著者:ラント・プリチェット
肩書:オクスフォード大学ブラバトニック公共政策大学院、研究主任(専門/労働移動協定、及びRISE: Research on Improving System of Education)。元世界銀行エコノミスト。
(論稿主旨)
我々は技術革新の時代に生きている―と少なくともそう云われる。人間生活のあらゆる局面を、マシンが変革する事を約束するのだ。即ち、工場の作業現場は人に代わり機械で満たされ、無人運転車が道を支配し、そしてAI(人口知能)が兵器システムを司るだろう。政治家や専門家達は、これら様々な発展の末には、諸産業や各個人へ悪影響が及ぶ点を懸念する。そして、彼らは、諸政府がこれら進展に伴う負の代償を遣り繰りする手助けをすべきだと論じる。然し、これら大半の討議に於いて、技術革新に伴う変化は、恰(あたか)も自然の巨大な力の如く「避けがたい勢いで現代生活の習慣や前提へと順応を遂げる」との前提で問題が取り扱われる。更に、変化速度は過去の緩慢なものに後戻りしない。斯くして、新技術は社会を造り変える。従い、全ての人間が出来るのは「それら新技術と共存を図る最善策を見出す事」しかない、と云った論調に始終する。
上記を最もよく示す典型例が、自動化とそれが雇用に与える影響に就いての議論だ。ユタ州郊外にある、私の行き付けのスーパーマーケットにも「会社は“自動精算機”よりも米国従業員達を支援せよ」との表示が張られている。之は皮肉等ではなく、明らかに真剣な職場からの要望なのだ。この機器は、顧客に新たな手間を課し、従業員の労働に代替させる技術を使用するものだ。斯様な自動化により、低熟練労働者の特定層雇用が如何に脅かされ、そして政府は如何なる救済を為すべきかに関し、既に多くが語られて来た。例えば、その支援策として、就労の再トレーニング奨励、教育制度抜本改革、或いは、富の再配分制度構築への投資を国が支援可能だと唱える。同時に多くの地方都市は、これらマシンが、老齢化と若年労働層減少に伴う人口構成変化の結果として生じる経済成長衰退を救うと期待する。即ち、技術楽観主義者達の議論はこうだ。米国やその他多くの富裕諸国は、生産年齢人口の減少と迫り来る労働力不足を埋め合わせる為に、自動化が欠かせないのだ、と。そして、彼らは技術躍進が幸いにも年齢別人口構成の問題をすっかり片付けて呉れると示唆するのだ。
然し、上述の様々な議論は、極めて簡単な事実を見落としている。即ち、技術革新は、一見、大地震の如く極めて大きい影響を及ぼすものの、それは決して自然災害によるのでなく、人間自身の手で創り出されたものだ。無論、技術が人類生活を著しく向上させた点は否めない。電気、水洗便所、或いは(特に私が住むユタ州では)セントラルヒーティングなしの暮らしを望むものは誰もいないだろう。然し、これら必須のものを例外とすれば、社会が本当に必要とするのは、新技術その物ではなく、寧ろ“新しい諸政策”なのだ。
自動化(オートメーション)は、確かに問題研究の上で往々にして一つの解決策ではある。然し、それは飽くまで“選択肢”であって、不可避でもなければ、況(いわん)や決して必須ではない。例えば、米国は現在、深刻なトラック運転手不足に直面する。全米トラック協会の推計によれば、2021年 時点で既に8万人の人員が不足しており、現行運転手の年齢層を考慮すれば、今後10年間に100万人の新規採用が必要と云う。この不足人員を補う策として、アマゾン創設者のジェフ・ベゾスを含み、ハイテク技術の大御所達は自動運転の研究・開発に投資して来たが、これらは云うまでも無く、運転手需要そのものを削減する。べゾスにとって、これら諸技術は企業財務上に意味が在る。つまり、アマゾン社が自社販売製品の価格を抑えられるか否かは運送費用に大きく依存するのだ。然し、この発想は経済全体の観点から見れば、意味を為さない。何故なら、100万人の人々が米国内でトラックを運転する事によって幸福を得られる。そして、彼らが求めるのは、只(ただ)、“国内で職を得られる環境”に過ぎないのだ。
米国の長距離トラック運転手を希望する人手は、世界的に見れば不足していない。米国に於ける同運転手給与の中央値は時給23ドルだ。一方、発展途上国ではトラック運転手の収入は僅か時給4ドル程度に過ぎない。それでも運送会社が譬(たと)えこれより賃金を上乗せしたとしても外国から労働者を採用する事は出来ない。その原因は、移民規制だ。従って、米国の業界主導者達は人間に優先しマシンを選択し、自動化技術によってこれらの雇用を絶滅させるのを余儀なくされているのだ。もしも、世界中から採用可能になったのなら、彼らは何も好き好んで機械を人に置き換え、雇用を破壊する必要を感じないのだ。厳然たる国境が存在すると云う事実により、諸業界は、本来の国際的労働の希少度合いに釣り合わぬのみならず、本当は誰一人必要としない新技術への投資に舵を切らされている状態なのだ。
トラック運転に関し上述した真実は、特定の職場で高度な専門性を要しない労働力を求める、富裕諸国産業界に於いて、その他多くの職業に就いても又、真実なのだ。金融サービス企業マーサー社(Mercer)によれば、2025年迄に米国内人手不足は、在宅介護助手、検査技師、及び看護助手の分野で凡そ66万人に上る(同社2021年報告書)。
移民に対する障壁は、甚だしく誤った資源配分を生む。世界最大の生産性を誇る米国経済に於いて、資本と業界指導者達の労力(高度に教育された科学者と技術者達が費やす時間と才能は云うに及ばず)が、地球上で最も豊富な資源たる労働力を最小限にしか活用しない技術を発達させようと専心し注がれている状況なのだ。生身(なまみ)の労働力こそ、世界中の低所得者層にとり最も重要な(そして、屡々唯一の)資産なのだ。容易に人が行える仕事を、マシンに置き換え推進するのは、金の無駄遣い丈に済まず、最も貧しい人々を更に貧者へと貶(おとし)める所業だ。
勿論、経済移民達の国境を越えた移動に対する社会及び政治的な一定の諸懸念は、例えば、流入する移民達の管理手法、既存国内労働者へ与える影響、及び社会的緊張の発生が如何なるものになるかを含め、筋の通った話で理解出来る。他方、移民労働者達を搾取から保護すべきと訴える運動家達の懸念も又、正当なものだ。これら複雑な状況に於いて、個人諸企業や産業の立場からすれば、政治色の濃い移民に対する諸障壁を引き下げるよりは、AIによるトラック自動運転化を図る事の方が容易な解決なのだ。
しかし、人より優先して機器を選ぶのは誤りだ。何故なら、人間を代替するマシンが発明されれば、本来の人間が必要とされる居場所に人々を配置すると云う真の経済的にして人道的利点を失うのだ。そして、人々が経済移民として国境を越えるのを禁じる措置は、特に基礎的技能を満たす職種への就業に関して、技術改革の軌道を著しく歪め、世界中の人々、殊(こと)、貧困層を更に生活苦へ陥れる結果となるだろう。
(以下続く)
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