【『マチス自叙伝(コール・サインCHAOS)』邦訳連載継続 第九回】

<訳者口上>

前回掲載2025年12月31日付の、第一部第5章の訳の続きを掲載します。

日向陸生

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<翻訳本文>

【『マチス自叙伝』~コール・サイン” CHAOS”~  ジム・マチス著(ランダムハウス出版)】

(原書:『CALL SIGN CHAOS ~Learning to Lead~』By JIM MATTIS and Bing West, Published from Random House, New York, in 2019.  P300)  

少数精鋭のスタッフ陣   

 私は3名のスタッフを連れバハレーンへ飛んだ。私の頼れる副官、ウォーレン・クック中尉、優秀な軍事計画担当、マイク・マハニー少佐、そして、作戦立案の頭脳となる、クラーク・レシーン中佐だ。先に私は、ムーア中将から海軍特殊部隊TF58の指揮官に任命され、早速その仕事に着手したのだった。TF58部隊の名称は神聖視され、その系譜は第二次世界大戦に迄遡るものだ。当時、同部隊はその速攻と策略を発揮し、日本軍が占領していた島嶼に対し、次から次へと鉄拳を振ったのだった。1945年、硫黄島の戦いにTF58部隊が投入した勢力は、航空母艦18隻に戦艦8隻と、海軍史上空前の規模だった。

 我々は、手早く諸物資の在庫棚卸を済ませた上で、2001年版のTF58部隊の陣容を決定した。それは強襲揚陸艦6隻と、それに伴う護衛船団を含むものだった。更に、3,100名の海軍兵と4,500名の海兵隊員、加えて、KC-130型空中給油輸送機、ハリアー戦闘機、及びヘリコプター編隊の投入を画した。第二次世界大戦時の上陸作戦に比せば、無論、小さいとは云え、この規模の作戦には、本来必ず3名以上のスタッフを要したことは間違いない。

 旅団が展開する場合、その擁するスタッフ人員は原則200名に及ぶ。今般の作戦に際し、我々はスタッフ陣容の劇的削減を意図し、その為に起用した手段が「階層の省略」だった。これは、実は、1991年湾岸戦争の際、私の大隊が捕らえた、イラク人の少佐から学んだ策だ。英語が堪能で多弁な彼は、私と協議する中で次のような説明をしたのだった。凡そ大半の軍隊組織内では、各指揮系統の段階――或いは「階層」――毎に、それぞれが、人事管理、諜報収集、作戦立案、そして物流支援等の、全く同機能を持つスタッフ部門が置かれている。そして、斯かる重複は時間と人的資源の浪費で価値を生まない、と。

 これを踏まえ、私が自分のスタッフ陣に要望したのは、最上部機構として我々は自身でしかできない業務に専念し、出来得る限り最大の権限を、私の配下の、実績のある、海兵隊及び海軍指揮官達へ委譲することだった。私の上位者は第五艦隊の全体指揮を熟知し、私の部下達は彼ら自身の艦船や小部隊の指揮に習熟する、との前提に立ち、私はスタッフの機能重複を排除して行った。我々専属の従軍牧師、総務担当官、及びその他、下部組織で同じ役割が果たされる職務の担当士官は不要と決断した。法律事案に就いては、私が陸上の艦隊司令部に所在する間は、ムーア中将のスタッフ内の法律家に相談し、洋上に於いては海軍所属スタッフの法律家に相談した。そして、一度(ひとたび)、我々がアフガニスタンに上陸した後は、私の部下だった最先任下士官を、その儘、我ら連合軍特殊諸部隊を担当する上級下士官として横滑りさせ任命した。彼はその職責を果たし、海軍、海兵隊、及び連合軍諸部隊内に巡らした、彼の下士官仲間の人脈を通じ、当該部隊の国籍如何を問わず、彼らを煩わせる広範な数々の問題を、私へ逐一報告して呉れたのだった。、

私は自身の軍歴を通じ、それが誰であれ、その現場にいる者達と共に仕事をすることを好んだ。

反対に、もし、新しい上長が、彼のお気に入りのスタッフチームをそのまま連れて来ると、組織内に不和と上層部への権力集中が生じる弊害が避けられない。又、諸階層を省く行為は、部下たる指揮官達及びスタッフ達を、私が信頼している証でもあるのだ。スタッフ人員の選定に際し、私は、結束力あるチーム組成を念頭に置き、彼らへの全面支援を惜しまぬ一方、それでも基準を満たせぬ人材は外して行った。

 余分な諸機能を排除し、私は自身のスタッフを極めて小さく維持した。200名を下ることはおろか、結局、それは、海軍士官と海兵隊士官達、加えて、空軍特殊戦術大尉とCIA諜報官の各一名を含む、総勢僅か38名になった。その結果、誰が電話応答しても、質問された内容に対し、即座に簡潔にして大局を押さえた対処が為された。

 経営学の書が屡々(しばしば)推奨するのは「計画を中央集権型とし執行を分散型」とする方式だ。然し、自分の趣向からすると、これは上意下達に過ぎる。私が信奉するのは、「構想は中央集権型とし、計画と執行を共に分散型」とすることだ。一般に、幹部は二種のタイプが居る。一方は、自分のスタッフ達に受け身で反応する丈の人物。他方は、スタッフ達に命令を与えつつも、彼らに思考の自由度を与えて、必要に応じ、目的達成の為に彼らを指導する人物だ。重大な諸問題に焦点を当てることこそが私自身の役割であり、目的を達成する為の具体的な肉付けはスタッフ達に委ねるべきなのだ。その後は、闊達なフィードバック・ループ(成果に対し評価が伝達される循環体系)に基づき、私は常に其処に立ち返り、次の三点を自問した。私が知っていることは何か? 誰がその情報を必要とするのか? 彼らにその情報を知らせたか? 斯くして、状況の進捗情報が関係者に共有されたならば、計画内の全ての要素の調和が維持されるのだ。

 私の全てのスタッフは、所謂、海兵隊流の云い回しに従えば、皆が「土嚢に砂を入れる」仕事をした。即ち、誰一人として、単純作業を免れる者はなかった。我々は電話に自身で応対し、自分のコーヒーを自分で入れ、運がよければ一日6時間の睡眠を取った。3度の食事は、全て作戦を議する場となった。私は、指揮官の作戦意図は極力簡潔に且つ的を射るよう心掛けた。私がその意図を伝達すれば、後は、副指揮官達が海軍と海兵隊のそれぞれのスタッフ達と共に、作戦に於ける各々の担当任務の遂行手段に就いて、諸計画を立案するのだった。

 私は執務室の扉を常に開放した。誰でも指示を求める者が、自由に立ち入りこう尋ねて来た。「失礼致します、この箇所が問題です。作戦意図は何でありますか?」と。

一方、私は第二次世界大戦中のビルマに於ける英国軍の事例を研究した。1943年当時、兵員数に優る日本軍との勢力均衡を崩す為、オード・ウィンゲート少将は、通称チンディット(Chindits)と呼ばれた、長足距離の侵攻を実行する特殊部隊を率い、敵前線の背後に布陣したのだった。この作戦から着想を得た私は、我々が同様の手法を導入し、且つ、この際最も重要な点として、我が軍の場合には、“敵領土の遥か400マイルもの奥深い地”に部隊を維持し活動継続させることも可能だ、と自信を深めたのだった。

 一日の終わりに、我々は全員で、それ迄の達成状況を協議した。打ち合わせの最後に、私は決まって「よし、上出来だ。これで行こう」と総括した。すると翌朝には、配下の海軍と海兵隊の作戦士官達が「我々の現状は、今ここ迄来ましたと」と私に報告を上げるのだった。

これ迄に築き上げて来た、絶え間ない対話と艦隊訓練の成果が、今、正に開花しようとしていた。ここ数年間に及ぶ、海軍と海兵隊との合同演習及び複雑な連携諸行動がもしなければ、私はこの作戦を遂行することは叶わなかっただろう。

 私は、海軍 P-3 対潜哨戒機に自らも乗り込み、アフガニスタン南部へ8時間に及ぶ偵察飛行を実施した。本来、同機は海上の潜水艦探知を目的とした為、広範囲を長時間徘徊飛行が可能だった。高度に洗練された哨戒技術のお陰で、我々は容易に観測を実施出来た。その結果、我々が侵入意図する地点に敵部隊は探知されなかった。タリバンは自陣の裏庭を無防備にも、がら空きにしていたのだった。私は若手士官に対し、次のようなメモを残した。「闘う相手は、斯くもバケツ一杯の石ころ程の知恵も持ち合わせぬ敵のリーダ達だ、ならば、こっちの卓越した技量を存分に思い知らせてやるのだ」

(続く)

文責:日向陸

*尚、当ブログ翻訳文章は生成AI機能一切不使用です。

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