第三章 戦闘
私は1990年頃迄には、頭の頂上(てっぺん)から爪先まで、筋金入りの海兵隊員になっていた。軍隊では、地雷原の匍匐前進と云った、私が苦手な訓練も伴うが、そんな環境すらも、私の隣で仲間の兵士達も皆、唇を必死に噛み締める中で共に匍匐する中に生じる、彼らとの強烈な連帯感を大いに楽しんで居たのだった。斯かる心境に至る迄に18年間を要したのだと私は悟った。この間、世界中で任務に当たる内、階級は中佐に昇進、そして、1990年初、私は第七海兵連隊所属第一大隊(通称 1/7)の指揮官となった。
その任を受け、私は身が引き締まる思いだった。軍隊では、所属連隊の伝統が重んじられ、実に名誉ある伝来を継承するのがこの第七連隊だ。第二次世界大戦下、長く困難なガダルカナル戦で第七海兵連隊を指揮したのは、名高いチェスティー・プラー。又、朝鮮戦争では、同連隊を率いたレイ・デイヴィスは、凍結した長津湖での戦いで、中国共産党軍の奇襲攻撃で包囲された第一海兵師団を、虎口から脱出させた功績により名誉勲章を授与されている。
一方、今回、同連隊所属の大隊指揮官を拝命し、私の気力が漲ったのは、自分自身それに堪え得るとの自負が在った為だ。私は、海兵隊員として十分な鍛錬を積んだ。即ち、クワンティコ海兵隊訓練場と幾多の艦隊勤務との往復を経、海兵隊士官が身に付けるべき基本と云える、攻撃と守り、及び上陸作戦の要諦とを習得した。更に、ベトナム帰りの歴戦の兵士達は私の能力を研ぎ澄まし、又、配下の部下達に対し信頼を構築する術を教えて呉れた。又、この前年、私が仕えていた上官、カールトン・フルフォード大佐は戦闘指揮官として類稀な才能を備え、私は常に彼を目標と仰ぎ見て来た。
カリフォルニア州所在の、海兵隊最大基地トゥエンティナイン・パームスにて、その日、疾風吹く閲兵場で、同連隊第一大隊指揮官の任命を受けた際、私は自身の培った経験を、今回、新しく指揮する組織へ伝授しようと強い意欲に燃えていた。
抑々(そもそも)、大隊(バタリアン:battalion)と云う言葉の起源は、16世紀頃、戦闘を意味した伊太利亜語(battaglia)に由来する。大隊は、指揮官が部隊員達に面と向かい、直接的関係を維持可能な、ギリギリ限界の規模だ。それは、自らの一隊を以って一定期間戦闘を継続可能な規模であると同時に、又、指揮官と各部隊とに緊密な関係も維持され得るのだ。900名を定員とする大隊では、軍曹達と士官達が互いに熟知の仲になる。大隊は、180人からなる5つの中隊で構成され、各中隊指揮官は彼の配下の部隊員全員を良く掌握する。つまり、一大隊は小規模にして且つ緊密に一致協力する体制下に在るので、それは恰もアメリカンフットボールやサッカーチームと同様、組織として在る種の明確な個性が形成されて行く。之は指揮気風と呼ばれ、大隊指揮官、上級曹長、中隊指揮官達、更に隊内の一等軍曹達がそれぞれ醸し出す特性が反映されるものだ。これらが、一緒に合わさり、大隊内の指導者達は、皆、配下各員の人柄、更に長所と弱点をも熟知するのだった。
私の指揮する第一大隊は、通常定員の860名を割り込み、500名に満たない規模だった。これは想定外の事態だったが、私は、之を一つの好機と捉えた。私は、嘗て少尉の時、定員半数の小隊を指揮した体験も既に積んでいた。今回、大隊上級曹長は我々指揮官達に対し、現有の若手海兵隊達を訓練する事に集中し、現に手元に存在しない兵力に心を砕く事は無用だと訓令した。即ち、我々が眼前の精鋭幹部の鍛錬に専念すれば、その彼らが、将来兵員補充された暁には、その指導に当たれる訳だった。斯くして、当時、通常兵力に満たない大隊指揮官の立場に在った私は、カリフォルニア州の人里離れた、トゥエンティナイン・パームス海兵隊空地戦闘センターを拠点とし、其処で少数幹部を鍛え上げる段取りに着手した。
(続く)
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