<訳者口上>
前回掲載2024年11月2日付に続き、今回第4章をお届けします。
日向陸生
====
<翻訳本文>
【『マチス自叙伝』~コール・サイン” CHAOS”~ ジム・マチス著(ランダムハウス出版)】
(原書:『CALL SIGN CHAOS ~Learning to Lead~』By JIM MATTIS and Bing West, Published from Random House, New York, in 2019. P300)
第4章 見識を広める過程 (原書:P39~)
湾岸戦争で8数ケ月間の任務を終え、帰還した私を待ち受けていたのは、従来と打って変わった新しい国際環境だった。正に“歴史の終わり”を手にしたと多くの人々が考えた。自由民主主義は共産主義を打ち負かし、大国同士の戦争は最早存在しないのだ。サダム・フセインは自分の檻の中に戻った。そして、私の部隊は、盛大に紙吹雪が舞う、ニューヨークのブロードウェイを戦勝パレードで行進し酔いしれた。(このような行事は、以降四半世紀に亘り実施されることがなかった。)
ワルシャワ条約機構は崩壊し、間もなくソヴィエト連邦も解体した。1992年秋、ブッシュ大統領と露西亜(ロシア)のボリス・エリツィン首相が冷戦終焉を宣言した。米国とNATOが国境線を守りぬく間、国際的矛盾の数々によりソヴィエト連邦は内部から腐敗し、アフガニスタンでは結局ソヴィエト陸軍に大きな損害が出た。米ソ両国が保有する核弾頭数の相互大幅削減が米国上院議会で批准された。
これに続く数年間、状況は一層複雑だった。良い面は、西欧では12の国家が統合し、EUが結成された。東欧は欧州へと引き寄せられ、そして露西亜での軍事クーデターは失敗に終わった。一方、悪い面は、ユーゴスラヴィアが内戦に陥り、中国は核実験を実施し自国戦略兵器の向上を図った。新しく大統領に選出されたビル・クリントンは、ソマリア内戦で18名の米軍兵士が戦死した後、同地から米軍平和維持部隊を引き揚げた。これらの現実は、無秩序がやがて到来するとの不愉快な未来を多分に暗示していた。
新たな国際環境に対する我が国の評価は、米軍内部にも重大な変化を齎(もたら)した。つまり、如何なる大戦争の兆しも最早認められず、“平和に対する配当”を求める圧力が強まった結果、我々が湾岸戦争から戻るや、国防省予算は熾烈な削減を受ける事態になった。
大隊の指揮官を解かれた私は、国防省の海兵隊本部勤務を拝命した。これは一般的な人事計画に沿った配属で、外地従軍の前後に本部組織支援と部隊指揮との任務を経験させ、更に 4から5年置きには1年間学校に放り込む、と云うのが士官に課される経歴形成だった。私の今度の職務は、全ての現役兵士と新規入隊した海兵隊員に対し特定任務を割り当てることだった。
更に、私の部門が当たったのは、在籍海兵隊員の内、契約任期満了後も継続希望する兵士に対し任用承認する作業だった。これは骨の折れる業務だ。と云うのも、海兵隊が急激な人員削減を余儀なくされる最中、総勢189,000名を172,000名に減じる必要があった。即ち、海兵隊に従事する兵士の9%に対し、彼らが望むと否とにかかわらず、退役或いは除隊させなければならないのだ。
我が海兵隊に入隊するのは、極(ごく)小さな集団の一部で、エリート族、謂わば“選ばれし栄誉ある”者達だ。国防省の中で、海兵隊予算は全体の10%に満たない規模だ。然し、限られた予算の中でも、我々は常に力を発揮した。何故なら、抑々(そもそも)何世紀にも亘り、我が隊が世界中を航海する際、その活動は船舶で運搬可能な物量の制約を受けざるを得ないのだ。それでも、我々はあらゆる海洋へ展開し、我が国の全ての大使館を防御し――そして、何よりも我が隊は、何時でも、何処でも、真っ先に先陣で戦うのをモットーとして来た。
海兵隊は、抱える兵士達の年齢が最も若く、兵力の2/3は外地勤務を僅か1度しか経験しない一方、在隊年数の長い士官や下士官部隊に不足を生じると云う歪(いびつ)さが在った。我々は、運営上の障害や老朽化する設備を克服しようと、何とかその場で知恵を絞った。それでも、それらの工夫だけでは、深刻な予算削減を補えず、止むなく、戦争や士官階級から退役した何千と云う軍人達の新築住宅を切り捨てた。更に、私は、どの下士官をどの役職・配置に付け、誰を昇進させ、或いは又、誰が退役勧告を受けるべきかの決断を迫られたのだった。
嘗て、私が太平洋岸北西部を車で駆け巡り、域内配下の軍曹達を励まし、海兵隊員募集に尽力した時代は10年も昔だった。そして、私が戦闘で判断ミスをした時、軍曹達が辛くも窮地から私を救って呉れたことを、神に心底感謝したのは、ほんの1ケ月前の出来事だ。これら軍曹達、正に、今迄(いままで)私に手を差し伸べ、地雷原を共に匍匐(ほふく)前進し、その他、数々の危難に共に当たって来た男達が、今や、家族を呼び寄せ、ユー・ホウル社(U-haul)のレンタル・トレーラーに家財を詰め、軍を去って行った。
海兵隊に4年、又は14年、或いは40年間、忠実にそして勇敢に尽くした兵士達を辞めさせなければならない。20年務めた者は年金を得るが、大半の兵士達は資格に満たない。然し、年金対象の当否は決して退職勧告選定の要因にはならない。一般社会では、給与支払いの嵩高に従い人材価値が定まるのに対し、軍隊に所属する兵士の場合は、全く異なる社会契約を結んでいる。一度(ひとたび)、この国の防衛に身を捧げる決意を持った者は、それは米国民に対し自分の命をも贖(あがな)う“白地小切手”を振り出すに等しく、一方、その見返りとして軍隊内で彼にはキャリアパスが用意されて然るべきなのだ。処(ところ)が現実はこれに反し、冷戦終焉後の時代に適した兵員規模の均衡を守る為、諸階級の過剰人員整理が不可避となり、今や、あらゆる階級と年齢の兵士達が人員カットの対象だった。私は、部下の下士官達と連れ立ち海兵隊の各基地を次々と往訪しては、悪い知らせを届けて説明して回ったが、我々は、やめさせる兵士達の顔を真っ直ぐ見つめることが出来なかった。
「戦争は終わった」、こう信じた我々は、多くの兵士を除隊や退役させた。結局、2001年9月11日の奇襲テロ発生後、我々が反転攻勢する際、もし彼らが居て呉れればどれ程よかったろうかと、その時私が抱いた後悔は計り知れない。
(続く)
文責:日向陸生
*尚、当ブログ翻訳文章は生成AI機能一切不使用です。
=== End of the Documents ===
コメント