【『マチス自叙伝(コール・サインCHAOS)』邦訳連載継続 第七回】

<訳者口上>

 今回、第4章の続きをお届けし、同章が完了します。

マチスの代名詞にして本書表題でもある、彼のコール・サイン、“ケイオス(CHAOS)”の命名経緯を明かす、興味深い部分が本章に含まれます。

 又、冒頭、海兵隊の読書指導システム――階級を上るに従い、凄まじい量の課題図書を課し、担う責任に釣り合う教養と知恵を蓄積させる制度――が紹介されます。翻(ひるがえ)り、現在、米政権下のヘグセス国防長官は、陸軍の現場上がり、軍役中は「少佐」止まりの御仁。相撲界に譬えれば、序二段の経験しかない者が、いきなり相撲協会理事長に抜擢されるようなもので、よその国の事とは云え、訳者は聊(いささ)か、心もとない思いを新たにさせられる。

尚、前回邦訳は2024年11月2日付弊ブログの掲載ご参照ください。

日向陸生

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<翻訳本文>

【『マチス自叙伝』~コール・サイン” CHAOS”~  ジム・マチス著(ランダムハウス出版)】

(原書:『CALL SIGN CHAOS ~Learning to Lead~』By JIM MATTIS and Bing West, Published from Random House, New York, in 2019.  P300)  

 読書、読書、日に次いで更に読書せよ  (第一部 第4章の続き 原書P41~)

  私が米国戦争大学に入学したのは43歳の時だった。それ以前の20年間、私は凡そ25ケ国以上の諸国で鍛え上げられ、十数種の異なる任務に服した。それら業務の一つ一つが私の技量を広げて呉れた。こうして技能を獲得するのは、我が米国軍に於ける標準手法だ。全ての士官と下士官は、同一の習熟過程を通過する仕組みである。軍隊は謂わば“閉鎖的労働”組織である以上、将来の指導者を育成するのも、又、我々自身の責務と云う訳だ。そして、私自身もこうして受けた恩恵を多とし、その恩返しに喜んで奉仕する所存だった。

 戦争大学に進んだ者はその大半が大佐の階級に昇進する。この観点から、大学は「指揮系統」に対する問題意識へ最大焦点を当てる。つまり、段階を追い、そして階級に従って、受講者達は、指揮官として必要な諸技術を蓄積する。それは戦艦を指揮し、又は800名規模の大隊を采配し、或いは数千万ドルが投じられる航空機戦隊を統制する為のものだ。我々軍人の昇進の決め手は「戦術と作戦能力の習得度」であり、これは全員に等しく適用される尺度だ。それに資する、戦略、歴史、更に経済に及ぶ戦争大学のカリキュラムは、私の視野を広げて呉れた。学外講師には、上院議員、閣議メンバー、外交官、及び歴史家等が招待され講義に立った。そして1年の修学と内省の期間を終えると、多くの者達は、最早、直接指導を与える立場からは卒業し、幹部としての指導力発揮が求められる仕事に任命されるのだった。 

 地位に応じた能力が必須なことは、私の士官候補生時代、妥協を許さぬ頑強な鬼軍曹達が私の戦術ミスを呵責なく幾度も訂正する経験を経て身に染みている。彼らはその都度、「上出来だ!候補生――お前の今の作戦で海兵隊員が殺されたぞ」と皮肉たっぷりに指摘するのだった。

更に、それから7~8年の後、沖縄北部、密林での訓練中のことだった。ある時、私は、予告なくいきなり180名の部隊指揮を暫時、任された。

あくる朝の土曜日、訓練指導に当たった上級曹長から、個人的に話があると私は呼び出しを受けた。理屈では、当時、私の方が上官に相当したが、下士官の中では最上位の専任上級曹長と差しで話すのは、士官なら誰でも気後れするものだ。私は憂鬱な気持ちで彼の部屋を訪ねた。

「君は、若いわりに中々説得力ある男だ」彼はこう云い、『古代ローマ軍の百人隊長』と云う本を差出し付言した。「但し、まだまだ、だな。先ずはこれを読んで、しっかり予習し給え」

 戦場に赴く以前にやるべきことはある。歴戦の古参兵達に彼らの経験を問い、そして休みなく読書に励むことから学びが得られる。これらを通じ、中尉階級の者達は、戦闘の要諦を掴み、少佐以上の上級士官達は更に、敵の裏をかく手法を身に着ける。先人達が類似の状況下に如何に対処したかを研究することで、私は指導力の実例を疑似体験し、「戦闘」に対する私の見識は急速に広がった。

 海兵隊の信条は肉体的な強靭性を備えることだ。然し、私はあるイスラエル人士官から得た助言が忘れ難い。それは、同国との交換プログラムで我が軍に参加していた彼が、ヴァージニア州の山林を私と肩を並べ、共に汗だくで必死に走破する訓練中のことだ。彼は突如、私に向かってこう叫んだのだった。

「肉体鍛錬にひたすら打ち込む生活は、最高の成果を発揮する為に肝心な知性とは両立しない!」更に、曰く「例えば、古代ギリシャ戦役の本を読めば、勇敢な戦士達の育て方が学べる」と。

 爾来、書物に親しむ時間が私にとって喜びとなった。それは、執筆の後、十年或いは遥か千年の時を越え、当時の戦士や歴史家からの贈り物を授かる、願ってもない栄誉な一時と感ぜられるからだ。著者達は、生涯を賭けた彼らの活動を一冊の本に凝縮し、読むものへと語り掛け、我々は彼らと対話を行うことが出来るのだ。

人類が地上に誕生以来、この方、我々は一万年の戦いの歴史を持つ。この蓄積された知見を活用しないのは、愚なばかりか、道義にも反しようと云うものだ。何百冊の本を読破しない者は、機能的に文盲に等しく、重責に堪え得ない。その理由は、一個人として現実から得られる体験の幅は高が知れているからだ。又、「多忙で本を読む時間がない」と言い訳する指揮官が居たとしたら、やがて配下の部下達を遺体袋に詰める羽目になった時、そのツケの重さを思い知るだろう。それ程に、戦闘の場に臨んだ際、指揮官の実力不足は決定的である。

歴史が語るのは、太陽の下で面々と営みが続く中、物事には必ず前例があると云うことだ。この為、海兵隊では、各々の指揮官は、その地位に従って読むべき「図書リスト」が与えられる。全ての海兵隊が等しくこの制度に精進する。そして、軍曹はそれに相応しい書籍を、更に、大佐は別の図書をそれぞれ読み進める。将軍の地位に上り詰めても尚、彼らには特別の推薦図書リストが渡され、それらの読破を求められる。つまり、どんなに昇進しようが海兵隊に居る限り、勉強から解放されることはない。

従い、私が海兵隊の如何なる集団と話す際にも、階級を聞けば、彼らがどんな本を読んで来たかが一瞬で知れる訳だった。

又、作戦策定の段階、或いは戦闘に出撃する前、私は、類似の難局を先人達は如何に克服したか適切な諸事例を特定し参考とする。これによって、我々は当該任務に一層順応可能で、配下の部下達は典型例に基いて心構えを準備出来るのだ。

 読書は行く先の暗闇を照らす灯だ。過去の時間へ旅すれば、現状をよりはっきり把握出来る。

私は、古代ローマ時代の指導者や歴史家の著作を読むのがとても好きだ。それは、マルクス・アウレリウス、スキピオ・アフリカヌス、タキトゥス迄、彼らが皆、重圧の中にあっても常に品格を維持し、己の人生を内省する様から、今日指導者達が学ぶことが多いと考えるからだ。又、シーザーのガリア戦記は興味が尽きない。一方、私は、グラント将軍やシャーマン将軍が、鋼のように堅牢な意思が如何に大切であるかを、飾らない文章で明らかにするその筆致に驚嘆する。E.Bスレッジが『回顧録:ペリリュー・沖縄戦記』に記す、熾烈な沖縄戦の様や諸戦闘に於いて仲間を結束させる絆の重要性は、何世代もの兵士達に読み継がれるべきものだ。

自叙伝は、ローマ時代の将軍やアメリカ・インディアンのリーダー、及び戦時下の政治指導者や軍曹達に至るまで迄読破、そして、戦略家に就いては、孫武の兵法書から近代のコリン・グレー迄網羅することにより、難局を乗り切る知恵を授かった。結局、私の私蔵図書は1万冊近くに膨れ上った。私は広く読み、そして自身が不得意で掘り下げて補強が必要と思う戦闘や分野を幾つか絞り込んで選定した。

ある時、私の海兵隊のある同僚に乞われる儘、私のお気に入りの書籍一覧例を、彼に送ったことがある。(参考に 付録Bとして後掲しておく*)

*者注:原書付録に、上掲マルクス・アウレリウスの『自省録』を筆頭に、古代から現代の図書57冊のリストを掲載するが、当稿では割愛)

 戦争大学を卒業後、私は第七海兵連隊の指揮官に就任し、2年間(1994-96年)勤務した。同連隊は嘗てフルフォード大佐が指揮を取り、モハーヴィ砂漠を拠点基地とした。この連隊規模は、6千名を超える海兵隊員と乗船員が所属し、6つの大隊で組織されている。私は、最早、手ずから、直接的に、目と目で合図を送って部下達に指令することが出来ない限界点へ至ったのだった。今後、私の指示は、士官やスタッフ達を通じ伝達され、もし下位の兵士達と直接的な接触を維持しようと思えば、それは相当な努力を要するのだった。

 部隊へ直接指示する立場から離れた指揮官が、最も自ら戒めるべきは、従来習慣に捕われ、直接連絡を取りたい誘惑に駆られて、過剰統制に陥らぬよう務めることだ。即ち、上級士官ともなれば、自ら或いは配下のスタッフが即座に質問を飛ばせる立場にあり、これを受けた大勢の士官達は、寸刻を惜しんで最優先で、これへの反応を図るだろう。

昨今デジタル技術の発達が、瞬時に到来する質問へ即応する風潮を助長することも相俟って、上層本部は、恰も全知全能たるべきと錯覚し、配下に生じる全ての些事迄にも微調整を図りたがる傾向に一層陥る危険が高い。

然し、指揮系統にこの種の過剰統制が課されると、謂わば、母親の指示なくして何も出来ない箱入り息子の如き、臆病さが組織に発生する。

 配下の指揮官達がこの感覚に捕われ始めると、其処に躊躇が生まれる。つまり、細部に入り込んだ命令書は、得てして「不測の事態を想定してない」と云う、正にその最大の脆弱性が、彼らから主体性を奪い、積極性を封印し閉塞させ、作戦テンポを緩慢化させるのみならず、加え、もし危険回避型の行動によるブレーキが掛かれば、更に倍化し問題が悪化するのだ。何故なら、戦場は、数分間の短くも濃密に凝縮された刹那に好機と危機が交互錯綜し、斯かる中で成功を得られるかは、寧ろ、積極果敢な下級将校達に、行動に大きな自由度を持たせることにこそ、懸かっているからだ。

従い、若手指揮官達が持つこの資質を全開させつつも、尚、彼らが作戦指揮に当たる私の意図に沿って統率下にある状態が、私が常に描く理想だった。換言すれば、指揮系統に於いて、上位者と部下との間で双方向に信頼の絆を築くことが、成功の秘訣なのだ。

 海兵隊は、この信頼性を植え付けることに腐心して来た。我々が皆、新米士官の時から徹底的に叩き込まれるのが「如何にすれば自分の意図が、幾層もの中間指揮系統を経ても内容を損じることなく、最末端兵士まで伝達されるか」と云うことだ。

例えば、「敵の退路を断つ為に、この橋を攻撃する」命令を発したとしよう。重要なのは指揮官の意図で、この場合、“断つ為に”の文章に凝縮される。従い、小隊が、橋を攻撃し、敵の退路が断たれたら、任務成功である。然し、橋を占拠しても、もし、敵が尚も何等か別の手段で退却を続ける場合、その小隊長は占領した橋で無為に座視することはない。彼は、上位者へ追加指示など仰ぐ迄もなく、自主的に敵の退却阻止の行動に移る。それは、その任務は“何の為に”遂行するかを、全員が徹底して共有し、共通目的の方向に沿う限りに於いて、個々独立した判断を下して行動し得るからだ。そして、これこそが、兵力から勇猛果敢さを最大限引き出す鍵なのだ。

 然し、指揮官の意図に即し部隊が作戦展開する気風を育てるのは容易ではない。細部まで細かに定めた分厚い指示書を何冊作成した処で物の役に立たない。それには、組織並びに、各個人の双方に於いて、極めて高い水準の理念を備えることが求められるのだ。

作戦目論見書の作成に於いて、私が会得したコツは、先ず、達成すべき“最終局面”を明確に定義した上で、その為には何が必要か、この二つに内容を絞ることだ。

即ち、配下のチームに対し作戦目的を語る際、指揮官としてその任務をどう達成するか、その意図に関し必須事項を最小限提示するに止め、寧ろ、指揮官として求める“最終目的”、言い換えれば、“最終局面”を明確に説明することが重要だ(指揮官の立場からすれば、この最終局面達成により、更に次なる作戦目標へと移行が可能となる。)

一方、配下の部下達に就いて云えば、彼らは「自主性を発揮し、事態が優劣の何れに変化しようとも、機敏に機会を捉え対応する能力」に関し、その資質が推奨され且つ報われる環境の中で、既に十分訓練を積み且つ習得した者達なのだ。従って、「どのように対処するか」は、彼らを信頼し、すっかり委ねてしまうのが最善策である。

 命令書に、細部を敢えて書き込まぬことは、肝心なことを書き洩らしてはならぬ鉄則と等しく、又重要だ。つまり、指揮官が設定した目標に向け、部下達が持ちうる限りの狡猾さと自主性を最大限解き放ったならば、その後、指揮官に残された仕事は、唯一、透明性ある情報共有を維持する丈だ。「自分が知っている情報は何か?」、「誰に対し情報を共有すべきか?」、「それらを然るべき者達へ既に共有実施したか?」、この三原則に基き、連携の取れたチームを“一体化し纏め上げる”のだ(この際、配下部隊を“支配”或いは、一糸乱れず“同期化”すると云う言葉は不適切だ)。

 これに反し、もしも命令の背後にある真の目的が理解されていない場合には、只でさえ一瞬で逃げてしまう好機を、配下の指揮官達が捉えるのは不可能だ。「任務」そのものに加え、如何なる任務を遂行するか「指揮官の描く意図」、この双方が、指揮官と部下達との間で共通に理解された時、初めて、各々独立して取られる行動が正しく機能する。

 仮に、前線で私の配下の伍長が、作戦意図を質問され、それに応えられないならば、私の指揮は既に紛れもなく破綻している。その原因は、本来、目的を明確に共有する為に必要だった時間を私が惜しんだか、或いは、指揮系統上で私の部下達が前線に伝達すべき有効な説明をどこかで仕損じたか、その何れかにあるだろう。

兵士の主導性と積極性、そして敢えて危険も辞さぬ精神の醸成は、戦場で突如として一機に獲得される類のものではない。それらは幾年も掛け、繰り返し教え込まれ、更には褒められることを通じ、組織文化の中に根付くものだ。もし、指揮官として、部下達が極度の緊張状態に置かれた中でも、容易(たやす)く逸しやすい好機を逃さず、しっかと掴むよう期待するならば、訓練時のあらゆる局面に於いて発揮される、斯かる行為に対し、組織として昇進を以って公的に賞賛を示し報いてやる必要がある。そして、更に重要なのは、その際の過ちに指揮官が寛容であるべきことだ。何故なら、敢えて危険を冒す者達が罰せられる組織は、その行き着く処、リスク回避型の人間丈で士官階級が固められる事態に陥る。

 ヴィスカウント・スリムは第二次世界大戦下、英国の最も優れた陸軍元帥だ。1941年、英国は日本軍によって東南亜細亜から駆逐された。彼の著作『敗退を勝利に転ずる』では、彼が如何に、一旦は敗れた自軍を再活性化させ、優れた策略を以って遂に日本軍に打ち勝ったが説明される。私が最も感銘を受けたのは、司令部から遥か遠く離れたジャングルの奥深くに展開する諸部隊に対し、然も無線連絡が幾日、場合によっては数週間も途絶える中、如何にして指揮を発揮し得たかと云う点だ。

 スリムは同書に記して曰く「指揮官たる者は、その階級を問わず、自分本来の仕事により集中すべきなり」と。換言すれば、彼らは、軍司令部の意図する処を自ら合点の上、その達成に向けては、自分自身がより大きい自由度を与えられ、諸作戦の立案実行を許される立場にあると心得よ、と云う訳だ。この考えは代々受け継がれ、それは極めて柔軟な発想と断固たる意思決定と云う組織慣習に結実した。そして、指揮官達は、突然の新たな情報入着や環境変化に遭遇しても、上官の指示を仰ぐことなく、自ら最善の利を判断し迅速に行動することを常とした。この命令なしに行動する、つまり、上位者が下すだろう命令を予知する、更に云えば、許可を待つことなしに行動しても全体作戦の意図に外れないことを、如何なる種類の戦闘に於いても習慣とし自然に身に付けることが重要なのだ、と彼は説いた。

 「命令を受けずに行動する...但し、それでも常に全体作戦の意図から外れない」。これこそが、フルフォード大佐が「砂漠の嵐」作戦で第七海兵連隊の指揮に当たった際の要諦でもあった。今にして思えば、開けたクウェートの砂漠で、彼が取ったコミュニケーションこそ理想的なものだった。当時、彼からは私へ滅多に連絡がなかったが、彼のスタッフは常に私の大隊を支援する体制を整える一方、状況報告を督促し私を煩わせることがなかった。即ち、スリムからフルフォードに至るまで――二人共、その後に四つ星(将軍)へ昇進している――彼らが伝えた事の真実は共通する。即ち、幹部職にある者の仕事とは、下級将校や下士官達の自主的働きに報いることにより、彼らを成功へ導くことである。そして、彼らが上官の意図を達成しようと最大限尽力する過程で、万一、期せずして何か誤りを犯してしまった時は、迷わず彼らに寄り添うべきだ。寧ろ、その節は、彼らに対する自分のコーチングに不備はなかったか、そして自分の意図を彼らに申し分なく明瞭に伝えたか常に反省せよ。これらを行う目的は唯一つ。彼らが、自分自身の行動に幅を以って融通無碍に動く習慣を植え付けてやることなのだ。  

 これには格好の事例がある。我が連隊のベース基地、トゥエンティ・ナイン・パームスプリングスは、パームスプリングスの程近くに立地し、ロード・アイランド州より少し狭い位の広大な訓練用地を有した。それは1995年、此処で実施された、ある演習中のことだった。

我が軍連隊は、敵方に見立てた「赤軍」に対峙、相手は狡猾に地形を利し、600平方マイルに及ぶ深い渓谷と切り立った尾根に分散していた。

私は、フルフォード大佐の著書からの1ページを借り、「任務遂行型」指令を発することにした。我が大隊内の境界線を取っ払い、彼らが砲撃と機動展開を行う領域を拡大し、自主性が一層発揮される機会を増やしつつ、同時に諸隊が互いの協力を必要とする局面へ意図的に誘導したのだ。すると、それから数分後、諸隊の中佐達が互いに連携し始める様子が、私の無線を通して見て取れた。それ以降の訓練時間中、私の回線に次のような部隊内のやり取りが立て続けに入った。即ち、彼らが迅速に展開する際、「貴隊は丘の左手を攻撃されたい、その間、我が隊は右手へ進撃する、」と云った協調行動だ。斯くして、左と右の両翼部隊の成功に速やかに乗じることで、数千人の海兵隊のテンポが上がった。

意思決定権を分散化した結果、我が軍は前線の広い範囲に亘り、如何なる好機をも逃さず、敵より早く展開し、敵の意思決定ループの中に入り込み主導権を握った。彼らは、私の作戦意図に沿って行動し、そしてフィードバック・ループが機能して、私の指示を必要とする事態が近づけば、事前にそれを知って備えることが出来た。

こうして、その日の訓練で、私は部下達から実に多くのことを学んだのだった。

 それはチーム組成とテンポに関する恰好の教訓だった。つまり、彼らは私の作戦意図を十分承知し、私が無線交信から外れたことにも気づかない様子だった(恐らく、それを知らなかったことが幸いした!)。これに大いに手応えを感じた私は、それ以降の数週間と云うもの、私自身の知恵は極力封印することにした。斯くして、指揮所から発する連絡は最小限に絞られ、前線が受ける指示は捉え処のないものとなって行った。謂わば、その時の私は、片手ハンドルで車を転がすような気持ちで諸連隊を率い、前線への指示は、傍らに控えた、演習見習中の大佐の助言を、その儘、左右に無線伝達することに私は徹した。

 そして、それは、ある日、私が作戦事務所に立ち寄った時のことだ。ふと見ると、黒板の前に、部下の作戦士官がチョークを手に立っていた。彼は、中佐のジョン・トーランと云う、強いブルックリン訛りと潰れた鼻の持ち主で、40代でも現役ラガーマンとしてスクラムを組む男だ。屈託ないアイルランド流の笑みを浮かべながら発せられる、彼の辛口コメントには定評があった。

黒板には、大文字体で“C H A O S”(混沌とした状態)と大書きされていた。

 不思議に思った私は、それが何を意味するか彼に尋ねた。彼は、一瞬、躊躇を見せたが、私にチョークを預けて、こう切り出した。

「一体全体….」、彼は続け「隊長ともあろうお方は、うちっと、ともな戦をば、り出しては呉れぬものじゃろか!?」とその文字を講釈した。その5文字は、“混沌”の意に事寄せ、ここ数週間私が行った采配に対する痛烈な諫言だったのだ(*)。

*訳者注:原文英語文章の頭文字がCHAOSになる。“Does the Colonel(連隊長なら) Have(捻りだせぬか) Another(もっと) Outstanding(真ともな) Solution(作戦を)? ”

 斯くして、私のコール・サインは自戒の意を込め、爾来“CHOAS”とした。後年、「敵兵士を“混沌”に陥れる」私の強い意思から、同サインが使われ始めたとの噂が流布した。その意思は私の真意に違いないが、このコール・サインは、当時、時として傲岸だった、我が部下達から私自身が授った、と云うのが真相である。

つまり、指揮官が「危険から逃げない者」や「型破りな猛者連中」を周囲に配置している限り、トーランのような直言居士が必ず現れ、指揮官自身のエゴを正して呉れる訳だった。

 1996年、私は、国防長官ウィリアム・ペリー並びに、続いて彼の後任、ウィリアム・コーヘンの秘書官に抜擢された。私は、山のように積まれる書類に目を通し、様々な報告書に署名しつつ、国防長官が扱う諸案件が実に多岐に及ぶことに目を見張った。それらは、世界屈指の巨大企業の運営に係る問題から、新聞に掲載された些細な記事に至った。国防長官は、朝に国王と面会、それから10億ドルの航空母艦の事案を決裁した後は、日本で渦中に居る、ある在日駐軍伍長の報道記事に直ちに対処。午後は、議会指導者達と面談、更に、7ケ国を7日間で歴訪する計画を練り、自身が世界各国の聴衆へ発するスピーチ原稿の一語一句を検分解析する、と云った具合だ。私が驚嘆したのは、その意思決定を下す凄まじいスピードで、限られた猶予時間内に、如何なる重大事案も滞りなく裁可されて行く様に、私は舌を巻いた。

 ワシントンの仕事は私の性に合うものではなかったが、私が仕えた人々や、これ迄とは異なる新しい技量の学びを授けて呉れた人々に対し敬意を深めた。又、それは私にとり、米国憲法第一条が議会に与える「陸軍と海軍を設立し維持する権限」に就いて実地的な入門コースになった。つまり、私は其処で、防衛予算が如何に割り振られるかを注視し、そしてバルカン紛争問題への軍隊派遣を検討する真剣な議論に耳を傾け、上級武官として求められる資質が如何なるものかを知ったのだ。

一方、私はCIAや国家安全保障会議スタッフ等、国務省文民組の担当官達と折衝を図ることも屡々(しばしば)だった。省庁間の調整過程は想像を超え複雑だったが、彼らは常に親切に私を手助けして呉れたものだった。

 私は、政策が然るべく決定される諸過程に於いて、謂わば最前列の中に陣取り、これらに携わった。私の上司である国防長官に加え、国家安全保障担当補佐官と国務長官の三人による毎週の打ち合わせにより、外交政策の一貫性は維持された。又、NSC(国家安全保障会議)が各省庁から上がって来た情報を整理し、閣僚達が、彼らの描く計画や執行に対する相違点を調整しようと面談にやって来る。この一連の過程は、必然的に頗(すこぶ)る厄介で一筋縄では行かず、時には見苦しい妥協も必要とされた。然し、斯くして国防省の頂点から見る景色は、私が其処で見聞きし、そして学んだことを通じ、自分の見識を一層深めるのに役立った。この実務実習が如何に適切なものだったのか、当時の私は知る由もなかったが、それは後に時間が見事に証明して呉れたのだった。  

 1998年、私は海兵隊本部へ帰任し、人事計画を運営する命を受け、階級は准将に昇進した。

当初、一介の海兵隊将校の身である私が、よりによって何故(なぜ)人事政策を管理監督する役に回されるのか、理解し兼ねた。然し、この部署を去る時迄には、この職務が戦闘兵士の目線を必要とした理由を私は悟った。即ち、軍隊組織である限り、褒賞制度を有効に機能させる為には、前線を厭わぬ勇敢な軍人を抜擢し昇進させることが肝要なのだ。

 この方針は、譬(たと)えそれが、将軍職の選任に於いても、何ら変わる処なく同様に尊重される。つまり、優秀な戦闘家を抜擢することこそが「軍務の真価とは何ぞや?」と云う問いに対する答えなのだ。従い、例えば、海兵隊の准将を選抜する過程は入念だ。先ず、上級将軍達で構成する委員会が毎年開催されるが、有能な200名の大佐の中から准将に最終選任される者は僅か10名程度である。
各選考好委員には、それぞれ10名以上の大佐の経歴書が手渡され、其処には候補者達の数十年間の軍歴が網羅されている。これらを一週間以上掛け吟味した後、各ボード委員が、割り当てられた候補者の大佐に就いて一人一人を説明し、その中で粗い順位付けを行う。その後、上級将軍達による委員会投票を実施し、その全体結果として、誰がはじかれ、誰が更なる選好に残るかが決せられる。

 この手続きが来る日も来る日も繰り返され、遂には委員会が、最終候補者を凡そ20名か30名迄絞り込む。委員達は、”戦闘の専門家”の中から最高人材を選出するのだ。即ち、歩兵、砲兵、パイロット、そして兵站、それぞれの部門に於ける最優秀士官達だ。

尤も、最終当落線上では運も大きく作用する。最終候補者の搭乗機が墜落した場合、リスト次席者が昇進の運びとなる。但し、この場合も、誰が選任されても全体能力に差異がないと云う点こそが、我が軍の大佐階級職の特色で、彼らは、長年の輝かしい軍歴と、ここに至る迄過去の選出過程に於いて厳選され、その超一流の技量に就いて選考委員達のお墨付きを得ている者達なのだ。

 一方、海兵隊員が、一度(ひとたび)敵に相対した時、任務完遂の責務を負う点に於いては、上から下迄一切地位の区別なく、総員平等だ。私が将軍職の地位に上った際にも、己の任務遂行義務が、配下の弱冠19歳の上等兵に優ると考えたことはなかった。彼らが私と等しい責任感を抱くことは、彼らの目を見れば明白に知れる。これは、海兵隊は「同胞の海兵隊員と共に戦う」ことこそを栄誉とし、互いを尊重し合う精神は階級の違いを問題としないことに由来するのだ。唯、一般社会風習が、将軍を何か特別なものとして他者の上に置くに過ぎない。

一方、国防省は、新たに昇進した将軍階級者をキャップ・ストーン(Capsotne*)と呼ばれる特別コースへ送り込む。其処は、退役した元将軍達が、新任将軍に対しその職務に就いて指南する場だ。(*訳者注:総仕上げや、建造物の笠石の意)

ベトナム従軍体験を持つ元将軍は「君達も将軍職に昇進すれば、もう不味いものを口にせずに済むが、又、同時に、真実も耳に入って来なくなる」ときつい戒めを云えた。これら所謂“白髭(しろひげ)将軍”と呼ばれた男達から、彼らの過ちや得られた教訓を、私たちは直々に傾聴した。

その後10年間以上、このキャップストーンを始め他の諸コース・研修に、私が将官として参加する度に、白髭将軍達は、謙虚な心構えとプロの軍人としての倫理観維持に徹することを教えて呉れたのだった。

*訳者補足:此処で述べられる、大佐から准将への昇格は、所謂“左官”(少佐、中佐、大佐)と“将官”(准将、少将、中将、そして最高位の大将)――所謂、将軍職、とを隔する壁を越えることを意味。将官は、旅団級の大規模戦力を長期間、単独で運営する能力を認められた者達である。

 2000年には、私は国防副長官の上級軍事補佐官として、国防省へ戻った。私にとり二度目の同省勤務となり、一度目は大佐として、そして今度は准将として、結局、通算丸3年間に亘り、国防省の上級幹部達の執務室で彼らの補佐に当たったのだった。

軍の文民統制が如何に機能するのか、日々間近で目撃することは、恰も大組織経営に関する博士号取得コースに身を置いたに等しかった。国防長官が下す決断は「どれが最小悪か」の選択が殆どだ。最良策を選ぶ決断は容易で、その手の問題は誰か別の下位権限者によって既に対処済に相違ないのだ。私は、数え切れない程多くの会議に臨席した。そして当時の経験から、身に染みて思い知ったのは、国家に係る如何に高次元な論争事案に対しても、その処置に際し肝要なのは「意思決定権限者に委ねる」ことであり、さもないと、事態は麻痺し混沌に陥る、と云うことだった。

 私が軍役に身を置く理由は、戦闘部隊と共に過ごすのを望んだからだ。国防省勤務の際、無論、私は文民統制官の上位者達を全力で支え、其処から又多くを学んだ。更に、我が国の政府体制、文民統制下に於ける指導力の源(みなもと)、及び議会等、これらに対し私自身が日頃抱いていた信頼感が、職務を通じ大いに深められたことも収穫だった。然し、一方、この仕事から私は早く離れたかった。つまり、其処に居る限り、私はある面、政治のしがらみから逃れられないし、元々私は机上業務に対し情熱が湧く性分でなかった。

それでも、当時、「平和の配当」を求める世間の声が次第に拡大する中にあって、尚、我が国防衛を深く憂慮した男達を支える機会に恵まれたことは、私にとってこの上ない光栄だった。国防長官、ウィリアム・ペリーとウィリアム・コーヘン、そして国防副長官のジョン・ホワイト、ジョン・ヘイムリ、ルディ・デ・レオン、及びポール・ウォルフォウィッツにこの場を借り謝意を表する。又、彼らが支持した諸見解に対し世間の賛否はあろうとも、彼らは皆、全霊を注ぎ職務全うに当たっていた点に疑問の余地が一切ないこと丈は、特に此処に明言して置きたい。

 2001年7月、私はサンディエゴ北部のペンデルトン基地へ、第一海兵遠征軍(略称 I MEF)副指揮官として目出度く復帰を果たした。カリフォルニア南部からアリゾナに展開する諸基地に4万人の海兵隊員と乗船員を擁する大部隊である。私は再び兵士達の元に戻って来れたことを喜んだ。現役中、昇進の度(たび)、もうこれで最後だろうと私は常に達観した。従い、兵士として第一歩を踏み出した、この海兵隊で、自分は退役を迎えるものとてっきり思った。即ち、戦闘作戦部隊として此処を最後の御奉公、そして自身のキャリア頂点として勤め上げた後は、カスケード山脈の故郷へ隠居する心積もりで居た。

 今、振り返れば、当時のこの見当は全く外れ、又、学びと業務習熟に終わりがないと云うことも、しみじみ理解できる。「砂漠の嵐作戦」後、10年の歳月を経て私は変容した。つまり、海兵隊の規模縮小(人員削減)に関わり、戦争大学で修学し、大規模連隊を指揮し、そして、官僚業務の運営がどのように戦闘兵士達に影響を与えるかを習熟、これら全てが相俟って、私は更にその先に待ち受ける数々の試練に立ち向かう準備を漸く整えたのだ。

(第一部 第4章 翻訳終了)

文責:日向陸

*尚、当ブログ翻訳文章は生成AI機能一切不使用です。

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