【トランプ再選阻止の祈りを込めて『マチス自叙伝』邦訳連載 第二回】

第一章  ある屈託のない若者は、規律厳しい海兵隊へ入隊する

 血気盛んな20代の頃は、私自身も自分は不死身と思い上がっていた。処が、間もなく、1971年の冬、私はワシントン東部の谷の急斜面を死に向かって滑落した。私が高台から、遥か谷底に小さな豆粒のように動く、ダム現場作業者達を見下ろしていた、その時、突然足が滑り、私は固く凍った傾斜をコロンビア川に向かい急落した。咄嗟に私は、背中を斜面に投げ出し、真っ逆さまに滑降するのを回避し、仰向けで急斜面を滑り落ちて行った。必死に靴の踵を立て減速しようと試みたが、全く歯が立たず岩場を滑降し続けた。滑落はみるみる加速し、やがて背に背負ったリュックが引き裂かれた。私は、腰のベルトに差したサバイバルナイフへ手を伸ばした。ある海兵隊退役軍人から貰った、所謂ケーバーナイフ(Ka-Bar社製造)だ。何とかそれを腰から引き抜くと、氷の斜面へ力いっぱい突き立てたが、ナイフは跳ね返され、私の手から弾き飛んだ。滑落速度は一層増して行く。次に、私は身をよじって腹這いとなり、死に物狂いで斜面に爪をたてて引っ搔いた。それでも滑落速度は一向弱まらない。

 次の瞬間、私の体は、大きな岩に衝突して高く弾み、別の岩に叩きつけられ、其処で滑落は止まった。私が意識を取り戻した時、鼻から夥しく出血していたものの、耳からの出血はなく、吐いた形跡もない点から、頭蓋骨は砕けていないと知れた。私は横たわったまま、我が身の各箇所の点検を続けた。呼吸するとあばら骨が酷く痛んだが、手と足は延ばす事が出来た。ナイフによる自傷も負わずに済んだ。

 それは運が良かったとしか云いようがない。決して自身がアルペン技術に秀でていた訳ではない。私は、数時間を掛け、岩だらけの渓谷をゆっくり這うように滑りながら斜面を下り切った。一人の作業員が、よろよろ歩く私を発見し、プリースト・ラピッズ・ダム現場まで車に乗せてくれた。その上、彼は、其処から40マイル離れた私の家まで送ろうと迄申し出で呉れたのだった。

 私は丁重に謝意を伝え「それでも、先ずは此処で暫く休ませてもらいたい」と云った。彼は頷きそれ以上何も云わなかった。彼も、日々野外で活動する作業者だ。彼は私の中に同類の資質を見たのだ。私が、家に帰る前に静養を望むなら、それは最早彼が口を挟む話ではなかった。

 結局、私は傷を癒やす間、丸二日キャンプし其処で過ごした。立ち上がる事も出来ず、仰向けに寝そべり、何もする事もない私は、日中には、一面の山ヨモギに降りた樹氷を日がな一日愛でた。夜は、寝ると云うよりまどろむのが精一杯だ。と云うのは満身痣(あざ)だらけの上、恐らく、あばら骨が何本か折れていたので、寝返りを打つ度に激痛が走り目は冴えわたるのだった。

 私は之に先立つ夏、海兵隊士官候補生学校の激烈な訓練を修了した。其処である鬼軍曹が語った言葉が私の記憶に残っていた。彼の部隊は、その前年、ベトナム戦争中、ある丘を攻略する任務を与えられた。北ベトナム軍は射撃術に定評があり、全ての友軍兵士が不安に襲われていた。そんな時、部隊の指揮官が如何に皆を落ち着かせたか、軍曹は我々候補生に語って聞かせた。

「何処でくたばるかを選ぶ自由はないが、死地に臨み、勇敢に死ぬか臆病に死ぬかを選ぶのは俺達だ」と。

 渓谷の氷上を滑落した体験は、抑々(そもそも)自分が目指すべき人生は何かと云う原点に私を立ち返らせた。即ち、之から訪れる自らの人生に正面から取り組み、長寿を願うよりは精一杯生きる事を重視する人々と共に過ごすのだ。金儲けには固より興味がなかった。冒険心に富んだ仲間達と野外で躍動したいのだ。そして、海兵隊のその精神及び人生に対する向き合い方が、私には正しく思われた。そして、あの滑落は、その後の私の海兵隊での経歴をも暗示するかのようだった。つまり、過ちを犯し、人生に打ちのめされ、それでも立ち上り、再び挑戦する。人は人生に向き合わねばならない。めそめそ愚痴を云っても始まらないのだ。

 私はワシントン州、リッチランドで育った。1940年代当時は、僅か数百世帯が埃っぽい農場を営む、コロンビア川沿いの集落地域に過ぎなかった。然し、第二次世界大戦中、米国陸軍工兵隊によって核時代の出現が齎(もたら)されると、コロンビア川水力発電所を利用し、ハンフォード原子炉を製造する話へと展開した。それは、原子爆弾製造を競う、マンハッタン計画の一部だった。その過程で、リッチランドの町は、中間所得層世帯一色となり、富裕者や貧困者達で形成する例外地域が存在しなかった。町の人口1万7千人は、技術者、技師、建設作業者、及び商人で構成され、彼らは大恐慌の余波と第二次世界大戦とを生き抜く中で、勤勉にして公徳心に厚く、家族を重視し、そして皆、愛国心に満ちていた。威を借り、力を振りかざす者は誰もいなかった。ジャッキー・ロビンソン(*訳者注:黒人初のメジャーリーガー)の墓碑銘を、数年後に私は目にした事が在った。曰く、「人生とは、他の人々の人生に影響を与えてこそ意味を持つのだ」と。正にこの感情こそが、私を育てた世代の人々の信条を云い現わしていた。

 父は船乗りで、米国商船隊の主任技術者として、1930年代と40年代に数十か国への物資輸送に携わった。母は、カナダ移民の一家の娘で、高校では卒業総代を勤め、第二次世界大戦中は、米国陸軍諜報局に軍属として勤務し、首都ワシントンとプリトリア(現南アフリカ首都)でその任務に当たった。彼女と私の父と出会いは、彼女がアフリカへ赴く途上、父の船に乗り合わせたのだった。彼らは3人の息子達に、諸理念によって切磋琢磨される自由な思想と、世界は恐れずに探求すべきものである点を体験的に指し示したのだった。人生に対し両親が抱いたこの好奇心が、今日迄私を導いたと云えるだろう。

 成長するに従い、私は自分の持てる自由を益々愛するようになった。家族で山間(やまあい)を巡るキャンプ旅行から、愛犬ニッキーや友人達を伴って、愛用22口径銃で兎狩りをする等、大自然を徘徊する事に関し、我が家は寛大で制限がなかった。未だ10代の私が、ヒッチハイクで西部中を縦横に廻れるよう、町外れに在る高速道路迄、私の両親は車で送ってくれたものだったが、そんな親は当時でも稀だったに違いない。

 学校の教室で机に座っているのは苦手だった。私は家で自分の本を、授業より遥かに速く読み進むのを好んだ。テレビがない替わり、自宅の所蔵図書は非常に充実し、私はそれらを貪るように読んだ。『宝島』(ロバート・スティーヴンソン)、『モヒカン族の最後』(ジェイムズ・クーパー)、『勇敢な船長』(ラディヤード・キップリング)、『野生の呼び声』(ジャック・ロンドン)、『スイスの家族ロビンソン』(ヨハン・ウィース)等々に没頭し、そしてヘミングウェイが一番お気に入りの作家だったが、間もなくフォークナーとフィッツジェラルドに傾倒した。又、ルイスとクラークの探検記を読み、彼らがコロンビア川をカヌーで下り、この近所を通過したのを知り、心躍らせた。

 1964年の頃、私はヒッチハイクの旅を始めた。まだ13歳だった。自分が住む外の世界はどうなっているのか、飽くなき探究心を押さえ切れなかった。そして、カスケードの片田舎を抜け出し遠く新しい世界の探検へと誘ってくれるのが高速道路だったのだ。この一風奇抜な私の行動を、両親は左程気に掛ける様子も無かった。当時、まだ良き時代で、米国人は見知らぬ者同志でも固い信頼を互いに抱いて疑う事はなかった。

 遠くへ広くさすらう者達の常で、私もあれやこれや多くのトラブルに遭遇した。ある時、モンタナ州で地元の3人の若者を相手に喧嘩になった。私が、彼らに遣り込められ、絶体絶命のピンチになったその時、所轄の保安官がピックアップトラックに乗って現れた。背が高く、白いカウボーイ・ハットに銀星バッチを胸に付けた彼の出で立ちは、恰も今、正に、映画から抜け出て来たようだった。彼は、結局、私を一晩独房に泊まらせ、翌早朝、列車操車場まで車で送って呉れ、私は其処から東部行きの貨車に飛び乗った。別れ際に彼はこう云った。

「おい、若いの、一つ云って置こう。三対一の喧嘩に先ず勝ち目はない。この次はもう少し考える事だ。」

 1968年、セントラル・ワシントン州立大学の学生だった私は、特に成績優秀でもなく、毎晩パーティーと酒に勤(いそ)しんだ。そんな時、ある夜、私は度を過ごし痛飲して大騒ぎした挙句、「未成年飲酒」の咎(とが)により、追って地方裁判所から私に対し週末刑務所の判決が下った。斯くして、私は週末毎に服役する身となったのだった。(*訳者注:懲役90日以内の軽犯罪の場合、平日を除外し週末のみ収監され刑期全うする制度で、被告の就業・学業状況を判事が考慮し命ずる。)

 同房の一人、ピーター・ワーグナー(同性の有名な歌手とは別人)は、メリーランド州で保釈中に姿を消した罪により刑務所に舞い戻った人物だ。ある土曜の晩、外の景色が見たくなった私が、鉄格子の窓枠にぶら下がり、体を持ち上げて窓の外を覗こうとするのを彼は見ていた。

「ジミー、其処から何が見える?」、彼は自分の監獄ベッドで仰向けになったまま聞いた。

「ぬかるんだ駐車場だよ」と私が答えると、彼はこう云った。

「そうかい、俺は此処から夜空の星を眺めている。つまりは、お前さんの選択次第なのさ。星を眺めるか、どろんこを見ているかはな。」

 彼の身は刑務所に在ったが、精神はその外に在った。この自由奔放な哲学者は、どんな状況に身を置かれていても、自分を犠牲者と考えるのは誤りだと私に教えて呉れた。即ち、その状況に如何に対応するかは、自身の選択次第なのだ、と。環境自体を支配するのは困難でも、どのように対応するかは自分で決断できる。こう悟った私は、翌日、自主的に刑務所内清掃、ポリスカーの洗車、そして囚人達の食事を近所の飲食店へ取りに行く諸雑務を買って出た。このボランティア活動を一日勤めれば、刑期が一日半短くなる仕組みだった。こうして、極力早く出所出来るよう、自分自身の環境を変える為の行動を取ったのだ。

 私は、ヴァージニア州クワンティコの海兵隊士官候補生訓練で幾夏かを過ごした。私はその訓練環境へ挑戦するのが好きだった。ベトナムの戦場から帰還したばかりの伍長や軍曹達が我々を鍛え上げ、そして評価する。つまり、彼らが、我々嘱望される訓練生達が士官として有望か、或いは、その見込みがなく家へ送り返すか、その決定を下すのだ。これら鬼軍曹達は、我々が最大限努力した処で満足しない。彼らは、常に更なる努力を要求した。急斜面の小道を彼らに遅れず着いて行き、障害物コースを規定時間内で走破し、更にライフル銃射的にも合格するか、或いはそれが出来ない場合は、落伍者として訓練場を去る事になる。彼らは、ご丁寧にも、我々の帰りの飛行機便チケットを目の前にぶら下げ、安易な道を選択し訓練を諦めさせようと気を誘うのだった。と云うのも、その瞬間にもベトナムでは海兵隊員が死んで行く切迫した状況下、我々は訓練途上で未だ使い物にはならない。努力する丈では意味がなく、成果を出す事が求められた。酷暑下に二夏の訓練期間を経て、当初の候補生達の内、残った者は半分以下だった。

 1972年初、大学で3年と少々過ごした時、私は海兵隊2等少尉に任官した。私が最初に送られた先は、クアンティコ所在の基礎訓練校での7ケ月に及ぶ研修だ。陸・海・空軍に比し海兵隊が異なる点は、初期教育に於いて、全将校が先ずは共通の訓練を受ける事だ。然る後に、彼らは、パイロットや兵站専門家、或いはその他望むものを目指し、それぞれ目的に応じた学校へ行くのだ。然し、最初は全士官が軍隊生活を共にし、同じ一揃いの基礎技量を身に付け、一つの文化に育まれ、それを共有する。海兵隊員たる者は先ず何を措(お)いても、ライフル銃射撃の名手でなければならず、一定の射撃技術を満たす事が必須だ。少尉達は、軍隊に属する限り揮い続ける能力を習うのであり、それは、階級や職域に関係なく、「敵を攻撃する」と云う兵士本来の目的だ。この初期訓練と共通社会意識とが強い影響力を発揮し、あらゆる局面に於いて、海兵隊の戦闘魂を浸透させる事が出来るのだった。

 その年の後半、私は沖縄へ派遣され、其処で初めて歩兵隊に加わった。それは私にとって幸運だった。と云うのも、私が所属したのは、第二大隊の第四海兵連隊で、其処(そこ)では、主だった指導者達の大半が実戦経験者で、数年間をベトナムの水田、山々、そしてジャングルジで戦った猛者達だった。彼らはこれらの知識を何でも知っていた。実際に戦火を潜り抜けて来た彼らには、よそよそしさが一切なく、頑強にして気さくで、戦闘に関する知識をいつでも快く伝授して呉れた。彼らの支持を得ようとする努力は無用だった。寧ろ、私の方は、彼らの支持を失う事を心配する側なのだ。

 同時に、我々若手士官の全員は、個々人が築き上げる軍人としての評価を試される側に居た。軍籍の長短に拘わらず、それが4年間だろうが40年間だろうが、軍人としての評価は常に付いて回る。即ち、「適格な体力を備えしや? 健全な戦術を用いしや? 射撃砲の差配に恙なしや? 変化に迅速に対応せりや? 指揮下の小隊は命令に鋭敏に反応せりや? 部下の指導は常に具体例を示せりや?」と云った項目評価だ。そして、読書量に於いて彼らにいくら勝っても、士官は配下の兵士達と等しく強靭でなければならない。私は、最も強靭な体力の兵士と共に体を鍛え、戦術が最も巧妙な兵士から学ぶよう努めた。


 1970年代初めは米国史上、混乱に満ちた時代だった。暴動、政治的欺瞞に加えベトナム戦争を巡り米国内に不和が生じていた。軍隊もこうした社会情勢不安の影響を受けずにはおられなかった。徴兵制度は廃止され、我々の軍人職は不人気な為、部隊には落伍者や軽犯罪者達の数が増えて行った。人種間の緊張、命令不服従、薬物使用は、軍隊構成員の中で混乱と分断を齎(もたら)した。従って、我々の周囲にもかなりの割合で人種差別主義者や麻薬常用者が紛れ込んだ。そして、こうした者達が、更に他人へも悪弊を感染させて行った。若手士官は、自分の信条を明確に指し示して指導力を発揮しない限り、弊害を及ぼす者達は一層増加する状況だったのだ。一方、ベトナム戦争による戦死者が増加する中、バラック生活を強いられる軍隊環境を忌避し、多くの有能な兵士達が軍を去った結果、私が率いる部隊は、当初僅か26人という有様だった。それでも、我が部隊には頼れる人物が居た。私の隊の小隊軍曹(小隊指揮官を補佐する役職)は、ウェイン・ジョンソン、26歳、階級は伍長で、英領ギニアからの移民の彼は、通称“ジョン・ウェイン”の呼び名で通っていた(*訳者注:姓名をひっくり返し、当時著名な西部劇俳優の名をもじった)。彼は海兵隊に入隊後、3年しか経っていなかったが、全て外地に勤務し、その実力は 10年級の訓練と経験を積んだ二等軍曹にも遜色ない仕事をこなしていた。彼は、恰(あたか)も十代の若者であるが如くの努力を常に求め、一切の戯言(ざれごと)や怠慢を決して許容しなかった。

「少尉殿、貴官はその強固なる事、云うなれば、キツツキの化石化した嘴(くちばし)よりも更に堅くなければなりません」と彼は私に語った。又、彼は常にこう云った。つまり、部隊に誰か一人でも海兵隊基準に届かぬ者が居る場合、或いは、配下の部隊が自分に従う事を望むのならば、自分自身が、部下の最も強靭な者に負けぬ強靭さを備える点を示す必要が在るのだ、と。やがて、その事態が訪れた。ある時、私は部隊を率いてジャングルを行軍した。我々は一週間以上に亘って、密林を前進し続け、全身は汗だくで、異臭に塗(まみ)れ、その上睡眠不足の中、疲労困憊―尤(もっと)も、之は海兵隊歩兵には日常茶飯事なのだが―の状態だった。そんな中、部隊で最大の問題分子だった、ある男が「畜生!頑固野郎のクソ少尉め。ぶっ殺してやりたいぜ」と呟いたのだ。それを見咎めた、ジョンソン伍長が、その男を連れ、私の前へ引き出して来た。固く結束した我が小隊の信頼を、この男が台無しにするのは見過ごせぬと私は決心した。私は、その男に対し、自分の後に付いて今からジャングルを抜け、中隊司令部迄一緒に出頭するよう命じた。そして、自身の背後に神経を尖らせ、私は道中進んだが、遂に目的地に着いた時、彼に向かいこう云い放った。

「貴様、何故、俺を背後から撃たなかったのだ?」と。結局、彼はそんな度胸を持ち合わせなかったのだ。

 私は正式な罪状を以って彼を摘発することも可能だった。然し、その代わりに、私は彼を一等軍曹マータの処へ連れて行った。彼は我が中隊の年配の叩き上げ下士官で、二等少尉の私の方が階級は上だが、それは形式上に過ぎない。中隊一等軍曹は我々若手将校を手助けする役割を持つのだ。軍曹は、私に部隊へ戻るよう促(うなが)した。つまり、本件は彼が後を引き受けたと云う事だ。

 数日後、私と顔を合わせ、マータ軍曹は云った。「少尉殿、ご安心下さい。あのクソ野郎は、もうこの軍団には居ませんよ」。あっという間に、あの男は姿を消した。お払い箱になったのだ。

 一等軍曹のマータは25年以上の軍歴を有し、世界の勤務地に百を下らない友人達を持つ。このような男こそが若手少尉には頼りになるのだった。あの厄介者は何処へ行ったのか? それはもう誰も気に留めない。兎も角、彼はいなくなった。彼は、当時の若手将校達が直面した問題の典型例で、厄介者をこうして即時解雇するのはあの激動の時代に対処するには已むを得なかった。海兵隊はその基準を劣化させる訳には断じて行かぬのだ。所謂、「迅速除隊」と呼ばれたこの措置は、当時でこそ必要な政策だったが、我々の遠い過去の話で、幸いな事に今はもうない。

 マータのような一等軍曹達に加えて、将来指揮官として海兵隊を率いる、若い大隊指揮官のお陰を以って、我々の大隊内のやさぐれ者達は、その数と影響力に於いて急減した。一方、どっちつかずの優柔不断な者達には速やかに通達が下り、そして叩き直し矯正が施された。彼らが立ち直れた理由は、組織に受け入れられず、即時解雇を喰らう最悪の運命は、誰でも避けたいと考えたからだ。人は皆、友を必要とし、目的を求め、そして彼らよりもっと大きな何かに所属するのを望むのだ。自分が無価値な人間として放り出されるのを自ら求める者は居ない。

 海兵隊員は、海軍艦船に乗船し、敵国海岸線に上陸する為に組織された海上兵力だ。我々が乗船に際し持ち込む物と云えば、重量40パウンドの水兵バッグ、一つ、そして戦闘装備で、一度乗り込めば、これ丈で何ケ月も生活する。肉体的にも負担を強いられる生活の中で、我々は自ずと荒っぽくも陽気な気性が培われた。これらの日常を通し、私は180名の仲間達を、恰も故郷の自分の兄弟達と同等に詳しく知るようになる。我々は、上陸訓練のない日は、甲板上を駆け足で無際限に往復を繰り返した。更に、我々は読書にも励み、『宇宙の戦士』(Starship Troopers)から『沖縄戦』(The battle of Okinawa)迄、戦闘に資するものは何でも完読した。然し、香港、ソウル、シンガポール、マレーシア、及びその他多くの港町に上陸した折には、其処でストレスと数週間分の給料を散じ尽くし、束の間の数日を過ごすのを常とし、その無軌道ぶりが、時としては我々の指揮官達にとり頭痛の種になるのだった。一方、太平洋と印度洋に於いて、夥しい数の艦船を投入し実施する上陸作戦が如何に複雑であるかを学べたのは、私の将来に大きく役立つ貴重な収穫だった。

海兵隊に於ける最初の12年間、私は小隊の指揮を二回、更に中隊の指揮を二回執る間、6隻の艦船に乗船し13ケ国で配備に就いた。航海の行先が何処であれ、投錨地の港毎、そして、海外諸国で実施した演習毎に、私は同盟諸国と云う何物にも代えがたい価値の重さを実感したのだった。韓国では、同国海兵隊達が私のアドバイザー役を務めた。彼らは、丘が固く凍結する極寒の環境下で、その強靭さを存分に発揮して呉れた。又、マレーシア駐在のニュージーランド軍は自国マオリ族の戦士魂を発露させ、密林での戦い方を我々に教示して呉れたし、フィリピン軍も又、同国島嶼に於いてジャングル戦を教えて呉れた。豪州軍は意気軒昂にして有能、又、日本の自衛隊は、我々とはスタイルを異にするものの、寡黙にして能力に優れ、極めて効果的な戦闘方式を示して呉れた。これらを含め、他の多くの交流は、他者から学ぶ事により如何に貴重な恩恵が得られるかを私に教えて呉れた。

 ベトナムを転戦した勇士達は、生半可な事では、突如遭遇し得る敵との銃撃戦に勝つ見込みはないと私に教えて呉れた。つまり、ベトナムのジャングルに於ける、敵戦術は、海兵隊の前線へ気付かれずに忍び寄って極力接近し、我が軍による間接射撃を封じる策なのだ。之に対抗し、海兵隊は、相手からの射撃攻撃を察知し事前に悟る技術を身に付けるのだ―その為には、攻撃を被り易い決定的な地勢特徴を予め特定する能力も欠かせない。そして、兆候を悟れば、直ちに簡潔な作戦用語を無線指示し、一連の砲弾を敵にたんまりと撃ち込むと云う段取りだ。

 私が、まだ若い士官だった時に受けた指導育成の一例を挙げよう。私が所属した中隊の指揮官の一人だった、アンディー・フィンレイソンは援護砲撃の高度な技術を私に指導した。フィリピンでの実弾訓練場で、彼は私を伴い、一連の砲弾攻撃の演習を実施した。その内容は、着弾目標点とそれに向かい進撃する我が隊の配置点との間の距離を次第に縮め、遂には極限まで詰める訓練を行ったのだった。彼が私に寄せる信頼に報いるべく、私は、彼から推薦を受けた図書は『リー将軍の副官達(Lee’s Lieutenants)』ダグラス・フリーマン著 や『戦略論(Strategy)』 リデル・ハート著を含め、全て読破に努めた。彼は、私の視野を広げるよう求めたのであり、私はこの同じ指導方法を、自身の経歴を通じ部下育成に採り入れた。

 いよいよ訓練最終日を迎えた時、私はてっきりアンディーがこれ迄通り、砲撃指揮を執るものと思っていた。然し、それは違った。彼は一切口出しする事なく、各小隊が前進する中で、大砲、迫撃砲、並びに機関銃の射撃開始の判断を全て私に委ねたのだった。私は、一連(ひとつら)なりの迫撃砲を、歩兵隊の前面200ヤード先に着弾させるよう配置させていた。

 私は、部隊間の諸事連携が整い、砲撃開始の瞬間は今が正に適切と確信したその時、発射命令を下した。砲弾が凄まじい轟音を立て叩き込まれた。81mm砲弾は平行射向束で飛び、大地を揺るがし標的地点に次々と着弾する中、歩兵各小隊は目標に向かい作戦通り前進を続けた。その様子を見届けたアンディーは黙って頷くと、その場を立ち去った。その時、私は自らの胸にこの教訓を深く刻んだ。「部下達を徹底訓練したその後は、彼らを信頼し全てを任せよ」と。

 以来、私は、援護用火器は効果的に使用してこそ意味を為す点を強調し、海兵隊の各世代に之を深く根付かせるよう心掛けた。500パウンド爆弾で片付く作戦には、ライフル装備の歩兵派遣は無用だ。火器戦力の行使は、米国の圧倒的に優れる技術力を発揮し、敵能力を確実に抜きん出る優位性を歩兵達に与える事が肝要なのだ。又、同時に、各小隊総員が持てる力を目的達成に最大限発揮する為の鍵とは、先ず若手士官に十分な予想能力が備わっている事を前提とし、更に、部下達が「その指導者が自身の役割を心得ており、且つ決して部下の命を無駄にする男ではない」との信頼が生まれる事である。その結果、奮起発揚される彼らの行動こそが、我々指揮官にとっては最も頼り甲斐の在る武器になるのだ。

 6年後、アンディーと私は共にハワイ沖で同じ大隊に属した。そして、ソヴィエトのアフガニスタン侵攻後、我々は、カーター大統領の命を受け、共に印度洋上の強襲揚陸艦の艦上に在った。丁度その時、イランがテヘランで米国大使館職員52名を人質に取る事態が発生していた。正に、特殊部隊が救出作戦に出撃しようとしていたのだ。此処に於いて、我々の任務はイラン軍の注意を惹き付け、そしてその他、緊急事態へ対応する事だ。つまり、我々はイラン軍にとって重大な何処かの施設を急襲し、彼らの注意を逸らす事を画しのだった。

 そして、我が大隊は、強襲揚陸艦を用い、イラン側のある大規模施設を急襲する策を立案した。当初、これは我々が囮役(おとりやく)を演じるに過ぎない作戦だった。然し、計画を微調整しつつリハーサルをこなす中で、同施設を防御する数千人規模のイラン軍部隊を打ち負かす事が出来るとの自信を、我々は深めた。

 我々は特別な訓練を受けた突撃隊であり、且つ奇襲を仕掛ける側の優位性に鑑みれば、当方兵力が相手より遥かに少数である劣勢も克服可能だ。我が軍の艦上戦闘機と艦砲射撃により敵防御を奇襲し、それに続いて我々が敵兵を制圧すると云う段取りだ。傲慢に聞こえるかもかも知れないが、斯かる成功事例が歴史上多数見える。1862年、南軍のストーンウォール・ジャクソンが、シェナンドー渓谷の戦いに於いて、大胆さと健全な計画に裏打ちされた作戦により兵力差を克服した如くだ。然し、在イラン米国大使館員を救出する作戦は、急襲部隊が結局テヘランへ到達出来なかった為、我々の軍事作戦に実行命令が下る事はなかった。斯くして、イランの狂信者達を膺懲(ようちょう)する機を逸したのは、私にとって痛恨の極みで、今日でも無念でならない。

 私は兵士達の中に自分の居場所を見つけた。と云うのも、自信過剰で元気いっぱい、然も向こう見ずな、彼らの歩兵精神に強く惹き付けられたからだ。私が部隊と共に過ごすのを好んだのは、周囲を感化し、時として皮肉なユーモアをも込めた彼らの熱狂が私に力を与えて呉れたからだ。我々は固より全員が志願兵だった。愛国心は、理屈ではなく、我々肉体のDNAに宿っていた。即ち、大半の者達の入隊動機は、国家の危急を憂いてのものではない。寧ろ、国の戦時体制下に於いて、我々が身を置く前線の後ろの、当の本国内では、米軍戦争遂行に就いて意見は割れ、決して一枚岩ではない事を屡々(しばしば)感じたものだった。一方、前線に居る我々は互いに強い共感で結ばれた。斯かる中に、我々が共有したのは、F.スコット・フィッツジェラルドが(『華麗なるギャッツビー』の作中に)用いた「軌条を逸した遠征の中にこそ、人間の心の深部を垣間見る事が出来る」と云う表現にも通ずるものだった。私は特に長期展望を抱いていた訳でもない。私の目標は細やかなもので、「大尉くらいには多分昇進するだろう」と思ったのが精々だ。然し、その代わり、逆に、私は次の任務に就いてあれこれ心配する必要がなく、今取り組む職責に全力を尽くす一点に集中出来たのだった。艦隊海兵軍の艦上勤務は、無事一週間を終えれば、最早それは過去になる。「貴様達、準備はいいか? 来週はひと戦(いくさ)するぞ!」と、ある一等軍曹が常に我々に葉っぱを掛け続けた。

 海兵隊の仲間達と過ごした初期の時代、私は指導力の根本が何であるかを教えられた。それは三つのCに要約される。

 先ず、重要なのは「能力(Competence)」だ。基本には愚直な迄に忠実たれ。自身の職務を生噛りで済ませる莫(なか)れ。それは完全に習得しなければならない。この行為は、士官が昇進する各階級に於いて都度求められる。自身を探求せよ。自らの弱点を特定し、改善せよ。3マイルを18分で走破できなければ、もっと練習に励め。相手の話を上手に聞けない性格なら、自制せよ。もし、砲撃を迅速に配備出来ないなら、繰り返し訓練する事だ。配下の兵士達は、全員がその指揮官を頼りとするのだ。無論、誰もが時として過ちを犯すのを避けられない。然し、くよくよする事はない。人類で最も完璧だったお人は、既に何千年も前に十字架の上で果てたのだ。唯(ただ)正直であれ、そして過ちから学習し前進するのだ。

 戦闘の要諦とは、通常戦と非定型戦とを問わず、火力に於いて優勢を確保し、敵に対し情勢を支配すると云う基本に尽きる。攻撃し巧みに操作する ― 防御し攻撃する ― 之が戦闘を決する。軍団は戦闘に勝利するのを目的とする集団だ。又、これは、逆境下に、「戦闘の勝利」の追求を決して諦めない海兵隊員達を育成する事にも通ずる。戦闘に勝ち、海兵隊の勝利に貢献する事柄が最優先で、それ以外は全て二の次。この基本を疎かにした場合、余りに多くの兵士達が落命し、或いは怪我を負ったのを、私は身をもって目撃して来た点は、実に遺憾な事だ。戦争は予測不能な諸危険に溢れ、そして思慮が及ばぬ判断ミスも必ず生じる。従って、命令は簡潔明瞭でなければならず、更に十分な諜報と反復訓練―それも一度や二度でなく、数百回単位の―に裏打ちされた、リハーサルを弛みなく行う事によってこそ、対応強化が可能なのだ。そして、歴史書の読破は欠かせないが、幾件かの戦闘事例を深く掘り下げて勉強する手法が有効だ。過去の失敗事例から学びを得る事によって、配下の部下達を死体バックに詰めずに済む可能性を高められる。

  又、強固な肉体、忍耐力、攻撃配置、地図の解読力、平易な言葉による指示、戦術の巧妙さ、及び微細な地形を活用する力、これらが重要だ。それら能力全てを習得の上、自在に使いこなし初めて部隊の信頼を勝取れるのだ。いくら地図を読むのに長けた少尉でも、鉄棒で懸垂もろくに出来ないようではお話にならぬ。

 次に、「思い遣(や)り(Caring)」だ。テディー・ルーズベルト大統領の言葉に「汝(なんじ)、先に気遣(きづか)いを示さぬ限り、彼ら決して心を開かじ」と云う通りだ。もし、家族に末の弟が居たら、兄達は彼を大そう気に掛けるだろう。彼が成長し学ぶ姿や、将来何になろうと夢見ているか興味を以って見守るのが常だ。同様に、海兵隊員達が、リーダーは自分達を気に掛けていると確信する前提が在ってこそ、初めて、リーダーは彼らが期待外れの行動をした際には率直に声を掛け、指導に当たる事が出来る。彼らは確かにまだ若いとは云え、自ら海兵隊へ志願してきたのだ。甘やかしてはいけない。彼らも、自分達が生命保険会社に入社したのでない事くらい承知している。自分に対する批判が出た際には誠実に受け止める度量が必要だが、一方、彼らに正すべき点が在れば、彼らの男としての尊厳を保ちつつも、悪弊は必ず一掃してやるのがリーダーの務めだ。

  依怙贔屓(えこひいき)は巌に慎まねばならない。部下の率先力と積極性を公正に評価する、それが全てだ。臆病心を無理に鼓舞するのは困難な為、寧ろいきり立つ心を手綱で引き締めるよう、指導を心掛けるべきだ。又、組織構成員にして且つ一個人である、彼らと自分との距離は、常に緊密に維持する事が必要だが、互いに私的事項に関し踏み込んではならぬ一線が画される点は忘れてはならない。然し、指導者たる者は、この一線のギリギリ迄、自身の権威を1オンスたりとも失うことなく、踏み込んで肉薄する覚悟が必要だ。かと云って、彼らは友人ではない。指導者は彼らのコーチであり指揮官であり、彼らに、戦場で勝利するに必須な技量を授けるのが役目だ。

 指揮官は部下達を各々個人として深く知る必要がある。即ち、何が彼らを突き動かし、そして彼らの具体的な目標は何であるかに就いてだ。ある者は、伍長への昇級を目指し奮闘し、ある者は大学への推薦状の獲得を目的とし、又、別の者は3マイルを何としても18分切って走行すると心に期しているかも知れない。指揮官が海兵隊員達の性格や抱く夢、更に進捗状況に対し心血を注げば、彼らはそれを十分感じ取るものだ。そういう関係を結べば、彼らが指揮官を見限る事は決してない。

 そして、最後が「信念(Conviction)」だ。実は、之は、死をも厭わぬ勇気を身に付けるよりも困難で、そして奥深い問題だ。配下の隊員達は、先ず、指揮官の信条は何かを知り、更に、より重要なのは、必ず、何を忌避するかを知る。配下の小隊は素早く順応するものだ。従い、指揮官は疑義の余地ない平易簡便な規範を述べ、それに固執する必要がある。これら諸規則は誰に対しても奇異なものであってはならない。同時に、自らが軍人としての情熱を発芽させつつ、部隊に対しては、謙虚に、思い遣りを以って当たる事だ。肝に銘ずべき事がある。士官として、勝つべき戦いは唯一つ。つまり、部隊の兵士達の心を勝取る戦いだ。彼らの心を掴む事が先決で、そうしてこそ、彼らは戦いを勝利へ導いて呉れる。

 能力、思い遣り、そして信念の三つが合わさり、初めて土台となるべき、最も重要な要素、即ち、配下の部隊に於ける「戦闘魂」が形成される。つまり、指導力とは、配下の兵士達の魂に迄到達してこそ意味を為し、斯くして任務を履行する精神と目的意識とが一旦深く部隊に浸透すれば、譬え、筆舌に尽くせぬような苦難に直面する中でも、決してそれらが見失われる事はない。

 私は、様々な小部隊を7~8年間率いた。その経験を経て、漸く私は、海兵隊が何を私に期待するかを理解する事が出来た。即ち、私が指揮宿舎に居る時も、或いは、参謀の一員として勤める時にも、海軍兵と海兵隊員とで構成される組織の内部で自分は常に作戦に従事し、一方、彼ら兵士達は任務の達成を至上とし、且つ、為すべき仕事を既に明確に理解し何時でも待機していた。従って、肝心の、それらの任務を「如何」に遂行するかに就いて、後は全て私の差配に委ねられ、然も、私は責任者として、その都度しっかりと結果を出す事がきつく求められたのは明白だったのだ。 

 1970年代から80年代に掛け、私は、何ケ月も太平洋やインド洋上を強襲揚陸艦の上で過ごした。危機発生した場合、米国海軍機動部隊は警戒体制を敷いて、紛争地域へ航行する。こうして、私は1979年、初めて中東の海上勤務へ送り出された。諜報官達が掘り下げた情勢分析を刻々説明する中、当時の私は、謂わばリングサイドに着座した立場から、紛争が発火地点から一挙に拡大し激甚な戦場と化す、この次第に不穏化しつつ在る中東と云う地を目の当たりに観測する事が出来た。

 今日、我々が直面する安全保障上の諸問題は、その多くが1979年に端を発したものだ。この年、スンニ派急進派の分裂グループが、イスラム教の聖地、メッカの大聖堂を急襲した。同集団排除に際しては、数百人が犠牲になり、イスラム世界を震撼させる出来事だった。一方、イランでは、アヤトラ・ホメニイ革命政権が国王を追放し権力掌握し、米国への敵対を宣言した。その同じ年、ソヴィエト連邦はアフガニスタンへ武力侵攻。同国の親露西亜(ロシア)政権を支えるのが目的で、同政権はスンニ派イスラム原理主義者と部族諸派から抵抗を受けていたのだ。この紛争に対しサウジアラビアの介入を、米国が支持したのは、ソヴィエト影響力への対抗勢力形成の為だった。これら激変する出来事の余波は直ちに伝播した。即ち、一年と経たぬ内に、イラクのサダム・フセイン大統領はイランに対し戦争を仕掛け、それは両国決定力を欠く儘に8年間継続する間、百万人近い人命が失われたのだった。

 斯様に騒然とした時代からの残響は、今日、尚も残存する。若き海兵隊将校は、この後、アラビア海北方海域から真珠湾へと帰途の航海へ就くが、これらの地殻変動的な情勢諸変化が、それに続く私の40年間に亘る軌跡をも決定付ける事になろうとは知る由もなかった。 

(第一章 了)

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