、何かしら法制に類似する規則導入をも駆使して、恰もその状況が当たり前であるかの如き意識に裏打ちされた“現状”を確保し、常識上もそれが自然な環境であるとの認識を造り上げ、その結果、気が付いてみれば、本来正当化されるべき抵抗を企てる手段すら最早不可能な事態とならしめる作戦だ。イスラエルがその気になり、反対勢力と戦闘を交えれば、勝利する丈の物質的優位性を同国は尚も保持している。然し、これら戦闘が拡大すれば、譬え個々の戦闘に勝利した処で、イスラエルの武力行動に対する風当たりが一層強くなる。何故なら、斯様に一国制度の現実を防御しようと渇望するイスラエルの行為は、疾うに植民地支配が終焉したこの現世に於いて、植民地主義の原則護持を図る時代錯誤の試みに他ならぬからだ。

 イスラエルがこの「一国制度の現実」に関して諸条件を定義し形造ろうとあがくに連れ、事態は新しい展開を取るだろう。過去、激甚な国家間戦争が生じた際は、必ず交渉や「一か八か」を賭ける高度な外交余地が生まれた。処が、米国施政者達が将来に直面する国家間衝突の姿は、1967年と1973年、イスラエルとアラブ間に勃発した戦争のような通常の戦闘形態では恐らくない。寧ろ、多分それは第一次及び第二次インティファーダの如く、大規模大衆抗議が暴力を伴い突然発生し、2021年5月に処々で勃発した事態と類似するものだ。当時、それは、エルサレムでの両派衝突が広く各地へ飛び火した結果、ロケット弾応酬がイスラエルとハマスの間に為され、ウエストバンクでは抗議活動と暴動がウエストバンクに勃発し、更に民族主義が人権を蹂躙する醜悪な事態が、イスラエルのユダヤ人達とパレスチナ系住民達(並びにイスラエル国家警察も加わり)によって惹き起こされたのだった。即ち、今後は、連日の暴動沙汰や、散発的な大衆蜂起の嵐が吹き荒れ、恐らくは大規模な第三次インティファーダが勃発する可能性すら否定できないのだ。

 二国制度による解決策を捨てるべきでないと永らく主張して来た、米国やその他各国政治家達は、今や予期していなかった様々な危機に直面し、それらへの対処を迫られつつある状況だ。即ち、一国制度の現実は、既に新しく団結を伴った諸行動、ボイコット、及び社会的摩擦の数々を生み出しているのだ。非政府組織、イスラエルとパレスチナの様々な主張を支援する政治運動、及び国境を越えた支援諸団体は、現状の国際諸規範の変更を求め、新旧のメディアキャンペーン手法を駆使し、個々人、社会、そして政府をも揺るがそうとしている。更に、彼らは次第に、イスラエル政府の支配地で生産された諸財の明示乃至ボイコットを画策し(或いは反対勢力側はこれらボイコットを不法化すようと画し)、更に市民権を定める法律を提唱し、彼ら支援者達の動員を図り、現行政府の指導者達のやる気のない外交策を補おう為の代替諸策を模索している。

 然し、これら全ての行動やキャンペーンが有権者動員を主眼としつつも、実際はこれらの人々の集団自体が深い分断の中に在る。先ず、パレスチナ人は、市民権の有無と居住地によってその処遇が異なる。つまり、イスラエル国市民権を保有する者と、それ以外の居住権しか持たぬ者、又、その居住地が東エルサレムか、ウエストバンクか、或いはガザ地区かによって更に分離されているのだ。換言すれば「一国制度の現実」を前に、安住が可能な者達と、祖先伝来の故地を追われた離散者達との分断が在る。或いは、ウエストバンクを支配するファタ派政党の人々と、ガザ地区を統治するハマス組織下の人々との間の分断だ。これらに加え、近来次第に世代間の分断も広がる。つまり、パレスチナ人の若者達は、嘗て彼らの両親や祖父母達が心酔した政治信条や、その為に投じた努力に対し然程の共感を持たない。それに代えて、新しい政治団体に共鳴し、抵抗運動も新しい諸戦術を用いる。

 一方、イスラエルのユダヤ人達も又同様に分断に直面する。国家の性質、政治に果たす宗教の役割、その他、性的マイノリティーを含む種々の問題に関し見解の溝が深い。民主主義と司法制度に対するネタニヤフ政権の攻撃に反対し、急進派イスラエルユダヤ人は大規模な抗議活動を実施したとは云え、一方、彼らがパレスチナ問題に関して動員を掛ける動きは殆ど見られない。イスラエル国内では、同国人内部の見解不一致の方が遥かに優先度は高い為、最早存在すらしない「平和工作」を巡る諸問題などは、縁(へり)へ押しやられた格好なのだ。

 斯様にアラブとイスラエルの双方が内包する分断の結果、両陣営の主導者達は等しく、指導力を発揮する状態にない。如何なる政党組織にも、無気力と無効力を好み、紛争には蓋をし内密化を図り、解決に向けた戦略には一向関与しない政治家達が居るのが常だ。一方、これとは全く対局に、故意に旋風を巻き起こし、従来と極端に異なる方向へ敢えて舵を切ろうとする政治家達も居り、その代表が米国のドナルド・トランプだ。彼は「世紀の一大取引」と銘打ち乍ら、実質的にはパレスチナ人の人権と同国家の希望を打ち消す手法により、当該紛争に始末を付ける事を約したのだった。そんな中、占領地の正式なる併合化を求めるユダヤ人達であれ、イスラエル支配に対し新手の諸抵抗運動を提唱するパレスチナ人であれ、彼らは互いに現状の変更を目指している。然し、双方陣営のこれら試みは、結局は強固に確立された権力と利害の諸構造に阻まれて、何れも失敗する運命だ。

 斯様な状況に在っては、如何に「公正な手段による紛争解決」の名の下に、外交諸努力が為された処で、それらは失敗を免れない。何故なら、この手法によっては、袋小路の現状に対し、更に各当事者が必達を期するそれぞれの意思に対しても、それらを変革する代替案に辿り着く事が出来ないからだ。従い、もし政治家達がより現実可能な諸選択肢を構築したいと真に望むのであれば、彼らがやるべきは唯一つだ。即ち、「一国制度」が運用され且つ発達して行く状況に対し細大の注意を払う事だ。彼らに必要なのは、様々な地位に置かれら居住民達が、彼らの祖国はどうあるべきと考えるか、そして、彼らの諸権利は如何に強制され、又は侵害されているか、更には、人口構成統計が緩慢乍らも極めて重大な変化の前兆を示しているか、これら実態を理解するのが先決だ。

アラブの春の亡霊を恐れる指導者達

 「一国制度の現実」を具(つぶさ)に認識すると、それはアラブ世界にとり極めて重要なばかりでなく、実は矛盾を抱えたものだと判る。「二国制度」論争は、長年に亘り、パレスチナ人の理想実現の為の一大事として、アラブ大衆の間に形成されて来た(苟も、アラブ諸国政権にとり実はそれは一大事でなかったにせよ)。そして2002年のサウジアラビアによる平和提案は、イスラエルが占領地から完全撤退するのを条件に、同国と全てのアラブ諸国との関係正常化を進める案で、之により交渉の基本線が設定された。即ち、アラブ世界との平和締結には、パレスチナ問題解決を必要としたのだった。

 然し、この基本合意に悖(もと)る、アブラハム合意がトランプ政権によって斡旋され、更にバイデン政権も同合意を熱烈に支持したのだ。同合意は、先述の基本線を勝手都合で変更し、肝心のパレスチナ問題に於ける進捗を何ら求める事なしに、イスラエルと多数のアラブ諸国の間に、政治関係正常化と安全保障強化を加速させるものだった。正に、アラブとの関係正常化がパレスチナ問題から切り離されたこの瞬間以降、事態は「一国制度の現実」に向け恰も塹壕を掘り進めるが如く、強固に定着化されて行った。

 これ迄の処、アブラハム合意は、極右派諸大臣を配したネタニヤフ政権体制下に尚も存続し、環境変化への耐性を証した格好である。少なくとも、イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)の関係正常化に関して云えば、次に来る一連のイスラエル‐パレスチナ間の暴力紛争や、更には、譬(たと)え、イスラエルが露骨なパレスチナ併合に踏み切る事態になったとしても、同関係の継続が見込まれる。然し、注目すべき事実は、同合意が署名されて以降、新たにイスラエルとの関係正常化を目するアラブ諸国はなく、サウジアラビアに至っては尚も、イスラエルとの公式関係樹立からは距離を置き、自身が政策的賭に出る行為を回避し続けている。

 又、湾岸諸国以外の地域に於いても、アラブ諸国の対イスラエル関係正常化が、パレスチナ問題に紐付けられる状態は、今後共無際限に変わる事はないだろう。一方、イスラエル側に関して云えば、彼らがエルサレムの資産没収へと手段を高じ、パレスチナ人の広範な抗議行動を呼び、これに対し、更に一層暴力的制圧と領地押収を加速的に進める結果、遂に最終的には「パレスチナ自治政府」自体が崩壊する道へと引き金が引かれるシナリオすらも想像に難くない。斯様に事態がエスカレーションする課程に於いて、アラブ世界中では、いとも容易(たやす)く大規模抗議行動が勃発するだろう。抑々、同地域は、経済的貧困と政治的抑圧下に置かれ鬱積した積年の不満が充満する、謂わば、火薬庫のような状態なのだ。更に一層大なる脅威は、イスラエルがパレスチナ人をウエストバンク、或いは、エルサレムからさえも、追放する挙に出る事だ。この可能性は、イスラエル側では時として婉曲に“移設”と呼ばれるが、同国世論によれば多くのイスラエル在住ユダヤ人達の支持を得ているのだ。万々一、同策が実施されるような事態になれば、ハマスやイランがこれら状況に付け入り最大限利用を図ろうとするのは云うまでもない。

 アラブ諸国指導者は、内心パレスチナ人を気にも掛けない可能性が十分あるが、それでも彼らの国民の事は大いに気にしており、そして何より最大の関心事は自分達の王座を守る事なのだ。従い、これ迄半世紀以上に亘り、少なくも公けに口に出しその支援を謳ってきたにも拘わらず、此処でパレスチナを完全に見捨ててしまうのは、策として危険が大き過ぎる。アラブ指導者達は選挙で負けるのは厭わぬが、2011年のアラブの春の出来事は彼らが脳裏に深く刻まれている。つまり、大規模な民衆運動を招き、それが彼らの体制に牙を剥く抗議へと急激に変異するのを何より恐れるのだ。

離脱か、改革の声を上げるか、それとも忠犬に甘んじるか?

 「一国制度」が現実化しつつある実情が認識されると、イスラエルとパレスチナ問題に関し、米国内でも意見が割れる。つまり、福音派や政治的右派に属する他の多くの人々は、この実現は法制に基づくイスラエルの宿願達成と見做し歓迎する。又、一方、大勢の中道左派の米国人は、これを以ってイスラエルが自由民主主義国家の一群から遂に堕したと考え、結局は非現実的であった「二国制度」策の支持を放擲し、それに代え、居住民全てに対し平等な権利が保された状態の「一国制度」実現を新たな目標に設定する可能性が高い。

 抑々(そもそも)「一国制度」が既成事実化し盤石な状態に至った経緯に就いて、米国は重大な責任を負う。その上、更に今後、イスラエル‐パレスチナ問題を引き続き重大外交問題として捉え、形造る作業に於いて、米国は尚も強力に役割を発揮出来る立場だ。例えば、これ迄もし、国連やその他国際諸機関に於いて、イスラエルが報復措置を被らぬよう、米国が同国を守る努力を止めていたらどうなったか? ウエストバンクでのイスラエル入植者達の建設事業は、加速は疎か存続出来できずに、占領は継続されなかった筈だ。又、米国からの技術や武器提供がなければどうか? 現在、占領諸地に於いて同国支配の強固化を可能とする、その根源の当該諸地域での軍事優位性の確保すら困難に陥ったのだ。更に、過去、米国による主だった外交上の諸努力や資源提供が無ければどうだろうか? イスラエルは、キャンプデービッド合意からアブラハム合意に至るまで数々の平和合意を纏めるのも儘ならなかったろう。

 然し、米国が従来行って来た、イスラエル‐パレスチナ問題の協議に於いて、ワシントン政府自身が、実はこれら占領政策を煽動した背景を無視し続けた。更に、米国が支援した平和工作とは、イスラエルの安全保障上の観点に加え、現実には「二国制度が、イスラエルをユダヤ人国家で且つ民主主義国家であらしめる為の唯一解決策だ」との見解を婉曲に表現するものだった。然し、ユダヤ人国家と民主主義を目指すと云う、この二つの目標はこれ迄も常に対立的関係に位置した。更に、今般の「一国家制度」の現実により、両者は最早完全に調和不能の状態に陥ったのだ。

 イスラエル‐パレスチナ問題は、従来、米国大衆にとり関心の高い事案に位置付けられた事は一度もないが、米国民達の意識には著名な変化が見られる。つまり、「二国制度」支持は減少し、平等な市民権に基づく「一国制度」への支援が、ここ数年間に増加した。世論調査は、大半の米国人有権者達が、ユダヤ国家よりも民主主義国家イスラエルを二者択一の設問では選好する結果を示した。イスラエル国に関する見解を問うと、更に結果は偏向した。即ち、共和党支持者、特に福音派の人々は同国諸政策への支持が一層増加する中、対する民主党支持者は、圧倒的多数の人々が米国の対イスラエル政策が公正であるべきと考える事が判明した。更に、民主党支持者の若い世代は今や、イスラエルよりもパレスチナ支持を表明する傾向だ。同傾向が、特に民主党支持の若者達に広がる一つの理由は、イスラエル‐パレスチナ問題が彼らにとっては、従来の戦略上の得失や聖書上の解釈ではなく、次第に社会的公正の問題と見做されるようになった為だ。これは、殊(こと)、「黒人生命重視せよ」(Black Lives Matter)運動の広がる現代に於いて一層頷ける事実なのだ。  

 又、「一国制度」の現実は、特にユダヤ系米国人の政治信条を揺るがせた。シオニズム運動の極(ごく)初期から、イスラエル支持のユダヤ系米国人達の大半は、イスラエル国家がユダヤ人の国で且つ民主的であるのが両立する点を、神聖にして犯さざる目標とし護持して来たのだ。従い、近来のネタニヤフ政権の行動を、これらの人々は破壊点だと見做すかも知れない。何故なら、彼らの中では「民主主義実現の約束」と「一国制度推進」との釣り合いをとるのが最早困難なのだ。何故なら、同制度はユダヤ人に対し民主主義の便宜を供するものの、一方、それ以外の一部民族に対しこれらを踏みにじり、非ユダヤ人居住者大半の人々に対しあからさまに諸権利を差し止めているからだ。

 大概のユダヤ系米国人達は、言論と表現の自由、法の規範と云った自由主義基本原則と民主主義を、ユダヤ人の価値観と考えるに丈に止まらない。加えて、彼ら自身が米国で受け入れられ、其処で生存し続ける為に必要な防波堤であると認識している。然し乍ら、自由主義に対し、イスラエル国の約束はこれ迄も常に揺れ動いて来た。同国は、ユダヤ人国家として、市民主義よりは寧ろ民族主義を優先し強化を図る。そして、ユダヤ教がどのようにイスラエル人の生活を形造るかを決する際に、正統派ユダヤ教を信奉する市民達が果たす役割が極めて大きいのだ。

 組織が危機に瀕し、或いは衰退する場合、その構成員達は三つの選択肢、即ち「脱出か、声を上げるか、或いは忠誠を迫られる」とは、独逸人政治経済学者のアルバート・ハーシュマンが1970年に述べた言葉だ。正に、ユダヤ系米国人達が今日直面する選択肢だ。一つの陣営は、多分これが米国内の主要ユダヤ人諸組織に於いて最も支配的位置を占めるに違いないが、組織への忠誠を表し「一国制度の現実」を飽くまで否定しようとする人々だ。一方で、「声を上げる」選択も嘗て平和派に属したユダヤ系米国人達の間に増加し始めている。これら米国人は、従前は「二国制度」導入に向け尽力して来たものの、現在はパレスチナ人の人権擁護へとその主行動を移し、イスラエル市民社会の収縮を防ぐべく努め、極右ネタニヤフ政権が惹き起す種々の危険な動きに抵抗しているのだ。そして、最後は、脱出を選択するか、又は無視を決め込むユダヤ系米国人達だ。彼らは、最早単純にイスラエル国を余り気に掛けない。その理由として考えられるのは、彼らはユダヤ人としての出自に強い思い入れを持たないのかも知れないし、或いは、彼らの価値観に照らし、イスラエル国の行動がそぐわないか、乃至は相反するのかも知れない。イスラエルが一層右傾化した場合、特に若年ユダヤ系米国人達の中に、この陣営に属する人々が益々増える事を示す、ある証拠も存在するのだ。

現実を見極める事が重要だ

 バイデン政権がこれ迄実施して来たのは、イスラエルに対し目立った挑発行為を控えるよう要請しつつ、現状維持に腐心する策だ。イスラエルがウエストバンク入植者向けの建設推進やその他同国が犯す国際法上の諸事違反に対しては、「“二国制度による解決”を損なうような行為は行わないでくれろ」と空虚な声明を米国は発するばかりなのだ。然し、斯様な手法を取れば、問題を見誤り却って事態の悪化を招くだろう。つまり、実際には、二国制度の現実はネタニヤフ極右政権が既に発露させた症状であり、“原因”などと云う悠長なものでは決してない。そして、同政権を穏健化させようとなだめる試みは、同政権内過激派指導者達をして、自分達の諸行動に対し何ら代償を払わずに済むと見透かされ、彼らは一層大胆化して行くだろう。

 従い、そのような宥和策ではなく、状況が過激化する現況下に於いて、米国はより尖鋭的対応を取る必要がある。具体的には、先ず、ワシントン政府は「二国体制による解決」と「平和工作」と云うこの二語は自らの語彙から消し去るべきだ。米国がイスラエル人とパレスチナ人に対し「さあ、互いに交渉のテーブルに戻りなさい」と呼び掛けるのは最早夢物語だ。無論、イスラエル-パレスチナ問題に関する発言を米国が変じた処で、根本的には何も変わらない。それでも、之によって、これ迄現実に向き合ってこなかった米国の政治家達が格好の隠れ蓑として利用してきた、恰も存在する如き見せかけの二国体制の前提を打ち砕く事は出来る。米国は、イスラエルに対し「こう云う国であって欲しい」との希望的憶測は捨て、同国の真実の姿を見極め、それに従って行動を取る時なのだ。イスラエル国は、自由主義を目指そうとする、その素振りすら既に捨て去っている。従い、米国は同国と「価値観」を共有せず、又「分かちがたい絆」も保持すべきではない。それは、何せ民族や宗教の区別に依って何百万もの居住民達を差別し、そして迫害する国家なのだ。

 より全うな米国政策とは何か? それは、イスラエル人によって統治された一国制度の下で、其処に居住するイスラエル人とパレスチナ人とが等しく、平等、市民権、及び人権を手に出来る状況を提唱する事だ。斯様な実現を目指す道は、理論的には「二国制度による解決」策の復活を妨げるものではない。然し、双方陣営が、同策の実現に向けて、それが譬え遠い将来であったにせよ、共に賛同する見通しは極めて薄いのだ。それより現実的なのが、まず「一国一制度」の現実に対し処する策だ。何故ならば、徳義上非難され、且つ戦略上も高価な代償を伴う、同制度を明らかにする事によって、不平等な人権と市民権の問題に対し即座に焦点が当たるからだ。そして、米国を始め、その他国際社会が、その不公正な現状に深刻な拒否の意思表示を行えば、イスラエル政権側が将来の代替策を真剣に検討せざるを得ない圧力として機能するかも知れないのだ。無論、最終的な政治合意の決定は、ユダヤ人とパレスチナ人の当事者間に委ねられるにせよ、今この時に米国が為すべきは、同問題に於ける「平等性」を強く求める事なのだ。

 この点に鑑みて、イスラエル国軍によるパレスチナ人統治を終結させる為に、ワシントン政府は、明確で具体的な諸基準を設定した上で、同国向け軍事と経済の双方援助は条件付での実施に変ずるべきだ。斯様な条件制限化をこれ迄回避して来たのは、米国政府が「一国制度の現実」に対し深く共謀を図るに等しい行為だ。従い、万一イスラエル政府が現行方針に固執する場合、米国は諸援助の劇的削減に加え、明らかな道徳違反の諸行為に対してはイスラエル及び同国指導者達を巧妙に狙い撃ちした制裁等も視野に入れ、これら諸特権の制限を検討すべきなのだ。

 折しも、露西亜によるウクライナ侵攻を受け、「国際的な法律と諸規範が最大限護持されるべきである」と云うのが、バイデン政権が看板に掲げた、最も明白な世界構想ではなかった。譬え、一部の者達が「一国制度」の実態を見て見ぬ振りをしたとて、国際的な法と規範の定める諸価値観は、グローバルサウス諸国にも遍く賛同を得る中で、イスラエルとパレスチナの両国に於いて、同価値観が危機に瀕する事実に変わりないのだ。イスラエルが国際法や自由主義の規範を犯した際に、米国は他国がそうした時に行うのと何ら変わらず、イスラエルをも非難するのが当然だ。つまり、国際諸機関に於いて、国際法違反の正当な告発をイスラエルが被った場合、ワシントン政府は最早同国を擁護すべきでない。更に、米国は国連安全保障理事会の決議に於いて無暗な拒否権行使は控えるべきだ。即ち、パレスチナ人達がイスラエル国に責任を負わしめ、国際法廷で救済を求める行動に対し、之を妨害する行為は阻止すべく、更に、嘗ては一時的措置と見做されていたものが、今や残酷な現実となった今一つの事例である、ガザ地区占領の終焉を求めるべく、他諸国へ広く呼び掛ける為の諸決議は止めてはならないのだ。

 然し、一国制度の現実は、それ以上の尽力が必要だと示唆する。このプリズムを通し現実を見れば、イスラエルの行為は紛れもなく「アパルトヘイトを実施しる国家」に類似する。イスラエルを、アパルトヘイトを厳格に禁じた規定対象から外し、国際法の適用外として棚上げするのでなく、ワシントン政府が行うべきは、自身がこの措置を助長した事実を認知した上で、当問題を率直に語り、そしてこの問題解決に関し真摯に関与を図る事だ。米国が寄り添い、応援すべき対象は、国際的、或いは、イスラエル国の、又はパレスチナの非政府的な、諸機関、並びに人権擁護諸団体、更に、勇気を以って制度的不公正を糾弾した結果、悪人扱いされて来た個人活動家達、これら全てが当て嵌まる。イスラエル国内の市民社会諸組織は、自由な価値観とそれを信奉するパレスチナ人達にとっては、同国に於ける最後の避難場所と云える。然も、今後来る数か月の後、流血を伴う衝突を回避出来るか否かは恐らく彼らの尽力行動如何なのだ。従い、ワシントン政府は、これら社会諸組織を保護しなければならない。更に、非暴力的な大衆抗議活動構想を掲げるパレスチナの指導者達を、イスラエルが逮捕する事には、米国は異を唱えるべきだ。一方、同様に、イスラエル国の迫害的諸政策を理由に同国に対する平和的なボイコットを選択しようとする人々を制止し、或いは、これに対し制裁を課す行為を、イスラエルは控えるべきである。

 イスラエルとアラブ近隣諸国との関係正常化に就いて、ワシントン政府は之を妨げるものではないが、米国がこれに向け諸尽力を主導すべきではない。つまり、パレスチナ問題が膿化の如く悪化しつつ在る中に、尚もアブラハム合意が成功裏に機能しているとの幻影に騙され、米国がその片棒を担ぐような事が在ってはならない。何故なら、このアラブ周辺諸国との関係正常化の諸合意を、肝心なパレスチナ人の処遇問題から切り離す事によって、イスラエル国内部では、同国極右派が一層力を付け、ユダヤ人優越の環境強固化が為された事実があるのだ。

 斯様な米国政策諸変更は、必ずしも即座には効能を齎(もたら)さぬだろう。今や、米国民が ―特に、民主党員達は、彼らが選出した政治家達よりも、イスラエルに対しより一層批判的に変じているとは云え― その政治的反動は激甚となり得る。然し、長い目で見れば、これら諸変化こそが、イスラエルとパレスチナ問題がより平和的で公正な顛末へと向けて動いて行く期待の素となるものだ。詰まる処、「一国制度」の現実に対しては、米国は断固として反対し、原理原則を踏まえた立ち振る舞いに徹っしてこそ、当の問題に加担していた立場を脱し、漸くその解決に取り組む位置に付く事が出来る。

(了)

コメント

タイトルとURLをコピーしました