【トランプ再選阻止の祈りを込めて『マチス自叙伝』邦訳連載 第五回】

<訳者口上>

 米国大統領選挙が今月5日に迫った。両候補伯仲する中、トランプ優勢が伝えられる。当訳本『マチス自叙伝』(“コール・サインCHAOS”著者ジム・マチス)は、今年1月より当ブログで連載開始し、大統領選挙前迄には完訳と予告しながら、実際の作業は大きく遅延。本日掲載分を以っても、未だ全体の約1/7程度をお届けしたに過ぎない。この停滞は、連載途中、民主党有利と踏んで、つい油断した訳者の筆が鈍った結果で、自身の不徳と不明をお詫びする次第。但し、同書前半のハイライト、湾岸戦争従軍まではカバー出来たのが幸いです。

 世界が混迷を深める中、政治の無策と劣化ぶりは、我が国日本も、決して米国に引けを取らない。先の衆議院選挙は政党勢力地図に変化を得たが、国家の本質的問題に真剣に取り組む党は何処にも見当たらない。

 遥か昔、宋の時代、混沌とし理不尽な世情を憂慮した文人、蘇軾は次の言葉を心の頼りとした。曰く「人、衆(オホ)ケレバ、天ニ勝ツ。天、定マレバ、マタ、能(ヨ)ク人に勝ツ」と。即ち、眼前の出鱈目な世の中も、混乱期を越え、いずれ天命が定まる時に至り、善悪の報いは定まり、必ず善に終わる、と。

 そうなると信じたい。道のりは遠いかも知れぬが、我々、庶民に出来るのは、良識に従い、少しでも正しい方位へ1ミリでも軌道を修正し、譬え一歩でも前に足を踏み出す意思と覚悟を持つことだろうか。或いは、既に蓄積した民衆の憤懣は、いつ天変を促す大噴火を起こしても不思議がない程の危険水域に迄、達している可能性もある。それもその筈、不平等格差が拡大する中、財政改革は放擲され、金融政策正常化は顧みられず、異常円安と物価高が放置され、票田を見返りに米価は高値操作され、それでも議員達は我が身の贅沢と児孫の安寧のみに執着する。財源と制度改革を欠く小手先の減税策で乗り切れる話ではない。これ程の危機に、真剣に立ち向わない日本の政治を過去の歴史に見つけるのは困難だ。

日向陸生

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<翻訳本文(第五回掲載)>

【『マチス自叙伝』~コール・サイン” CHAOS”~  ジム・マチス著(ランダムハウス出版)】(原書:『CALL SIGN CHAOS ~Learning to Lead~』By JIM MATTIS and Bing West, Published from Random House, New York, in 2019.  P300)

第三章 戦闘

 私は1990年頃迄には、頭の頂上(てっぺん)から爪先まで、筋金入りの海兵隊員になっていた。軍隊では、地雷原の匍匐前進と云った、私が苦手な訓練も伴うが、そんな環境すらも、私の隣で仲間の兵士達も皆、唇を必死に噛み締めて共に匍匐する中に生じる、彼らとの強烈な連帯感を大いに楽しんで居たのだった。斯かる心境に至る迄に18年間を要したのだと私は悟った。この間、世界中で任務に当たる内、階級は中佐に昇進、そして、1990年初、私は第七海兵連隊所属第一大隊(通称 1/7)の指揮官となった。

 その任を受け、私は身が引き締まる思いだった。軍隊では、所属連隊の伝統が重んじられ、実に名誉ある伝来を継承するのがこの第七連隊だ。第二次世界大戦下、長く困難なガダルカナル戦で第七海兵連隊を指揮したのは、名高いチェスティー・プラー。又、朝鮮戦争では、同連隊を率いたレイ・デイヴィスは、凍結した長津湖での戦いで、中国共産党軍の奇襲攻撃で包囲された第一海兵師団を、虎口から脱出させた功績により名誉勲章を授与されている。

 一方、今回、同連隊所属の大隊指揮官を拝命し、私の気力が漲ったのは、自分自身それに堪え得るとの自負が在った為だ。私は、海兵隊員として十分な鍛錬を積んだ。即ち、クワンティコ海兵隊訓練場と幾多の艦隊勤務との往復を経、海兵隊士官が身に付けるべき基本と云える、攻撃と守り、及び上陸作戦の要諦とを習得した。更に、ベトナム帰りの歴戦の兵士達は私の能力を研ぎ澄まし、又、配下の部下達に対し信頼を構築する術を教えて呉れた。又、この前年、私が仕えていた上官、カールトン・フルフォード大佐は戦闘指揮官として類稀な才能を備え、私は常に彼を目標と仰ぎ見て来た。

カリフォルニア州所在の、海兵隊最大基地トゥエンティナイン・パームスにて、その日、疾風吹く閲兵場で、同連隊第一大隊指揮官の任命を受けた際、私は自身の培った経験を、今回、新しく指揮する組織へ伝授しようと強い意欲に燃えていた。

 抑々(そもそも)、大隊(バタリアン:battalion)と云う言葉の起源は、16世紀頃、戦闘を意味した伊太利亜語(battaglia)に由来する。大隊は、指揮官が部隊員達に面と向かい、直接的関係を維持可能な、ギリギリ限界の規模だ。それは、自らの一隊を以って一定期間戦闘を継続可能な規模であると同時に、又、指揮官と各部隊とに緊密な関係も維持され得るのだ。900名を定員とする大隊では、軍曹達と士官達が互いに熟知の仲になる。大隊は、180人からなる5つの中隊で構成され、各中隊指揮官は彼の配下の部隊員全員を良く掌握する。つまり、一大隊は小規模にして且つ緊密に一致協力する体制下に在るので、それは恰もアメリカンフットボールやサッカーチームと同様、組織として在る種の明確な個性が形成されて行く。之は指揮気風と呼ばれ、大隊指揮官、上級曹長、中隊指揮官達、更に隊内の一等軍曹達がそれぞれ醸し出す特性が反映されるものだ。これらが、一緒に合わさり、大隊内の指導者達は、皆、配下各員の人柄、更に長所と弱点をも熟知するのだった。

 私の指揮する第一大隊は、通常定員の860名を割り込み、500名に満たない規模だった。これは想定外の事態だったが、私は、之を一つの好機と捉えた。私は、嘗て少尉の時、定員半数の小隊を指揮した体験も既に積んでいた。今回、大隊上級曹長は我々指揮官達に対し、現有の若手海兵隊達を訓練する事に集中し、現に手元に存在しない兵力に心を砕く事は無用だと訓令した。即ち、我々が眼前の精鋭幹部の鍛錬に専念すれば、その彼らが、将来兵員補充された暁には、その指導に当たれる訳だった。斯くして、当時、通常兵力に満たない大隊指揮官の立場に在った私は、カリフォルニア州の人里離れた、トゥエンティナイン・パームス海兵隊空地戦闘センターを拠点とし、其処で少数幹部を鍛え上げる段取りに着手した。

 組織が、その指揮官の特性を倣い順応することは、スポーツチームが監督に順応すると同様だ。其処で、私は先ず自らの期待を明確に表明した。「行動最優先、総員が合力し率先力を発揮せよ」と。つまり、兵力不足に対し愚痴を云う暇はなく、私が為すべきは与えられた現有兵力に対し最善を尽くす事だった。

 1990年の春は、東太平洋上に2ケ月間の水陸両用作戦の訓練(海兵隊歩兵部隊と海軍揚陸艦が共同)を実施、それを終えた同年6月、我々はトゥエンティナイン・パームス基地に戻った。其処では、我々が他の大隊の機甲戦闘訓練を検分評価した。その後、我が第七連隊は、一気に400マイル北上、標高一万フィート級の山々が聳えるシェラネバダ山系に位置する、海兵隊山岳戦闘訓練所へ空路移動した。

 それから4週間、私の配下の諸分隊は、昼夜を問わず、その山岳地を歩行、又、ある時は垂直下降し目標地点を目指す訓練を、各隊が競い合って実施した。我々にとっては、周囲に高く聳える山々の絶景丈が気晴らしと云えた。と云うのは、我々はテント内か、或いは開けた地べたに直接眠り、絶えず偵察を実施しつつ、時には絶壁を攀じ登り、テレビも電話もない環境下に一日も休む事なく訓練に没頭したのだった。斯様に厳しく、容赦ない山岳環境で敢えて訓練実施したのは、小分隊を率いる指導者達に対し基本の大切さを認識させる為だ。

12名で構成する小部隊では、各隊員が行動を共にし、体力の限界まで力を振り絞る諸状況を乗り越える中で、互いへの信頼感が育(はぐく)まれる。日に日に、私の諸分隊は、各兵士の肉体が強化され、互いの絆を強め、そして我々が一から築き上げるのに腐心して来た自信が次第に漲り始めるのを、私自身が目の当たりにした。

 人里から遠く離れた環境は、私が部下の海兵隊員達の性格を見極めるのに理想的だった。私が為すべきは、どの指揮官達をどの任務に配するのが最適かを熟慮することだ。つまり、仮にカスター将軍(*)が私の配下の指揮官達の中にいたとしよう。私なら、彼を尖兵に任命はしないだろう。私は、寧ろ彼を引き綱に繋ぎ止め――即ち、彼よりも冷静で抜かりない指揮官の背後に置き、後詰めとして温存――カスターの猪突猛進的なの性格を、戦況が進展した局面に至った時にこそ、解き放つだろう。 

1ケ月間寝起きを共にし、私は配下の中隊指揮官達の強みと弱味を把握することが出来た。ある者は、嘗てベトナム戦争で砲撃着弾観測担当の下士官として従軍経験を持つ、熟練にして冷静な人物だった。彼を、小隊の先を行くポイント・マンとして起用すれば、私の信頼に沿うに違いなかった。もう一つのタイプは、行動的で且つ激情的とも云える心情を備えた者だ。この種の人物は、話題を変えても一つの事を思い続け、言葉が口をついて迸(ほとば)し出るのだった。このような彼の積極性は、戦況が一度(ひとたび)判然とした際に、大いに活用できるだろう。第三は、物静かで、信頼が置けて且つ狡猾さも備えた人物。彼は敵の態勢を遺憾なく叩き潰すだろう。

 上述した三領域の何れに適性が在るか見極めを付けた私は、来(きた)る戦いが上陸攻撃、機甲戦争、或いは山岳地での戦闘であるかを問わず、各人材を適所に配置する事が出来た。

(*訳者注 アームストロング・カスター将軍(1839-76年):米南北戦に北軍従軍。往年の西部劇中にインディアン討伐戦争の勇将とし多く描かれた)

 1990年8月、独裁者サダム・フセインの下、イラク軍がクウェートに侵攻。サダムはクウェートがイラク支配下の一州だと宣言した。何れの国家もクウェート擁護には駆けつけまいと見越した彼は、埋蔵量豊富なクウェート油田を占領し、自国国庫に何百万ドルもの富を加えようと目論んだのだ。米国の出方を読み誤ったサダムは、我々が無関心を決め込むに違いないと断定した。処が、ジョージ・H.W.ブッシュ大統領はこの侵略に対し、語気強く「断じて容認できぬ」と宣言したのだった。この一件が生じる間、私はシェラネバダの辺境地帯で訓練に没頭し、3日間の強行日程で山岳上に位置した、とある未舗装の離着陸場を目指し行軍の最中で、如何なるTV報道からも遥か圏外にいた。

 その日の深夜、私は第七連隊指揮官から電話を受けた。ベトナム戦争従軍経験を持つカール・フルフォード大佐だった。彼は、所謂、南部紳士の典型で、堅固な意志を持ち乍ら周囲には常に丁重な態度で接し、彼が声を荒げるのを私は見た事がない。一方、部下には、彼が理想とする高い水準を満たす事を当然の如く求めた。そして、皆、その期待に応えるのだった―と云うのは、誰しもが彼の期待は裏切りたくない気持ちになるのだ。又、彼が差配する訓練には感服させられるのが常だった。一例を挙げれば、ある演習の最中、彼は大隊指揮官達に向かって、当の指揮官と全ての補佐官達がたった今、全員戦死した旨を宣言した。之は、彼らに代り、軍曹達が各々実弾発射指示を発し、標的を占拠しなければならい事態を意味した。結局、この演習は成功し、私を含めた連隊内の指揮官達は皆、或る事を悟った。つまり、この訓練は、我々大隊指揮官の中で誰が秀でた成果を出すかを見る為ではなかった。指揮官不在の状態で諸大隊は如何に機能発揮が可能かを試すものだったのだ。

「ジム、直ぐ君の第一大隊を連れて戻って呉れ」とフルフォード大佐が電話で云った。

「大佐殿、今、部隊は50マイル行軍訓練の最中(さなか)の為、四日後に帰還致します」私が返答すると、電話の向こうが暫し沈黙した。

 「先発隊は明朝迄に到着、他の全員も明日中に戻るのだ」と彼は命じ、こう付け加えた。「新聞を見給え。我々は戦争に突入する」

 私はこの時にガツンと一発喰らったが、そのお陰で、大隊に所属し歩哨の任を担うべき部隊指揮官にとり重大な教訓を学んだ。即ち、士官は、配下の部隊を、警戒を怠らず維持せねばならぬ。己の部隊内の狭い視野で課題処理に当たるのではいけない。つまり指揮に当たる立場の者達は、所属大隊の上層本部の要請に対しいつでも機動的に動けるよう待機し、常に配備を怠らぬ事こそが、彼等の存在意義でもあるのだ、と。

 斯くして、私と部下達は、遂に武器を取って立上り、成果を見せる時を迎えた。

戦闘準備

 同僚の指揮官ニック・プラットが、我が大隊を補強する役回りを任ぜられた。彼は最も優秀な兵士、125名を選りすぐり、私の元へ派遣した。斯くして、我が隊で欠員していた、分隊長、狙撃兵、及び最強の歩兵が補充された。自身の隊から兵力を割くのを余儀なくされた場合、能力の高い兵士達は手元に残したいと考えるのは人情である。処が、ニックの振る舞いに、私は衝撃を受けた。つまり、他部隊への支援兵派遣に当たり、自軍に最も温存したい兵力を、彼は惜しげもなく供出して呉れたのだ。有能な仲間達を割く事が、彼にとって不利でない訳はない。それにも拘わらず、ニックのこの支援のお陰で、文字通り、私が基地飛行場へ着陸した途端、補強兵士達の合流によって人員が充足され、致命的だった我が隊の戦闘能力不足が解消された。この体験以降、自分の部隊から歩兵を戦車部隊に供出する要が生じた際には、我が隊の精鋭達を寄り抜き派遣するのを、私は常とした。

  シェラネバダを出立し2週間後、我が大隊は、一転、肌を焼くような酷熱下、蒸し風呂のような湿気に覆われたサウジアラビアの砂漠に勢揃いしていた。我々の任務は、イラク軍によるクゥエート南部への侵攻に備え、同王国を防衛することで、派遣期間は5ケ月間の長きに亘る計画だった。

上陸時には万全の健康状態の我々だったが、その後、息が詰まる程の熱波の中、目や鼻や口に絶えず吹き込む砂の影響によって下痢症状を起こした。其処は、贅沢とは一切無縁の粗野な生活だ。戦術的諸作戦とリハーサルを幾度も繰り返す中、警戒巡回行動も並行して行う日常に、我々は次第に消耗した。全員が痩せこけ、私の目方もあっという間に20ポンド(約9kg)落ちた。

 処(ところ)が、11月中旬の事だった。我々の任務は、サダムをクウェートから強制退去させる事へと変じた。我が国外交筋は、イラクに「撤退せよ」との強いメッセージを発していた。そして、応じない場合には、ブッシュ大統領の呼びかけで編成された連合諸国軍が攻撃に転じ、イラク軍を追い出すと云う算段だ。その際の攻撃戦略は単純明快。友軍空軍がイラク軍を爆撃した後、我が地上軍が侵攻。海兵隊の二つの師団が、サウジアラビアから真っすぐ北へクウェート迄猛進し、其処に駐留するイラク国防衛隊を釘付けにする。そして、我が海兵隊が彼らと交戦する間に、米国陸軍と連合軍諸師団は西側から大きく回り込み乍ら、そのイラク軍を挟み、手薄な同軍側面へ強烈なノックアウト・パンチを喰らわせる作戦だ。

 イラク軍前線の防衛線突破の任務は、私の所属する第七海兵連隊が、第一海兵隊師団より拝命を受けた。この攻撃を企画・指揮するのはフルフォード大佐だ。

鍛え上げられた、我が海兵隊大隊1,250名に加え、海軍、及びクウェート軍部隊が、ハンビィー車と装甲兵員輸送車輛に分乗し、戦車18台に支援され、二段構えになった敵防御線と周辺地雷原を、逐次突破し複数の進撃回廊を切り開く作戦だ。そして、我々は前線の塹壕に拠し装甲武装して待ち構える敵を撃破し進撃するのだ。

 作戦は、並走する2本の進撃路を切り開き、その後を数千もの海兵隊員達が続くと云うものだった。従い、二つの突破隊の指揮官に、私は、最も狡猾な大尉 2名をそれぞれ選抜した。そして、各大尉が率いるそれぞれの部隊に、戦車、技術工兵及び歩兵を与えた。詳述すれば、私は大隊全体を13の分隊に編成し、3~4つの分隊を合わせ一つの歩兵小隊を構成、そして、この各小隊は、それぞれ戦車を配備した上に、地雷除去班と対装甲対処チームを編入した混合組織として陣立てした。一度(ひとたび)、交戦開始となれば、組織再編を私は行わない。ある小隊が膠着するか、或いは死傷者が多く出た場合は、他のチームを投入し敵の側面を攻撃させるのだ。知らない者同士が連携して上手に戦うことは望めない為、戦闘中は編成を変えぬのが私の規範だ。各チーム構成員達が、お互いをとことん熟知し、相手の採る行動をぴたりと予測出来ることを、私は飽く迄重視した。

 戦場では、部隊員の大半は、窓もない暗い車輛内部に閉ざされ、周囲の状況を伺い見ることが出来ない。訓練中、配下の軍曹達が、装甲兵員輸送車に向かい頻りに岩の塊を投げ付ける光景が見られたが、これは車内の海兵隊員達が、戦場で彼らの車輛に降り注ぐ銃弾片の音に慣れ親しむようにとの親心からだ。一方、特撃分隊の隊長達がハッチから顔を出すのは、彼らの車輛が敵から標的として捕捉される寸前まで肉薄するタイミングを探るのが目的で、安全確保の為ではない。

そして、その距離に達した瞬間、車輛からタラップが下ろされ、私の血気盛んな狼達は素早く群れとなって飛び出して進撃し、同時に友軍が空爆と砲撃により敵に猛攻を加える。

 我々は毎週日曜日、機動作戦を練り、翌6日間を砂漠でのリハーサルに当て、次の日曜日は結果を踏まえ、再び計画を微調整した。この秩序立ったサイクルに従い、一週毎に刃は研ぎ澄まされて行くのだった。

フルフォード大佐は、時々現場を訪れたが、我々を信頼し直ぐ立ち去るのが常だった。彼は自身のプロとしての心掛けを、我々も等しく保持するのを当然とした。彼の物静かな物腰の中に秘められた自信と確かな手腕は部隊中に伝播するのだった。

我々の連隊は、特別機動隊「リッパ-(*)」と命名された。海兵隊は汎用的な戦闘兵団だが、今回、我々が戦う地は海岸線でもジャングルの中でもなかった。この戦いは、完全に塹壕化された敵装甲勢力に対し、海兵隊が機甲化兵団を以って攻撃を挑む最初の事例だった。その中で、フルフォードが強調したのは唯一つ。「攻撃を始めたら止まるな、行き詰ったら直ちに別の策に変更せよ。手法を変ぜよ、手を緩めるな。当意即妙せよ。」だった。彼のメッセージが意味する処は至極明快。詰まる処「やり遂げよ」只、これだけだ。私の同僚の大隊指揮官達は皆、私同様、この控え目な外見に似ず猛烈な古強者(ふるつわもの)の“任務必達魂”を己の身に吸収して行ったのだった。

一度(ひとたび)戦(いくさ)が始まれば、フルフォードは私に絶大の信頼を置いた。即ち、私が彼の指示を仰ぐ為に、後方へ連絡を取るなど全く想定されていなかった。彼の意図を吞み込んだ私が、只、積極的指導力を存分に振ることだけを期待したのだ。

(*訳者注:リッパ-“Ripper”の 原意は“引き裂く者”)

 私と各攻撃分隊の隊長達は、機甲兵団の作戦展開を、目をつぶっても繰(あやる)れる迄、訓練に徹した。指揮官達は、燃料節約と機甲車輛への損耗回避の為、より軽量なハンビィー車(軍用ジープ)に乗り僅かな台数で砂漠へ乗り出し、其処に散らばって、恰も大部隊全体を指揮するが如く、無線機を使い互いの連携を確認し合った。つまり、我々は指揮系統の不備を解決する作業に於いては、参加者を指揮官に限定し、絶え間ないリハーサルに取り組む部下達の時間を奪わぬ配慮をしたのだ。更に、私は大隊に、数日置きにはキャンプを畳んで移動を続けさせた。これは、兵士全員を、昼夜を通し習慣的に、実戦環境へ一刻も早く適合させる為だ。

 私は、古代ローマ軍の戦法を取り入れ、キャンプ地では、部隊のテントを三角形に敷いた。三角型に陣地を設営する理由は、各兵士が自分の位置を容易に確認できるからだ。三角形の鋭角が常にイラク軍が位置する北を指した。そうすることで、昼も夜も、又、キャンプ設営の所在地に拘わらず、誰もが陣営内の車輛整備所、通信所、燃料貯蔵区、及び自分の司令部の場所を正確に掌握した。更に、我々のキャンプが敵に向かっていれば、一瞬の合図で、全員がテントを飛び出し即座に戦闘態勢を敷くことが出来る。当時は、まだ、赤外線暗視ゴーグルやGPS設備の用意が限られていた為、方角と針路の把握は方位磁石に頼った。従い、夜間の作戦行動は、我々が進撃する際、頭で考えずとも自然に技能発揮できる迄、反復訓練し磨き上げた。又、私は航空管制官に、海兵隊戦闘ジェット複数機をキャンプ設営地の上に飛ばすよう頻繁に指示を出した。それは、F18戦闘機が毎時500マイルの超速で直ぐ頭上を過(よぎ)る際の大轟音を兵士が体感した直後には、敵陣の敵兵が爆滅されている、との反射的連想を植え付ける為だった。

 我々はこのような日常を、簡易寝台もなく地べたに眠りつつ数ケ月間続けた。夜は、我々は共に座し、嘗て英国海軍ネルソン提督の副官達も斯くありしかの如く、砂地に描いた地図に石を動かし部隊展開をシミュレートし戦術議論に没頭した。又、私は砂丘に座り、背嚢の中から本国より携帯した何冊かの書籍を引っ張り出すのが常だった。それらは、砂漠の戦闘に対し歴史上の指揮官達が如何に対処したかを明らかにするもので、これらを通し、その混沌たる様相と、如何なる見込み違いが生じ得るかに就いて、私は予備知識を習得した。

 回を重ねた机上演習では、作戦の戦闘地形を精密に模した砂盤は、ある時はフットボール場よりも大きな敷地を用いて実施された。この時、作戦に参加する全小隊指揮官と分隊長達が、それぞれの持ち場の任務を、順を追って説明するのだった。即ち、友軍による空爆と砲撃の援護下、地雷原の中に侵攻経路を切り開くに当たり、埋設された地雷を如何に爆破し無効化するか、その手法に就いて工兵達が説明した。ある上等兵は、先導する戦車に後続して装甲ブルドーザーを操縦し、敵陣塹壕を埋める段取りを説明した。一方、軍曹達は全員、各々が“バンプ・プラン(bump plans)”を抱き、ある車輛が地雷原で撃破された場合、どの部隊がカバーに当たるかを綿密に打ち合わせた。歩兵攻撃隊のリーダー達は、敵陣地内に切り開いた突破線を、如何に回廊へと広げていくかを詳述した。衛生兵と軍医達は、負傷兵救護に関し、地雷原で破壊された車輛から負傷した海兵隊員達を収容する要領を述べた。

私は、各持ち場の演習と緊急対応とを、うんざりするほど反復練習させた。この為、遂には「自分達は馬鹿だと見くびられているに相違ない」と考えた部隊員が全員、怒りを込めた目で私を睨みつける始末だった。然し、斯くして各兵士全員が互いの役割を熟知した結果、我々は如何なる突発事態にも適切に順応できるようになった。私がリハーサルを繰り返した意図は、我々が戦場で当意即妙に処する対応を、恰もニューオーリンズのジャズ演奏家が即興演奏を奏でる如くに熟達させる為だ。換言すれば、ジャズマンが彼の楽器を完璧に操るように、兵士達は同様に戦争の道具立てをマスターする必要があったのだ。

 その夜はクリスマス・イブで、ミサが行われた最中の事だ。フルフォード大佐が、会場隅の暗がりへ私を誘った。私達は其処から、我々の部隊員達がクリスマス・キャロルを歌い、笑ったり、微笑む姿を暫し眺めた。彼らはこの5ケ月間と云うもの、故郷を遠く離れ、この砂漠の地で過酷な生活を強いられていた。私は先に彼らに対し、今年のクリスマスが生涯最高になるか、或いは最悪のものになるか、それは彼ら自身がこの事態にどう向き合うか、その姿勢次第なのだと訓戒した。そして、彼らは皆、この日を最良するよう心に決し本日を迎えたのだった。

フルフォード大佐は静かに口を開き、来る戦闘に関する忠言を私に与えた。

 「今回のイラク防衛線突破作戦に関し、陸軍が一連の図上演習を実施した」

そして、彼はこう付け加えた。「この侵攻で、君の部隊に極めて多くの死傷者が出る見込みだ」

何名かとの私の問いに、彼は答えて云った。

「試算によれば、部隊の半数が死亡又は負傷する」

 我が隊の援護を担う連隊は幾多の航空機と48門以上の砲撃砲を擁して待機し、号令一下、地雷原を監視しているイラク兵達を攻撃する手筈になっていた。我々が先に策定した攻撃計画では、我が隊が突撃して突破口を開くに当たり、自軍の前方と左右、それぞれ逆U字型のエリア内の抵抗を無力化すれば、それで事足りるとの前提に立っていた。処が、フルフォード大佐の言葉で、私の酔いは一気に覚めた。その夜、彼と別れ、私は寝袋の中で一睡も出来なかった。

 翌日の朝、クリスマス当日、私は、直ちに火力支援部隊を招集した。彼らの目の前で、私は同部隊の戦闘計画書を真っ二つに破り割いた。それは万全策として彼らが自負するものだった為、私のこの行為を見た彼らは、唖然とし狼狽した。然し、地雷原を進む我が隊の多くが死傷するとの戦闘試算結果を、何としても覆す必要が私には在った。

 「さあ、計画は一から出直しだ」と私は宣言し、こう命じた。「当作戦では、逆U字区域内を完全に破壊し尽くすのだ、ミミズ一匹たりとて生かして置かぬ」

斯くして火力支援隊の更なる猛訓練が開始された。

精神鍛錬   

 我が大隊は訓練を積んだ歩兵部隊だ。但し、一握りのベトナム帰還兵達を除けば、実戦経験を持たない者達ばかりだった。戦闘に直面した人間は、尋常ならざる激烈な環境に置かれる為、予めそれに備えるのは、如何に過酷極まる訓練を以ってしても困難だ。戦闘で遭遇するショックに対し、指揮官として兵士達に如何なる準備をさせるべきか? 一つの答えは、猛烈に厳しい訓練を施し、慢心を排除し、頭で考えることなく体で反応する、所謂、筋肉記憶――或いは無意識の反射能力――を身に付け、予想外の事態に対しても状況を特定し反応するように精神を鍛え上げる事だ。

そして、一度(ひとたび)、部下達の鍛錬が為されたならば、次は、彼らを同じ部隊に配置し、互いの家族をも知る迄に信頼と自信に裏打ちされた関係が築かれるよう、十分な期間を設けることだ。このような基礎的関係が構築されてこそ、更に次の訓練段階である予行練習に移り、其処では、彼らが戦闘で技量を発揮できるよう、その基となる諸技能の習得に集中するのだ。これは戦闘技術の一般訓練を越え、寧ろ精神修練に属する段階だ。兵士は戦闘状態に置かれていない時も、例えば、パトロール出発前や、計画的攻撃実施の前にも、絶えず自己修練を積み続けることが必要だ。我々はあらゆる機を捉え予行練習を反復するのだ。

 ジョージ・ワシントンが独立戦争初期、議会に宛てた手紙の一節に、私は強い共感を覚えていた。曰く「危険に幾度も遭遇した男達は怯(ひる)まない。一方、実戦経験を持たぬ部隊は、危険がない状態にも怯(おび)える」と。

 実戦経験のない兵士達にとり、心構えの準備として重要になるのは想像力だ。私が目標とした処は、各海兵隊歩兵が、実際に戦場に出て、初めての弾丸を発し、口の中に火薬の味が満ち、血が地面に吸い込まれるのを目撃する、その瞬間に至る迄に、想像力上とそして実際の肉体的訓練との双方を以って、既に何十回も戦闘を体験済であることだった。

 私が配下の部隊に求めたのは、何が起こるかを予想する能力、つまり、頭の中で想像を巡らせることだ。即ち、爆発が発生する前に、大声で命令が発せられる前に、そして何よりも爆音で耳がつんざかれる前に、先ず自身で思考する事が重要なのだ。戦闘では轟音の中、抑々(そもそも)互いの声は聞き取れず、況(ま)してや混沌とした状況下に、兵士が誰からの指令で、一体何をするよう指示されているのか理解することは出来ない。このような瞬間に於いて、訓練と予行練習によって培われた筋肉記憶が効果を発する。戦場では、不十分な情報しか得られなくとも、迅速に決断しなければならない。各戦闘員は自身の強み、自らの仕事、そして彼の指揮官の対応を非常によく理解することを通じて、自身の機能を躊躇なく発揮することが求められる。

野球で喩えれば、打者がカーブの球筋を見極めてバットを振り下ろす迄に与えられる時間は、精々0.25秒だ。考える猶予などない。彼は、数えきれない程の練習を積んだ結果、強振するか否かの計算が自動的に、然も頭の中ではなく、彼の筋肉に記憶として刻み込まれているのだ。これと同じ事が、初めての接近戦に参画する海兵隊員にも求められた。 

 口頭指示が明確に伝達されるには、それ相応の集中的訓練を必要とする。例えば、我々は、取り乱して要領不得な会話に終始する、911番通報者の録音例を全て聞き返した。と云うのも、想像して頂きたい、前線で交戦中、無線を通じ、平明、簡潔で且つ正確に、状況説明や諸事命令発信を行うのが如何に至難であるかを。   

従って、私は、来る日も来る日も、小隊の軍曹と小隊指揮官達に対し、緊張状態を醸すような様々な突発的事態に直面しても、無線で冷静に対処出来るよう訓練を積ませた。

 サウジアラビア砂漠の戦場では、一日の仕事に終わりはなく、週末もなければ、eメールもない。私は、夜に前線を歩き回るのを日課とした。闇夜に歩哨に立つ兵士達は、そういう時に腹を割って語って呉れるのだ。一方、遥か遠い米国内では、TVニュースで予想死傷者数に就いて露骨な報道が為され、兵士達の家族を悩ませた。そして家族達からの郵便物の配布を通じ、これら情報は私の配下の海兵隊兵士や海軍衛生兵達に伝達された。

 元ヘビー級ボクシング王者マイク・タイソンは云った、「誰だって、目論見は用意しているものさ。顔面にパンチを喰らってぶっ倒れる寸前まではな」と。然し、用意周到なボクサーは、自身が当惑させられる局面に遭遇する事も知っている。つまり、殴り合いが始まる前に、彼はその事態をも予想し計算しているのだ。同様に、私が声を大に配下の各部隊に強調したのが「我々の突撃計画がもし失敗した場合どうするか」と云う点だ。「指揮者たる私がもし戦場で斃れた場合は、どう対処する?」、「深夜に化学兵器攻撃を受け、無線機能も停止したら、如何に行動する?」と彼らに対し日常の集まりで質問を浴びせ続けた。

 「伍長、君の率いる攻撃チームは、一台の戦車を盾にその後ろを前進中で、敵からの弾丸が装甲板に当たり跳ね飛んでいる。そんな時、突然、左手から一台の敵方ブルドーザトーザーが現れ、攻撃を仕掛けてきた。さあ、君はどうする?」と云った具合だ。

  全員が総出で、ある想定問答を考え、共有することを通じ、各員がより大きな視野を理解し、環境の変化に順応出来るようになる。砂盤での図上演習や、或いは、作戦頓挫、死傷者の発生及び化学兵器による攻撃の想定を繰り返すことで、我々は、部隊の順応する能力に揺るぎない自信を築き上げる事が出来た。私は、斯くしてこの想像する技量――行く手に何が起こるかを考える力と想定外の事態へも順化できる精神――が兵団強化に欠かせない手段だと悟ったのだった。

 死傷者を最小化する為に、我々が如何に腐心しているかを示そうと、私は大隊の兵士達を集め、とある予行演習を見学させた。砂丘の上が、我々の用意した謂わば円形演技場だ。上級曹長のドゥウェイト・ウォーカー が計測係としてストップウォッチを手に仁王立ちする中、我々の医療チームが2台のトラックに分乗し登場した。部下の軍曹二人がトラックから飛び降り、後に大隊付の炊事兵達が続くと、忽ち防御線を設置し終えるその間に、海軍衛生兵達がテントを張り発電機も整えた。20分と経たぬ間に、大隊支援ステーションが立上り、負傷者受け入れが可能な体制を敷いた。私は、海兵隊員が即座に手当てを受けられず、傷で弱るようなことは決してない点をはっきりと示したかったのだ。

 これらの全ての準備によって、私は彼等に対し信頼を抱き、又、重要なのは、彼らも同様に私に信を置くようになった。こうなれば、譬(たと)え母国からの手紙や雑誌により、特に最初の突撃作戦での甚大な人的損害予想が伝聞されようとも、我々の方が、敵よりも巧妙にしてより準備を積んでいる、と云う自信が揺らぐ事はない。

情報を集中収集する手法

 私は、平坦な砂漠へ展開する指揮下の諸部隊を、自身の目でその大半を見渡すことが出来た。然し、それに止まらず、更に私は可能な限り下位の兵士達に迄、戦術的指令を委嘱することに拘った。と云うのは、一度(ひとたび)、敵から攻撃を受ければ、私が伍長達に向け一々命令を叫んで発する訳にはいかないのだ。つまり、各小部隊の指揮官達には予め私の意図を熟知させて置くことが肝要だ。それは「地雷原を切り抜ける回廊を開き、そして、接近戦闘になれば敵を斃せ。敵が展開してきた場合は、砲撃を要請し部隊は負傷者を避難させよ」と云うことに尽きた。

 兵士達が私へ状況報告を入れるのは優先事項でない。何故なら、部下達に報告の手間を取らせずとも、彼らの戦術無線交信を私が傍受することで情報収集は可能だ。然し、私はこれに加え、更なる情報を要した。そこで、私が試みたのが「遠隔情報集中入手」と名付けられた手法で、通常の報告経路を飛び越えた情報収集だ(原文focused telescopesは“焦点を合わせた望遠鏡”の意―訳者)。実は、この方法は、私が読書の中から見つけたもので、フリードリヒ2世、ウェリントン将軍、そしてロンメル将軍の歴戦の勇者達(*)が、この手段を実践していたことを知り、居並ぶ歴史上の軍人達の中から、特に私は彼らの技術を導入したのだった。

(*訳者注:この3人は、それぞれ、神聖ローマ帝国皇帝、英国軍人(1815年ワーテルローの戦いでナポレオン軍撃破)、第二次世界大戦中の独逸軍将軍である)

 読書から学んだのは、敵に当たることに気を取られ、手一杯の指揮官達から伝達される情報は不十分であり、私自身がそれを補う必要がある点だ。私の知るべき情報とは、配下の指揮官達の疲労蓄積状態、彼らの部隊に士気が上がっているか、そして、敵方情勢である。斯かる諸情報収集の為に、適切な特性を備える将校達を私は起用した。彼らに求められるのは、健全な戦術判断力を有し、絶え間なく気配りし、率先力に富み、且つ相手の気持ちを理解する資質で、これらを駆使して彼らは、報告を偏りなく然も簡潔に、通常の報告経路を迂回し、直接私の耳に入れる任務を果たすのだ。

 当時、どの大隊も頭文字「 j 」で始まるコール・サインを起用していなかった。従い、私は、これら「遠隔情報集中入手」担当将校達を、軍事無線コード名“ジュリエット(Juliet)”と正式命名し、組織を立ち上げた。具体的には、配下の人事部門を再編成し、前線負傷者の受け入れを支援させる体制とし、こうして浮かすことが出来た人材の中から、私の副官として適任者を任命したのだ。彼らは、私の戦闘作戦とその目的を理解する者達で、一方、他の任務からは一切解放された。即ち、彼らは、専ら「ジュリエット将校」としての任務に当たるのだ。私の作戦を熟知し、何が必要な情報かその内容を理解する彼らは、私を混乱させる恐れがなかった。私の意図を理解した上で、彼らは分散した各小隊の所在を巡回する。ジュリエット達にとり、唯一優先する任務は、私に絶えず情報提供し、又、同時に、私が指令する無人格の意思を、謂わば人の顔の装いを伴って各部隊指揮官に伝達することだった。自分自身でも、席が温まる間もない程、現場を周回し、尚且つ、数多く幾筋もの情報入手経路を確保出来れば、状況に対する理解を深化させる事が可能となるのだ。

 指揮官や副司令官は、誰も皆、行く手に潜む危険や好機を素早く見渡す手段を渇望する。ジュリエット達は、偏りのない情報を絶えず提供し、私にとって必要不可欠な存在である事を証明した。私は、自分自身が信頼を置き、且つ周囲との信頼関係を維持出来る人物を選抜していた。と云うのも、私の同僚指揮官達が、この組織を恰も一種のスパイのように見做す虞があった。そして、これを防ぐには、これらの指揮官達が何か懸念を洩らした際に、彼らの信頼を透かさず勝ち取る能力を、ジュリエット達が備えている点こそが偏(ひとえ)に重要なのだ。そして、彼らの尽力により、結局、指揮官達は共有した情報が私以外には決して洩れない事を理解して呉れた。

己の強みと弱みを知れ

  戦争は、如何に輝かしい勝利も、悲劇を伴う点で苦味が残る。それが商売と異なる点で――或いは金融取引で金銭損失を出すのとも、又、販売市場で売り上げシェアを失うのとも違う。つまり、戦争は人間そのものに係る一大事であると同時に士気の大きさが最も重要な役割を果たすのだ。嘗て、ナポレオンは「士気盛んな兵は三倍する敵勢も退ける」と語った。即ち、これは、目には見えない諸特性、即ち、自信と信頼と調和、そして互いへの愛情と云ったものが互いに合わさり、各兵士の頑強な肉体、そして、思考の敏捷性、更には強靭な精神までをも一層増強させ、その結果、部隊全体として戦場を支配し得る能力が与えられるのだ。一方、その見返りに戦死者も多く出る。

 悦んで命の危険を冒し、前進すれば自身の存在が消え兼ねないと知りつつ、尚も立ち止まらないのは、ある種、異常な行動だ。更に、仲間の兵士を死なせ、或いは、最も親しい同志の戦死を目撃するのは、計り知れぬ程の深い精神的苦痛を伴う。

マイケル・シャーラの小説『天使達の殺人』(*原題『The Killer Angels』)の中で、ロバートE.リー将軍は曰く、「いっぱしの兵士になるには軍隊を愛せよ。然し、優れた指揮官になるには、自分の愛する者に対し躊躇なく死を命じる度量が必要だ。これは尋常な事ではない。他の職業では、決して求められる事がない類のものだ。善良な人柄の指揮官は大勢居るが、真に優秀な指揮官が少ない理由の一つがこれなのだ」と。

(*訳者注:南北戦争のゲティスバーグの戦いを描いた、1975年ピュリッツァー賞受賞作。ロバート・リーは南軍総司令官)

 精神の均衡を維持する為、戦闘中に死傷者数や、況してや彼らの氏名の報告は受けるべきでないと私は考えた。そして、自分の部下達には、彼らの任務が破綻の危機に瀕しない限りは、氏名も死傷者数も報告せぬよう命じた。一方、負傷者が出た場合の備えとして、炊事兵達がタンカーを担いで運び、軍医と衛生兵達が手当てに当たり、迅速に彼らを前線から退避させる最善体制を整えた。従い、私は任務の完遂に向け常に集中すべきなのだ。私は、或る意味、自分の部下達を、その一人一人迄良く知っていたので、尚更のこと、もし彼らが撃たれた時、顔を思い浮かべたくなかった。

 私は、この作戦による高い死傷率を予想したが、指導者の立場として自身の感情を断ち切った。さもないと、本来為されるべき決断を下す、と云う責務を果たせないからだ。任務遂行が何より優先される。個人的な精神の慰めは後日を待つべきだ。私自身、己の限界も心得ている。それら全てに心の整理をつけるのは、私が故郷のコロンビア川の畔に戻った後の事にしようと自分を叱咤した。

攻撃開始

 古代ギリシャの詩人、ホメロスは、紀元前13世紀のトロイ戦争を描写し今に伝える。「それは、荒々しく、混乱に満ち、砂埃と煙の嵐と阿鼻叫喚の中、血に塗れた剣が至る処で閃き合い、悍ましい大騒音と不条理に包まれていた」と。爾来、何時の時代にも、戦闘の指揮官達は観念上に、計画に沿って展開する秩序立った戦場を追求して来たが、未だそれを得た者は誰も居ない。抑々(そもそも)、“秩序だった戦場”など、それ自体が存在しないのだ。

 一方、戦争知識に長けた、南北戦争の北軍将軍、ユリシーズ・S・グラントは、戦場の指揮官達を評価する際に重要な判断基準を持ち、それは、自分自身を見失わぬ事だと達観した。即ち、強靭な人格を備え、不意の衝撃を被っても冷静に対処する能力を有し、更には、想定した事態が全て潰えても、尚も屈服する事なく、又、彼らの作戦が不首尾な時も、事態に順応可能な機敏な精神を有する者達だ。これこそが、私が理想として描く、我が海兵隊の戦闘手法だった。これを以って敵に対すれば、相手に次々と怒涛の如く損傷を与え、敵の団結を打ち砕いて混乱を生ぜしめ、最早、敵陣は精神的に攪乱され反撃も儘ならぬ事態に陥るのだ。

 1991年2月24日の夜明け前。それに先立つこと、1ケ月以上に亘る空爆を経て、我が軍は遂に地上侵攻を開始した。イラク軍は何百もの油田に自ら火を放ち、悪臭を帯びた黒煙は太陽さえも遮って景観を覆い尽くしていた。夜を徹し前進した我が軍は、夜明けに、敵の第一防御線へ肉薄した。イラク工兵達は、複雑に配置された地雷、有刺鉄線、深い塹壕、及び火が放たれた障害物で、頑強な防御地帯を建造し、それらは皆、塹壕内のイラク側諸部隊と迫撃砲で武装されていた。

 友軍の砲撃と空軍支援による援護を受ける中、技術工兵達は、我が軍の戦車隊の防御の下、全力で走って前進しつつ、地雷原爆破ロケット弾(*)を発射し、地雷原を爆破させ進撃路を切り開いた。その後を、戦車と装甲ブルドーザーが続き、残った地雷を掬(すく)って脇へ除去し、路面を安全化した。侵攻路の安全が確保されるや、戦車と歩兵が塹壕内の敵兵を制圧すべく進撃した。そして、我々が、敵の第二次防衛線へと急迫する時には、後続の二万人の海兵隊員達が突入する為の回廊が拓(ひら)かれていたのだった。此処に至るまでの攻撃所要時間は、訓練時には21分が最短記録だったが、実際の戦闘で我々は之を11分で成し遂げた。弛まぬ予行演習が実を結んだのだ。友軍の絶え間ない爆撃がイラク軍の戦闘意欲を削いだ。敵軍からの砲弾は疎(まば)らとなり、彼らの戦車砲と機関銃による直接照準射撃も散漫なものだった。一群のイラク軍兵士は脅かされ既に戦場から追い散らされたが、その後も僅かな手勢で尚も戦い続ける敵兵達が居た。彼らに対し私は賞賛の気持ちを抱く種類の人間だ。

一方、我々が更に前進するに従い、我が諸隊は行く先に一層困難な障壁帯が待ち受ける事を覚悟していた。

 攻撃の最中、中隊長達が私へ情報伝達する間に、時が空費されるのを私は嫌った。彼らと密接に接してさえいれば、これら情報は自然と得られるものだ。つまり、指揮官車輛のハッチに立てば、周囲の開けた砂漠に展開する我が部隊を一望で見渡せる(尤も、私の部隊内に居るベトナム戦争帰還兵達にとって、これは奇妙な風景だった違いない。彼らは10フィート先も見渡せないジャングルの中で戦ったのだから)。

私は、更に攻撃中隊の無線交信をモニターする一方、我が大隊とは時に応じ専用交信を用いて会話をし、或いは、連隊に対し無線で最新情勢を伝えた。攻撃中隊長達が前線で会話する声の調子を聞けば、如何なる事態が起こっているのか、彼らの目線に立って想像することが、私には出来た。

敵の最前防御線を寸断した我が隊は、更に9マイル北方に位置する、一層強固な障害が施された第二次防御地帯へと雪崩を打って殺到した。

成功の鍵は迅速性にあった。と云うのは、敵の主力抵抗線のどの辺りへ我々が攻撃を掛けるかは、今やイラク軍が凡その目途を付ける処となったのだ。従い、防御線上の我々の目標地点へ補強を施そうとする敵に対し、猶予を与える訳にいかないのだ。

 第二次防御線では、敵兵たちは強固な意志を以って激しく抵抗した。地雷により、我が軍の戦車7~8両とその他車輛が破壊され、負傷者も発生した。然し、敵軍の砲火は、我々の侵攻速度を鈍らせはしたが、之を止める事は出来なかった。とある地点で、私は 一つの窪地の中に体ごと飛び込んだ。その中で身を捩ると、一匹のアリが其処から這い上がろうとしているのが見えた。私は、わざと砂地を少し払い、アリを元の窪地に滑り落とした。すると、アリが又、斜面を這い上がろうとしたので、私は再び、そうはさせまいと砂地を払って、云った。

「蟻んこや、此処から出るんじゃないぞ。この中は安全だ」

 やがて、我が軍の空爆と砲撃により敵側の砲声が沈黙するや、我々は再び前進した。すると今度は、エミール農場という農業施設を塹壕化し占拠した、イラク軍大隊が其処から迫撃砲で攻撃を仕掛けて来た。ブラボー中隊は、塹壕に迎え撃つ敵との距離650ヤードの地点で装甲兵員輸送車輛のタラップを下ろした。我が海兵隊員達が勢いよく突進すると、再び気力を取り戻したイラク兵達が激しく撃ち返して来た。その時、F18戦闘機が轟音を轟かせ我々の頭上を越え飛来し、500ポンド爆弾を投下した。之で全てが決した。暫くすると残存兵達が、両手を空に挙げ、我が海兵隊員達の方へ列をなし降伏して来た。

 南部前線全ての地点で、我が軍は連携攻撃を加速させた。作戦を構成した各基礎部分、それからの予行演習実施、そして繰り返された討議、将官達による全体戦略の共有、絨毯爆撃と同時に複数攻撃進路による地雷原突破――これら全てが、荒々しくも完全調和を保って発揮されたのだ。我が海兵隊は、その日午後迄に、計画より遥かに早く作戦目的を達した。最高司令日は、敵の毒ガス攻撃、地雷、及び直接射撃により、突撃諸大隊は多数の死傷者を被ると想定し、それが故に我が大隊は、この後に為すべき任務が与えられていなかった。斯くして、私には、我が先頭部隊の手綱を引き抑制する必要が生じた、と云うのも、我々は遥か予想に先んじ進攻を成し遂げたのだった。

 攻撃、三日目。我々は、より一層の勢いを得て、クウェート国際空港を目指し猛進した。数十ケ所の油井施設が激しく炎上しており、周辺に分厚い黒煙が充満し、視界は数百ヤード先を見通すのが精々だった。日中に拘わらず、地図は懐中電灯を照らし地図を読む始末だった。私は、ジュリエット将校達を使い、又、ラジオ無線に流れる交信内容と参謀達の会話を聞くことで、侵攻を中断し打ち合わせを招集する迄もなく、事態を逐一遅滞なく掌握出来た。進撃速度は断じて緩める訳にはいかぬのだ。私は最小限の指示を与えた後は、攻撃隊長達にそれぞれの現場差配を委ねていた。

 敵は完全に潰走した。敵車輛の燃焼機関が点火され、排気熱が放出されると、我々の熱探知ゴーグルの視野に反応した。斯くして、装甲車を含め動く全ての車輛が標的となった。

我々は、油臭い煙が厚く立ち込め、頭の直ぐ上には”コブラ式“戦闘ヘリコプターが飛び回る、恰もダンテの『神曲』地獄篇を連想させる世界の中を、一歩一歩前進した。

イラク軍の戦車と装甲車輛は、まるで竜巻が通り過ぎた直後の如く、飛び散り、押し潰され、粉砕、そして引き裂かれ、周囲は破壊された車輛とバラバラになった人体が散乱していた。人間の姿を留めているのは極僅かで、その大部分は黒焦の人形と化しで身長も半分に縮んでいた。 

 その時私は、先鋒小編隊と行動を共にしていた。横列展開した我々一隊が、右手の大きな採石場に沿って前進し、当然、隊右翼は片側の展開自由度を失い窮屈な状態になった。行く手には、高圧送電線が破壊を免れ、尚も荒涼とした単調な砂漠の真ん中を横切って立っていた。前日三日間を殆ど休息なく過ごした私は、我が隊が採石場を通過し送電線付近に至ろうとした際も、その疲労困憊した知覚力が周囲の異常を察知することはなかった。

突然その時、前方地平線に閃光が閃き、緑色曳光弾が幾筋もの煙を引いてこちらへ飛来した。我々が到達した送電線は、待ち伏せする敵にとっては格好の攻撃標的地点の役を果たし、今や、敵戦車と機関銃は照準を合わせ、実弾発射の準備を整えたのだった。更に、同時に、先ほど通過した採石場内からは、敵が伏した機動部隊が、私の後方を追尾していた友軍輜重小隊郡に対し奇襲攻撃を仕掛けて来た。

待ち伏せを喰らうのは決して愉快でないが、それでも私は、嘗て普仏戦争で沼地の中に周囲を包囲されたクラウゼヴィッツ(*)に比せば、自分の立場は、我が大隊の周囲が開けた砂漠であると云う点が最大の幸いである、と思い起こした。

(*訳者注:カール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780-1831年)プロイセン国軍人。1806年ナポレオン戦争従軍中、仏軍に沼地で包囲され捕虜となった。『戦争論』の著者でもある)

 敵の襲撃の最中、クリス・ウッドブリッジ中尉の搭乗するハンビィー車が、私の前面へ展開して行くのが見えた。彼は車輛上部に据えられた機銃台座に自ら立ち、対戦車小隊を率いていた。巨漢で逞しい彼はラガーマンだが、陽気で常に笑みが絶えない男だ。私がそのウッディーを目で追っている時、突如、砂塵と黒煙の柱が上がり、彼の車輛が飲み込まれ消えた――戦車砲による直撃弾だった。その震動波が私の処へ押し寄せる中、ウッディーの車輛は砂と煙に包まれていた。

 私は目を逸らすと、この直撃弾のことも自身の心から追いやった。私は、諸隊に、危険を回避しつつ攻撃路を開けるよう、更に右旋回を命じ、戦車隊を戦闘に投じた。私が後方に目をやると、赤く点滅する発光信号が見えた。ジェフ・フックス中尉の指揮する輜重(しちょう)隊列が、襲撃を受け交戦中、と知らせを発していたのだ。この6ケ月間、同部隊は3日置きに、ジェフとケンドール・ホフ 一等軍曹が、衛生兵、炊事兵、車輛運転手、技術工兵、事務官、及び整備兵の全員に、歩兵としての訓練を施していたのが幸いした。この特訓が実を結び、本来は非戦闘員の彼らが敵に対し激しい抗戦を繰り広げた。

 彼らが、敵車輛を破壊する間、我が軍の迫撃砲が、採石場に待ち伏せた敵兵と前方の戦線との双方を目掛け、南と北へ同時に砲弾を発射した。又、イラク兵達が採石場から出現した際、炊事兵や技術工兵達が機関銃射撃と対装甲ロケット砲を以って即応し、敵車輛を破壊した。この戦闘は12分で片が付き、戦果を挙げた衛生兵や整備兵達は、応援に駆け付けた歩兵部隊の到着を笑顔で迎えた。私は急いで後方へ取って返し、彼らに合流した。 

私の部下達が私を窮地から救って呉れた。然し、筋肉記憶と戦闘魂を身に付けた彼らは、その救出行動の際も抜かりなく、敵の意思決定サイクルを読んで裏をかき、敵を撃破することを忘れなかった。

 我が軍が攻撃を継続する中、一部イラク軍は尚も抵抗を見せたが、大半の兵士達は直ぐに投降した。そして、昼下がりに、フルフォード大佐は、配下の指揮官達を集め指令した。即ち、我が軍は此の儘進軍を続け、日暮れ前にクウェート市内へ侵攻するのだ。これは作戦計画より数日間前倒しだった。手短な伝達が終わり、私が自身のハンビィー車輛へ乗り込むべく踵を返そうとした瞬間、フルフォード大佐が私を呼び止めた。

「ジム、今日の戦いに学ぶ事は在ったかね?」彼は穏やかにこう尋ねた。

採石場で敵奇襲を受けた際、私が配下海兵隊員達により窮地を救われた事実を、彼も私も承知していた。「はい、大佐殿」と私が答えると、彼は「よろしい」と一言云ってその場を去った。くどくどしい講釈は一切なかった。

私が大隊へ戻り、指令伝達の為、戦闘士官達に集合を掛けると、その中に、ウッディーの姿が在った。彼は、全身砂埃に塗れ、よれよれの体だったが、五体満足で顔には満面の笑みを湛えていた。

「君はてっきり死んだと思ったよ」と私が云うと、「自分も、もうダメかと思いました」とにっこり笑い、「至近弾が炸裂し、たんまり土獏を浴びて、この有様(ありさま)です」と彼は、はにかむように云った。

 あの爆発直後、私はウッディーと彼の部下達の事は自身の頭の中から即座に消し去り、大隊指揮に集中した。それに付け、人間の記憶回路は実に奥深いものだと思う。四半世紀前、彼が私に微笑み掛けた時に感じたあの安堵の思いは、あれから25年経過した今、ウッディーに就いて筆を執るこの瞬間も、聊かも衰えず鮮明に蘇って来るのだ。

 本国に帰還し数か月経過する内、私の部下達が正当な個人評価を受けていない事に、私の心は次第に落ち着かなくなって行った。軍人は前線で危険を冒して任務に当たる以上、その武勇が認知される事が非常に重要である。ある先輩士官から、上層部決定に異を唱えるのは、将来栄達の道を自ら閉ざす振る舞いだと忠告も貰ったが、自分の部下達の為に正当な評価を勝ち得るべきだと私は判断し、海兵機動展開部隊司令官のロバート・ジョンストン中将に宛て、自身の抱く懸念を添え、直接抗議状を提出した。その直後、私は将官の持つ権限は、やはり偉大なりとの教訓を得た。即ち、ジョンストン中将は私に直接電話を掛け、表彰諸判定を修正する旨を私に約して呉れたのだった。それから一週間も経たぬ内に、私は嬉しい報に接した。つまり、適切な表彰が当初申請の通り認められたのだ。斯様な、ジョンストン中将の責任感溢れる対処行動は、将来、私が表彰認定する立場に置かれ、今回に類似する事例を目にした際に、間違いなく手本にしたいと心に誓った。手強い敵に実戦で当たる兵士達に敬意を払うならば、彼等前線部隊員に対し表彰行為の遅滞や出し惜しみは許されぬ。(*)

(*訳者注:原書は此処で、巻末に添付した中将宛マチスの当件抗議状写しを参照されたいと記載ある。同出状は当時戦況と部隊所属隊員の戦功を5ページに亘り詳述する。但し、本訳文では巻末付録は割愛)

 殊(こと)、軍事に関し、能力巧拙査定の最終判断は、飽くまで戦闘そのものに依るよるべきと云うのが私の信条だ。先の戦争は勝利した。死傷者は如何なる参謀が企画した作戦より少なかった。特に大なる賞賛が与えられるべきは、空対地の標的捕捉と破壊の能力に飛躍的向上が見られた点だろう。より一般的に云えば、米国軍はベトナム戦争以来の20年間、「進出力と機動力」に於ける優位性を最大化する「機械化戦闘主義」を発達させ、その成果が証明されたのだ。

そして、地政学的観点では、ジョージ・H.W.ブッシュ大統領が三拍子揃った優れた指導力を発揮した。先ず外交に於いては、彼は西欧とアラブ諸国を結集させ連立を組んだ。更に軍事面に於いては、将軍達に必要な兵力と明確な作戦目標を授けた。最後に政治面では、クウェート解放の目的達成後、戦線拡大を回避しのだった。  

 「決して容認出来ぬ」と彼は云った。果敢な決断と共に、米国はその言葉通り、サダム・フセインをクウェートから追い出した。

 私が軍人の立場から評価すれば、ジョージ・W.H.ブッシュ大統領は、我が国の意に沿う条件で戦争を終わらせる術(すべ)を知る人だった。「米国は行動を起こすべきだ」と彼が云えば、それを実行に移した。敵の強制撤退、或いは速やかな戦争終結の為には、圧倒的な兵力を投入することを躊躇なく承認した。つまり、派遣する部隊規模に上限や、停戦や撤退に予め期限を課す如きの、愚かで子供じみた意思決定を行うことはなかった。

 彼は、議会承認及び国連での合意等、組織的な公的支援を取り付けた。彼は、終着点を明確に設定した上で、外交力を活用し、多国籍軍を結成し、これ迄我々が共に戦った実績がない国々も含め同盟に組み入れたのだった。彼は、又、見解を異にする諸指摘にも耳を傾けて様々な準備を指導し、利害関係者を攻撃したり排除することなく、その一方、彼の目指す戦略的目標点が揺らぐことはなかった。

  彼の聡明な指導力の下、如何なる作戦も滞ることはなかった。戦略に於いて斯くも賢明さを保つことは、我々軍人が今後相当な鍛錬を積んだとて中々困難であろうと思われた程だった。

(第三章 了)

文責:日向陸生

*当翻訳に生成AIは一切不使用です。

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