第二章 姿勢と態度を重視し人材採用、鍛錬で技量を磨く海兵隊徴募方針
優秀な軍団を作るには、兵士選抜が重要だ。他の組織同様、海兵隊も求める人材補充の必要が在った。私はこの徴募任務に2度従事し、その最初の任に当たったのは1970年代中盤の事だった。
当時はベトナム戦争直後で、徴兵制も廃止され、若者達に数年間を海兵隊へ捧げるよう説得するのはなかなかの難事だった。人材確保が困難な局面下、海兵隊は、落伍者や刑務所服役を免除された犯罪者達を実に大勢入隊させた。一定期間の海兵隊軍役を経て、彼らが鍛え直され更生するだろう、と考えた裁判官達による計らいだった。然し、私が2度目の徴募任務に当たる時迄には、矢張り、素となる原材が優良でない限り、優秀な海兵隊員は生まれないとの結論に我が軍は達した。そして、従来手法を改め、最も有能な下士官達を徴募担当官として任命、配置し始めた。こうして、歩兵、砲兵、航空技術者、戦車兵等、様々な分野から一流処の人材が結集した。つまり、飛び切り優秀な彼らを、彼らが見いだせる限りの最優秀人材の発掘任務に専念させる仕組みを整えたのだった。
徴募採用基準は、その人物の姿勢と態度を最重要視し、必要な技術は後から仕込むのが海兵隊哲学だ。何故なら、態度こそがその人物を司る大本(おおもと)であり、火器に喩えるならば、それは全体を司る兵器体系に相当するからだ。我々は、候補者の中に、求めるべき性格特性が在るか、これら手に触れる事は出来ないものを探るのだ。我々が必要とする人材は、冒険を求め、精鋭兵達と行動を共にするのを願い、更に肉体を極限迄鍛え上げる意思を備えた者達だ。更に、骨が折れるのは、候補者の若い男女の中から、徴募後に待ち受ける、新兵訓練を突破する資質のある者を見極めなければならない点だった。その訓練所では、指導官が候補者達をまるで魔法のように一端の海兵隊員に鍛え上げて呉れるのだ。
部下の徴募担当官達は、私が気付くと、皆、家族は遠くへ移動させ、自分丈が町に残り、単独、或いは7~8人の小チームで、全国に散らばる各拠点で任務に励んでいた。彼らの日常業務は多忙を極めた。毎日、必ず誰かしらの母親からの電話に対応し、海兵隊は彼女の子息や息女を受け入れるに相応しい組織であると説得に努め、或いは、徴募候補の学生男子や女子からの海兵隊に関する相談に応える為に、気の遠くなるような順番待ちを抱えたカウンセラーを電話で捕まえて、彼女彼らとの面談約束を手配する、等々だ。彼らは残務を毎晩家へ持ち帰り、帰宅後も、心配する大勢の両親達からの電話対応に当たった。長時間、多くの応対をこなす中に、屡々(しばしば)ストレスを感じる遣り取りも在ったが、海兵隊に対し相手が敵意を抱く態度は皆無だった。そして、この間、私自身も彼らと共に、いつしか説得術なるものを身に付けた。即ち、自分と全くタイプを異にする相手に対しても、共通の場を創出し円滑な会話を進め、或いは、鬼教官による指導で名高い海兵隊新兵訓練に怖気(おじけ)を為す若者をも、勇気を与え元気付ける事が出来るようになったのだった。
1980年代中盤、徴募拠点を指揮せよと二度目の命を私が受けた際、その所轄はオレゴン州、アイダホ州、及び一部のワシントン州に加え、更にハワイとグアムを含む広範地域に及んだ。然し、私が率いる同組織は、西海岸を管轄する8つの諸拠点中、略最下位の成績に沈んでいた。着任直後、直属上官との簡単な打ち合わせで、この事態改善が私の使命である旨が明白に伝えられた。彼は「立て直すのだ」と云い、私はこの難題への取り組みを歓迎した。私には寧ろ勝算が在った。子供の頃から西海岸をヒッチハイクで旅した経験から、求むべき人材が同地域内に豊富に居る事は判っていた。即ち、其処には、若く、意気盛んにして、自信に溢れ、往々に反骨精神に満ちた者達が多く、彼等は海兵隊精神に共感を覚える筈だと。
打ち合わせを終え、上官室を出た処で、丁度、担当参謀官に出くわした私は、透かさず彼を捕まえ行動着手した。
「中尉、早速だが、私に徴募官達の所在拠点の住所を全て教えて呉れ給え」。
今回、私は、皆、期待以上の成績を収めて来た人材からなる小隊を指揮する立場に在った。彼らは軍歴6年から28年の下士官達だ。然し、先の任務で優秀な実績を残した後、今や彼らは、文字通り、本隊を離れ独力で孤軍奮闘して居たのだった。私は、赴任後2週間を掛け、車と飛行機で2000マイル以上を移動し、様々な町々に点在する38人の下士官達全員と個人面談を実施した。私が其処で伝達したメッセージは極めて簡潔で、全ての徴募官に等しく次のよう云った。「君と私は明確な目標を共有する。新兵訓練に合格する新人を一ケ月当たり4人見つけ採用するのだ。何か困った時には、私に連絡呉れ給え。我々チームの成功は、各人が持ち分の役割を果たす事に尽きる」と。
組織単位の目標は個々人がそれぞれ担ってこそ、組織は調和が取れ効率的になる。之は、私が艦隊勤務を通じ学んだ事だ。指揮官が、組織目標を自分自身の目標と捉えると、その瞬間、もう成功を期し得ない。それは“自分”丈でなく、組織員全員が係わる“我々”の目標なのだ。38名の徴募官は、謂わば皆、私の副官たる位置付けだ。組織指導力は何かと問われ「指揮し統治する事」との解を軍隊や他分野で良く耳にするが、之は正確ではない。寧ろ、私が海兵隊で習った概念は「指揮したら、その後に必ずフィードバックを取れ」である。即ち、指導者が配下の副官達の一挙手一投足を統制するのは不可能なのだ。従い、指導者が出来るのは、自身の意図を明確に説明し、後は部下達が自主性を大いに発揮するよう委ねる事だ。そして、不可避の障害や問題が起きれば、フィードバックの仕組みが機能し、適切な情報が提供され、それを聞き届けた指揮官は、問題処理に向け行動を取る。斯くしてフィードバックに基き、障害は解決されて行く。嘗て、独立軍を率いたジョージ・ワシントンが遵守した物事の優先順位は、「先ず聞き届けよ、そして学び、そして手を貸し、最後に主導せよ」であった。このジョージ・ワシントン式手法が、私の場合にも上手く機能した。
詰まる処、重要なのは、明確な目標設定とその達成に向け効果的なコーチングを行う事だ。ポートランド本部に陣取った私は、二人の若く優秀な将校に恵まれた。その作戦士官は24歳だったが、行動派で鋭敏な彼が、殆ど私の日常業務を代行した。少数スタッフによるスリムな本部体制下に彼らが私の意図する運営を実施し、私の描く構想に沿って我がチームの組織化が為された後、私自身は、毎月、その大半を徴募官達と直接会って指導する事に充てた。ポカッテロ、アイダホから更にホノルルの地に至るまで隈なく繁く巡回する結果、やがてどのホテルの受付職員達とも顔見知りになり、皆、私をファストネームで呼ぶ迄になったのだった。
徴募活動に際し、海兵隊本部では厳格な一連の判定基準が設けられ、大概の場合はそれが役立った。一方、少数事例として、嘗ての私のように法令や諸規則違反を犯した者を例外的に免責とする道も開かれていた。私がポートランド本部に着任まだ間もない頃の出来事だ。私の本部スタッフは、現場から挙がって来たある推薦候補者を、一度のコカイン使用履歴を理由に却下判定した。一方、現場の担当徴募官は、その有罪判決は一度限りの彼の過ちである、と確信した上で推挙したのだった。
嘗て過ちを犯した19歳の私に対し、判事は刑務所送りを命じて教訓を与えはしたが、決して、私の将来を葬ろうと意図した所作ではなかった。一度犯した誤りを糧とするのと、過ちを繰り返して一生を悪弊に染めるのとでは大きな違いが在るのだ。私のスタッフがその推薦を却下したと知ると、即座に彼を呼びつけ私は、こう切り出した。
「いいかね、地域の徴募担当官は、この若者を見込んだのだ。その男の性格を十分吟味した上での判断だ。現場に何か見落としが在る時の助言提供ならいざ知らず、本部が特例申請を許可するよう推奨する事こそが君の仕事なのだ」と。現場の徴募担当官は、この候補者に新兵訓練を突破する素養を見出していた。そして、同人が特例採用された後、彼は期待通り見事に新兵訓練を経て一端の海兵隊員になる事が出来たのだった。
一方、徴募官達は、一日8時間労働を毎週続ける見返りに、新兵訓練を終業出来る候補者を採用した暁には、その実績が彼らのキャリア増進に必ず寄与する点を、彼等自身が確信出来る環境に在る事が重要だ。1年に2回、徴募官達の人事考課が実施され、彼ら彼女らの任務成果と将来の昇進を評価される仕組みだった。当時の1985年は、コンピューターやワードプロセッサーは普及せず、未だ全て手書きによる時代である。年間76通の人事考課報告書を作成するに当たっては、お決まりの常套句で記入欄を埋めたくなる誘惑にも駆られる。「卓越した指導力を発揮した」、「常に業務に奮励した」、「貢献目覚ましかった」等々の文言である。然し、特別選別された私の優秀な部下達が素晴らしい仕事をこなしている以上、それに相応しく、一般集団からは飛びぬけて優良な評価を彼らの考課評に反映させたいと私は強く思った。
斯くして、評価報告書作成に際しては、その考課評に対象者の個人的性格と達成実績とが存分に反映されるよう、一語一句をも決して疎かにせぬ事を私は貫いた。それは、何杯もコーヒーを飲んで頭を冴え渡らせて、同義語辞典を片手に推敲の上にも推敲を重ねて文章を綴る、実に根気を要する作業だったが、私の本部スタッフ達の支えのお陰でやり切る事が出来た。と云うのも、抑々(そもそも)、本部に座し最終評価を加える上司は、私の部下の徴募担当軍曹とは、実際に一度の面識もないのだ。それにも拘わらず、海兵隊員が皆、公正な評価を受けられる事を期待する以上、彼らの気持ちを汲めば、私に出来るのは、各員を個人として極力正確に記述するよう最大限努力を払う以外にないのだった。又、100%任務を達成した者が、その成果には必ず昇進を以って報いられる、と云う実績を私が証明する事こそが、最上等の資質を備える新兵候補者達を今後共確保して行く為に、道義上叶う唯一の手法だったのだ。
順風な船出とは必ずしも行かなかった。チーム発足間もない頃の事だ。
「少佐殿、私にこの仕事は向きません、」「此処でこれ以上働くのは無理です」と一人の徴募官が、ある日、私の執務室に入って来るなり訴え出た。
然も、彼の私に対する直訴は、二度、三度と続いた。部下の一人だった年季入りの一等軍曹は、 「少佐殿が彼を一体どう扱うか、この本社全員、固唾をのんで見ていますよ」と私に囁いた。
そして、彼が次に私を訪ねて来た時、私は云った。「君に二つの道が在る。一つは、口をつぐむか、もう一つは、一端(いっぱし)の海兵隊員に生まれ変わる事だ。然し、私の見る処、残念乍ら、君はそのいずれも無理なようだ」。結局、私は彼に痛烈な一発を見舞って、彼の海兵隊の経歴に終止符を打った。
私が処断した理由は、生半可な約束請け合いは全てを台無しにするからだ。つまり、「何を措いても任務遂行を第一に優先する精神」が損なわれるのだ。私が入隊した初日から叩き込まれたのは「海兵隊の目標は、100%達成して初めて満足とされ、99%の達成率は全く称賛されない」事だ。
もし、組織内で、誰かが指揮官の課す任務を達成出来ない事態が発生した際、もし上述精神に悖る対応を取れば、選りすぐられ卓越した組織集団の結束を維持する事は出来ない。私がこの時学んだのは、部下達全員を等しい条件下に置いた上で任務に当たらせる事が肝要と云う点だ。つまり、私は全ての徴募官達に「もし、当月目標の達成が厳しい場合には私に連絡を呉れ給え。直ぐ応援の者を寄越すよう手配しよう」と伝えた。すると、我が組織の成績は向上し始め、39ケ月後には、西岸地区で最優秀拠点に格付けされたのだった。
この結果、私の部下の大半の者達が、本人にとって有利な昇進や表彰を手にした。然も、海兵隊徴募官の研修を通じて、彼らは説得術をも身に付ける事が出来た。即ち、ベトナム戦争に反対する心情から軍隊嫌いへと高じていた高校教師達と対面しても、卒なく共通の話題を見出して対話を成立させる能力だ。又、私自身、この間に受けた教育を通じ、説得力に裏付けされた指導力を発揮する諸技能を身に付け、その後の任務遂行に大きく役立ったのは間違いない。
それ以降、私の軍歴に於いて、職務諸権限は、組織内の出来得る限りの最下層迄、積極的に委任するよう心掛けた。無論、諸任務が末端まで明確に理解されるよう念を入れた。そして、全員に等しい水準の諸倫理と誠実さの厳守を求めた。その上で、私は次第に、1ケ月の内に一回か二回しか顔を合わせない者達へ権限を委譲して行く事の心地よさを覚えた。意思決定が非集中化され各現場へ移された。その結果、38名の若手及び熟年軍曹達は、本部から何千マイルも離れて各々分散し、互いに顔も合わせないにも拘わらず、一つの組織として機能したのだった。この経験を以って、私は、同手法を以って如何なる組織に於いても、部下達の自主性を最大限引き出す事が出来ると知った。
又、徴募任務に従事する中で、定量目標の達成過程に於いては全てを数値化する事は出来ない、と云う現実的な矛盾の存在にも、私は気付く事が出来た。即ち、成功に就いて云えば、その尺度は定量的に計測可能だ。つまり誤魔化しが効かない。いくら語り口が歯切れよく、頭髪を見栄え良く短く刈り込んだ処で、それ丈で指導者は務まらぬ。私と38人の軍曹達には、組織集団として達成すべき月間目標が、厳然として存在するのだ。然も、候補者達を只連れて来れば、それで話は御仕舞でない。徴募官達は、飽くまで採用候補者の発揮した成果に基づいて評価を受ける。採用した候補者が海兵隊新兵訓練を最優秀成績で行程終了すれば、担当徴募官も卒業式に同席し公けの場で共に賞賛に浴する。然し、彼が採用した者が落伍した場合には、徴募官の人事考課にその旨が記載される。之と云うのも、明確な目標に対し達成度評価を重視するのが海兵隊方式で、私自身が定量目標数値の実現に厳格な責任を負う立場だからだ。
然し、その反面、これら定量目標を達成するには、数値評価丈では量り得ない、定性的技能発揮に依存する面も又大きいのだ。つまり、現場で奮闘する部下達に対し、私はコーチの役割を持つ。従い、彼らの抱える問題や、それぞれの持つ強みと弱み、そして、どうすれば改善可能か等を理解してやる事が必要だ。処が、これらは、何れも数字では測れない作業なのだ。斯くして私は、武官出身のアイゼンハワー大統領の遺した次の言葉の意味を、この時にして漸く悟ったのだった。
曰く「リーダーシップとは、説得し、相談に乗ってやり、教育し、そして何より我慢だ。それはとても、長く、緩慢で、骨の折れる作業だが、私はそれ以外のリーダーシップを知らぬ」と。
(第二章 了)
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